世良田次郎三郎元信(金ヶ崎退き口)
永禄10年(1567年)次郎三郎と本多正信は大坂に戻っていた。
その頃、三河の徳川家康は今川の遠江領に侵略すべく着々と準備をし、尾張の織田信長は上洛に向け足利義昭を招く準備をしていた。
次郎三郎と正信の人生において永禄8年(1565年)の足利義輝弑逆事件から元亀元年(1570年)に起こる石山合戦までの5年間が次郎三郎と正信にとって人生の中で一番平和な時間を過ごしていたと言えるであろう。
当時、浄土真宗本願寺派は隆盛を極めていた。
大坂の地に城の様に鎮座する大坂御坊を中心に、伊勢長島には砦の様な寺が、加賀にはこれまた大きい城の様な尾山御坊といった寺が各地にあった。
本願寺第11世法主・本願寺光佐顕如。
気さくな話し方をするこの男とて、戦国大名並みの覇気と知略が備わっていた。
顕如は彼なりにだが戦国時代の僧侶の在り方としての矜持があったのだ。
本願寺はその門徒を忍びの代わりとして使っていた。
大名家に、都市に、様々な所に一向宗は潜んでいた。
どんな大名も人間の心の底にある主義思想は分らない。
浄土真宗の中でも本願寺派に帰依する民衆は膨大で本山の大坂でもその正確な数字は把握しきれていなかった程である。
それだけ大きな勢力になれた理由の一つには本願寺の教えが簡単であったというところにあった。
単純に「本願寺の教えを信じて南無阿弥陀仏と唱えるだけで死んだ後には極楽浄土へ逝ける」という簡単な教えが文字の読み書きも出来ない農民や、戦に疲れた武士や人々、また人の集まる所に金の匂いを嗅ぎつける商人達、そういった様々な人材を呼び寄せ本願寺はその勢力を伸ばしていったのだ。。
そもそも「南無阿弥陀仏」とは仏教用語である。
南無阿弥陀仏は言葉の分解する事で理解をする一種の呪文のようなものだ。
南無阿弥陀仏を分解してみよう。
まず「南無」と言うのは礼拝や挨拶を意味するのだが、本願寺派は「礼拝」を転じて「帰依」の意味に置き換えた。
帰依とは広義的解釈では「教えに従い身をゆだねる」という意味になる。
そして阿弥陀とは「無量の光明」と「無量の寿命」といった意味になるのだ。
その阿弥陀に仏を足す事により無量の光明と寿命を持った仏様と言う事になる。
よって衆生は「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで「私は阿弥陀仏の教えに帰依します」といった意味合いになるのだが、そんな細かい事を一々説明していたら信者は居なくなる。
本願寺では坊官が様々な仏教用語を使いたとえ話を作った。
これは商人が集まる堺や大坂で育った顕如の語り上手もあったのだが、彼は仏法の話を民衆に対しよくよくかみ砕き、その教えの極意だけを敢えてわかりやすく、民衆に説明するように努めたのだ。
方便という言葉がある。
釈尊が数多の弟子に対し、悟りに至る道筋を一人一人の弟子に合わせて教えを説いたという教えから、一人一人に合った言葉で教えを伝える事を方便と言うのだ。
「嘘も方便」などという言葉はこう云ったエピソードから出来た諺なのだが、顕如はそういった方便を上手く使った。
「他力本願」という言葉がある。
この言葉は他力、いわゆる阿弥陀如来の力を借りて本願である成仏を為そうという言葉なのだが、顕如は門徒にも分り易くこれらの言葉を解説する。
「ええか!南無阿弥陀仏や!皆で南無阿弥陀仏と唱えるだけで兄ちゃんも婆ちゃんも極楽浄土へ行けるんやでぇ!」
本願寺の報恩講に民衆にとって単純明解に成仏をする方法を教えてくれる場所であり、明日の身をも知れぬ絶望的な戦国の世にあって民衆に希望を与える場所でもあった。
西暦184年、日本はまだ伝説とされる邪馬台国が出来る前である。
中国で黄巾の乱という宗教の蜂起があった。
宗教が政治や武力を持てば結局血が流れるのは民衆なのだが、本願寺もまさにそれと同じような事をしようとしていた。
一向一揆衆の強さとして上杉謙信が上洛をする為に蜂起していた本願寺と和睦をして京へ上ったという話がある。
かの軍神と呼ばれた武将でさえ一向宗徒の戦いを避けるのだ。
理由は戦いに終わりがないからだ。
