世良田次郎三郎元信(三方ヶ原の戦い)
元亀3年(1573年)・武田法性院信玄、甲府を発し上洛を開始する。
この報告は徳川家のみならず織田家にもとてつもない衝撃を与える。
この報に喜び勇み兵を上げたのは室町幕府第15代将軍・足利義昭であった。
「信玄殿が京に入れば室町幕府の権威も復活し、皆が余にひれ伏すであろう!」
幕臣・細川藤孝に自慢げに言うのだが、藤孝が裏で織田家臣・明智光秀に相通じて義昭の素行を逐一信長に報告させていると云う事を義昭は全く知らなかった。
「やれやれ、公方様は何もわかっておられない、諸大名達は公方様にひれ伏すのではなく、信長殿や信玄殿の威光にひれ伏しているだけだというのに。」
藤孝は心の中でぼやくのであった。
武田勢は軍を大きく3つに分けて進軍してきた。
信濃国・諏訪から山県昌景が率いる約5千の兵が東三河へと進軍を開始した。
昌景は東三河の武節城を皮切りに悠々と南下し、長篠城を攻めた。
長篠城は東三河における重要な要塞の一つであったが、三河の徳川勢は家康のいる遠江と分断された形になり、家康からの指示も受ける事が出来ず、ただ長篠城の落城を指をくわえて見ている事しかできなかった。
昌景の支隊として秋山伯耆守虎繁が2千5百の兵で織田家の美濃領にある岩村城を包囲攻撃する。
この戦闘行為は正に織田家と武田家の軍事同盟が事実上破棄された瞬間であった。
長篠城を落とした山県隊が秋山隊に加勢し、岩村城も落城する。
この時の岩村城主は「おつやの方」という女性であった。
正式な城主と言われればそうではない。
岩村城の正式な城主は坊丸という信長の息子であり、彼女はその後見人として采配を振るっていたのだ。
おつやの方は信長からみたら叔母の位置に当たる存在であった。
虎繁はおつやの方を気に入り、「妻に迎える」という条件で岩村城とおつやの方の両方を落とした。
昌景と虎繁は岩村や長篠などに守兵を残し、その足で西遠江へと侵攻を開始するのだ。
一方、甲府から2万以上の軍勢を率いて諏訪を経由し青崩峠から遠江から入った武田信玄は四天王筆頭・馬場信春に5千程の兵を率いらせ、遠江に点在する小さな支城の露払いをさせた。
この時代一つの支城を攻略する時には平均的に一月近くの時を要するのだが、それを馬場隊と信玄本隊は一つの城を3日程度で次々と攻略していったのだ。
この武田軍の破竹の勢いには徳川侍たちの心胆を寒からしめた。
「信長殿の援軍はまだ来ぬのか!!」
武田の予想以上の勢いに焦る家康ではあったが、焦った所でいくら待っても信長からの援軍は来なかった。
それもそのはず、信長は今、武田軍を相手に戦う余裕が全く無かったのだ。
義昭が作り上げた信長包囲網を何とか食い破ろうと大坂本願寺や浅井朝倉の残存兵、そして信玄の上洛を好機と見て謀反を起こした松永弾正久秀を相手に信長は信長で畿内で必死に戦っていたのである。
そんな中、少しでも兵が惜しいはずの信長は佐久間信盛を大将として徳川家へ援軍を差し向ける。
大軍で悠々と押し寄せる武田軍に対し、織田家の援軍が到着しない中、徳川家康は浜松城で徳川家の筆頭家老・酒井忠次を議長として軍議を行っていた。
徳川の武将の多くは「織田家は徳川を見限った!今こそ武田に寝返るべきだ!」との声が多く聞こえた。
それもそのはず、盟友の信長に家康はかなり尽くしているといっても過言ではない、しかしこの窮地に織田家は援軍を送ってくれないのだ。
しかし徳川家康という男は慎重な男である。
まず疑問に思ったのは、なぜ武田軍がここ迄の強行軍を行うのか?ましてや12月という真冬に行ったのが不思議でならなかった。
12月は野営の際に兵に多大な負担をかける為、合戦を行わないのが常道であった。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
