世良田次郎三郎元信(信長包囲網)
元亀元年(1570年)
金ヶ崎から命からがら落ち延びた信長に大坂本願寺の蜂起の知らせが舞い込む。
大坂本願寺では本願寺光佐顕如を始め坊官達が門徒を鼓舞していた。
「やったるでぇ!弾正忠(織田信長の事)はんはこの皆の心の拠り所であるわいら本願寺を解体せいっ言うて来たんや!このまま弾正忠の良いようにさせとったら皆おまんま食い上げやさかい!ここは南無阿弥陀仏の精神で弾正忠に目にもの見せたろやないかぁ!!」
顕如の檄に門徒が呼応するように叫びだす!
「皆は死んだかて南無阿弥陀仏の為に戦う戦士や!仏さんが皆の事を極楽浄土へ案内してくれるさかい!安心して思う存分、一緒に戦ってくれ!」
顕如は門徒宗を煽るだけあおりその場を坊官に任せ、本堂へ向かう。
「して弾正忠はしぶとく金ヶ崎から帰って来おったっちゅうのはほんまかいな?」
下間頼廉が黙って頷く。
「かぁッ!浅井はんも朝倉はんも口先ばっかりやなぁ!頼廉!頼旦に伊勢長島に出向くよう命令や」
頼廉は「私では無いのですか?」と顕如に伺う
「頼廉にはわいの名代としてあちこち行って貰わなあかん、頼旦に軍資金と武器弾薬、それと米もしこたま持たせ伊勢長島に行くように言ったってや?」
頼廉は「畏まりました」と顕如の言葉に従い頼旦の所へと向かう。
「ジローちゃん、やはっちゃん、大坂出んなら今しか機会はあらへんでぇ?」
次郎三郎はそんな顕如の言葉を笑い飛ばす。
「顕如さんよ、それこそ水臭いんじゃないかい?弥八郎はともかく俺は帰るつもりが全く無い家はあるが根無し草の身だ、それに世話になった一向衆への恩返しに一揆に参加するのも一興って奴だよ。」
そんな次郎三郎の言葉を聞き本多正信も答える。
「顕如殿これまでの恩情はこの正信とて忘れてはおりませなんだ、それにわしには次郎三郎を必ず生かすという心に決めた使命がござります、御心配には及びませなんだ。」
顕如はその言葉を聞いて
「ほんまありがたい話やで、今回の戦は弾正忠が力を取り戻せば、いわゆる勝ち目がない戦や、一回目は和睦に応じるやろ。こっちには公方さんの密書もある事やし。」
その事実を聞いた正信は驚く
「此度の金ヶ崎から今までの流れは義昭様の書かれた絵だったのですか!?」
次郎三郎に特に動じた様子はない。
それは次郎三郎にとってこの戦が誰がどのように起こしたのかと言う事に興味が無かったからだ。
そこに戦があるから鉄砲を持って参加する。
次郎三郎にとってはそれで十分なのである。
「あぁ、今回の件は公方はんの書いた絵や、ジローちゃんとやはっちゃんは一度目の和議の際に大坂を出るんや。」
次郎三郎はその言葉に耳をピクリとさせた。
「勘違いせんといてな?わいは二人の実力を高う買うておる、せやからこそ、伊勢長島の方に援軍に行って欲しいんや。」
次郎三郎は「伊勢長島に?」と顕如に聞く。
「せや、伊勢長島には今回、下間ん所の頼旦っちゅうのを行かせたが、頼旦だけでは心許ない、ほんで二人にも援軍に行ったって欲しいんや。」
次郎三郎は「わかったよ」と手をひらひらさせ顕如の言う事に従う事にする。
正信は次郎三郎の行く所には必ず着いて行くので拒否権はない。
顕如は本願寺の旗を作らせる。
その旗には「進者往生極楽、退者無間地獄」という過激な文言が書かれていた。
ぶつぶつと南無阿弥陀仏と唱えながら絶命する瞬間まで進んでくる本願寺門徒の姿は織田勢に恐怖を植え付けた。
顕如は同時に雑賀衆にも援軍を要請。
その内の一隊は次郎三郎が率いた。
正信の策略と次郎三郎の戦ぶりは本願門徒を勇気付け、また雑賀衆は重秀に聞いてはいたが、次郎三郎の鉄砲に対する見識の深さに驚かされるのだ。
顕如は自らの名代として下間頼廉を安芸国の覇者・毛利家へと派遣し、同盟を結ぶように要請を出す。