大名は国を失えば大名ではなくなる、武士も禄高がもらえ無くなれば牢人になる。
しかし本願寺の門徒は改宗をしなければいつでも蜂起するのだ。
大坂の本願寺はそういった意味では盤石であった。
一方、三好三人衆と松永久通は壮絶な最期を遂げた剣豪将軍・足利義輝の後釜に、義輝の従弟である足利義栄を室町幕府第14代将軍として据える。
元々、松永久秀は足利義輝の弟である足利義秋を時期将軍にと考えていたのだが、久秀の息子・久通の至らなさで三好三人衆に良いように使われた事に対し久秀は叱責する。
その義秋は細川藤孝などの幕臣に支えられ、越前の朝倉家へと身を寄せていたのだが、そこに明智光秀が義秋に仕官し、義秋の周囲には優秀な家臣が揃って行くのだ。
義秋は朝倉家の当主・朝倉義景に再三再四に渡り上洛の要請をするのだが、義景はどうにも煮え切らない態度でのらりくらりと義秋の要請を躱していた。
どうにも煮え切らない義景に愛想を尽かした義秋は幕府への忠誠心が篤い上杉輝虎や上洛の野望を持つ武田晴信、北条氏康の後継者の北条氏政などに幕府復興の以来の書状を送るのである。
しかし今川義元が上洛半ばで倒れた際、甲・相・駿の三国同盟は形骸化し、武田信玄は今川領へ侵攻し徳川家と三河を分割するなど、もはや今川と武田と北条には信頼関係は全くなかった。
また上杉と北条も武田家と領地を接している為、下手に動けば攻め込まれる恐れがあった故、これまた動くことが出来なかったのだ。
そんな中、登り龍の如く名を上げる大名が居た。
尾張と美濃を手中に収めた織田信長である。
信長には上洛の意思があり、義秋を奉じる用意があると申し出てきたのだ。
義秋は明智光秀を通じて信長と接触を図り、自分に出来る事なら何でもすると言い出すのだ。
信長は妹であるお市の方と北近江の新進気鋭の大名であった浅井長政との婚姻の仲介を義秋に依頼する。
北近江は美濃から京に出るには通らねばならない道である。
義秋は積極的にこの婚姻の仲介を買って出て、見事織田家と浅井家の婚姻を成し遂げる。
永禄11年(1568年)北近江の通行の保証を得た信長は南近江の六角家を潰すため兵を動かす。
六角家と因縁の深い浅井家もこれに呼応し兵を出す。
この出兵には遠江に本拠を移した徳川家康も兵を出している。
さしもの名族六角氏も観音寺騒動で弱体化していた事もあったが、時の勢いには勝てず滅亡してしまう。
こうして信長は京への道を開いたのだ。
一方、三好三人衆の傀儡となった義栄は松永久秀と争っていた。
三好長慶が亡くなった後、三好家の一切を取り仕切っていた久秀を面白くはなかったのだ。
そこで三好三人衆は足利義栄の名で松永久秀を敵と定め、相争っていたのだ。
そんな戦の中、松永久秀はいち早く織田信長が足利義秋を奉じて上洛するとの情報を入手する。
元々、足利義秋を将軍に据えようと考えていた久秀にとって信長の上洛は渡りに船であった。
久秀は三好義継と共に織田信長に服従を誓う。
その証として久秀は「九十九髪茄子」という茶器を差し出す。
この九十九髪茄子は元々室町幕府第3代将軍・足利義満の所有物であったが、第8代・足利義政から備後・安芸・山城守護であった山名是豊に下賜され、その後幾人かの手を渡り、朝倉宗滴が五百貫で購入されたとされる。
その後、宗滴から質屋に入れられ、久秀が一千貫で購入したといういわれのある名物であった。
こう言ってはなんだが、当時の日本人に海外の焼き物の知識はほぼ皆無であったと言える。
呂宋助左衛門という人物が、海外から輸入してきたとして様々な物品を豊臣秀吉に献上したという話がある。
助左衛門は献上した品々で秀吉の機嫌を取り、秀吉の庇護の下、豪商になったという。
そのあまりにも豪奢な生活から石田三成をはじめとする文治派の讒言により、秀吉から身分をわきまえろと邸宅没収処分を受けそうになるが、助左衛門は先手を打ち家財をすべて菩提寺に寄進し、呂宋へと逃亡した。
後々調べてみると秀吉に献上された中の呂宋壺は現地では安物でありその上、現地人の便所として使われていた事などが発覚し秀吉が大いに怒ったという話があるくらい、唐物と呼ばれる宋・元・明の時代に作成された大陸ものや朝鮮半島で作成された高麗物、その他に呂宋、安南、南蛮などアジア諸外国からくる島物と呼ばれるや焼き物の真髄や価値は日本人の知る所では無かったのだ。
