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ブラウヒューゲル城の工房(1)

 店に戻ったときには、お昼休みはとうに過ぎていた。

 商店街には活気が戻っていたが、エルナは扉に掛けてあった『休憩中』の札を外す気が起きなかった。

 札を裏返して『閉店』にしてしまう。


 裏口から工房に入ると、小さなテーブルの上に、フリッツが使ったカップがそのままになっていた。

 少し前まで、彼がその席に座っていた。

 彼のカップを片付ける気にもならず、向かいの席に座ると、テーブルに肘をついて頭を抱える。


「フリッツ……会いたい」


 彼は本当に無事なのだろうか。


 彼と全く同じ姿をしたフォルカーという男が、何の根拠も示さずに「無事だ」と断言してくれたが、自分の目で確認しないことには安心できなかった。


 フリッツは以前、港の方に住んでいると言っていた。

 けれども、詳しい場所は教えてくれなかったし、『フリッツ』という名しか知らないのだから、港に行っても探し当てることは難しい。

 いや、本当は、彼はそんな場所に住んでいないだろうと、うすうす感じていた。

 だから、彼が店を訪ねてくれるのを、ひたすら待つしかない。


 重苦しいため息だけが落ちる。


 フォルカーが何者なのか、フリッツとどういう関係なのか。

 自分たちを襲った不気味な男は誰なのか。


 店に戻る道すがら、フォルカーに何度も訊ねてみたのだが、その度に不機嫌に睨みつけられた。

 店の前まで来たとき、彼はこつ然と姿を消してしまったから、結局、何一つ聞き出すことはできなかった。


 エルナはドレスの胸元からペンダントを引っ張り出した。

 外の光があまり入らない薄暗い工房の中でも、金色の繊細な花びらの中央に置かれた小さな石は、それ自身が青く発光しているかのような神秘的な輝きを放っていた。

 フォルカーは、このペンダントについても何か知っているようだったのに、何の説明もしてくれなかった。

 「肌身離さず身につけていろ」と「誰にも見られてはいけない」の二つを、強く念押ししただけだった。


 何もかもが謎だらけだ。

 美しいペンダントの飾りを両手で握りしめても心は晴れない。

 むしろ、その小さな重みが苦痛だった。


「フリッツ。どうか、無事でいて」


 青い石の飾りを両手で包み込んだまま、祈りを捧げる。

 どれくらいそうしていたのか、身体がぶるりと震え、辺りを見回した。

 いつの間にか、窓から見える外の景色は薄青く染まっている。


「そうだ、林檎を煮ておかなくちゃ……」


 エルナはすっくと席を立った。


 明日の朝も、いつものように林檎のパンを焼くのだ。

 明日、彼が来てもいいように——。


 林檎の皮をむいて指先ほどの大きさの角切りにし、鍋に入れる。

 バターと砂糖と風味づけの蜂蜜を加えて、木べらで丁寧に混ぜながら煮詰めていく。

 工房に甘い匂いが立ち込める。

 作業に没頭している間は、昼間起こった恐ろしい出来事も、フリッツに対する不安も忘れていられた。

 いや、そうすることで必死に頭から追い払おうとしていた。


 やがて、窓の外は真っ暗になった。

 窯の炎と小さな蝋燭の灯の中、黙々と作業を続ける。

 明日の朝一番に窯に入れるパン種は捏ね上げた。

 後は、明日の朝から仕込み始めるパンの材料の計量だけだ。


「ライ麦が足りないわ」


 数日前にフリッツに運んでもらった袋の中身は、残りわずかになっていた。

 最近めっきり出番が少なくなった手押し車を押して、裏口に向かおうとしたとき、馬車が走る音が聞こえてきた。


「フリッツ……?」


 僅かな物音にも敏感になっていたエルナは、はっと動きを止めた。

 期待して耳をすませるが、物音は表の通りで止まってしまった。

 彼はこれまで馬車で乗りつけたことはなかったが、もし彼だとしたら、店を閉めている夜間は工房の裏口がある細道に回ってくるはずだ。


「違うわ。彼じゃない」


 大きなため息を一つ落とし、のろのろと空の手押し車を押し始めると、今度は建物に沿って回り込んでくる複数の足音が聞こえてきた。

 フリッツ以外に、夜間に工房を訪ねて来る人に心当たりはない。

 いくつもの足音と、何やら小声で話しているような男たちの声が、裏口に近づいてくる。


 怖い——!