「わし等と手ぇ結びたいって事でええんじゃな?」
毛利の宿老・吉川元春が頼廉に凄む。
「兄者、頼廉殿も本願寺の使いじゃけぇ、将軍様の息がかかっちゅう事じゃ、失礼な振る舞いは控えるべきじゃ」
こちらの冷静な武将も毛利の宿老で名を小早川隆景といった。
毛利家の内情は今現在、実質的に吉川元春と小早川隆景がその政務を取り仕切っていた。
元春と隆景の補佐として福原貞俊・口羽通良といった重臣が支えている。
毛利の外交は僧侶で口が達者な安国寺恵瓊が一手に担い、若き毛利輝元を支えていたのであった。
この時、中国地方の雄・毛利元就は74歳であり、病床にあった。
輝元は元就が病床に就くまでは毛利家の一切を元就に相談していた。
しかし自分の体は自分が一番よくわかるという。
自らに衰えを感じた元就は、元春、隆景、貞俊、通良、恵瓊を奉行とし元就の代わりに輝元を支える体制を作ったのだ。
毛利輝元この時若干17歳、大毛利家を輝元一人で運営出来る訳も無く、輝元も己がまだ修行中の身である事を叔父である吉川元春と小早川隆景を見て痛いほどわかっていたので政務の殆どはこの二人に任せていたのだ。
吉川元春と小早川隆景は元々は毛利を名乗っていたれっきとした元就の息子である。
元春は吉川家に、隆景は小早川家に養子に出され、毛利元就はこうして吉川家、小早川家との繋がりを強固にしていった。
元就が老いたのは嫡男である毛利隆元が謎の死を遂げてからであった。
所領拡大を目指す元就は出雲で尼子氏と戦い、九州には隆元を派遣し、九州戦線を任せていた。
永禄3年(1560年)に尼子晴久が没すると急速に尼子氏の勢力が衰え始めた。
九州戦線を受け持っていた隆元は幕府の仲介を得て大友宗麟と和議を結び、長門国から周防国、安芸国へと抜け、備後国に入った時に事件は起こった。
隆元は備後で和智誠春の饗応を受ける。
事件はその翌日に起こった。
先日まで壮健であった隆元が急死したのだ。
隆元の急死は元就に大きな衝撃を与えた。
元就はこの隆元の死をきっかけに急速に老いさらばえていく。
元就は当座の行いとして毛利家の家督を隆元の嫡男・輝元に継がせる。
五奉行制を取り入れたのはこの時だった。
輝元を当主としていたが、基本的な政策や軍事は元就が後見していた。
しかし、本願寺が毛利家に援軍を求めて来た時には既に元就は病床にあり、確実に弱りつつあった。
輝元は元春と隆景を従え元就の居室へ伺う。
「御屋形様、此度足利将軍家より本願寺に援軍せよとの御言葉がありましたけぇ、如何いたしたものか御屋形様の御言葉を聞きたいんじゃ。」
輝元が恭しく元就に伺う、それに対し元就は弱々しく、しかし戦国武将ならではの覇気を含ませ答える。
「援軍は良え、じゃがの毛利家は天下を狙ってはならねぇ、それだけは忘れんな。」
輝元と元春、隆景は病床の元就に平伏し、部屋を後にする。
「わしは手始めに村上水軍で大坂に上がるけぇ」
小早川隆景が先陣を村上水軍と共に大坂本願寺に向かう。
顕如は引き続き大坂本願寺から下間仲孝に武田晴信への密書を持たせ甲斐へと向かわせた。
「そうか、確かに義昭殿と顕如殿の連署とあればわしが動かぬわけにはゆかぬな。」
武田晴信。
戦国最強の騎馬軍団を率い、越後の龍・上杉輝虎に対し甲斐の虎と言われる程の戦国大名であった。
「もし武田様が合力下されば弾正忠なんぞあっという間に逃げ出しますさかいに。」
仲孝が晴信に申し出るが、晴信の表情は全く動かない。
そもそもこの武田晴信という男は滅多に感情を表に出す事をしない男であった。
喜怒哀楽といった感情からも敵は自分が何を考えているのか察する者もいるからである。
