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(3)

 店の前で馬車を降りて、すぐに異変に気付いた。

 いつも彼女の店をふんわりと包み込むように漂っていた、あの幸せな甘い香りが全くしない。

 看板があっても、そうとは気づかないほど、パン屋としての存在感が完全になくなっていたのだ。


「……エルナ?」


 強い胸騒ぎを覚え、小さな窓に駆け寄る。

 まだ早朝だから、店の扉に閉店の札がかかったままでも不思議はない。

 けれど、もうとっくに、籠に入ったたくさんのパンが窓ガラスの向こうに並んでいる時間なのに、窓の向こうはがらんとしていた。

 どの棚も、前日の売れ残りのパンすら置かれていない。


 彼女と知り合ってから半年以上経つが、彼女が店を閉めていたことなど一度もなかった。

 午後のパンを焼くことを休んだことですら、自分が知る限り、湖に誘ったあの日一日だけだ。

 あれから、もう十日以上も経ってしまっていた。


「何があったんだ」


 急いで工房の裏口に回ってみたが、こちらの扉も硬く閉ざされていた。

 窓から中を覗き込んでも、パンづくりに精を出す彼女の姿はない。

 たくさんのこね鉢や、発酵中のパンが並んだ天板が置かれていた大きな作業台にも、何もなかった。

 彼女が大事にしていた酵母が入ったたくさんの瓶も、そっくり棚から消えている。

 いつも自分が座っていた席に必ず用意されていた、林檎のパンが乗った皿はもちろんない。

 質素なカップだけが、客を待つようにぽつりと一つ、テーブルに残されていた。


「エルナっ! エルナ!」


 裏口の扉を叩き、何度も彼女の名を呼ぶ。

 扉の向こうに彼女がいないことは分かりきっているのに、そうせずにはいられなかった。


「すまない、エルナ。……僕のせいだ」


 両膝が、がくりと土に落ちた。


 あの日、本当は彼女に別れを告げるつもりでいた。

 なのに、「千回会いたい」といういじらしい言葉に愛おしさが溢れ、気づけば彼女を抱きしめていた。

 決して言うまいと思っていた自分の想いも、するりと言葉となってこぼれ落ち、自分の立場も未来も、何も考えられなくなるほどの甘い幸福感に包まれた直後、記憶がふつりと途絶えた。


 意識を取り戻したとき、自室のベッドの上だった。

 あれから三日もすぎていることを知り、愕然となった。

 一刻も早く彼女に会いに行きたかったのに、その自由も機会もないまま、今日に至った。


 自分のあまりに特殊な事情に、彼女を巻き込んではいけない。

 そう思いながらも、この店に通うことを止めらなかった。

 どうしても、彼女に会いたかった。

 その結果が、これだ。


 フリッツは両手を固く握り締めた。


 工房の中に荒らされた形跡がないことが、せめてもの救いだった。

 酵母の瓶がなくなっていることを考えると、しばらく戻らない、あるいは戻れない事情があるのだろう。

 少なくとも、彼女は無事だ。


「探さないと……」


 自分の意識が途絶えたあの時、何かが起きたに違いないのだ。

 それを知っているであろう者に心当たりはあるが、彼から聞き出すことは難しい。

 かといって、自分自身が動くこともままならない。

 本来なら大きな力を持つはずの自分の手は、何一つ掴み取ることはできない。


 愛しい人を守ることすら——。


 ゆっくりと立ち上がった青年の足元を、木枯らしに吹かれた茶色の木の葉が、カサカサと舞っていった。

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