などと公言する信玄がその民衆に辛い思いをさせて迄上洛を急ぐ理由が家康には腑に落ちぬ疑問としてあったのだ。
無論、伊賀出身の服部正成に武田方の様子を調べさせていたところ、武田忍びの邪魔が入ったが、信玄は重い病に侵されているという風説があるという事を家康は掴んでいた。
ここで武田に寝返り、信玄が死んだとすれば徳川は新進気鋭の織田家を敵に回す事になる。
信玄を失った武田家はもはや恐れるに足りない。
四天王や二十四将は信玄だからこそ、まとめられたのであって息子の諏訪四郎勝頼にまとめられるとは到底思えなかったのである。
そして家康は織田家を無駄に敵に回すという愚行だけは避けねばならなかった。
そうこう考えている内に佐久間信盛が浜松へと到着する。
「信盛殿、よくぞ参られた!信長公におかれてはご壮健であられるか?」
信盛が答える
「わが殿に於かれましては畿内で数々の反乱が起きこれを平定した後武田と一戦交える覚悟にござります。」
家康は心の中で
「それまで三河と遠江が武田の手に落ちねば良いがな。」
とぼやくのである。
そんな家康の不満を察したのか信盛の言上を不服に思った徳川家臣団は信盛に文句をつけようとするが、家康はそれを制止し
「皆の考えは良く解った、後はゆるりと休むが良い、この後はわし一人で考える。」
家康は寝所へと向かった。
寝所へと向かう廊下の途中で家康は何とも言えない人の気配を感じる。
「何者かッ!」
殺気は全くない、しかしそれは不思議と懐かしい気配であった。
「へぇ、さすがは三河・遠江を平定した徳川家康様だ、よく気付きなさった。」
にやけ面の男がそこに立っていた。
家康はこの男を見た事があった。
しかしよく思い出せない。
歯がゆい思いをしていたら男の方から話しかけてきた。
「しっかし弥八郎から聞いてはいたが、これほど似ているとはね。」
典型的な日本人体型のその男、世良田次郎三郎元信が家康に語り掛ける。
家康も次郎三郎をどこかで見た事があると思えば鏡であると思い出す。
「その方、弥八郎の知己(知り合い)であるか?」
次郎三郎は家康の問いに答える。
「まぁ、知己というか、腐れ縁というか、まぁ弥八郎から聞きな。」
よく観ると次郎三郎の隣には三河一向一揆以来姿を見せなかった本多弥八郎正信がいるでは無いか。
「弥八郎!!徳川に戻ってきてくれたのか!?」
家康は弥八郎の姿に興奮し、戻ってきたと思い込み感涙する。
正信はそんな家康を制し
「殿、このお家存亡の危機に某の様な不忠者が戻ったとしても殿のお力にはなれますまい。」
正信が自分が今、戻ったとしても自分の策略を三河譜代の家臣が黙って意見を聞くわけがないと言っているのだ。
「そんなつまらぬ事を申す者達はわしがねじ伏せる!」
正信が「ありがたき幸せ」と家康に謝辞を述べ頭を下げる。
「しかしながら殿、私とこの次郎三郎で武田の陣中に潜り込みます。」
次郎三郎は正信のたっての願いを聞き届けた。
手をついて頭を地面にこすりつけ涙を流し、「家康の為に何か出来る事がしたい」という正信の心意気に次郎三郎の心が揺さぶられたのだ。
「しかし、弥八郎はわしの友ではあるが、次郎三郎と申したか?そなたは何故徳川に手を貸す?」
家康とてお家存亡の危機を目前に控えている、次郎三郎の酔狂を何かの確信が無ければ信用できないのだ。
「そうですなぁ、一つは弥八郎の心意気、これは間違いないでしょう。まぁそれで納得いかないと申されるなら、もう一つとしては何度も家康殿に謀反を起こした、俺の実家をその寛大な心で赦免した事への恩返しと言った所かね?」
家康は何を言っているのかわからなかったが、正信が補足する。
「この者、桜井松平家の松平信定様の次男で本名は松平元信という・・・」
と言いかけたところで、次郎三郎は「余計な事は言うな」と不機嫌になる。
「もう俺は桜井松平とも松平信定という男とも関わりない、家康殿も余計な詮索は無用に願いたい。」
