(3)
「エルナ」
扉に耳を当てて外の様子を伺うと、自分に呼びかける小さな声が聞こえた。
「エルナ。何か困ったことが、起きているのではありませんか?」
どこかで聞いたことのあるような若い男の声だが、声を押し殺しているからよく分からない。
しかし、こちらの状況を知っているかのような口ぶりに、フォルカーが言っていた「助け」が来てくれたのだと判断した。
鉄製の小さな閂を引き、そろそろと扉を開ける。
そこに、思いがけない人物が、箱を小脇に抱えて立っていた。
「遅くなってすみません。なんせ、いつの間にか、皇帝陛下のベッドに寝かされていたもので。あまりの心地よさに朝まで爆睡するところでした」
「ゲラルト……さん?」
驚きで立ちすくむエルナに、小声で意味のよく分からない言い訳をしながら、ゲラルトは遠慮なく部屋の中に入って来た。
そして、ベッドに寄りかかった状態で気を失っている青年に駆け寄ると、箱を下ろして屈み込んだ。
「ああ……。なんてことをしてくれたんだ」
彼は青年の状態をあらかじめ知っていたらしく、嘆きの言葉を口にしたが、驚いた様子はなかった。
「心配しなくてもいいですよ。それなりに医術の心得はありますから、応急処置ぐらいはできます」
ゲラルトはてきぱきと青年のシャツを脱がせて、怪我の状態を確認すると、持ってきた箱の留め金を外した。
縁に銀色の装飾が施された箱は高価な品が入っていそうな雰囲気だったが、中から出てきたのは水差しと、大量の布と薬が入っているらしき瓶。
そして、今、青年が着ているものと似た、着替えとおぼしき黒いシャツ。
ゲラルトは何もかも準備万端だった。
「どうして……?」
彼は、皇帝陛下の署名が入った書類を携え、自分をこの城に強制的に連れて来た人物だ。
そして、薔薇園で皇帝陛下と一緒にいた、陛下の側近でもある。
父親は、この国を実質的に治めている摂政のカルヴィーン卿だと聞いた。
そんな身分の高い彼が、どうしてフォルカーを助けに来たのだろう。
どうして、当然のような顔をして、慣れた様子で怪我の手当てをしているのだろう。
彼は間違いなく、フォルカーという人物を知っている。
もしかすると、フリッツのことも知っているのだろうか?
そこまで考えて、はっとした。
そうだ。
フリッツと同じ顔をした人間は、もう一人いる——!
エルナが偶然の一致で片付けられない現実に驚愕している間にも、ゲラルトは処置を続けている。
いちばん大きな傷は脇腹だったが、その他にも、右肩や右の二の腕にも切りつけられたような傷があった。
最後にこめかみあたりの傷に薬をつけ、一通りの傷の手当てを終えた後、ゲラルトは水を含ませた布で青年の顔を綺麗に拭った。
青い月明かりに照らされた彼の横顔は、芸術家が丹精込めて掘り上げた彫像のように美しかった。
気を失い痛みを感じないのか、穏やかに目を閉じている。
フォルカーのような尖った雰囲気はない。
エルナの目から見た彼は、まさしくフリッツだった。
「とりあえずの手当ては終わりました。派手に出血したみたいですが、傷はそう深くありませんでしたから、大丈夫ですよ」
ベッドの上に畳んで置いてあったエルナの毛布を広げ、青年にかけてやりながら、ゲラルトはこちらを向いた。
「ところでエルナ、この方はどなたです?」
「えっ?」
軽い調子での問いかけは、エルナが彼に聞きたかったことだ。
全てを知っているはずの彼が、なぜ、こんな質問をするのだろう。
試されている——?