信長も茶器に関しては莫大な価値を持たせる為に利用していたにすぎなかったので、良し悪しなどの格は当時の茶人が勝手に決めていたにすぎなかった。
信長は日本の少ない土地を全ての家臣に満足いくように与えるのが最初から不可能であると早々に考えていた為、茶の湯に特別な意義を持たせ、織田家の武将は茶会を開くことに対し信長の許可が無ければならなかった。
そして茶会を開くには茶器が必要になり、武将の見栄として他者より優れた茶器を持つ事に競争心を煽ったのだ。
そうした政策は成功したとも言えるであろう。
織田家の武将・滝川一益などは領地よりも茶器が欲しいなどと信長に訴え出た事がある程であった。
信長はそういった政策に合わせ「茶人」と呼ばれる人材も登用する。
千利休、今井宗久、津田宗及などといった商人から茶道を学んだ人間を傍に置き、配下の武将に「礼節の勉学」として茶道の普及に力を入れたのだ。
久秀がそんな信長の心底をどこまで読んだのかは不明だったが、降伏の証として、金銀や自らの領地ではなく「九十九髪茄子」を差し出してきた事に対し信長は松永久秀という男に興味を持ったのだ。
信長の耳にした松永久秀は悪評高い男であった。
主家である三好家を崩壊に導き、己が三好家の実権を握り、足利義輝の暗殺にも一枚噛んでいるなどと人伝に噂を聞いていたが、実際に謀略と言うのは相手の感情の機微を察する事が出来ねば成功する訳もなく、それだけ松永久秀という男は他人の考えを読む事に長けた男なのだと九十九髪茄子の一件から信長は察するのである。
義秋は久秀の降伏を当然の事ながら許さなかった。
自らの兄を殺した指示をしたかもしれない男であるのだ。
久秀の関りは不明であっても、少なくとも久秀の息子・久通と、久秀と共に座す居る三好義継は義輝暗殺に関わっているのだ。
しかし、信長は義秋の意見を無視し、この二人を許した。
この出来事が信長と義秋の関係において最初の小さな亀裂になるとも知らずに。
都でその様な事件が起こっているとき、正信は懐かしい顔と面談する。
松平信一という徳川家臣だ。
信一はこの度の信長の上洛作戦に対し徳川家康が派遣した徳川家の援軍であった。
「弥八郎(正信の事)久方ぶりであるなぁ。」
信一は正信に切り出す。
「三河に戻ってくるつもりはないのか?殿自ら友と言われるそなたならば帰参も簡単に許されように。」
信一は正信を三河へ帰参するように説得を始める。
松平信一は家康の祖父、松平清康の従兄弟に当たる人物である。
松平家の中では藤井松平家の家長に当たる人物であった。
今回の上洛作戦でも六角方の箕作城攻めにて本丸一番乗りを果たし、信長に称賛される手柄を上げる程の剛の者である。
「信一さま、私は今、磨けば光る玉を見つけました。」
正信が遠回しに信一に語る。
「その玉とは殿に背信して迄磨かねばならぬものなのかね?」
信一が正信に問いかける。
「全ては友と言ってくださった殿の為に。」
信一はその言葉が聞けただけで満足であった。
「殿にはわしからかくかくしかじか申し上げよう、弥八郎は本懐を達するがよい。」
信一はそれ以上何も聞かなかった。
「ありがたき幸せにござります。」
正信は信一に一礼し、その場を発とうとする。
「そういえば」
信一が不意に正信を呼び止める。
「信長公に於かれては、寺社が政治や民衆の扇動をするのが面白くないらしい、そのうち血で血を洗ういくさになるやも知れん、心しておけ」
これが織田家に派遣された徳川家臣として、「仲間」たる正信に出来る精一杯の助け舟であった。
「御忠告痛み入ります、信一様に於かれましてもいつまでも壮健であられる事を祈っております。」
こうして松平信一と本多正信による非公式の会談は幕を閉じる。
その日から数日後、足利義秋は朝廷より正式な綸旨があり、室町幕府第15代将軍として任命されるのだ。
義秋はこれを境に名を義昭と改め正に有頂天にあった。
義昭を奉じての上洛を見事果たし、自分を将軍にまで推薦してくれた信長に対し義昭は調子よく「室町殿御父」などと持て囃したが、信長にはその様な世辞は全く心に響かなかった。