家康はその言葉だけで充分であった、松平信定の子が何の因果かこの徳川の窮地を救ってくれるやも知れない、それだけでありがたかったのだ。
「俺たちは今、本願寺顕如殿の信任を受け伊勢長島に滞在している、顕如殿の使いとでも言い武田陣に入るのはさして難しい事では無かろう。」
家康は次郎三郎と正信の気持ちに頭を下げ礼を言うのであった。
「何卒よろしくお頼み申す。」
大名が一傭兵に頭を下げて願い請うのを次郎三郎は
「これはまたえらい度量の持ち主だな」
と好印象に評価するのだ。
次の日、浜松の軍議はその様相を一変した。
「皆の者、良いか?わしは今迄の人生を信長殿に賭けてきた、それはこれからも変わらない、今窮地にあろうとも最後まで信長殿にかけるのが無骨ではあるが三河武士の愚直さでは無いか?」
家康の決断であった。
徳川家臣団は家康の決定に否とは言えず、ただひれ伏すのみであった。
次郎三郎と正信は本願寺顕如の名代として武田本陣を見舞いに参じた。
「おぉ!そなたが雑賀孫一(鈴木重秀の事)と並び大坂孫一と名高い世良田殿か!!」
武田四名臣筆頭・馬場信春が顕如の名代である次郎三郎と正信を迎え入れた。
「顕如様におかれましては風説をいたく気にしており、信玄公に目通りかなわなければこの薬をお渡しせよと申しておりました。」
正信は薬を一粒のみ、毒では無い事を主張し、薬を信春に渡そうとする。
信春はそんな正信の薬をありがたく頂戴するのだが
「いやいや、御屋形様はご壮健にて、そなた達と面会したいと申しておる、特にかの松永弾正のど肝を抜いた大坂孫一殿の鉄砲の腕前を拝見したいと所望なのだ」
笑顔で答える信春に次郎三郎はかの有名な信玄殿に面通りできると喜んでいたが、正信は信玄が壮健であれば三河が危険に陥る可能性が高い事を悲嘆するのだ。
信春は本陣前に到着すると
「御屋形様、本願寺顕如様よりの陣中見舞いにて、かの名高い大坂孫一殿と本多正信殿がお着きにござります。」
中から腹に響く声が聞こえた。
「通せ。」
本陣の幕が開き黒地に金字で書かれた「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」意味合いは「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く」といった孫子の旗を靡かせ、その下に床几にゆるりと腰を掛ける軍配を持った男が座っていた。
諏訪法性兜をかぶり、赤い具足に茶色の僧衣を着くずし、白いひげを蓄えた黒い面頬を着けていた。
「お主が、顕如殿の文にあった大坂孫一殿か。隣が本多正信殿、二人で一人の名将であると伺っておる。わしが武田家当主・武田法性院信玄である。」
信玄は次郎三郎と正信に簡単な自己紹介をした、大名が一傭兵の次郎三郎と正信より先に自己紹介をするという事に驚き
「某は、本願寺光佐顕如殿と知己を得、各所の一向一揆に加勢する根無し草の傭兵で世良田次郎三郎元信と申します、こちらは本多正信、武田様のご丁寧なあいさつ誠に痛み入ります、お礼と言っては足りぬかもしれませぬが某の鉄砲の腕前を信玄様にご披露いたしたく。」
次郎三郎は信玄の挨拶への返礼として鉄砲の腕前を披露する。
「さて、某は何を撃てばよいでしょう?」
信玄に尋ねた。
信玄が面頬の中でにやりと笑った気がした。
信玄は尾張の方向を軍配で示した、その先には約三千五百尺(約一㎞)の所に織田木瓜の的が用意してあったのだ。
「孫一殿にはあれを打ち落とせるかね?」
信玄は次郎三郎にそう言い次郎三郎を見る。
武田の将兵も次郎三郎に注目する。
当時の鉄砲の射程距離は約半分の千七百尺(約五百m)程度であったのだ。
次郎三郎は「これは試し打ちにはいい機会だ」と鈴木重秀に餞別としてもらった長距離鉄砲を取り出し、織田木瓜の的を静かに見つめる。
次郎三郎は息を深く吐き、一瞬息を止め