感情というものは用兵にも表れるようであり、そういった感情の機微を読んで攻め込んでくるのが上杉輝虎という男であった。
晴信は輝虎と干戈を交える毎に、最初は互に原石だったものが徐々に玉の域へと達しつつあった。
「しかしながら誠に遺憾ではあるが、今、わしはこの甲斐を離れる訳にはいかぬのだ。」
仲孝は晴信の言葉に驚いた
「なんででっか!?理由を聞いてもよろしいでっか?」
晴信は仲孝を一瞥し、「その方に言うてもどうにもならん」と言い残し謁見は終了した。
信長は元々、武田家と事を構えるつもりは毛頭なかった。
晴信とその晴信に使われる武田二十四名臣たちは戦国最強の軍勢とまで謳われていたからである。
その中でもすさまじい戦果を挙げていたのが、馬場美濃守信春彼は「不死身の鬼美濃」と呼ばれ戦に出れば勇猛果敢に戦うが死を恐れず敵陣を喰らう為「不死身」などとあだ名されていた。
山県三郎兵衛尉昌景、彼は真紅の鎧を纏った武田の花形である赤備えを率いて武田の先陣を切り開き続けている男であった。
内藤修理亮昌豊、彼は第4次川中島の合戦で本隊に所属し妻女山の上杉輝虎の本陣を奇襲する別動隊の大将の役目を仰せつかったり、小荷駄隊の指揮や箕輪城代を務めたりと先陣などでは無いが大事な戦の裏方を支える武将であった。
高坂弾正昌信彼は「逃げ弾正」と呼ばれる程に退き陣が得意であった、家康と秀吉と光秀が決死の思いで金ヶ崎から退き陣を戦ったのは記憶に新しいが、昌信は戦の終盤に全員を生かして帰すように努めて戦をするのが得意な将なのだ。
また昌信は海津という戦略的に重要な地の守りも任されていた。
この海津という土地は上杉領である越後と武田領の北端である信濃の境目にあり、上杉輝虎が越後から出陣した際に真っ先に攻められる城であった。
昌信はそういった重要な要衝を任されていたのだ。
信春、昌景、昌豊、昌信、この四名は後世に於いて、とりわけ武田四天王とあだ名され、恐れられていた。
この四名はそれぞれが武勇と知略と政略に優れ、一人一人が一国一城の主であってもおかしくない程に優秀な将であったにもかかわらず、晴信への絶対的忠誠を誓っていた。
武田家とは、武田晴信を頭脳とし優秀な将兵がその戦術、戦略を一糸乱さず遂行する事により、戦国最強の名をほしいままにしてきた大名家なのだ。
そんな晴信の耳には武田家子飼いの忍び衆から常に新たな情報が集まってくる。
その中に「織田弾正忠、上杉輝虎に接触あり」という報告があったのだ。
信長は常に晴信の機嫌を取り、顔色を窺っているが、今回の度重なる敵達に対し、義昭が裏で動いている事に感づいたようで、万が一にも晴信が甲斐から出てこない様に越後の上杉輝虎に進物と使者を送ったのだ。
「中々喰えぬ小僧よな」
晴信はそんな信長の先見性を認め、上杉への工作がうまく行ったかはわからないが、上杉が海津に出て来た時に自分が甲斐に居なければ武田が終わると判断し、この度の出陣は控えたのだ。
そんな事とは露知らず、仲孝の帰路の足取りは重かった。
「はぁ、どないしたらええんやろ?だいたい顕如はんの奥方は晴信はんの奥方と姉妹やったんやなかったんかい!?姉妹だけに話はおしまいや!はぁ、アホらし、はよ大坂戻って顕如はんに報告せなあかんな。」
仲孝の言う通り顕如の妻と晴信の正妻は姉妹であった。
両者とも京の公家である三条家の三条公頼の娘であり、顕如と晴信はいわば義兄弟の仲であったのだ。
本願寺派の法主は覚如(親鸞の玄孫)の時代から今迄延々と続く世襲制であった。
本願寺中興の祖と謳われた蓮如に至っては第五夫人までいたと言われている。
こうして本願寺は現在の顕如に至るまで妻帯し、子孫に法主を継がせてきたのであった。
大坂に戻った仲孝は顕如に事の次第を報告する。
「そらあかんなぁ、弾正忠はんがなんぞ絡繰りを仕掛けおったやもしれへんなぁ。」