焦った義昭は、信長に「副将軍」の地位を用意するがこれも固辞。
逆に義昭は
「それではそちは一体何が欲しくて予を将軍に据えたのじゃ?」
と信長に問う。
「恐れながら上様に於かれましては近江国の大津と草津、それから堺の織田家直轄をお許し頂きたく存じ上げます。」
と義昭に申し上げた。
義昭を始めその事を奏上された朝廷も、「織田上総介殿に於かれましては、欲の無い御人やなぁ」などと感心していたのだが、これは京にあって国の情勢を全く理解していなかった公家や将軍の怠慢であった。
そもそも堺は中央で南蛮貿易を一手に司る町であり、何事も「会合衆」という顔役の合議で様々な事が決められている町であり、そこには金の力で雇った用心棒も多数おり、そんじょそこら大名では手の出せない街であった。
そんな街を手に入れるという事は、日本の富を手にするも同じ事であり、敏感に危険視し反対したのは会合衆の方であった。
会合衆は三好三人衆を味方につけ信長には対抗するが、将軍や朝廷の許可があった信長はこれを容赦なく殲滅する。
力量と大名としての器や先見の明を見せつけられた会合衆は信長に矢銭(軍資金の事)を支払うのである。
大津も同じように、琵琶湖における通商の要であり、北陸地方の物産は大津を通る故、これを支配する事により織田家の経済事情を上向きにする策略があった。
そして近江・草津であるが、この地は当時中山道と東海道を結ぶ要衝であり、信長が後にこの地の付近に大きな城を築く事を心に決めていたのだが当時の人間にはその思惑を知る由もなかった。
信長は中央に蔓延っていた野党や、三好の残党を悉く取り締まった。
中でも苛烈な掟を敷いたのは自陣に対してであった。
「京にて男女問わずの乱暴、狼藉、略奪、その悉くを打ち首に処す」との厳戒令を敷いたのだ。
これは今までの戦国大名が京の都で行った非道の数々にて戦国大名への信頼を失っていた、一戦国大名としての信長が出来る京の都に住む人々への誠意であったのだろう。
この令を甘く見た雑兵は何名か信長の手により打ち首にされていた。
そんな信長にいよいよ大坂本願寺への改革の手が入る。
信長は以前にも申し上げた通り、衆生を救う為に学を積み間違いを間違いと認め、新たに学を修める僧侶や政治に一切関りを持たない僧侶に対してはその牙をむく事は少なかった。
信長が敵視した宗教とは戒律を恥じる事無く平気で破り、民衆を戦の道具として扱い、その立場を良い事に国政に口を出してきたり、私服を肥やす銭をため込む宗教であった。
その点においては「本願寺」は信長の敵対象に合致する事が多々ある宗教であった。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土へ行ける、仏敵である大名家に一向一揆を起こしても南無阿弥陀仏さえ忘れなければ救われるなどという綺麗事は信長が最も忌み嫌うところであった。
正信も先の信一との対談で当然この動きは予想出来ていた。
大坂本願寺も最初は信長に言われるまま「御書の修繕費用」として金銭を支払っている。
しかし、信長のそういった振る舞いを傍から見ていた義昭は信長の存在が徐々に面白くなくなっていく。
「将軍は自分であるのに、信長はなぜ自分の許可も得ず好き勝手やっているのだ?これでは予はただの飾り物では無いか?」
義昭はようやくそこに気付いた。
歴史にもしもはない。
しかし、義昭が聡明であり、足利の名を後世に残そうと思えば信長と対立せずに上手く付き合えばもっと違った世があったのかもしれない。
しかしそうはならなかった。
義昭は密かに三好三人衆や斉藤龍興(元美濃国主)に書状を遣わし、信長が岐阜へ帰った所で本圀寺に奇襲を決行させる。
本圀寺に集まった浪人衆は最初こそ押してはいたものの、岐阜よりわずか2日で舞い戻った信長に蹴散らされる羽目になる。
義昭はこの時、行動の読めない信長に初めて恐怖した。
「何なんだあの者は!岐阜に戻って二日で軍勢を引き連れ京に戻ったと申すか!!」
戦慄する義昭は幕臣・細川藤孝に問いかける。
