長い夜に明かされる真実(1)
工房長のオイゲンが林檎のパンを焼く許可をくれた。
しかしそれは、パンを焼くという行為への許可であって、林檎のパンを認めた訳ではない。
それは、これからのエルナの頑張りにかかっていた。
自分の店と城の工房とでは、使っている材料の品質が違う。
この工房にきた当初は、その違いに戸惑い、慣れるまでに時間がかかった。
林檎も城で使用している方が甘みが強く、身も柔らかい。
だから、これまで自分の店で焼いてきた方法ではうまくいかないことは、容易に予想できた。
それでも目安として、一度、従来通りのレシピで焼いてみた。
「どう?」
焼きあがったばかりのパンをマヌエラに一つ手渡した。
彼女はそのまま熱々を頬張り、あっという間に完食する。
「うん。甘いね。林檎の味がして美味しいよ」
彼女はそう言うが、エルナは納得がいかなかった。
まず、林檎の蜂蜜煮の甘味と風味が強すぎる。
パンそのものも、素材の良さが逆に作用して、ライ麦の風味が薄く主張が弱い。
おかげで両方を一緒に口にすると、甘みを感じすぎてバランスが悪いのだ。
だったら、林檎を砂糖だけで煮てみよう。
小麦とライ麦の配合を変えてみよう。
酵母の種類と量、水かげん、発酵時間と温度。
バターを足そうか、卵を入れたらどうか……。
少しずつ加減を変えたパンを、毎日焼いてみる。
けれども、なかなか納得のいく仕上がりにはならなかった。
「えーっ? いつも美味しいけどな。いいじゃん、これで」
マヌエラは毎回そう褒めてくれるが、実は彼女は味覚にはあまり鋭くないようで、お腹が膨れればそれで良いというタイプ。
エルナがいくらレシピを変えても、その変化に全く気づいてくれなかった。
林檎のパンを焼く許可が出たときに歓声をあげた同じ工房の同僚たちは、基本的にはライバルだ。
林檎のパンが工房長に認められれば、エルナが上級の工房に推薦されることになっているから、誰一人協力してくれなかった。
大きなため息とともに、エルナはベッドの上で寝返りを打った。
仕事と林檎のパンの試作に明け暮れる毎日のため、体はくたくたに疲れているのだが、頭が思考に走って眠れない。
今日、最後に焼いた林檎のパンも、満足のいく仕上がりではなかった。
以前よりは良くなってはいると思うが、なんとなく物足りない。
自分の中でしっくりこない。
この程度の出来では、工房長に認めてもらえないだろう。
「どうしたら、パンと林檎の両方の風味を引き立たせることができるんだろう」
ほとんど無意識に、枕の下に手を入れる。
ひやりとした小さな丸い物体を探り当てると、それを取り出した。
片面はおそらくかつての皇帝の肖像。
もう片面は中央が丸く盛り上がった薔薇の花のレリーフ。
フリッツと初めて会った日にもらった金貨だ。
あの日、彼はエルナの焼いた林檎のパンを美味しそうに頬張っていた。
高貴な雰囲気をまとった彼のことだから、普段はもっと良い材料を使ったパンを食べているだろうに、なぜか、庶民的なパンを気に入ってくれた。
「あれ……?」
そういえば工房長は、「あんたをそのパンと一緒に、上の工房に推薦してやろう」と言っていた。
それならば、林檎のパンを王族や貴族らが食する可能性もあるのではないか。
エルナが所属している使用人向けのパン工房は、小麦とライ麦を混ぜて使っている。
エルナの店よりは材料の質は良いが、それでも、焼き上がったパンには少し酸味があり、色が悪くずっしり重い。
一方、貴人達に供するパンを焼く工房では、小麦だけを使うことが多いと聞く。
そんなパンを食べ慣れた上流階級の人々には、ライ麦入りのパンは、最初から見向きもされないのではないだろうか。
「だったら、林檎のパンも小麦だけを使わないとだめなんじゃ……?」
エルナはがばりと身を起こした。
小麦だけを使うと、ふわふわと柔らかで白いパンに仕上がる。