「ズドン!!」
と鉄砲を放った。
見事三千五百尺先の織田木瓜は砕け散った。
その場にいた武田軍の全てが口を開けたまま放心していた。
馬場信春は次郎三郎の馬鹿げた腕に大笑いしながら次郎三郎の肩を叩き、信玄は織田木瓜の的を見たまま手を叩いていた。
「なるほど、流石は大坂孫一と呼ばれるだけはある。」
信玄の率直な感想であった。
次郎三郎と正信は武田軍に伊勢長島より預かった鉄砲500丁を武田軍に陣中見舞いとして進呈し、武田軍を後にした。
本多正信は帰り道に落胆しながら次郎三郎に問いかける。
「信玄殿は壮健であった、徳川の行く末はもはや風前の灯火であったか。」
次郎三郎は正信に答えた。
「帰りに徳川殿の所に寄っていくか。」
正信は次郎三郎が自分に気を利かせ最後の別れをさせてくれるのだと思った。
浜松城は武田家への軍議で朝から夜まで延々と続けられていた。
次郎三郎と正信の来訪にいち早く気付いたのは服部正成であった。
正成が次郎三郎の顔を見て「殿・・・?」と家康と一瞬見間違える。
正信が自慢げに
「正成、久しいな?殿に似ているであろう?」
と次郎三郎を紹介する。
「それより殿と繋いで貰えぬか?内々の話があるのだ。」
正信は正成に伝えた。
正信は徳川の忠臣の一人である事は正成も承知であった。
正成は家康に確認を取りに行く。
「弥八郎が参ったと?」
家康が正成に確認する。
「はい、殿に瓜二つな人物を連れ浜松城の門前にてお待ちです。」
家康は正信が武田の陣で何を見て来たのかを知りたかった。
「奥の間へ通せ。」
家康は正信の所に忍んで行く。
正信は開口一番家康に伝える。
「殿!最期に殿の傍に仕える事をお許しいただきたく!!」
と武田陣中で見聞きしたことを家康に伝えた。
家康も信玄が壮健であるという事実に顔を青くし、病で動けないという噂を信じていた、いや信じたかった事実が覆された事に絶望をした。
そんな暗い空気を突き破る様に次郎三郎が言い出す。
「皆、悲観的だねぇ、心配いらないよ、信玄殿は死病に侵され間もなく世を去るよ。」
そこにいた全員が驚く
「次郎三郎!それはどういう事だ!信玄公は壮健ではなかったか!」
次郎三郎はそんな正信の問いかけに答える。
「弥八郎、お主は信玄公の顔を見たか?信玄公は面頬で顔を隠し、いかにも信玄公の評判をそのまま姿形にしたようなものでは無かったか?」
次郎三郎の言い分にそういわれれば、信玄公らしい姿形をした者は見たが信玄の顔は見てはいないと正信も気づいた。
「しかし次郎三郎、何故それが信玄公の重病と繋がるのだ?」
正信は次郎三郎に問いかける。
「俺たちは仮にも顕如殿の使いだ、その顕如殿は信玄公と義兄弟にあたる。その使いに面頬を着けたまま会談するのはおかしいだろう?それに馬場美濃守殿と信玄公を比べてみたら将としての器量が全く違ったでは無いか、弥八郎は信玄公の影武者に緊張しそれを見抜けなかった様だがな。」
次郎三郎は笑いながら言う。
「徳川殿、ここは忍の一手だ。信玄公は間もなく死ぬ、恐らくもう口も碌に聞けまい、何があっても武田軍と干戈を交えてはならぬ、信玄無くとも馬場美濃守は強敵だ。」
家康は次郎三郎の鋭い観察眼と先見の明に驚いていた。
「まさか桜井松平家にこの様な麒麟児がいたとは」
次郎三郎はそんな家康の言葉を笑いながら聞き
「麒麟児とはとんでもない、俺はただの根無し草の傭兵稼業だよ」
そういって伊勢長島へと帰っていくのであった。
正信も次郎三郎のその言葉を聞き安心したのか、次郎三郎と共に伊勢長島に戻るのである。
武田軍は何より上洛を急いでいた。
理由は信玄の命の灯が消えようとしていたからである。
次郎三郎と正信が会った信玄は彼の影武者で実弟・武田逍遙軒信廉という人物であった。
彼は武より文に優れた人物であり、采配は馬場美濃と信廉で相談し振るっていたが、信玄の様な切れは無かった。