「信長公はこれまでの常識を塗り替える大名にござりますれば、今は滅多な手出しは公方様の御身に災いが降りかからんとも限りません。」
藤孝は冷静に義昭を諫める、そんな義昭は下卑た笑顔に顔を歪めながら
「予が手を出さねば良いのだな?」
と藤孝に問いかける。
「今は静観の一手が最上と存じ上げ奉ります。」
藤孝は一応釘を刺しておく。
それからである、義昭は自室に籠りがちになり、何をしているのかが良く解らなくなったのは。
まず義昭は元号を変える事でその幕を開けた。
新たな元号は元亀(1570年)である。
この元亀元年、義昭は以前世話になっていた越前の朝倉家を始め、近江の浅井家、南近江を信長に奪われ甲賀へと逃亡していた六角氏、三好三人衆、そして最大勢力を誇った大坂本願寺へと書状を送る。
内容は至極簡単である「信長討つべし」の一言であった。
そんな動きを知ってか知らずか、信長は越前の朝倉氏に再三再四、京へ挨拶に来るよう使者を送る。
「挨拶に来いというのは身をもって敵意無き事を示せ」といった意味合いを含んでいた為、朝倉氏は簡単に上洛をしなかった。
そこで信長は朝倉家に幕府に対する逆心ありとし朝倉征伐を決定する。
この出兵に信長の義理の弟である浅井長政は古くからの友情がある朝倉家と、愛妻の実家である織田家との板挟みに苦しんでいた。
浅井長政は織田家と婚姻する際に朝倉家は攻めないでくれと約定を躱していたのだが、今回の信長は立場を幕臣としていた。
その上で幕府の名を無視し続けた朝倉家を征伐するという大義名分が信長側にあったのだ。
そして信長の幕命とは噛み合わない足利義昭からの打倒信長の書状。
長政の頭脳は混乱を極め、もはやどうしてよいのか正確な判断が出来ているのか自分でもわからない状態であった。
状況が読めているのか読めていないのか家臣団は織田家と手を切るべきと主張してくる。
しかし大義は信長にある。
長政はここで意外にもお市の方に相談する。
お市の方は兄・信長に似て聡明な女性であった。
その上、信秀の血を受け継いだのか、知略に富み、したたかな女性でもあった。
「兄上は、わしとの約定を忘れてしまったのだろうか?」
長政の問いに対しお市は答える。
「わらわの兄はうつけにて、三歩歩いたら色々な事を忘れるやもしれませぬな」
と笑いながら答えた。
「わしがそなたの実家と敵対する事をお主は許さないであろう?」
お市は大笑いする
「何を仰せになりますやら、わらわは浅井家の御台所、織田家と旦那様が敵対するなら、嫁いだ浅井につくのが道理、わらわの姉上もそうなさったではありませぬか」
姉上と言うのは美濃の姫にして信長の正妻・帰蝶を指していた。
帰蝶は父・道三を兄・義龍に討たれたのち、斉藤家と敵対する信長に寄り添っていた。
「存分に御働きなされませ、しかし、もし長政殿がわらわの我儘を一つお聞き届け頂けるのであれば、お願いしたき儀がござります。」
長政はお市が実家に帰ると言おうと何と言おうと何でも聞き入れるつもりであった。
「わらわは浅井家の嫁ですが、信長の妹でもあります、一度だけ兄・信長に此度の仕儀を伝えとうございます」
長政はお市の願いを聞き届けてやりたいが、難しいのも事実である。
「わしは一向に構わん、しかしそなたの文は我が家臣が必ずや読み、此度の謀反を伝える内容であれば市を幽閉するなどという愚挙に出かねぬぞ?」
お市は笑いながら
「いえ、手紙などではなく、兄への陣中見舞いとしてお届けすれば怪しまれますまい、兄がわらわの意図を読めませなんだらそれまでの男というもの、是非とも長政殿の手で兄の首を取って下され。」
長政はお市の言葉に、さすがは市である!と感嘆し、その願いを聞き届ける。
長政は小谷の城にて家臣を集結させた。
「良いか!我らは朝倉家への援軍に向かう事にする!!」
長政は高らかに織田への敵対を宣言した。
家臣団も長政の英断に称賛の言葉を投げかける。
「して、初手の策であるが、信長殿に陣中見舞いを届け、我らの底意を直前まで隠し通す事にする。その為の使者を遣わす!これには信憑性を持たせるゆえ市の陣中見舞いも共に持たせる。」
お市の方は、信長に送る陣中見舞いを用意する。
漆器に納められたその陣中見舞いを家臣たちが検分する。
