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ブラウヒューゲル城では、皇帝の在位十年を祝う式典のための準備が進められていた。
この式典で皇帝陛下の婚約発表が行われるともっぱらの噂で、城内は大勢の賓客を迎え入れるための、施設の大規模な拡張工事が行われていた。
城に来たばかりのエルナの仕事は、工事のために国の内外から集められた大勢の職人や、城の使用人たち用のパンを焼くことだった。
パン工房は城壁のすぐ裏に簡易的に建てられており、各地から集められた十人程度の職人が、毎日大量のパンを焼いていた。
この工房で腕前が認められれば、皇族や貴族、客人のためのパンを焼く特別な工房に身を置くことになるらしい。
エルナより半年以上前に城に召集された、同じ商店街の老舗の職人は出世したらしく、すでにこの工房にいなかった。
エルナは出世には全く興味がなかったが、自分の店より少し質の良い小麦やライ麦の粉を前にすると、職人魂がうずいた。
それに、作業に集中していれば、フリッツのことを考えずに済むし、一日が短く感じるから、よりいっそうパン作りに励んでいた。
丸く広げた生地の中央に右手の親指を置き、左手でひょいひょいと生地を折り込む。
中央に五本の線が渦を巻いたような丸いパン生地が、作業台の上に並んでいく。
「よし、これで終わり」
午後から焼く分のカイザーゼンメルを誰よりも早く成形し終え、大きな天板にそれらを丁寧に並べた。
生地が乾かないように濡れた布巾をかぶせていると、工房長のオイゲンが通りかかった。
「あいかわらず手が早いな。仕上がりも良い」
充分に発酵したパン種のようにふっくらと恰幅の良い彼は、布巾を持ち上げてエルナのパンの出来を確認する。
その後、工房内をぐるりと見回したが、どの職人も、まだ半分程度しか作業が進んでいなかった。
「まだ誰も終わりそうにないから、今のうちに、食料庫に行って酵母用の干し葡萄を二袋もらってきて、あの瓶に酵母を仕込んでおいてくれ」
「はい」
そう答えたものの、食料庫へはここへ来た翌日の朝に案内されただけで、一人では行ったことがなかった。
確か、貴人用の厨房の隣にあったから、城の内部に入っていかなければならないはずだ。
エルナは隣で作業しているマヌエラをちらりと見た。
彼女は真剣な顔で、肩につかないほど短く切った強い癖のある金髪を揺らしながら、不器用そうにパン生地を丸めている。
いちばん簡単な丸パンを作っているにも関わらず、彼女の天板の上には、まだ数個のパン生地しか置かれていない。
生地の表面はでこぼこで、大きさもバラバラだ。
彼女はもともと城の厨房の皿洗いだったそうだが、人手不足のために、エルナと同じ日にパン工房に転属された。
三つ年上の彼女は、転属を機に宿舎の部屋も隣になり、何かとエルナを気にかけてくれてるお姉さん的存在だった。
彼女の手の中の生地が丸め終えられるのを待って、声をかける。
「ねぇ、マヌエラ。食料庫にはどう行くんだっけ?」
「食料庫? ここを出てから左に真っ直ぐ行くと工事中の薔薇園があるから、その向こうを右に曲がって……」
彼女に教えてもらった道順は、以前案内された時のものとは違っていた。
おそらくこちらの方が近道なのだろうが、なかなかややこしい。
無事にたどり着けるかと不安になりながらも、エルナは工房を後にした。
冬を目前にした冷たい風が顔に吹き付け、思わず首をすくめる。
工房内には火が入った大きな窯がいくつもあり、パン種の発酵を促すため室温を高くしてあるから、この温度差は身体に堪える。
エルナは足早に、まずは薔薇園に向かった。
曲線の飾りが優美なフェンスに囲まれた一角は、完成間近らしく、数人の庭師が働いているだけだった。
何本あるのか分からないほど植えられた薔薇の木は短く剪定されており、赤い新芽が芽吹いているものの、ほとんど枝だけの状態だ。
おかげで、所々に置かれた大理石の女神や天使の像や、奥に建てられた東屋がよく見える。
今は冬を前にした寂しい光景だが、春になり、式典が行われる頃には、色とりどりの薔薇と緑に覆われた美しい庭になるのだろう。
「薔薇園の向こうを曲がるって言ってたっけ……」
広大な庭の敷地の角にようやくたどり着き右に曲がると、部分的に赤土部分が残る工事中の石畳があった。
その小道はずっと向こうまで続き、途中で左右の建物をつなぐ石造りの回廊と交差していた。
「うん。ここで間違いないわ」
マヌエラに教えてもらった通りの風景に安心して歩き始めると、かすかに男性の話し声が聞こえてきた。
薔薇園の側には人影が見えないから、左手の建物の方から誰かが来るらしい。
エルナは彼らをやりすごそうと、足を止めた。
しばらくして建物の角から姿を現したのは二人の若い男。
「あれは……?」
よく見ると、手前を歩いていたのは、エルナをこの城に連れてきたゲラルトだった。
エルナに召集の書状を持ってきた時と同じ、シンプルな紺色の上着姿だ。
もう一人を相手に、熱心に話をしている。
彼の陰に見え隠れするのは、金糸の装飾が施された丈の長い深緑の上着の裾を翻す、高貴な身分と思われる青年だ。
彼がゲラルトより少し前に出た瞬間、柔らかなダークブロンドが風に吹かれ、美しく整った上品な横顔が露わになった。
「う……そ」
間違いない。
間違えるはずがない。
「フリッツ!」
考えるより先に彼の名前を叫んだ。