元々信玄の影武者はもう一人の弟が勤めていた。
それが武田典厩信繁という弟であった。
彼は文武に優れ、信玄に引けを取らない将器の持ち主であったが何よりも兄である信玄を尊敬し慕っていた。
彼らの父である武田信虎は信玄を忌み嫌い武田の家督は信玄ではなく信繁に譲ろうとした程父から愛された信繁は信玄と共に信虎を駿河へと追放する。
その際、信繁は改めて信玄に絶対の忠誠を誓っていた。
彼は嫡男・信豊に常々信玄には絶対に逆らわず、どんな命令も必ず聞くようにとの言葉を残している。
そんな信繁は第4次川中島の合戦で上杉軍に討ち取られてしまう。
信玄はその亡骸を抱いて号泣したという。
敵である上杉謙信も信繁の死を悼んだ。
歴史にもしは無いのだが、もし信繁程の影武者が生きていたら武田家の上洛作戦は変わった結果になっていたかもしれない。
そして話は戻る。
もはや信玄の命は短く、何より瀬田に「風林火山」の旗を立てるところを信玄に見て欲しい武田軍は浜松城を素通りし兵を三方ヶ原方面へと兵を進める。
その際、武田軍は徳川軍が追撃してくる可能性を考慮し、合流した山県昌景と馬場信春を主将とし、万が一浜松を出た家康はしっかりと討ち取る為に信玄の本陣は先に進ませ、本陣後方に魚鱗の陣を敷いた。
徳川家臣団は武田軍が「徳川なぞを取るに足らず」と虚仮にされたと怒り心頭になり、家臣団は皆、出陣を主張しはじめる。
家康と忠次はそんな徳川家臣団を諫めるが、若い家臣はもはや止まらず致し方なく家康は出陣を決める。
忠次には浜松城の守将を任せ、家康は先陣を切って出陣する。
家康は本多忠勝を護衛とし、三方ヶ原に兵を繰り出す。
武田軍の予想に反した魚鱗陣に対し徳川方は鶴翼の陣で臨んでいた。
魚鱗陣は突破に優れた型の陣形で家康を確実に仕留める為の陣であり、また徳川方の鶴翼の陣は、鶴が翼を大きく広げ両翼で包み込むような形で兵を動かしすりつぶす陣形であった。
鶴翼の陣は兵が多ければ多いほど魚鱗陣で抜かれる心配はあまりないのだが、徳川方の兵力と武田方の兵力に差はあまりなく、武田騎馬隊の精強な軍勢を率いる馬場美濃が魚鱗陣の先頭で徳川鶴翼陣で兵の薄い場所を見抜いた時、魚鱗陣は一つの矢のように徳川陣を分断し徳川軍はその一撃で散り散りになってしまい、撤退を余儀なくされた。
徳川方の撤退戦はそれはもはや悲惨の一言に過ぎた。
家康の諫言を聞かず出陣した三河武士は家康の鎧兜を脱がせそれを着用し
「我こそが徳川家康也!!!出会いそうらえ!!」
などと家康の影武者が大勢出現し、武田兵はその一人一人を打ち取っていった為、本物の家康は方々の体で浜松城へ帰り着いた。
武田軍は転進し浜松城へ向かうが、浜松城を囲んだ時、武田の軍勢は動きが止まった。
酒井忠次は浜松城の城門を開け放ち、篝火を煌々(こうこう)と焚きしめ「空城の計」を謀った。
空城の計とは敢えて敵を自陣の奥深くにおびき寄せ敵の警戒心を誘う計略なのだが、今の徳川にはそれしか出来なかったのだ。
しかし現実に優勢であったはずの武田軍が進むのを止めた。
これは忠次の空城の計に警戒したからでも、手心を加えたからでもなく、その理由はたった一つ。
信玄の容態が急変したのだ。
遠江にいた武田軍はそれまで浜松城を囲んでいたのが嘘のように撤退し綺麗さっぱりいなくなり、駿河方面に向かっていった。
その時、信玄は正に死の淵にあった。
武田の重臣・馬場信春と山県昌景、そして諏訪四郎勝頼を死の間際に呼び出し一言告げる。
「わが死を3年間秘するべし。」
武田軍の引き際は素早かった。
疾きこと風の如しと言わんばかりに武田軍は甲斐に戻り、信玄の死は徳川家から織田家に伝わった。
信長はまたしても絶望的ともいえる危機的状況を乗り切ったのだ。
「なんやって!?晴信はんが死んだっちゅうんか!?こらあかんでぇ、信長はんと和議の準備をしとき!」
本願寺顕如もその報には驚きを隠せなかった、また顕如は次の手も打っておく。