「わらわが出来る事は信長に軍資金とまでは行かぬが銭別を渡すくらいしか出来ぬ。諸将にはその位は許して頂きたい。」
浅井家家臣も見たところ和紙にくるまれ、茶の香りを焚き込めた変哲もない陣中見舞いを確認し、使者は信長の下へと向かうのだ。
織田勢は徳川家康の軍勢と共に金ヶ崎城を落とす。
「竹千代、うぬも中々の戦上手になりおったのう?」
信長が家康の手際を褒める。
「いえいえ、吉法師様の緻密な戦略眼こそ神がかっておりますよ。」
家康も信長に褒められっぱなしでは尻の座りが悪いのだ。
「俺とうぬが居れば日ノ本を平らげ世界へ向け飛翔する日も遠くはなさそうであるな?」
信長が家康に言う。
「私も我々の夢の為に不惜身命の気概で働く所存です。」
信長は家康に「期待しておるぞ?」と言い、金ヶ崎を攻め落とした際の諸将を労いに行こうとする。
そんな時であった。
「浅井様より陣中見舞いが届いております!」
そんな事を伝令兵が伝えてきた。
信長は「そんなものは後で良い」というが
「お市の方様より殿に是非ともご覧頂きたいと仰せつかっております。」
伝令が信長に伝えた。
「あの我儘娘が、この忙しい時に何を見よと言うのだ?」
伝令の言葉に織田家諸将も集まってきた。
信長が市からの陣中見舞いとやらを開け放つ。
そこにはむせ返る様な茶の香りがする和紙にくるまれた、永楽銭が入っていた。
秀吉が「殿、それは何でしょう?」などと聞いていたが、その場にいた誰もが何を意図としお市の方がこれを送ってきたのかが理解できなかった。
青い顔で中身を見た信長は、密かに家康を呼びつける。
「竹千代、朝倉攻めは延期に致す、そなたの陣はいつでも退却出来る様にだけ用意をしておけ。」
信長は家康にそう伝えた。
家康は聞き間違いかと思い一応確認する。
「退却ですか?攻め入りではなく?」
信長が家康の顔を見ていう。
「退却だ。」
家康は信長の尋常ならざる様子を見て
「何があったのです?」
と問いかけた。
信長は未だ信じられないといった顔をし
「市の陣中見舞いだ。正直俺にはいまだに信じられん。」
家康が恐る恐る聞く。
「一体何がござったので?」
信長が答える。
「市め、浅井長政謀反と伝えてきよった。」
家康もその言葉に驚く。
「それはいったい!?」
家康は驚きのあまり声が裏返りそうになった。
「市の陣中見舞いであるが、和紙にくるまれていた永楽銭は我が旗印である、和紙は越前和紙を意味し越前は朝倉家を意味する。そこに茶を焚きしめてあったという事は、茶に和紙が染まり永楽銭を包囲しているという事を市が伝えて来たのだ。しかし市が伝えてきたとは申せ、俺はあの浅井備前(長政)が刃を向けるとはいまだに信じられぬ。とにかく竹千代は退き陣の支度を急がせよ。」
家康が信長に一礼し、徳川本陣へと戻り、本多忠勝には兵を纏め退き陣の支度をさせ、服部正成を呼び出し伊賀同心で浅井長政の行動を探らせた。
「皆の者、聞いてくれ。今この場は死地となりつつある。わしは幼き頃より信長公の夢を実現させたいと思っておった。その為にお主達の反対も押し切り清洲で同盟を結んだ。信長公はこのような所で死んでも良い御方ではない。無論わしも死ぬ気は無い、お主達と共に生きて三河へ帰る。しかし、織田勢をここで見捨てて三河へ逃げかえるのは三河武士の恥では無いか?ここは我々の団結力で織田殿の時間を少しでも稼ごうでは無いか!」
普段寡黙な家康が、ここ迄心底を吐露してくれた事に忠誠心篤い三河武士は泣いて喜んだ。
士気が上がっていく中、家康は信長の陣を訪れ信長に言う。
「我ら三河勢を退き陣の端に加えて下され。吉法師様はここで死んで良い方ではありませぬ。」
三河武士の一度決めれば頑固な気質は家康にも当然あった。
「何を言っている!うぬが居なければ日ノ本は誰が治めるというのだ!?俺が世界に出た後、この国を任せられるのは竹千代!うぬしかおらぬのだぞ!」
家康は涙しながら信長の手を取り
「ありがたや、吉法師様、竹千代は決して討ち死になどしませぬ故、必ず生きて再会しましょうぞ!」
そのやり取りを見て、近づいてきた者がいた。
