(7)
数日前、ブラウヒューゲル皇帝フリードリヒが、側近であるゲラルトに身支度を手伝わせながら「お前に頼みたいことがある」と切り出した。
「なんなりと。我が君」
ゲラルトは胸に手を当てて応じる。
「フォルカーに、アルシュ通りにあるパン屋の、エルナ・フレンツェンという娘を探すように頼んでほしい」
普段通りの柔らかな口調であるが、表情がわずかに硬い。
ああ、ようやく来たかと思いつつも、ゲラルトも表情には出さない。
口元に薄く笑みを浮かべたまま、フリードリヒの肩に上着をかけた。
「パン屋の娘……ですか? なぜ、そんな娘を気にかけておいででしょう?」
「理由は聞かないでくれないか。とにかく、フォルカーにそう伝えてくれ。おそらく、彼は彼女を知っているはずだ」
「ですが、私がフォルカーと話をするなんて無理ですよ。彼に気づいた瞬間に、昏倒させられてしまうんですから。なぜ彼と同じ命令を、私にはしてくださらないのでしょうか」
「…………」
「私では頼りないですか」
「そういう訳ではないが、彼のほうがこういったことに長けているから……」
側近の追求に、今回こそは見逃してもらえないことを悟り、フリードリヒは苦い顔をした。
ゲラルトは小さく息をつくと、言葉に少し力を込める。
「もう、全て話してしまわれてはいかがです? エルナという女性は、我が君が『青を抱く薔薇』を贈った相手なのでしょう?」
『青を抱く薔薇』という言葉に、フリードリヒはびくりと肩を震わせた。
皇帝が極秘で作らせた、小さな青い石が埋め込まれた薔薇の意匠のペンダント。
偶然手に入れた完成品を手渡した時、ゲラルトは主に事情をたずねなかった。
フリードリヒも「すまない」と言ったきり、何の説明もしなかった。
その指先ほどの大きさの薔薇の飾りが、この国にとってどれだけ重要な意味を持つかを、お互い分かっているのに——。
「そう……だ。……だが、彼女はいなくなってしまった」
フリードリヒはゲラルトに背中を向けると、こつこつと床を鳴らしながら、ゆっくりと窓に向かった。
「彼女がいなくなったのは僕のせいだ。彼女に何が起きたのか、僕は知らない。だが、フォルカーなら知っているはずだ。彼の力なら、彼女を探し出すこともできるだろう。だから、お願いだゲラルト。何としても、彼にエルナを探して欲しいと伝えて欲しい」
彼の言葉はところどころで震えていた。
窓に両手をついて外の景色を眺めるふりをしながら、必死に感情を押し殺していることが、こわばった背中から見て取れる。
「彼女を探し出して、どうするおつもりですか」
街のパン職人にすぎない少女に、高価なプレゼントを贈った想いは、想像できる。
問題は、単なる装飾品として片付けられないその薔薇の飾りを、あえて渡したその真意だ。
「どうもしない。ただ、彼女の無事を知りたいだけだ。彼女にはもう、会うつもりはない」
「えっ? なぜです! あのペンダントは、我が君の本気の形だとフレデリクも……」
思わず主に駆け寄り肩に手をかけると、彼はその手を荒々しく振り解きこちらを向いた。
「本気だよ! 本気だったんだ」
「でしたら、なぜ……」
「僕の『青を抱く薔薇』はエルナだけのものだ。もう二度と作らない。今後迎える皇帝妃にも贈らない。この伝統はこれで終わりにする!」
強く言い切った彼の頬に、一筋の涙が伝った。
「わ……が、君……」
これまで十年以上も仕えてきて、彼のこれほど激しい感情を目の当たりをしたのは初めてだった。
彼のエメラルドグリーンの瞳からは、それ以上の雫は落ちなかった。
決意のこもる眼差しで、しっかりと、正面からゲラルトを見据える。
「父上から受け継いだこの国に、僕は皇帝として何一つ貢献できていない。何もかもゲラルトのお父上に任せっきりだ。こんな僕が国のためにできることは、政略結婚くらいしかない。相手は強国の姫君でもいい。リーゼロッテでも構わない。この国にとっていちばん利益になる女性と、僕は結婚する。そのために、心残りをなくすために、エルナの無事を知りたいんだ。僕の都合で傷つけてしまった彼女の未来を、せめて祈りたい。だから……頼む、ゲラルト。何としてもフォルカーに伝えて欲しい」
彼の強い思いに圧倒されたゲラルトは、数歩後ずさると膝をついた。
「承知いたしました、我が君。なんとしても、フォルカーに伝えます」