顕如は上を向き手を顔に当て困った表情をする。
「まぁ、そんならそれでこっちはこっちの都合で戦をしましょか。」
顕如は頭の回転が速い男である。
一の策が駄目なら二の策に移行するだけの話なのだ。
「三好の三人を使いましょか、仲孝はん、三好の三人焚きつけたってや。本願寺が援護しますさかいにとか言うて。」
仲孝は「顕如はん堪忍したってやぁ今甲斐からかいってきたばかりやないかい!」と下らない駄洒落を言いながら、三好三人衆を焚きつけに行く。
三好三人衆は仲孝の口車に乗せられ蜂起する。
三好長逸は摂津中嶋城にて、三好宗渭は居城の山城木津城にて、岩成友通は山城淀城でそれぞれ兵を上げた。
これを討伐する為に信長は摂津福島に陣を張った。
これは信長の本願寺に対する挑発でもあった。
散々要求を突き付けてきた信長が大坂本願寺の目と鼻の先にいる。
「ええ度胸や無いか!その根性、嫌いや無いけどなぁ!漢の面は一度嘗められたらお仕舞なんやで!!行っくでぇ!!!」
大坂本願寺の大手門が重々しく開かれる。
「いてこましたれぇ!」
顕如の掛け声とともに一揆衆が摂津福島の信長本陣に突っ込んでいく。
信長はこの突撃を予測していたかの如く鉄砲を撃ち掛けてきた。
「放てぇ!!」
明智光秀の鉄砲隊が金ヶ崎の疲れも見せずに本願寺の一揆衆に鉄砲を射かける。
その音は正に地面が揺れているかの様な轟音であった。
鉄砲に出鼻を挫かれた顕如は一旦撤退を決めるが、鉄砲の恐怖に一揆勢が混乱し、軍の統率が取るに取れなくなっていた。
そこを狙いすましたかのように織田家筆頭家老の柴田勝家とその与力・前田利家が兵を率いて混乱していた門徒達の命を刈り取る。
門徒宗は恐慌状態に陥っていくが、そこを正信が兵の混乱回復に尽力し、次郎三郎が率いる鉄砲隊は確実に敵将を討ち取っていった。
敵将と言っても名のある武将ではなく足軽大将や侍大将くらいの者で織田家の中にあり名の知れた武将といった者は次郎三郎が展開した方面には運よくいなかったのだ。
この大坂の本願寺の蜂起は後に「石山合戦」と呼ばれ長きにわたり信長を苦しめるのだが、その話はおいおいしていく。
一度冷静さを取り戻した一揆勢は顕如の指示の下、淀川を背に織田勢と対峙した。
そして合戦の火ぶたは切って落とされる。
淀川を背にした一揆勢は正にに背水の陣で戦に臨むであろうと織田勢の誰もが予測していた。
しかし、一揆勢は決死隊を結成し織田勢に斬り込む兵と大坂御坊へ帰陣する兵とに分かれ、顕如は帰陣の兵の指揮をとった。
逆に頼廉が斬り込み隊の指揮をとり、その援護に次郎三郎の鉄砲隊200が後方に控えた。
斬り込み隊の仕事は顕如たちが大坂に帰り着くまでの時間を稼ぐ事。
次郎三郎は手ずから育て上げた200の鉄砲隊に敵の指揮官を狙うように指示し二名は次郎三郎の傍にあり、鉄砲の準備をし打ったら次の鉄砲を渡すという役割を担っていた。
これは後に織田信長が長篠の合戦で武田騎馬隊に使った戦法とされる「三段撃ち」の原型ともいえる手法である。
この頃、次郎三郎の弟子の中にも片腕とも呼べる鉄砲の上手が居た。
布施孫兵衛と名乗るこの男と鉄砲隊200は次郎三郎に文字通り生涯ついていくのだ。
頼廉がその任務を終え、決死隊を少しでも生かしながら大坂に戻るために退却を始める。
次郎三郎が叫ぶ
「孫兵衛!鉄砲兵100で頼廉殿の退路の援護を任せるぞ!!」
孫兵衛は次郎三郎に伺う
「大将はどうなさるんで!?」
次郎三郎はにやっとして
「俺は残りの100を連れて鉄砲隊の殿を務めるさ!」
孫兵衛は次郎三郎の悪運の強さと鉄砲の腕を信頼していた故何も言わず指示に従う。
結局本願寺は劣勢のまま戦を終え大坂に籠城の構えを敷いた。