「いんやぁ、三河様が殿を引き受けてくださるとは、まさに鬼に金棒!一騎当千の三河武士ならば浅井・朝倉など敵にはならないでしょう!さすがは殿の弟君だで!!」
調子の良い軽薄な言葉の男・木下秀吉である。
「殿!浅井勢が金ヶ崎へと近づいてますで、早うお逃げ下され!」
秀吉はこんな死地には一刻たりとも居たくは無かった。
そんな表面の忠義面に苛ついた信長は
「サル!先ほど浅井・朝倉が相手にならんとか申していたな?貴様に織田勢の殿申し付ける!徳川殿は徳川勢の退き口があるからな、織田勢の殿はサルが責任をもって致せぃ!」
秀吉は予想もしていなかった言葉に顔面を一気に蒼白にした。
そんな中秀吉に味方をする者が一人。
「此度の浅井殿の逆心は光秀にも落ち度あり、羽柴殿に微力ながらもお力添えを致したく」
明智光秀が信長に進言する。
「ありがたや!光秀殿のご恩はこのサル生涯忘れんだがね!」
秀吉が光秀にすがりよる。
「サル一人では逃げるやも知れぬからな、十兵衛(光秀の事)サルの軍監見事に果たせぃ、サル共々死ぬのは許さぬ。」
秀吉と光秀は信長に一礼をし、そのまま振り返らずに信長は金ヶ崎城を後にした。
「さてと、戦上手の徳川様と明智殿が居られれば百人力じゃあ」
秀吉が場の空気を盛り上げる為に明るく振舞う。
「誰が指揮を執るかについてですが」
家康が織田家の武将の指揮を勝手にとる訳にはいかないと確認する。
「わしは徳川様に着いて行くだで!良いように使ってちょう!」
秀吉が申し出た、その後明智光秀も
「私も同感です、徳川様がこの場で指揮をお取りください」
と言い同意する。
家康は伊賀同心に探らせていた浅井軍と朝倉軍の動きの報告を逐一受ける。
浅井軍は衣掛山を笙の川沿いに敦賀へ進軍中であり、朝倉軍はそれに呼吸を合わせる様に木の芽川沿いに南下していた。
信長の本隊は急ぎ旗護山を抜け若狭・美浜を抜き雲谷山をぐるりと廻り、三十三間山の山道をひた走っていた。
「駆けよ!此処は命の捨て場ではない!生き抜き、大きな勝利を得る為に今はただひたすらに駆けるのだ!!」
信長の鼓舞もあり、将兵たちは山道を走りに走った。
一方浅井・朝倉の軍勢を小勢で翻弄するには平地では分が悪い、家康は時間を少しでも稼ぐために一つの策を考える。
部隊を分け、それぞれを京への道を走らせる策であった。
まず家康は駿馬を駆る兵500に敦賀内で最初に鉄砲で一撃だけ攻撃させ、その後敵方にわかる様に黒河川沿いに野坂岳から三国山へ、そこから赤坂山へと抜け琵琶湖に出たらわき目も振らずる京へと向かえと指示を出した。
逃亡の最中は600間(約一キロ)毎に空鉄砲を撃てと指示を下した。
兵500はの内訳は徳川勢から200名、明智勢、羽柴勢から150名ずつ選出された。
「とにかく敵を引き寄せるのだ!」
家康は指揮官として桜井松平家当主であり、次郎三郎の甥である松平忠正が指名された。
桜井松平家は信定の時代から宗家に対し幾度も謀反を起こしている家柄であったがゆえ忠正にはそういった死番に対する拒否権は無いのだ。
家康と秀吉、光秀は都合3500の兵と共に旗護山に一度仮陣を張る。
ここでは羽柴隊から徒歩の兵200明智隊から鉄砲隊200、徳川勢から100の兵が選出され、また本隊と離れた道を辿らせる。
家康はこの兵500を明智光秀の希望もあり家臣・明智光忠に率いらせた。
この500の別動隊は耳川周囲にいかにも大軍勢が通ったが如く足跡を残し、そのまま耳川を上り雲谷山から大谷山を抜け京を目指すように指示を出す。
当然600間毎の空鉄砲は忘れずに撃つよう言い付け、耳川へ向かう兵500は少しでも多くの足跡をつける為にも急ぎ出立する様、家康は指示を出した。
残った兵三千は敵を食い止めながら信長と同じ道筋を辿る。
まずは旗護山で小競り合いが始まる。
「わしの槍の餌食になりてぇ奴はどいつだぁ!!」
本多忠勝の槍が次々と敵を仕留めていく、忠勝の槍に突かれた敵兵は悉く血を吹き出し、その槍は正に火を吹く如しであった。
敵が怯んだ時に少しずつ退いて行くという地道な作業ともいえる戦いであった。
家康が目論んだ通り、浅井・朝倉連合隊は足並みは乱れており、敦賀に入った時に一悶着あったのだ。