何も知らないのは足利義昭ただ一人である。
「はよう、武田殿が上洛し、余と共に日ノ本を安寧に導かねば!」
などと気楽に信玄の到着を待っていた。
信玄の上洛に呼応して蜂起していた伊勢長島一向一揆宗は烈火の様な戦いをしていた。
織田家は北伊勢に信長を初めとする羽柴秀吉、丹羽長秀といった将と数万といった軍勢を繰り出していた。
門徒宗と織田軍は血で血を洗う戦いを繰り広げているのである。
「南無阿弥陀仏!進めば極楽!引けば無間地獄!」
この掛け声と共に進み来る異常な一般門徒宗の後方に次郎三郎と正信が率いる鉄砲隊が織田家の武将を狙っていた。
次郎三郎と正信は何名かの小頭を討ち取ったところで一旦、織田軍が謎の撤退をし、伊勢長島は事なきを得る。
「弥八郎よ、此度、織田方の撤退が随分早いと思わぬか?」
正信もこの意見には賛成であった。
「何かしらの意図を感じたが、そなたは何だと思う?」
次郎三郎は空を眺めて呟いた。
「巨星が落ちたか。」
正信は巨星の意味するところが武田信玄であると即座に理解した。
「ならば何故、織田軍は伊勢長島から撤退したのだ?今こそ伊勢長島を潰す絶好の機会では無いか?」
次郎三郎は撤退する信長の軍勢を睨みつけ
「信長公は一度体制を整えて万全を期し伊勢長島を徹底的に潰す気だ。」
正信がその時期を読む。
「と言う事は来年あたり大きな戦があるか。」
正信の読み通り、翌年信長は大動員令を出し伊勢長島の一向一揆を根絶やしにする決意をする。
伊勢長島に籠っていた一向一揆の門徒は10万名余りに膨らんでいた。
これに対する信長の軍勢は約8万、それも精強な若い男の兵士を8万を揃えたのだ。
伊勢長島の10万は門徒の集まりであり、当然中には女子供や老人たちが含まれていた。
織田家の軍勢は鉄砲で一向宗徒を威嚇し10万の門徒宗を無理やり伊勢長島へと押し込んだ。
それからは応戦してくる門徒を遠巻きに鉄砲を射掛け少しずつ殺害するという兵糧攻めに出たのだ。
次郎三郎は伊勢長島砦の上に登り
「奴さん本気で伊勢長島の一向宗を全滅させるつもりだなぁ。」
正信が余りにも呑気に語る次郎三郎に
「何呑気な事を言ってるのだ!これでは我々も殺されるぞ!?」
と次郎三郎を怒鳴りつける。
そんな心配そうな正信を見て次郎三郎は
「心配しなさんな、いざという時には俺の鉄砲隊で風穴を開けそこから門徒宗を少しでも逃がすよ、それに紛れ俺たちも逃げれば良い。」
と気楽に言うのだ。
10万の門徒が食い扶持に困るのに時間はさほどかからなかった。
門徒宗は押し込められた空間の中で10万もの人間が食べられる米をそこまで蓄えていなかった。
伊勢長島の門徒宗は牛馬は勿論の事、死んだ人間まで喰う始末であった。
信長はそんな本願寺衆の精神的限界を見極め門徒代表に手を差し伸べ和平の場を用意する。
これは宗教を語る武装集団を殲滅する為の口実であった。
「これは一向宗は乗ってしまうな。」
悲しそうな顔をして次郎三郎は語る。
「乗ったらどうだというのだ?」
正信が次郎三郎に尋ねる。
「恐らく皆殺しにするであろうな。」
正信は真っ青になり次郎三郎に詰め寄る。
「ならば止めねばなるまい!!」
次郎三郎が正信を制止し悲哀を込めて言う。
「ではお主に10万の人間を食わせる方策があるのかね?」
正信はその次郎三郎の問いかけにハッと感づき動きを止める。
「どうしても止める術はないのか?」
次郎三郎は無言で首を横に振る。
「俺は自分が助けられるだけの人間しか助けることが出来んよ。」
本願寺と織田家の和議は成立し、伊勢長島を退去する事により伊勢長島一向宗は助命を許された。
筈であった。
門徒衆が伊勢長島砦を放棄し舟を使い城から出て投降していくと不意に
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドン!!!!
