家康の腹心
戦国武将には影武者と呼ばれる存在が多く確認されている。
とくに有名なのは武田信玄が用いたとされる影武者。
そんな家康は武田信玄を大名として尊敬し畏敬の念を持っていた。
三方ヶ原では大敗を喫したが、その際、家康の家臣団は家康の鎧兜をすべて剥ぎ取り、自ら家康の代わりとなり家康は影武者の重要さと自らは天下を取るまで絶対に死なないと胸に誓った。
そんな家康には腹心と呼べる家臣は少なかった。
勇猛果敢で知られる三河武士であるが、彼らは武力と戦術に優れていたが、汚い仕事を任せられる家臣は殆ど居なかった。
そんな中、家康から政治を始め影の汚い仕事を一手に引き受けていたのが「本多弥八郎正信」という男であった。
正信は家康の全幅の信頼を以て、一人の影武者を推挙する。
彼の名は「世良田次郎三郎元信」という男であった。
次郎三郎は三河の出身であり家康にとっては遠い縁戚に当たる男であった。
次郎三郎が家康の影武者として働き始めた年は様々な説があり定かではない。
一説には1560年の桶狭間の戦いの際には既に本物の家康は死んでおり、次郎三郎が徳川家の実権を握っていたという説すらある。
家康の長男である松平信康が処刑されたのも家康の息子である信康が次郎三郎にとって邪魔であると判断された故、殺害されたという説もある。
三河時代よりの忠臣・石川数正が家康を裏切り豊臣家に走った謎の遠因もこの一件が絡んでいると言われている。
今の家康には裏工作が出来る信頼できる家臣は本多正信、もしくは次郎三郎しかいなかった。
次郎三郎は家康の影武者であるが故、他の大名衆に直接的な関与は出来なかったが、家康の良き相談役であり、次郎三郎は家康の影武者であるが故、家康と全く同じ思考が出来、家康の悩み、苦悩その全てが手に取るようにわかる理解者であった。
次郎三郎は正信によって見出された影武者であったが、影武者とは己の人生を捨て主君の為に生きる男である。
正信は次郎三郎をその昔、三河一向一揆の際に既に家康の影武者として見出していた。