次郎三郎は頼廉や顕如からそれはもう感謝され、金子を送ろうとするが、次郎三郎は自分と正信が使う必要以上の金子を受け取らず、自分の率いた兵に残りをすべて均等に分けさせた。
そういった行為も鉄砲隊200名を次郎三郎に惹き付ける理由でもあったのだ。
籠城を初め、織田勢が大坂に攻め込んでくるかと思いきや、信長は今あまりにも敵が多すぎた為、本願寺とは和睦の道を選ぶ。
朝廷に働きかけ、本願寺に矛を収める様に勅書が出され、第一次石山合戦の大坂本願寺は終結する。
しかし金も米も武器弾薬も豊富な伊勢長島は勢いに乗っていた。
なんと尾張の古木江城を落とし、城主であった信長の弟である信興を自害にまで追い込んだのだ。
家族思いの信長は伊勢長島の攻撃に激怒し、長島一向一揆を殲滅する作戦を立案する。
信長の怒りの籠った殲滅作戦は一揆勢の前に見事敗れ去り、織田勢は多数の死傷者を出した。
結局信長は、一揆衆が立てこもる志村城・金ヶ森城を包囲し、降伏させるに留まった。
この後、信長は京に建てた邸宅にて顕如と対面し顕如より「万里江山の軸」と「白天目の茶碗」を贈呈される。
しかし、その後怒りの収まらぬ信長は家臣に一向宗の信心禁止令を出したりし、本願寺と緊迫状態に陥るが、ここで仲裁を買って出た者がいた。
武田晴信である。
晴信は最高の機会で織田方と本願寺方に恩を売るべく虎視眈々《こしたんたん》と機会を狙っていたのだ。
信長としても今武田と事を構えるのは自殺行為であり、顕如からすれば義兄弟の仲介なので無下にも出来ない。
両者は表面上和議を結ぶ事になるが、弟を切腹まで追い詰められた信長はその後も執拗に長島だけは攻撃をしていたのだ。
信長は基本的に家族や親族に甘い所があった。
信長が自らの意思で殺害した弟・織田信行に関しても一度目の謀反は赦している。
しかし、尾張統一の中で信行が利用され謀反を起こす度に許していたら家臣にも示しがつかないと言った理由もあり那古野城で殺害に及んだのだ。
大坂本願寺が状況を静観していたら、信長は盟友である徳川家康と姉川を挟んで浅井・朝倉連合軍と戦う。
世に云う「姉川の合戦」である。
遊撃隊として丹羽長秀を後方に配置し、姉川を挟み織田勢が浅井勢と対峙し、徳川勢が朝倉勢と対峙した。
信長はまず虎御前山へ布陣し、小谷周辺の街を焼き払い長政を挑発する。
浅井勢をある程度、挑発したところで信長は一旦兵を引き、姉川を渡り、石田山に建つ浅井方の横山城を包囲する。
これを見た浅井長政は越前の朝倉軍と呼応して姉川を挟み織田陣に対峙する、これに合わせるかのように徳川勢が到着、織田勢とは勝山をまたぎ、姉川を挟み朝倉勢と睨みう。
一方横山城を攻略していた織田勢は小谷城から出陣してきた浅井勢を見て転進、横山城には抑えとして美濃三人衆を配置し、遊撃部隊として丹羽長秀を配置する。
美濃三人衆とは、稲葉良通、氏家直元、安藤守就の三名で、彼らは斎藤道三の時代から斎藤家に三代仕え、斎藤龍興の時代に斎藤家を離反し信長に付いた武将であった。
織田勢の先陣は坂井政尚が勤めた。
これに対峙したのは浅井勢の猛将・磯野員昌である。
徳川勢の先陣は徳川四天王として名高い宿将・酒井忠次
これと対峙したのは朝倉勢の朝倉景紀である。
この朝倉景紀、朝倉家10代当主であり名君として名高い朝倉孝景の実子であり、朝倉家最強の武将としても名高かった朝倉宗滴の養子となり薫陶を受けた将であったが、嫡男・景恒が金ヶ崎で失意の死を遂げ、没落し始めると、徐々に覇気が無くなり姉川の戦いでは心ここにあらずの状態であった。
織田勢と朝倉勢の先鋒同士の戦いは熾烈を極めた。
姉川が血で染まる程に殺戮し合い、一時は政尚の軍勢が押されていく。
この時政尚の嫡男・尚恒が戦死している。
一方、徳川勢は初手より優勢で戦が進んでいた。