もう、そう返答するしかなかった。
幸せとは縁遠かった彼の、最初で最後の本気の恋。
フリードリヒはそれを妃の紋章を贈ることで封印し、皇帝として生きていく決意をしていたのだ。
「その話は、もう五回は聞いた」
華奢なグラスに入った琥珀色の液体を口に含みながら、フレデリクはうんざりした様子で執務机に長い足を投げ出した。
「あいつは真面目すぎるんだ。平民を妃にするのはさすがに難しいだろうが、あの娘を愛人として囲ってしまえば、何の問題もないのに。女なんて、綺麗なドレスや宝石を与えて、贅沢な暮らしをさせてやればそれで満足するものだ」
「貴方はこれまで、どんな女性と付き合ってきたんですか! 彼女はそんな女性じゃありません。『青を抱く薔薇』だって、最初、受け取ることを拒んだと聞いていますし」
ゲラルトの反論が気に入らないのか、フレデリクはふんと鼻を鳴らすと、空になったグラスを持ち上げて、酒を注ぐよう要求する。
ゲラルトはしぶしぶ、ラム酒の瓶を手に取った。
「貴方だって、昼間の彼女の様子を見たでしょう? あんなに、我が君をことを想っているのに」
「まぁ、あの娘の『フリッツ、どこ?』って台詞には、ぐっときたな」
フレデリクはくっと笑うと酒をあおった。
「でしょ? でしょう! だったら……」
「却下」
「まだ何も言っていません」
「どうせまた、『我が君に彼女を会わせて差し上げたい』って言うんだろ? それはもう十回は聞いた。だが、だめだ。普段、姿を見せないフォルカーが、わざわざ警告してきたくらいだ。その深刻さは分かるだろう?」
フレデリクの反論にゲラルトは黙り込んだ。
あの日の夕刻。
開け放たれた窓を背に、執務室の椅子に座っていたのはフォルカーだった。
同じ顔なのにフリードリヒともフレデリクとも全く違う、ひやりと尖った気配に、ゲラルトはぎょっとして後ずさった。
そして、直後に味わわされるはずの激痛を覚悟した。
しかし、この日は違った。
フォルカーは軽々と執務机を飛び越え、背を丸めて怯えるゲラルトの前に立つと、「エルナという娘を隠せ」と言ったのだ。
その理由として、フリードリヒと彼女が一緒にいるときに、エドガルドと名乗る顔に傷のある男に襲われたこと、フリードリヒが彼女に『青を抱く薔薇』を贈ったことが明かされた。
その後、事情を聞いたフレデリクが、エルナを保護するための計画を立て、ゲラルトがその晩のうちに実行したのだ。
その事実をフリードリヒに知らせないと決めたのは、フレデリクだ。
ゲラルトはその指示に沿って、エルナが店に掲げようとした休店案内を懐に隠した。
「ですが、このままではあまりにも、お二人が不憫で……」
ゲラルトが大きなため息をつきながら、フレデリクに非難がましい目を向けた。
フレデリクは空になったグラスを、ことりと机に置いた。
机から足を下ろして座りなおすと、肘をついて指を組む。
「フォルカーが追っている敵は、次はフリードリヒを狙ってくる。敵に彼女の存在を知られた以上、彼女はあいつにとって命取りになるんだよ。だが、あいつが彼女の行方を知らなければ、万一、彼女が人質に取られるような事態に陥っても、俺たちがそれを握り潰せば、この国の皇帝に危害は及ばない」
「まさか、彼女を見捨てるつもりですか!」
あまりにも冷たい言葉に、ゲラルトはかっと頭に血が上った。
大きな執務机の向こうから身を乗り出して詰め寄ると、鼻先にフレデリクの人差し指が突きつけられる。
「ほーら、それだ! 甘いんだよ! ちょっと関わっただけのお前ですら、そう思うんだ。あの優しいあいつが、彼女を見捨てられるはずがないんだよ。だから、今は知らないほうがいい」
言葉に詰まったゲラルトにフレデリクが畳み掛ける。
「今は情に流されるな。いちばん大切な人間は『我が君』だ。お前にとっては主であると同時に、弟同然の存在なんだろう? だったら、何を犠牲にしてでもあいつを守れ。それができたとき、あいつが幸せになれる未来も見えてくるはずだ」
にやりと笑ったフレデリクが、グラスの脚元の机を指先でこつこつと鳴らした。
この人なりにフリードリヒのことは案じている。
そして、今取れる最善の策が、現状であることも頭では理解できる。
けれども、どうにも割り切れない思いが胸の中に重く沈んでいき、ゲラルトはフレデリクの要求を無視して、ラム酒の瓶を飾り棚に戻した。