何千丁という鉄砲が一向宗の門徒達に向かい火を吹いた。
その鉄砲の轟音はまるで落雷の様な、地鳴りの様な、なんとも言い難いものであった。
その轟音は門徒達を次々と撃ち殺した。
この行為に驚いた門徒達は頭が真っ白になった。
徐々にこの音が鉄砲の音であり、今まさに同胞が殺されている事実に気付いた門徒達は逆上し、近くにあった武器とも呼べない棒や石などを手に取り織田軍に立ち向かっていった。
「そろそろ俺たちの出番だな。」
次郎三郎の周囲にはいつの間にか鉄砲隊が揃っていた。
「さて、始めようかね?」
次郎三郎は大坂本願寺で仕込んだ鉄砲隊200とは別に、伊勢長島で鉄砲隊200を鍛えていた。
次郎三郎はその200の鉄砲隊を引き連れ織田家の撹乱作戦を開始する。
鉄砲隊は次郎三郎の指示でゲリラ戦法を取る。
次郎三郎は鉄砲隊が作り上げた隙を突き多くの織田家の武将を討ち取った。
織田信次、織田信直、織田信広、織田信成、織田信昌、織田秀成等織田信長の親類を次々討ち取り織田軍を大混乱させた。
「あれは!?」
次郎三郎が目の前に立ちはだかったのは黒鉄の南蛮胴を着込み、孔雀の羽根を一枚付けた西洋の帽子である「ハット」をかぶり、また西洋のマントを翻した信長が居たのだ。
流石の次郎三郎も信長に手が届くとは思ってもいなかった。
次郎三郎は迷わず信長に鉄砲の標準を合わせる。
信長は軍勢の再編成と指揮系統の確認、及び戦線の状況を報告するように近習と馬廻りに怒鳴っていた。
信長は普段から声が高い方であった。
それが怒鳴る時には特に甲高い声を上げる。
次郎三郎はそんな信長を静かにそして獲物を狙う猛獣の如く睨みつけ、信長を撃つ機を伺う。
そんな事をしていたら次郎三郎の鉄砲が雲の切れ間に見えた月の光に反射し少々光った。
信長はそれを見逃さなかった。
次郎三郎の方を睨みつけ、次郎三郎と信長は目が合ってしまったのだ。
信長の目は燃えるような眼をしていた。
次郎三郎はその目を見て唖然とした。
家康の時にも感じなかったギラギラした目、何かを目標として突き進む覇者の目である。
「この男には俺は勝てない!」
そう心の中で感じた次郎三郎の標準は無意識に下がってしまい、そのまま重力で引き金が引かれてしまった。
ズドン!
鉄砲の弾は信長の太ももに命中し信長は馬から崩れ落ちる。
周りの小姓は必死に信長の盾となり、撤退していった。
「次郎三郎!信長を撃ったのか!」
正信が興奮気味に聞いてくる。
「いや、太ももを撃っただけで致命傷にはなるまい。織田信長、あの男は俺程度の男に殺せる男じゃなかったよ、国を背負って戦う男の目とはあのように燃えているのか。」
次郎三郎は信長と己の格の違いを見せつけられたのだ。
己はただの歯牙無い、根無し草の身軽な傭兵稼業、それに対し信長は古い体制の国に対して戦を挑んでいる、いわゆる改革の覇者である。
その両者の生き様は格の違いとしてハッキリと表れたのだ。
次郎三郎は信長を殺害する事が出来たのだが、殺せなかったのだ。
これは矛盾していると思えるがそうではない。
自然界で本能的に弱い者が強い者に服従するが如く、信長の目の炎は絶対強者のそれであった。
次郎三郎は心の奥底で信長に負けたのだ。
しかし次郎三郎は全く悔しくなかった、それどころかどこか清々しい気持ちすらあった。
200の鉄砲隊で信長の包囲に風穴を開け、一部の門徒達をそこから逃し、伊勢長島の一向一揆を期に次郎三郎と正信は歴史の表舞台から一時身を潜める。
次郎三郎は伊勢長島で鍛えた200の鉄砲隊の隊長である左腕と言ってもよい津田月信という配下と大坂で別れた布施孫兵衛を連れ紀州の根来寺の周囲に潜伏し、鉄砲の腕を磨く事にする。
傭兵稼業をしながら金を溜めて鉄砲を購入し戦に参加するという日々を続けた。
この傭兵生活は天正10年(1582年)まで続く事になる。