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 他の職人たちの二倍の量のパン生地を任されているにもかかわらず、今日もまた、エルナは誰よりも早く自分の成形作業を終わらせた。

 均等に襞が織り込まれた全く同じ大きさの丸い生地が、天板にずらりと並ぶ様は壮観だ。

 それらを満足しながら眺めていると、工房長のオイゲンが通りかかった。


 今日こそはと、エルナが声をかける。


「あのっ! オイゲンさんにお願いがあるのですが」

「ああ、もう終わったのか。少し早いがもう休憩に入っても……」

「そうじゃないんです。あの……空いた時間に、林檎のパンを焼いてみたいんですけど」


 この工房に来たばかりの頃は、これまで扱ったことのなかった質の良い材料やレシピの違い、一度に大量に焼ける大型の窯に慣れることに必死になっていた。

 しかし、それらもすっかり使いこなせるようになった今、どうしても林檎のパンを焼きたくなった。

 数日前に、フリッツそっくりな皇帝陛下の顔を見てしまった影響もあるのだろう。

 彼がおいしそうにパンを頬張る顔が、思い浮かぶのだ。


 良い材料を使って林檎のパンを焼いたら、もっと美味しく焼けるだろう。

 いつか、そのパンを彼に食べてもらいたい。

 そう、思う。


 しかし、オイゲンはあからさまに眉をひそめた。


「林檎のパンだと? あぁ、街じゃ流行っているようだな。だが、あんな菓子もどき、儂はパンとは認めん!」


 吐き捨てられた言葉に、胸がずきりと痛んだ。

 周囲の職人たちは作業を続けながらも、「また始まった」とばかりに、ちらちらと視線を向けてくる。


 街ではもう珍しくなくなった林檎のパンは、もともとはエルナが考え出したもの。

 完成までに一年以上かかった苦労や、フリッツが初めてそのパンを口にした時の嬉しそうな顔や、常連さんたちの「おいしかったよ」の声のすべてを否定された気がして、唇を噛む。


 年配のパン職人には、昔ながらのパンづくりを頑に守り続ける者も多い。

 専門の菓子職人もいる城内では、それぞれのプライドもあって、より頑固に自分の分野を守ろうとするのだろう。


 うつむくエルナの上に、重々しい声が降ってくる。


「麦の粉と塩と酵母だけで焼き上げるパンは、人間が作り出した最も偉大な食べ物だ」


 え? この言葉は……?


 懐かしい言葉にはっとする。

 その後に続く台詞も、以前、よく聞かされたものに似ていた。


「我々パン職人は、麦の美味しさを、自分の手で最大限に引き出す道を極めねばならない。林檎のような余計な材料を入れるなんて、その道に反するものだ」


『いいかい、エルナ。パン職人は、麦の美味しさを最大限に引き出す道を極めねばならない』

 そう。これは、お父さんの——。


 思わず顔を上げたエルナを見て、オイゲンがぎょっとなった。

 そして急に、目の前の少女のご機嫌をとるかのように、おろおろしながら声の調子を落とす。


「エ、エルナ。どうしたんだ。わ、儂はべつに、あんたをいじめているんじゃないんだよ」

「分かってます。ただ……懐かしくて」

「懐かしい?」


 エルナは手の甲で頬を伝う涙を拭うと、工房長を真っ直ぐに見上げた。


「はい。わたしの亡くなった父が、オイゲンさんと全く同じことを言っていたんです。だから、父に叱られているような気がして懐かしくて」


 人前で泣いてしまったことが少し恥ずかしくて、ふふっと笑うと、オイゲンはほっとしたように肩の力を抜いた。


「そ、そうか。あんたの親父さんもパン職人だったのか」

「はい」

「これは、パン職人なら誰しも、心しておくべきことだが、もともとは儂が若い頃、弟子入りしていた工房の親方が言っていたことなんだよ」


 工房長と同じく頑固な職人気質だった父親もきっと、林檎のパンを焼きたいと言ったら同じ反応をしただろう。

 それが分かっていたから、これまで林檎のパンを作りながらも、父親の教えに背いているような後ろめたさがあった。


 お父さんに認めてもらいたかった。

 自分が焼いた林檎のパンを「おいしい」と言ってもらいたかった。


 そんな、どうしようもない思いがいつもあった。


 目の前の工房長は、全体的に丸い印象の恰幅の良い体格だ。

 エルナの父は背が高くがっちりしていた。

 見た目は全く違うのに、なぜか工房長に父親の姿が重なる。


 彼に認めてもらいたい——。


 エルナは両手を握りしめ、言葉に力を込めた。


「おっしゃることはよく分かります。わたしも、パン職人としての道は極めたい。でも、道は一本だけではないと思うのです。パンの新しい可能性を探して、違った道も切り開いてみたいのです。だから、お願いします。わたしに、林檎のパンを作らせてください!」

「いや、しかし……」

「伝統的なパン作りにも励みます。本来の仕事にも支障が出ないようにしますから」


 工房長に認めてもらえれば、この先、何の迷いもなく林檎のパンを作っていける。

 伝統を大切にしながらも、新しいパンづくりにも挑戦していける。

 そんな思いが、エルナを突き動かす。


 周囲の職人たちも手を止め、息をひそめるようにして、ことの成り行きを見守っていた。


「お願いします! わたしは、もっといろいろなパンを焼いてみたいのです!」


 腕組みをしたまま黙っている工房長を前に、何度も頭を下げた。


「やらせてください。お願いします! お願いします!」


 やがて。

 工房長が根負けしたように大きく息を吐き出した後、低い声で「分かった」と応じた。

 ひゅうと誰かが口笛を吹いた。

 工房内に歓声が湧く。


「ほんと……に? あ、ありがとうございますっ!」


 嬉しすぎて胸がどきどきする。

 やっとの事でお礼を言うと、唐突に思いがけないことを聞かれた。


「エルナ。あんた、名前はなんと言ったか?」

「エルナ・フレンツェンです」


 その名前を聞いて、オイゲンが納得したような表情になる。


「なるほど。そうか、そうだったか。よくある名前だから気づかなかった。あんたのお父上は、ニクラスという名前ではなかったかい?」

「父をご存知なんですか?」

「ああ。ニクラスとは同じ工房で一緒に修行したんだ。あいつも、若い時からいい腕をしていたが……いい、後継者も育てていたんだな」

「えっ? そう……だったんですか」


 だから、父親と同じ信念を持ち、同じ台詞を口にしたのか。

 彼に父親の姿がダブって見えたのか。


 運命を感じるようなつながりを知り、驚いた顔でオイゲンの顔を見つめると、彼がふっと笑った。

 先ほどまでとは違う、柔らかな眼差しをエルナに落とす。

 そう、父親が愛娘に向けるような——。


「がんばれよ。あんたが林檎のパンで儂を納得させることができたら、あんたをそのパンと一緒に上の工房に推薦してやろう」


 そして、エルナの肩にぽんと手を置いた後、工房内をぐるりと見回した。


「こら、おまえたち。何をさぼっているんだ! 早く成形し終わらないと、発酵が進みすぎちまうだろうが!」


 照れ隠し半分にどなりちらしながら、作業台の間を見回る工房長の背中が滲んで見えた。


 あぁ、堂々と林檎のパンを焼いていいんだ。


 ようやく父親に認めてもらえた気がして、エルナは両手で顔を覆った。

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