エルナはごくりと唾を飲んだ。
そして、さっき思い浮かんだ可能性を、もう一度、頭の中に広げてみる。
そんなことが、実際にあり得るだろうか。
でも、そうとしか思えない。
「彼はフリッツで、フォルカーで……そして、おそらく、この国の皇帝陛下……です」
ゲラルトの顔色を伺いながら、思ったままをゆっくり口にすると、相手は「なるほど」とうなずいた。
「何をばかなことを」と呆れられてもおかしくない、奇想天外な話のはずだ。
しかし、彼の反応はエルナの考えを否定していない。
そのことに、逆にエルナは驚く。
「そうなんですか? 本当に?」
「まぁ、おかけなさい」
静かに促され、エルナは慎重にベッドに腰を下ろした。
すぐ隣の床に、毛布に包まれた青年がベッドにもたれかかっている。
少し手を動かすだけで、美しいダークブロンドの髪に触れてしまいそうな距離なのに、どこか遠くにいる気がする。
彼が——フリッツが実在するかどうかすら、あやふやに思える。
「どういう状況になったかは知りませんが、そう考えるのは無理もありませんね」
ゲラルトは壁に背中を預けて、両腕を組んだ。
「本当はどうなんですか? 彼は一体……」
「あなたの考えは、概ね当たっていますよ。ただ、正確に言えば、あなたがフリッツと呼んでいる青年が、我が君。フリードリヒ・ヴォルフラム・フォン・ブラウヒューゲル……この国の皇帝陛下です」
「まさか……!」
彼が……フリッツが、皇帝陛下だったなんて、ありえない。
エルナの知っているフリッツは、人懐っこい雰囲気ながらも貴公子然としていて、明らかに上流階級の人間だと思えた。
決して自分の素性を明かさなかったことは、彼が皇帝だったとしたら納得がいくのだが。
「だって、あのとき……」
薔薇園で会った皇帝陛下は、明らかにフリッツではなかった。
遠目で背格好だけを見て、最初は彼だと間違えたが、すぐに別人だと思い知らされた。
彼の方も、エルナのことを全く知らない様子だった。
だから、違う。
フリッツが皇帝であるはずがない!
エルナの言葉の続きを察して、ゲラルトが説明を続ける。
「あなたが以前、薔薇園で会った男の方が、皇帝陛下ではなかったのです。フレデリクという名の酒好きのおっさんですが、非常に有能な男です。そして、あなたと湖で会った男はフォルカー。まだ十五歳ながら、すご腕の殺し屋です」
ゲラルトの説明では、年齢や背景が全く違う三人の男がそれぞれ存在するように聞こえる。
エルナが助けた怪我をしていた彼は、ゲラルトの説明からも自分の直感からも、殺し屋のフォルカーに違いない。
けれど彼はエルナの目の前で、ほんの一瞬だけフリッツになった。
「ちょっと待ってください。じゃあ、今ここにいる彼は……誰?」
「さぁ、どうでしょう。目覚めてみないと分かりませんね。でも、あなたがさっき言った通りですよ。彼はフリッツであり、フォルカーであり、フレデリクです」
「分からない。どういうこと、な……の?」
確かにさっき、自分でも同じことを言った。
しかし、改めて他人から聞かされると、そのありえなさに困惑する。
どういうからくりなのか、全く理解ができないのだ。
「理屈はどうあれ、あなたも感覚的には分かっているのでしょう? 彼らは全員、一つの身体の中にいるのです。その身体の元来の持ち主は、この国の皇帝フリードリヒ様。つまりあなたがフリッツと呼んでいる青年です。そして、彼の身体の中に彼とは別の人格が複数あって、ときどき中身が入れ替わってしまうのです」
「中身が入れ替わる……?」
そう言われれば、なんとなく分かる……気がする。
湖で怪しい男に襲われた時、彼は瞬時にフリッツからフォルカーに変わった。
「地面に押し付けられている間に入れ替わった」のだとフォルカーに説明され、あの時は納得するほかなかったが、あんな一瞬に、身体ごと入れ替わるのは不可能だ。
顔が同じだけでなく身につけていた衣服も、靴についた擦り傷までが全く同じだったのだから。
けれど、中身だけが入れ替わったのなら……?
ついさっきも、エルナの見ている前で、彼は重傷を負った身体はそのままに、フォルカーからフリッツに変わった。
全く信じられないことだが、中身だけが変わったのでなければ説明がつかない。
「フリッツという呼び名は、我が君の幼少期の愛称でした。長らくこの名で彼を呼ぶ者はいなかったのですが、自分の素性を隠すため、あなたにそう名乗ったのでしょう。ところで、貴女はこの国の皇帝が、悲劇の皇帝と呼ばれていることはご存知ですか?」
「はい。幼い頃に父親を事故で亡くし、自分も崖から転落して大怪我を負ったと……えっ?」
そこまで話して、エルナは息を飲む。
「どうかしましたか?」
「あの……フリッツの左腕にひどい傷跡が」
そうだ。
彼と初めて会った日、あの傷を「幼い頃に大怪我をした傷跡だ」と言っていた。
「怪我をしたときのことは憶えていない」とも。
あの傷は、フリッツが皇帝陛下であるという証拠だったのだ。
「ああ、彼の古傷を見ましたか。酷いものでしょう? あんな傷が背中にも、腰にも脚にも、身体中にあるのです。助かったのが奇跡と思えるほどの、大怪我でした」
その痛ましい事件が起こったのは、フリードリヒが九歳のときだった。




