(5)
向こうの二人が同時に立ち止まったが、ぶわりと吹き上がった涙で何もかもが滲んで見えた。
けれど、あの背格好は間違い無い。
ずっとずっと、その身を案じていた彼。
もう一度、会いたいと思っていた彼だ。
「フ……リッツ、フリッツ! 無事だったのね」
両手を伸ばし、もつれそうになる足を踏み出した時、彼がゆっくりとこちらを向いた。
——違う。
フリッツじゃない。
直感的にそう感じ、ぎくりと足を止めた。
全く同じ顔、同じ背格好に見える。
けれども、どこかが違う。
彼じゃない。
しかし、その理由を考える間も無く、建物の陰から剣の柄に手をかけた二人の近衛兵が飛び出してきた。
「何者だ!」
「きゃ……」
あっという間に目の前に立ちふさがった男たちの、鬼気迫る様子に驚いたエルナは、ぺたりとその場に座り込んだ。
「お前、ここで何をしている!」
恐々と顔を上げると、目の前にぎらりと光る刃があった。
ひっと息を飲んだまま硬直する。
「わぁぁぁっ! やめてください二人とも! その人は、最近入ったばかりのただのパン職人ですよ」
ゲラルトが慌てふためいて駆け寄ってくるが、目の前の近衛兵は剣を構えたまま、脅すように一歩前に出た。
「ただのパン職人が、なぜ、こんな場所にいる!」
「陛下をあの様な呼び名でお呼びするとは、不敬である! 答えろ、女。何が目的だ! 陛下がここをお通りになると知って、待ち伏せしていたのか!」
もう一人の近衛兵が、剣の柄に手をかけたまま背後に回り込み、逃げ道を塞いだ。
彼らはフリッツに似た彼を『陛下』と呼んでいる。
陛下とは皇帝陛下に他ならない。
エルナはこの国の最高権威に、とんでもない無礼を働いてしまったのだ。
この場で切り捨てられても文句を言えないほどの。
「そんな……。あの……、わたし、食料庫……に、行こうと……して」
教えられた道を通って、干し葡萄を二袋もらってくるだけのお使いだったのだ。
この日この時間に、皇帝陛下が通りかかるなんて知るよしもない。
ただ、陛下があの人にあまりにもそっくりだったから、思わず呼びかけてしまっただけだ。
震える声で必死に弁明するが、近衛兵らは聞く耳を持たない。
「食料庫だと? 嘘をつくな!」
「だったら、西側の入り口を使うはずだ。こんな場所にいるはずがない」
「で、でも……マヌエラが、この道を教えてくれたんです。だから……わたし」
「はいはい、ちょっとどいてくださいね」
目の前の兵の肩に手がかかり、ぐいと押しのけられる。
そして同じ場所にゲラルトが屈み込んだ。
「マヌエラとは、君と同じ日に工房に異動になった娘ですか?」
彼はエルナをこの城に連れてきた張本人だ。
城には行きたくないという願いを聞いてはくれなかったが、悪い人ではないことを知っている。
彼なら、この状況をどうにかしてくれるかもしれない。
「そ、そうです。厨房の裏口から入ればいいって……」
「そうですか。彼女は長く厨房の皿洗いをしていたから、城内に詳しいんです。確かに、外のパン工房から食料庫に行くのなら、こちらの方が近道ですね」
「多分、そうだと思います」
「ゲラルト様! そんな怪しい女をかばい立てするのですか!」
「今すぐ捕らえるべきです!」
いまだに警戒を解かない近衛兵たちが声を荒げる中、ゆっくりと近づいてきた人物が、穏やかにいなす。
「もう、良いではないか。私には彼女が悪い人間とは思えない。その物騒なものを納めなさい。かわいそうに、こんなに怯えているではないか」
「陛下、しかし……」
納得がいかず反論しかけた近衛兵たちに、彼の表情が一瞬冷えた。
口調も穏やかなままなのに、ぴりりとした威圧感が乗る。
