(2)
部屋に着くと、フォルカーはベッドに背中を預けるようにして床に座った。
疲れ切ってしまったのか、それとも傷が痛むのか、肩で大きく息をしている。
彼の手当てをするために、ランプに火をつけようとしたが「灯りをつけるな」と厳しく制止された。
しかたなく、窓のカーテンを少しだけ開けて、月光を室内に取り込む。
青白い光が、彼の姿を照らし出した。
「大丈夫? 痛くない?」
エルナは彼の正面にかがみこみ、様子を確認する。
身につけている衣服は上から下まで真っ黒だったから、脇腹の出血の状態は分からない。
けれども、額から流れ落ちる血を拭おうとしたせいか、顔中が血まみれになっているし、脇腹以外にもシャツが所々切り裂かれていた。
見えない部分にも、まだ傷があるのではないだろうか。
「早く怪我の手当てをしなきゃ。水を……」
エルナが立ち上がろうとすると、ぐいと手を引かれた。
「余計なことをするな。すぐに助けが、来る」
「でも……」
「黙れ」
フリッツそっくりの彼だから、ぼろぼろの姿に胸が痛む。
せめて手当てぐらいさせて欲しいのに、彼は有無を言わせず、強引に自分の隣に座らせた。
そしてそのまま黙り込む。
「すぐに助けが来る」と言っていたのに、誰かが来るような気配はない。
深夜の、しんと静まり返った中、隣から、無理に押し殺した苦しい呼吸が聞こえる。
彼の怪我の具合が気にかかるし、沈黙もいたたまれない。
けれど、下手に口を聞くと睨まれそうな気がするから、エルナは膝を抱えてじっとしていた。
どれくらいそうしていただろうか。
「あんた……いつも、甘い匂いがするんだな」
ぽつりと呟かれた意外な言葉に、エルナは思わず隣を見た。
「甘い匂い? そう?」
エルナは自分のシャツの袖に鼻に近づけて匂いを嗅いでみるが、よく分からない。
けれど、心当たりはある。
「最近、毎日林檎を煮ているせいかな? 工房長に林檎のパンを焼いてもいいって言われて……」
「う……」
彼が突然、小さく呻いた。
そして、脇腹ではなく、額を押さえて体を丸めた。
「よせ。だ、だめだ……今、は……」
「ちょっと、大丈夫? 頭も痛む?」
額の怪我も、思った以上に酷いのかもしれない。
慌てて彼の震える両肩を手で支え、彼の容体を見定めようと、淡い月光を頼りに目をこらす。
すると、彼の肩からふっと力が抜けた。
上半身がぐらりと傾き、エルナの両手に体重がかかる。
「フォルカー。しっかりして」
どうやら、気を失ってしまったらしい。
「フォルカー!」
しかし、それは一瞬だった。
彼の身体に再び力が戻り、ゆっくりと顔を上げた。
薄暗い中でも、顔が血まみれになっていることが分かるほどの酷い状態だ。
なのに、彼はふっと口元に笑みを浮かべた。
「エ……ルナ? ……やっと見つけた」
「え?」
苦しい息の下でそれだけ言うと、彼は安心したような微笑を浮かべたまま、倒れこんできた。
エルナの肩の上に、彼の首がかくりと落ち、全身の力が抜ける。
ずしりと重い大人の男性の身体を必死に受け止めながら、エルナは呆然となった。
「……フリッツ?」
さっきの一瞬、彼はフリッツだった。
間違えるはずがない。
確かにフリッツだった。
「フリッツ? ねぇ、フリッツなの?」
しかし、完全に意識を失ってしまった彼は、何も答えない。
ぐったりと、エルナに体をあずけたまま、全く動かなくなった。
「……一体、何が起こったの」
この部屋に連れてきた怪我をした男は、自分でそうとは明かさなかったが、フォルカーだったはずだ。
しかし、さっきの一瞬、彼はフリッツだった。
こんな一瞬のうちに、しかも、自分が見ている前で、人が入れ替わることなどあるだろうか。
そんなこと、魔術でも使わない限りありえない。
「この人は、一体……誰?」
ようやく会えたのだ。
彼はフリッツであると信じたかった。
しかし、直感だけでは心もとなかった。
どうしても確証が欲しかった。
「そうだ」
エルナは慎重に彼の体をベッドにもたれ掛けさせると、力なく下がった左腕を取った。
フリッツならば、左腕に手首からつながる大きな古傷があるはずだ。
袖口を縛る細いリボンを解き、滑らかな手触りの生地を肘までまくり上げる。
そこには、いつか見た、ぎざぎざした傷跡が走っていた。
「やっぱり……フリッツ……だ」
震える指先で、固くごつごつと盛り上がった跡をそっとなぞる。
いたわるように、何度か肌を往復していると、彼の手首から少し上の辺りに何かが巻かれていることに気づいた。
触ってみた感触では、皮でできたベルトのようなものだ。
「なに、これ?」
その皮をぐるりと指先で探ると、細長い物体が一本、肘の内側に向かって腕に固定されていた。
その物体の手首側はむき出しの金属で、ひやりと冷たい。
腕にかけては同じ皮で覆われている。
「まさか、これは……ナイフ?」
引き出して確認する勇気はなかったが、湖で怪しい男に襲われた時、フォルカーがどこからともなく取り出した、極端に細いナイフと同じもののように思える。
怖くなったエルナは、慌ててシャツの袖を元に戻した。
「どういうことなの? この人はフリッツじゃないの……?」
フリッツが、こんな恐ろしい凶器を隠し持つような人間だとは思えない。
やはり彼は、フォルカーなのだろうか。
だけど、彼と同じ場所に同じ傷跡があるのだ。
そんな偶然、あるはずがない。
ならば、フリッツがフォルカーの振りをしているのか。
あるいは、その逆か。
「でも……」
彼らは同じ顔をしていても、全く違う人間だった。
つい、さっきも——。
誰かが誰かの振りをしてるのではない。
目の前にいる彼は、時にフリッツで、時にフォルカー。
あまりにも現実離れしているが、そう考えるとしっくりきた。
そこへ、かすかな物音が聞こえた。
エルナは一瞬びくりとなったあと、息を殺して耳をすます。
しばらく間を置いてから、こつこつこつと、また三回。
部屋の扉を小さく叩く音。
誰かが、部屋の外にいる。
彼は「助けが来る」と言っていたが、この扉の向こうにいる者が、味方とは限らない。
彼にこれほどの怪我を負わせた敵が、彼を追って来た可能性もある。
エルナは彼の前を離れ、足音を忍ばせて扉に向かった。