 恐ろしい男に襲われた昼間の恐怖も蘇り、両耳を塞いで小さくうずくまる。

 その手を通して聞こえる、扉を叩く微かな音。

 恐ろしさのあまり、ますます身を縮めていると、その音は少し大きく早くなり、男性の声が聞こえてきた。


「エルナ・フレンツェンさん。夜分遅くに、大変失礼致します」


 自分の名を呼ぶ丁寧な口調に、恐る恐る顔を上げ、耳を塞いていた手を外した。

 せっかちなノックの音とともに、声はさらに続く。


「フレンツェンさん、いらっしゃいませんか? いらっしゃいますよね?」


 蝋燭の灯りが窓から外に漏れているし、おそらく作業中の人影も見えただろう。

 相手は、エルナが中にいることを確信しているようだ。

 相手は自分の名前を知っている。

 けれども、自分を呼ぶ声に聞き覚えはない。


「大変重要な用件で参りました。どうかここを開けてください」


 扉を開けていいかどうか迷っていたが、この言葉に思わず体が動いた。

 大変重要な用件とは、今のエルナにとってはフリッツに関することだ。

 もしかすると、彼が何かを知らせてきたのかと期待して、扉に駆け寄る。


「あの……、どちら様でしょうか」


 恐る恐るたずねてみると、相手の声が扉越しに耳打ちするように小さくなる。


「ブラウヒューゲル城からの使いで参りました、ゲラルト……えぇと……ランゲと申します」

「え?」


 思いがけない言葉に、急いで扉の鍵を開けると、外に三人の男が立っていた。

 手前にいたのは、華美な装飾はなくとも仕立ての良い、濃紺の服を着込んだ二十代後半ぐらいの男。

 緩く一つに束ねた黒髪を、右の肩から前に下ろしている。

 彼の後ろには、腰に長剣を下げ、揃いの軍服のような制服を身につけた二人の男が、無表情でひかえている。

 ブラウヒューゲル城からの使いだという話だったが、それを納得させる、ただ者ではない雰囲気に、エルナは思わず後ずさった。


「やぁ、あなたがエルナさんですか。お会いできて嬉しいです」


 エルナが下がった分、男が一人でずいと工房の中に入ってきた。

 そして「へぇ……あなたが」などと言いながら、エルナを頭のてっぺんからつま先まで物珍しげに見る。

 不躾な視線に、エルナはさらにもう一歩下がった。


「あ、あの……ブラウヒューゲル城からとは?」

「あぁ、失礼」


 ゲラルトはそう言うと、懐から丸められた紙を取り出して広げて見せた。


「ここに正式な書類がありますが、簡単に言えば、あなたをパン職人として城に召し上げる……と、まぁ、こういうことです」

「ええっ! お城に?」

「そうです。良い話でしょう?」

「そ、そんな。急に言われても……」


 びっくりしすぎて、何をどう返事していいか分からなかった。


 最近、城に召し上げられたのは、この町でいちばん有名な老舗パン屋の主人だった。

 大変名誉なこととして、商店街の人々に祝福され、本人も誇らしげだった。

 片やエルナは、父親が亡くなったために、無理にでも独り立ちせざるを得なくなって三年。

 パン職人としては、まだまだひよっ子だ。

 こんな自分に声がかかるなんて、夢にも思わなかった。


 それに——。


 フリッツの顔が頭に浮かぶ。

 彼が無事かどうかも分からないのに、この店を離れるわけにはいかない。

 名前しか知らない彼と会うには、この店で待つしかないのだから。

 胸元に隠したペンダントを布地の上から握りしめる。


「せっかくですが、お断りします。わたしはこの店でパンを焼かなきゃならないんです」


 きっと顔を上げて告げると、相手は広げた書類を目の前に突き出した。

 そして、にこやかな笑顔で残酷に続ける。


「断ることなど、できるとお思いですか? ほら書類のここに、皇帝陛下の直筆の署名があるでしょう? この要請を拒否することは許されません」

「嫌です! どうして、わたしなんですか。こんな小さなパン屋なのに、おかしいです。この町には、わたしよりもっと腕のいい職人が大勢います」

「いいえ、選ばれたのは貴女です。どうしても命令を拒否するというのなら、このまま牢屋にお連れすることになりますが」

「そんな……」


 エルナは冷たい床にぺたりと座り込み、両手で顔を覆った。

 この話を受けても拒否しても、この店にはいられないのだ。

 エルナにとっては、城に召されることも、牢屋に繋がれることも大差ない。

 フリッツに会えなくなることは変わりないのだから——。


 絶望に肩を震わせながらも、自分がこれからどうすべきかを考える。

 相手はおかまい無しに言葉を続けている。

 耳を素通りしていく説明の中、ある言葉に思考が止まった。


「期間は今晩から約半年」

「えっ? 今晩……から?」

「そうです。今晩から、来年春のブラウヒューゲル皇帝の在位十年を祝う式典が終わるまでの間です」

「そんな! 急すぎます!」


 エルナは勢いよく立ち上がると、相手に詰め寄った。


「超急ぎの案件なのです」

「こんなのおかしいです。式典は半年後なのでしょう? そんなに急がなくてもいいじゃないですか。せめて、数日待ってください」


 数日猶予があれば、もしかするとその間にフリッツが来てくれるかもしれない。

 けれども今晩、この場所を離れてしまったら、彼の安否を確認することすらできないのだ。

 それに、もし後日、彼がいつものように店を訪れたときに自分がいなかったら、彼はどう思うだろう。

 事情を知らない彼に、ひどく心配をかけてしまうだろう。

 だから、城に召し上げられることは仕方ないにしても、その前に、なんとしても彼に会いたかった。


「お願いです! お願いですから、せめて三日……」


 必死に懇願しても、相手は首を横に振るだけだった。


「だったら、二日でも」

「さぁ、すぐに準備してください。外に馬車を待たせてありますから」

「どうしても今晩じゃないとだめですか?」

「どうしてもです」


 エルナは、にこやかに冷たい言葉を吐く男に背を向けた。

 ただの平民のパン屋の娘が何を言っても、権力に逆らうことはできないのだ。


「…………わかりました。荷物をまとめてきます」


 もたもたしていると涙が落ちてしまいそうだったから、エルナは相手の顔も見ずに、屋根裏部屋にあがる梯子段へと急いだ。

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