老練な酒井忠次が景紀の軍勢を翻弄し、徳川家康は戦場を広く見る事が出来た。
忠次が優勢に戦を勧めているのに対し、織田勢は若干苦戦していた。
家康は朝倉勢と浅井勢の伸び切った戦線を見て、遊撃部隊として待機させていた榊原康政を呼ぶ。
康政は自ら家康の陣を訪れ指示を仰ぐ。
「小平太(康政の事)よ、誰にも気づかれぬ様に姉川を迂回、渡河し敵勢を真一文字に分断せよ。」
康政は「畏まりまして!」と答え即座に自陣に戻り即行動を起こす。
その間も姉川は血で染まっていた。
姉川周囲に住む人間はしばらくの間「血川」、「血原」などと呼ぶほどの激戦であった。
尚昌の軍勢に池田恒興の軍勢が加勢に加わり、浅井勢を少しずつ押し返してきた。
浅井・朝倉勢は目の前の敵に集中し、わき目を振らず戦っていたのが彼らはまさか横槍を喰らうとは思ってもいなかった。
そんな中、榊原康政が横から真一文字に槍を入れる。
「我は徳川家臣!榊原康政なり!ただ今御味方優勢にて間もなく敵陣も総崩れになりましょう!もう一押しですぞ!康政横槍推して参る!」
これを聞いた浅井・朝倉軍は気勢を削がれ、織田・徳川連合軍は気勢を盛り返した。
この康政の横やりが勝利に繋がり、浅井・朝倉軍は総崩れになっていったのだ。
戦の間、浅井・朝倉勢が戦っている間持ちこたえてた横山城もついには降伏し、信長はこの横山城に木下秀吉を城主として据えた。
この合戦がもたらした浅井家と朝倉家への影響は大きく、散り散りになった将兵の一部は比叡山に逃げ込み、浅井家で一番の功績を上げた磯野員昌が秀吉の調略により織田家に寝返ったのだ。
信長はまず比叡山延暦寺から手を付ける事にした。
浅井・朝倉の将兵を匿った比叡山延暦寺に信長は再三再四に渡り浅井・朝倉の敗残兵の引き渡しを要求。
延暦寺は信長の要請をすべて無視する。
比叡山延暦寺は王城鎮護を良い事に政治には口を出し、戒律を守らず武装した僧兵は略奪、強姦などやりたい放題していた。
信長は比叡山延暦寺の行き過ぎた蛮行に対しもはや目を瞑ることが出来ず、叡山攻撃を決定した。
織田家の将の多くは叡山を攻撃する事を反対した。
「お館様!!叡山は九百年近く続く王城鎮護の霊山!祟りが降りかかりますぞ!」だとか「他の大名の反感を買いますぞ!」だとか否定的な意見の中二人だけ肯定的な意見を出すものがいた。
「お館様に言上仕りまする、叡山はその地位を良い事にやりたい放題する破戒僧の集団!もし天罰があるとすれば叡山に落ちるが御正道!御屋形様の行いこそ御正道と心得まする。」
明智光秀が信長に言上した。
光秀は天皇家を奉る男であった。
比叡山延暦寺は京の都を守る王城鎮護の役目を負いながらその役目を疎かにする比叡山延暦寺が赦せなかったのだ。
そしてもう一人の男は
「やぁー流石は御屋形様だで!御屋形様の深ぁいお考えは皆々様に伝わらないですがね?ささ!はよう叡山さ攻めましょうや!!」
と秀吉は信長の機嫌を伺う様に言う。
信長は家臣の反対も賛成も最初から求めてはいなかった。
ただ、自分が決めた延暦寺攻めを家臣に承知させる為だけの評定であったのだ。
信長は比叡山から虫一匹逃がさない様な布陣を敷き全将兵に「撫で斬り」を命じた。
撫で斬り、根切りとは現代風で言えば「皆殺し」であった。
比叡山延暦寺には居ない筈の女性や生まれたばかりの赤子など、女人禁制の筈が聞いて呆れる程に女性や子供がいた。
「仏法を説く事を忘れ!王城鎮護の為に山を開いた開祖の教えを守る事もせず!女人禁制の山に女を連れ込み酒肉を喰らい、自堕落な僧共は撫で斬りに致せ!!高僧といえどこの悪逆非道を見て見ぬふりをしていた者も同罪である!!決して逃がすな!」
信長の檄にどんどん織田勢は自分が何を斬ってるのかマヒしてくる。