ライ麦のような独特の酸味や風味がないから、味も上品だ。
そんなパンに林檎を合わせるとしたら——。
「あぁ、全部やり直しだわ」
落胆したような言葉をこぼしながら、口元が緩んだ。
自分の店で焼いていたのは、安価な材料を使った庶民向けの林檎のパン。
酸味の強い重いパンに、蜂蜜でしっかりと甘みと風味を足した果実を合わせた一つの完成形だ。
きっと、今、自分が焼かなければならないのは、もう一つの林檎のパン。
小麦だけの生地と、もともと甘い林檎を生かした、品の良い貴人向けのパンだ。
「行かなきゃ……!」
ようやく、目の前が開けた気がした。
窓の外は月明かりでぼんやりと青い。
ようやく深夜にかかった頃だろう。
けれども、ベッドでじっと朝を待つことなどできなかった。
気が早って、ゆっくり眠れるはずもない。
「小麦だけのパンをできるだけ香ばしく仕上げるには、酵母を少なくして、涼しい場所でじっくり発酵させればいいから、今から仕込めば……」
ぶつぶつ呟きながら、急いで夜着からお仕着せに着替え、エプロンをつける。
長い髪を後ろでまとめて帽子をかぶり、そっと宿舎を後にした。
「寒っ……」
もう冬といっても良い季節だから、吹き付ける風が冷たい。
上着を着るのももどかしくてそのまま出てきたことを後悔しながら、肩をすくめて工房へ向かう。
しかし、十歩も歩かないうちに、風の音に紛れて、土を踏む音が聞こえた気がして、足を止めた。
恐る恐る宿舎を振り返ると、地面に伸びた建物の影の隣に、黒く長い別の影が見える。
誰か……いる。
恐怖が足元から這い上がり、エルナの体を凍りつかせた。
その影から視線が離せないでいると、影はゆっくりと小さくなり、地面の上でうずくまり、そして建物の黒々とした影に飲み込まれた。
「う……。く……そっ。あと、少し…………のに」
吹き付ける風に乗って届いた微かな声に耳を疑う。
エルナは弾かれたように走り出した。
「大丈夫? フリッツ!」
冷たい地面にうつ伏せに倒れている彼の肩を揺する。
「フリッツ、フリッツなんでしょ!」
その呼びかけに、彼は少し顔を上げてエルナを見ると、ちっと舌打ちをした。
「フ……」
「ちげーよ。でかい声をだすな」
あたりをうかがうようにして声を潜めた彼は、土についた両手で身体を支えるようにして、上半身を起こした。
辛そうなうめき声を漏らしながら、ゆっくりと地面に座り、肩で大きく息をつく。
「あなたは……もしかして、フォルカー?」
エルナも辺りを気にして、彼に小声で囁く。
直感的に、周囲に知られてはいけないと感じる。
「ああ……エルナか。あんたでもいいや。俺を匿え」
エルナの質問には答えず、彼は命令した。
月明かりはあるが、宿舎の建物の影に入っているから、彼の顔ははっきりとは見えない。
けれども、フリッツと同じ声ながら乱暴な口調、独特な尖った雰囲気は、フォルカーに違いなかった。
エルナの名前を知っているのもその証拠だ。
「…………っつ! くそっ!」
彼が左の脇腹を押さえて、背中を丸めた。
彼のこの苦しそうな様子と、鉄錆のような臭いから、怪我を負っていることは想像がつく。
彼に初めて会った日も、彼は殺気をみなぎらせ不気味な男に凶器を構えていた。
きっと、またそんな物騒な事態に遭ったのだろう。
「大丈夫? 痛む?」
いたわりの言葉に、彼はまた舌打ちした。
「いいから早く、あんたの部屋に連れて行け。誰かに見つかったらまずい」
「う、うん。立てる?」
彼の手を引っ張って立たせ、肩を貸して歩き始める。
彼はよほど体力を消耗しているようだ。
エルナにかなりの体重を預けてくる。
手で押さえた左脇腹の怪我が特に酷いらしく、左足を動かすたびに小さく呻く。
気を抜くとバランスを崩して、彼もろとも倒れてしまいそうだったから、エルナは全身に力を込めて、慎重に足を運んだ。