「納めろと言っている。もう下がりなさい」
「は!」
兵たちがびくりと体を震わせ、剣を収める。
そしてそそくさとその場を離れ、少し離れた場所で立ち止まりこちらに警戒の目を向けた。
皇帝を警護する役目を負っているため、完全に立ち去ることはないのだろう。
「怖い思いをさせてすまなかった。君、名は何という?」
皇帝の言葉にエルナも体を震わせた。
先ほどの事態は自分が引き起こしたようなもの。
皇帝陛下と知らず、フリッツそっくりの彼に声をかけてしまったことが引き金なのだ。
一体どれほどの罪に問われるのだろうか。
「エルナ・フレンツェンと申します。あの、わたし、大変なご無礼を……」
慌てて平伏し、許しを請う。
「気にせずとも良い。顔を上げよ」
フリッツと全く同じ声だが、威厳に満ちた口調。
普通は、これほど近づくことも、会話することも恐れ多い相手だ。
緊張で身体がこわばり、なかなか顔が上げられずにいると「ほら、エルナ?」とゲラルトに促された。
なんとか顔を上げると、微笑を浮かべた皇帝が見下ろしていた。
どこをどう見ても、フリッツと瓜二つだ。
しかし、薄く笑みを作った口元や、冷めたエメラルドグリーンの眼差しは、フリッツとは全く違う。
彼よりもっとクールで、十歳ぐらいは年上の印象だ。
彼は同じ顔をしているが、全くの別人。
以前、湖で会ったフォルカーもそうだった。
彼もフリッツとそっくりだったが、彼の方はもっと粗野で、少年っぽかった。
「大丈夫ですか? さあ、立って」
エルナはゲラルトの手を借りて、ようやく立ち上がった。
「ところで、君がさっき叫んだフリッツって名。彼は君の……なんだい?」
「えっ? 彼は……」
彼と同じ顔をした皇帝に、そんなことを聞かれるとは思いもしなかった。
そういえばさっき、近衛兵が「陛下をあの様な呼び名でお呼びするとは」と言っていた気がするが、何か問題があるのだろうか。
「恋人……とか?」
答えにつまっていると、皇帝がふっと口元を緩めて問いかけてくる。
そんな表情をすると、フリッツに雰囲気が近くなる。
「…………いいえ。いいえ、違います」
エルナは小さく首を振ると、胸元をぎゅっと握りしめた。
ブラウスの生地越しに、小さな硬い存在を感じ取る。
フリッツはこの青い石のペンダントを手渡し、愛していると言ってくれた。
けれど、彼のことを、恋人だとは言えない。
自分のことを何一つ話してくれなかった彼だが、かなりの身分差があることは明らかなのだ。
彼と自分は釣り合わない。
だから。
恋人ではない。
「そう。でも奇遇だな。私はフリードリヒという名だが、幼い頃はフリッツという愛称で呼ばれていたんだ。さすがに今は誰も、そう呼んではくれないがね。だから、少し懐かしい思いがしたよ」
「そう……なんですか」
こんなにも近くで、彼にそっくりな人を見ていたくなかった。
同じ声も聞きたくなかった。
涙で視界が霞むと、目の前の彼の表情の違いが分からなくなった。
フリッツとは違う硬い口調も、耳の奥で反響して彼の音になっていく。
目の前に、あれほど会いたかった人がいるのだと、間違えてしまいそうになる。
「フリッ……ツ」
反射的に伸ばしそうになった手を、途切れかけた理性で必死に押しとどめる。
彼はフリッツじゃない。
彼はフリッツじゃない。
呪文のようにそう自分に言い聞かせているうちに、目の前が白くなった。
「危ないっ!」
背中に強い腕を感じると同時に、ふわりと、彼と同じ森林を思わせる上品な香りに包まれる。
一瞬、彼に抱きしめられているのだという錯覚に陥る。
けれど。
違う、彼じゃない。
「フリッツ……、ど……こ?」
エルナの意識はここで途切れた。