子供であろうと女性であろうと僧侶であろうと「鬼に会えば鬼を斬り、仏に会えば仏を斬る」という心境になっていた。
叡山攻めを反対した武将たちは逃げ行く叡山の住人の何人かを逃したりもしていた。
しかし、叡山に籠っていた浅井・朝倉の兵は皆殺しにされた。
この戦で、叡山は全焼し、三千の僧侶男女は悉く首を斬られた。
生き延びた正覚院豪盛などの幾人かの僧侶は武田晴信を頼って落ち延びた。
この比叡山焼き討ちは諸大名に衝撃を与えた。
本願寺は信長を「仏敵(仏の敵)」と称し、武田晴信は西上を決心し、信仰心篤い上杉輝虎の心の中にも一抹のしこりを生んだ。
本願寺の民はそんな信長の事をいつの間にやら「第六天の魔王」とと呼び始める。
第六天の魔王とは仏道の修行の妨げになる魔の事を称し、仏教における「天」の欲界の六欲天の最高位(下から六位)の王であるのだ。
それすなわち、仏道の修行者を欲望や煩悩をもって修行の妨げをする魔の王と言う事から第六天の魔王と言われているのだが、こんな詳しい事はもちろん民衆は知らない。
これは本願寺による印象操作であり、仏の道に至る仏教の邪魔建てをする織田信長は「第六天の魔王」であると位置づけしたものであった。
叡山焼き討ちにより、信長に対する諸大名の対応は変わっていった。
特に甲斐・信濃そして今や駿河の今川を滅ぼした武田晴信もその一人である。
「瀬田に旗を立てる」
晴信は軍議で一言そう言った。
瀬田とは「瀬田の唐橋」の事であり、近江国・大津の瀬田川にかかる橋を指し、瀬田に旗を立てるとは京より近く東西の要衝である瀬田を取る事により、天下を睥睨するという信玄の一種の覚悟の表れであったのだ。
信玄は足利義昭を通じ上杉謙信と和睦、その後、今川家を滅ぼした時に手切れになった北条と和睦を結び、西上作戦を決行するのである。
信玄の向く先は三河・遠江の徳川領。
今まさに、徳川家康第二の苦難と謳われた「三方ヶ原の戦い」が始まろうとしていた。
そんな中本願寺にいた本多正信は家康が心配でならなかった。
「次郎三郎よ、顕如殿に何とか伊勢長島入りを早めて頂けないだろうか?」
次郎三郎はぶっきらぼうに言う。
「弥八郎よ、お主が徳川殿を助けたい気持ちは良く解る、しかし俺たち二人が行った所で武田の騎馬隊に勝てるかね?」
正信が唸りながら
「それはわかっておるのだ、しかしこの戦ひょっとすれば徳川家の最期となるやも知れん、それを見届けねば、殿に友と呼ばれた資格はわしには無いのだ。」
次郎三郎が笑いながら言う
「これだけ長い間出奔しておいて友とはね、弥八郎よ、お主は真実に家康殿を友と思っていて、家康殿もまたお主を友と思っているのかね?」
正信はためらわず頷いた。
次郎三郎はそんな正信に
「そこまで言うなら友の晴れ舞台、近くで拝見させてもらおうか。」
と言い顕如と話をつけ、伊勢長島へ向かうのである。
次郎三郎との別れをとりわけ悲しんだのは鈴木孫一と下間頼廉の二名であった。
「なぁに、生きてりゃまた会えるさ、それに本願寺には孫兵衛を残していくよ」
次郎三郎は片腕とも呼べる鉄砲の名手・布施孫兵衛を大坂に残す事にした。
孫兵衛は着いて行くと聞かなかったが、「自分の代わりに大坂を護ってやってくれ」という言葉に孫兵衛は渋々納得し
そんな事を言いながら正信と伊勢長島に向かう準備を始める。
その時である、鈴木孫一が餞別として次郎三郎に雑賀衆が作り上げた「長距離用鉄砲」を贈る。
次郎三郎はこんな大切なものは貰えないと断ろうとするが、「友情の証」と言われたら何も言えず受け取る事にした。
こうして次郎三郎と正信は伊勢長島を目指し旅路を急いだ。
武田晴信も駿河で三河・遠江から尾張・美濃へと進軍し近江・瀬田へと至る軍議を日中夜続けていたのである。