(9)
秋風で木々の枝が揺れているが、辺りを支配する強烈な緊張感で、何の音も耳に入らなかった。
フリッツが構えを解いたのは、男の姿が木々の間に消えてしばらくたってからだった。
それを見て、エルナの全身から力が抜けた。
両手を草について、肩でぜいぜいと息をする。
自分の心臓の音が耳につき、急に冷や汗が吹き出してくる。
「おい、おまえ。大丈夫か」
「だ……だいじょうぶよ。フリッツこそ……」
ずいぶん高い位置から降ってきたぶっきらぼうな言葉に、なんとか答える。
そして、彼の顔を見上げたとたん、言葉の続きが出なくなった。
立ったまま見下ろすだけのエメラルドグリーンの瞳は無機質で、真っすぐ結ばれた唇には笑みの欠片もない。
さっき投げつけた短剣のように、鋭利でひやりとした印象の彼に、エルナはぞっとして、僅かに後ずさった。
フリッツなら、屈み込んで手を差し伸べてくれるはず。
優しい言葉と微笑みで、安心させてくれるはず。
しかし、不気味な男に襲われた直後とはいえ、今、目の前にいる彼は、フリッツとは全くの別人に見えた。
いや、「伏せろ」と乱暴に地面に押しつけられたときから、彼はおかしかった。
彼の方も形の良い眉を寄せ、何かを見定めようとでもするように無遠慮にエルナを見た。
そして、何かが目に留まったらしく、エルナの向こう側の草の中を凝視した。
「これは……?」
彼は屈み込んで、枯れ始めた草に埋もれていた輝きを拾い上げた。
細い金の鎖から下がる繊細な飾りを一目見たとたん、顔つきが変わる。
「おまえっ!」
「きゃ……」
エルナは、彼の指が食い込むほどきつく両肩を掴まれた。
肩を激しく前後に揺さぶられ、強い口調で尋問される。
「これをどこで手に入れた! どこかで拾ったのか!」
「ちが……」
「まさか、盗んだんじゃないだろうな!」
彼の迫力とあまりの言葉に、俯いて首を横に振ることしかできなくなった。
「だったら、なんでこんなものがここにあるんだ!」
怖い——。
人が違ってしまったような彼が怖い。
彼が自分を、見知らぬ人のように扱うことが信じられない。
「どう……し……て?」
どうして、彼がそんな風に言うのか分からない。
ペンダントを持っていたことが大罪であるかのように、これほど強い口調で責め立てられる理由が分からない。
だって。
「そのペンダントはフリッツが……あなたが、わたしにくれたものじゃない! わたしは受け取れないって断ったのに、どうしても受け取って欲しいって言ったのはフリッツの方じゃない! なのに……どうして、そんなこと言うのよ」
悲しくて、悔しくて。あれほど大好きだった彼が恐ろしくて。
じわりと浮かんだ涙に、彼の困惑の表情が歪んで見えた。
「は? まさか、これを……あんたに?」
「どうしちゃったの? もしかして、また何もかも、忘れてしまったの?」
幸せな時間を何度も一緒に過ごした。
あんなに思い詰めた表情で、ペンダントをプレゼントしてくれた。
口づけを交わし、好きだと……愛していると言ってくれた。
強く抱きしめる腕や、唇の甘い感触がまだはっきりと残っているのに、それらはすべて、夢か幻だったのだろうか。
「フリッツ……?」
両肩を掴む彼の両腕に恐る恐る触れると、その手がようやく離れた。
「……くっ……そ、あいつ。どうなってやがる!」
両手で乱暴に頭をかきむしりながら立ち上がり、視線をそらせた彼の横顔に、胸に浮かんだ疑問が明確な形を持ち始める。
こんな口調も仕草も、表情も見たことがない。
全くフリッツらしくない。
彼はまるで……別人。
「あなた……誰? フリッツにそっくりだけど、フリッツじゃない」
問い詰めると、彼はちらりと視線をよこした。
「俺は……フォルカーだ。フリッツなんかじゃ、ねぇよ」
「やっぱり! じゃあ、彼は……フリッツはどこにいるの?」
フォルカーと名乗った男は、舌打ちをすると、また視線をそらせた。
「ねぇ、お願い。答えて! 彼はどうしたの? 無事なの?」
立ち上がって手を伸ばし、黒いシャツの袖にすがりつく。
「どこへ行ってしまったの? あなたは知ってるんでしょ?」
しかし、返事は軽い舌打ちだけ。
それでもエルナは、彼の袖を強く引っ張って食い下がる。
「教えて! 何が起きたの? フリッツは無事なの?」
何度も強い口調で問い詰めていると、フォルカーは目をそらせたまま、ようやく口を開いた。
「るせぇな。……無事だよ」
「よかった……」
無事という一言に、思わず涙が浮かぶ。
しかし、それだけでは安心できなかった。
「じゃあ、どこにいるの?」
「さあな。俺はあいつに呼ばれてここに来ただけだ」
「呼ばれて来た……って、どういうこと? 一体、いつの間に入れ替わったの?」
エルナは、面倒くさそうに説明をする彼の横顔を、じっと見つめた。
その整った輪郭は、フリッツと全く同じだった。
襟足が長めの上品なダークブロンドの髪も。
同じ色の長い睫毛も。
「あんたは地面に小さく丸まっていたから、見ていなかっただけだ」
「それは、そうだけど……」
いくら顔を伏せていたとしても、間近で二人の人間が入れ替わったのなら、気配は感じるはずだ。
それに、敵に襲われたあの危機的な一瞬に、どうやって入れ替わったというのか。
フリッツはどこへ行ってしまったのか。
