(2)
カラン、カラン……。
「あら? こんな時間にお客さん?」
売れ残りのパンと手作りのハーブティーだけの質素な昼食を摂っていたエルナが、工房から店舗へと続く扉に視線を向けた。
お昼休みも半分近く過ぎたこんな時間に店を訪れるのは、大抵、ゆっくり昼食を楽しむ時間のない忙しい人だ。
「早くパンを売ってあげなくちゃ」と、食べかけのパンを皿に置き、慌ただしく椅子を立った。
扉を開ける前に、濃い茶色のドレスの上につけたクリーム色のエプロンを軽くはたく。
さっきまでパンの成形をしていたから、あちこち麦の粉がついているのだ。
エルナの明るい栗色のまっすぐな髪は、クリーム色の三角布の後ろできっちりと一つ結びされていて、正面からは見えない。
年頃の娘にしては非常に地味な格好だが、それがかえって、白い肌とほっそりした輪郭、青い大きな瞳を引き立たせていた。
「いらっしゃいませ」
笑顔で店の中央にいた人影に声をかけると、客が振り返った。
「休憩中って書いてあったけど、いいかな?」
「ええ、どうぞ」
にこりと笑顔を返した青年は、パンが盛られた籠を一つ一つ熱心に見始めた。
なんだか、きれいな人ね。
お客さまをじろじろ見ては失礼だと思いつつも、ついつい視線で追ってしまう。
美しく整った上品な顔立ち。
長い睫毛に縁取られたエメラルドグリーンの瞳が優しげだ。
襟足が少し長めの髪は、落ち着いた印象のダークブロンド。
身につけているシンプルな白いシャツは、滑らかな光沢のある生地で、仕立ても上等だ。
左肘に怪我をしているらしく、生地のほころびに赤い色がにじんでいた。
普段、近所に住む人々を相手に商売する古ぼけた店が、彼一人いるだけで華やいで感じる。
きっと貴族か大きな商家の子息なのだろう。
こんな下町の小さな店に上流階級の人が訪れるのは珍しいから、ちょっとドキドキする。
あぁ、きっとバルツァーさんのお店がお休みだからだわ。
最近、同じ商店街のいちばん有名なパン屋が休業した。
なんでも、一年後に開かれるこの国の皇帝の在位十周年を祝う行事に備えるために、城に召し上げられたのだという。
おかげでエルナの小さな店は、以前より客足が増えた。
今、目の前にいる、いかにも良い所の子息風の青年がこんな店を訪れたのも、おそらく影響の一つなのだろう。
エルナの店は小さいながらも、パンの種類は豊富だ。
皇帝の王冠をかたどったとされるカイザーゼンメルは、プレーンの他に、ケシの実やかぼちゃの種などをトッピングした五種類を日替わりで作っている。
細長い塩味の効いたパンに、シンプルな丸パン。
切り売りしているずっしり重いロッゲンブロートは、どんなお客さんの好みにも合うように、材料の配合を変えて、常時三種類用意している。
棚の端に置いてある籠から順に、じっくりとパンを吟味している青年が、反対側の壁に移動してきた。
けれども彼は首をひねるだけで、一向に手を動かさない。
「あの……。お気に召しませんか?」
自分が焼いたパンでは彼に通用しないのだろうかと、不安になる。
「あ……いや、そういう訳じゃないんだ。甘い匂いに誘われて来たんだけど、普通のパンしか見あたらないから……。この甘い匂いは一体何だい?」
彼は軽く顎を上げて、店内に漂う匂いを確かめるように息を吸い込んだ。
「あぁ、それは林檎のパンよ」
「林檎? ああ、そうか、これは確かに林檎の匂いだ。もしかして、パンに林檎が入っているの?」
「ええ。そうよ」
「ケーキやパイなら分かるけど、パンに? 本当に?」
目を輝かせ、念を押すように言う彼の様子に、エルナは目をぱちくりさせた。
そっか。
お金持ちの人は甘いものはお菓子を食べるから、食事用のパンに林檎を入れるっていう発想はないんだ……。
そう考えると、なんだか楽しくなってきた。
林檎入りのパンは、お菓子を買う余裕のない庶民の味なのだが、その美味しさを知らない彼が気の毒にすら思える。
「本当よ。ケーキやパイじゃ、おやつにしかならないでしょ。林檎入りのパンなら、お腹がしっかり膨れるうえに、お菓子を食べたような満足感も味わえる。一石二鳥の優れものなんだから!」
胸を張って自慢する。
エルナのパン屋では林檎のパンは一番人気。
何度も試行錯誤して作り上げた自信作なのだ。
「へえ、そうなんだ。だったらぜひ食べてみたいな。どこにあるの?」
彼は期待たっぷりに店内を見回した。
エルナはそこで「しまった」と思う。
自慢したはいいが、その自慢のパンは朝のうちに完売しているのだ。
今、店内に漂っている匂いは、下ごしらえで林檎を蜂蜜で煮詰めたときのもの。
パンそのものは、さっき窯の中に入れたばかりだ。
「ごめんなさい。今朝焼いた分は、もう売り切れちゃったの」
「なんだ、そうなんだ……」
彼は眉を寄せて目を伏せ、肩を落とした。
あまりにも申し訳なくて、エルナは言い訳がわりに言葉を続ける。
「午後の分が今、石窯に入っているんだけど、焼けるまでに時間がかかるわ。だから……」
今日は諦めるか、午後から改めて来て欲しいと言おうと思ったのに、はっと顔を上げた彼は満面の笑みを見せた。
「本当? じゃあ、待たせてもらってもいいかな? 僕、すごくお腹が空いているから、他のパンを食べながら待ってるよ」
「え?」
「これと、これとこれを一つずつもらえるかい?」
青年はうきうきとした様子で、小型のパンを次々と指差した。
「えぇと……、まさか、ここで食べるつもりなの?」
「だめかい?」
「そういう訳じゃないけど……」
困惑したエルナは、狭苦しい店内を見渡した。
両側の壁は全てパン棚になっていて、かごやトレーが並んでいる。
奥は切り売りのパンとそれを切るための台がある。
真ん中の空いた空間に椅子を置けば座れなくもないが、自分とは育ちが違うお上品な青年を、こんな場所でパンを食べさせるのはどうかと思う。
他のお客さんが訪れたら、きっとびっくりするだろう。
店の奥の工房に、自分が休憩するためのテーブルと椅子があるから、そこの方がまだマシかな。
そう考えたエルナは、青年が指差したパンをトレーに乗せると「こちらへどうぞ」と、店の奥の扉を開けた。