大きな道がいくつかに分かれている時、どこをどれだけの兵で追うかによって戦況は変わっていくのだ。
戦略眼が鋭い長政でも朝倉の意見は無視できない。
浅井家と朝倉家は代々良い関係を保っていたが、浅井家の方は六角家に従属しており長政の代になってようやく独立出来たという家柄なのだ。
それに比べ越前朝倉家は11代続いている名門である、名門ゆえの誇りが長政の様な若造の言いなりになる事を許さなかったのだ。
勝ちを確信した者は戦後の事を考える。
朝倉義景は戦後、自分が室町幕府でどれだけ優位に立てるかが重要であり、もう追い詰めているから勝ったも同然の捕らぬ狸の皮算用をしていたのだ。
「一旦敵が引いたぞ!城山まで走り抜け!!」
家康の檄に皆が一丸となり旗護山から城山へ駆け抜ける。
城山でも同様の手法で敵をかく乱するのだが、こちらの方は少し時間をかけ攻勢に出るふりをして引いたりと駆け引きが続いた。
これは少しでも耳川勢が偽装工作をする時間を稼ぐための駆け引きであった。
本隊三千を率いる家康は寄せ手が一旦引いた時、光秀の鉄砲で一斉射撃をくらわし、耳川を雲谷山方面へ迂回しあたかも耳川から逃走を図っているように見せかけそのまま、土井山、矢筈山の谷間を抜け信長が逃れた道に合流する。
信長の本隊は延々と続く山道をひた走っていた、そんな信長の供回りは僅か数十騎しかいなかった。
松永久秀が信長の傍により
「わしが朽木元網を口説いたるさかい!大船に乗ったつもりで待っとき!」
と言い残し、朽木谷城へと向かう。
「松永はん、よーいらしたのぅ。用件は言わなくてもわかりますさかいに、織田はんの事でっしゃろ?」
朽木元網。
僅か2歳で家督を継承した朽木谷の主である。
当年21歳の若き大名はこの時、内心では浅井長政を支持していた。
朽木家は鎌倉時代からの名門であり、室町幕府にもよく仕えた家柄である。
出来る事ならここで信長の足止めをし、討ち取ってしまえば自分の評価も上がるものと考えていた。
「元網さんよ?おたくの考えてる事はこの久秀ようわかっとるで?ここで信長を討てばじぶん有名人やもんな?」
元網はぎょっとした。
ここは大名としての経験値の差なのであろう。
「ええか?元網さんよ、俺の見立てじゃ信長はひょっとすると天下に手が届くやもしれへんで?浅井家に着いたかて、精々良いところ朝倉の太鼓持ちが関の山や?ちゃいまっか??」
元網は心を動かされ始めた。
そう言われれば久秀の言う通りなのである。
古き友誼に縛られ反旗を翻すような男が古き仕来りがある朝倉に逆らえるとも思えない。
ならば自分は信長に味方して今、恩を売っておけばその内大きい見返りを期待できるのではないのだろうか?
元網の目が泳いだ瞬間を久秀は見逃さなかった。
「今、信長に恩を売っとけば後でごっつい見返りが期待できるかもしれへんで?」
元網の決意も早かった。
若いというのは往々にして後先を考えずに直感で決断する時もあるのだ。
「わかりました、信長はんに賭けましょ。」
こうして信長一行は朽木谷を無事に通過し、蛇谷ヶ峰から釣瓶岳へ武奈ヶ岳から白滝山と次々に渓谷を抜け瓢箪崩山まで走りに走り高野川と合流出来ればもう追撃の心配はいらなかった。
京に舞い戻った信長は殿軍の生還を待たずに間髪入れず今いる将に、今どれだけの軍勢を今動かせるのか確認報告をさせる。
そんな生還したばかりの信長にまた一つ悪い知らせが届く。
「大坂本願寺が一揆を起こしました!これに呼応し伊勢長島でも一向宗の一揆が起こりつつあり!」
その頃、家康たちは朽木谷手前の得法寺で休息を取っていた。
「土地は熊川、寺は得法寺、わしは徳川、何かの因縁があるかな?」
などとおどけて見せていたが全軍疲労困憊であった。
そんな家康たちの下にも朗報と言わんばかりに朽木谷が味方に付いた事を知る。
「後は我々のみで足止めできます故、殿たちはお早く朽木谷を抜けて下され。」
服部正成が伊賀同心を引き連れ敵方面へと向かう。
伊賀乱波としての修行を積んだ200名の服部党は山間部や森林部などで味方を巧みに使い小勢で大勢を撹乱するのが大の得意であったのだ。
こうして家康たちも無事に京へ戻り、本願寺が蜂起したという知らせを受けるのであった。