そして、フォルカーはどこから来たのか。
エルナはこちらを見ようとしない彼の全身を、じっくりと観察した。
仕立ての良い黒いシャツとズボンは、今朝、エルナが汚れを落としてあげたものと同じに見えた。
同じく泥を拭って磨いてあげた黒い靴には——。
「おかしいわ。あなたはフリッツにそっくりなだけじゃない。着ているものも全く同じ。靴についた擦り傷まで、何もかも同じよ。どうなっているの?」
「それは……」
フォルカーは言葉に詰まった後、袖をつかんでいたエルナの手をいきなり振り払った。
「きゃ……」
「ああ、もう……るせぇな! 俺がフリッツとあんたを助けてやったんだ。ぐじゃぐじゃ文句を言うな!」
苛立ったエメラルドグリーンの瞳。
脅すような荒い口調。
強い拒絶の姿勢。
エルナはびくりと身体を震わせると、後ずさった。
彼はフリッツではない——。
それを強く思い知らされ、同時に強烈な不安に襲われる。
「フリッツは……どうして戻ってこないの? 本当に無事でいるの? さっきの人に襲われていたらどうしよう。彼に何かあったら、わたし……わたし……」
言葉にすればするほど不安が膨らみ、押しつぶされそうだった。
何が起きているのか全く理解できない状況であっても、フリッツがこの場からこつ然と消えたことは確かだ。
嗚咽に邪魔されて、言葉が意味不明の音でしかなくなる。
両手で目を塞いでも、溢れるものは止められない。
「ち、ちょっと、おまえ!」
目の前に立つ男の、刺々しい気配が緩んだ。
「だって……、フ……リッツが……」
「あいつは間違いなく無事だ。俺が保証する。だから……あぁ、くそっ! 泣くな!」
後頭部に彼の手が回り、ぐいと引き寄せられた。
フリッツなら、優しく髪を撫でてくれるだろう。
けれどもフォルカーという名の彼は、とっさに自分の胸にエルナの顔を押し当てた後は、石のように固まって動かなくなってしまった。
「ほんと……に? 本当に、無事なの?」
「ああ。嘘は言わない」
ぶっきらぼうで硬質な口調だけど、どことなく優しく感じるのは彼と同じ声だから?
「だったらどうして、いなくなっちゃったの?」
すがるように黒いシャツの胸元を両手で握りしめると、彼の身体が驚いたようにびくりと揺れた。
その後はまた、身動き一つしなくなる。
「今は訳あって戻れない。それだけだ」
「本当に、大丈夫なのよね」
「心配するな」
「また……会える? お店に来てくれるわよね?」
「ああ。多分な」
フォルカーはフリッツとそっくりなだけでなく、彼のことをよく知っているらしい。
フォルカーの短い言葉は、ただの気休めではないと思えたから、エルナの不安は徐々に和らいでいった。
ようやく涙が止まったとき、後頭部を押さえつけていた手が離れた。
彼はエルナとの間にさっと距離を取ると、握っていた左手を開く。
そこから出てきたのは、金色の繊細な飾りに縁取られた青い宝石。
「これは、本当にあんたがフリッツからもらったものなんだな?」
念を押すような言葉には、どこか納得したような響きがあった。
もう彼が自分を疑っていないことを感じ取り、エルナはこくりと頷いた。
その首に、フォルカーがペンダントの鎖を回す。
「いいか。これは誰にも見られるんじゃないぞ!」
「どうして? 高価な品だから?」
「確かに高価には違いねぇが、そういう意味じゃない。ああっ、くそっ! これ、どうなってやがる」
彼の両手が鎖骨あたりでいらついている。
さっきから、鎖の留め具を留めようとしてくれているのだが、どうしてもうまくいかないようだ。
その小さな金具は、さっき自分も苦労しながら手探りで外したから、構造はなんとなく分かる。
エルナはくすりと笑うと、自分で留め具をかけようと手を伸ばした。
「それ、難しいのよね。わたしが……」
指先が彼の手に触れると、彼はびくりと身体を震わせた。
不思議に思って顔を上げると、エメラルドグリーンの目を大きく見開いた、フリッツと同じ綺麗な顔が、息が触れるほど間近にあった。
「きゃ……」
「うわあっ!」
小さな悲鳴を上げそうになったエルナ以上に、フォルカーが驚いた。
彼はばっと両手を離して二、三歩後ずさる。
「な、なんだよ! 急に!」
「え……と、あの、見ながらだったらわたしでも留められると思って」
声を荒げ、顔をしかめてそっぽを向く彼に、とりあえず言い訳してみる。
「だったら、自分でやれ!」
「うん」
エルナは小さな金具を指先でいじりながら、ちらりと彼の様子を窺った。
言葉遣いは乱暴だが、背中が妙に強ばっているし、髪の間から見える耳が赤く染まっている。
指先がわずかに触れただけであたふたする様子は、まるで純情な少年のようだ。
彼はフリッツそっくりな見た目よりも、ずっと、若いのかも。
そんなことを考えていると、彼の方も恐る恐るといった様子でゆっくりと振り返った。
いきなり目が合って、彼がぎくりと肩を揺らした。
「お、終わったんなら、早く言えよ!」
「あ……ごめんなさい」
「さっさとそれを服の下に隠せ」
「う、うん」
慌ててドレスの襟元からペンダントの飾りを滑り込ませると、ひやりとした金属の感触が素肌に触れた。
得体の知れない大きな謎を自分の中に取り込んだ気がして、ぞくりと身体が冷えた。




