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五大老・五奉行

太閤薨去たいこうこうきょの知らせを受けた家康は即座に行動を開始した。


まずは焦らずに急いで伏見・徳川屋敷に戻った家康は大急ぎで嫡男・秀忠ひでただを呼びつける。


「父上、火急のお召しとは一体?」


と呑気に尋ねる秀忠の胸倉を掴み家康が秀忠の耳元で言う。


太閤殿下たいこうでんかが亡くなられた!」


流石の秀忠も「ええっ!?」と驚き目を皿のようにしている。


「秀忠!お主は直ちに江戸へ戻り兵馬を養い、戦支度をしておけ!!」


秀忠が未だ信じられないと言った驚きの顔で家康を見つめる。


「戦でござりまするか?」


そんな秀忠を見かねてか秀忠付の家老である大久保忠隣おおくぼただちかが家康に伺う。


「それはまだわからん、しかし備えあれば患いなし!」


家康自身も今後の成り行きがどうなるかが全く見えていないのだ、しかしどう転んでも良い様に支度だけはしておくのが戦国大名としての常である。


正純まさずみ!そちもお供をせい!」


伊賀越えの後に家康の傍仕え兼、相談役になっている本多正信ほんだまさのぶが自分の嫡男である正純に申し付ける。


正純は正信に似て頭の切れる男であった、一を聞いて十を知ると言うのは彼に全く当てはまる言葉なのだろう。


正純は「はっ!」と返事をした。


その後、秀忠がようやく我に返り落ち着きを取り戻す


「して!父上、出立の日時は!?」


と家康に伺う。


家康はそのとぼけた秀忠の質問に怒り心頭になる。


「お主は何を聞いていた!?わしは直ちにと申した!?愚図愚図致すな!!!」


と床を思いっきり踏みつける。


正信も「愚図愚図致すな!すぐに支度を致せ!」と正純に指示を出す。


忠隣と正純は即座に江戸に戻る支度にとりかかるが、秀忠は混乱し何が起こっているのかわからない状態になっていた。


江戸に戻った秀忠は家康に対し小声で怨み言をいっていた。


「父上の人使いの荒さには困ったものだ。全く、わしは席を温める暇もないわ。」


「ならばそれを御父上に御諫言ごかんげんいたしなされませ?」


不意に女性の声が聞こえた。


秀忠が驚き目の前を見ると秀忠の正室おごうかたが立っていた。


「今のを聞いておったのか?」


秀忠はうんざりした様子でお江の方に聞く


「殿は戻られてから全く江の相手をして下さりませぬ故、寂しくて参りました。」


このお江の方は信長公の姪であり、大坂にいるよどの方の実妹であった。


淀の方は三姉妹であり淀が長女で今や秀頼の権威を笠に着て大坂城を牛耳る女性である。


そのすぐ下の妹におはつの方という京極高次きょうごくたかつぐの正室がいて、その更に下の妹がお江であった。


秀忠はお江に頭が上がらない所があった。


お江は確かに美女なのだが、秀忠よりも六つ年上の姉様女房であり、その上織田家の血が濃い故か激情家で、それには秀忠すら稀に戦慄する程に感情の起伏の激しさを見せる女子であった。


突然ではあるが家康には生涯で11人の男の子が居た。


長男・信康のぶやすは武田家への内通で切腹させられ、次男・秀康ひでやすは武勇に優れたのが災いし秀吉の目を引き秀吉の下へに養子に出されるのだが、秀吉には扱いきれず、結城家へと養子に出された。


かくして家康は三男・秀忠を後継ぎとし、手元に置いて帝王学を授けていた。


徳川秀忠という男は父に従順で人柄は温厚、妻に優しく恐妻家であるが家庭は円満、子をとても慈しみ、三河以来の家臣にも特に優しく接するという事で、徳川家がまだ松平の姓を名乗っていた頃からの譜代ふだいの家臣からの人気もあった。


しかしこれは全て秀忠の表向きの顔であった。


秀忠の本性は狡猾こうかつにて残忍ざんにん、そして何より「しつこい」のだ。


家康のしつこさ、執念深さを血として色濃く引いたのであろう。


家康も信長公横死、秀吉公薨去といった中で二度天下を狙うというでかなりしつこく執念深い所がある武将である。


またその様な武将でなければ到底天下へと王手をかける事は出来はしないのだ。


家康は無論、秀忠の裏の顔を知っていた。


一度だけ秀忠がその残忍な面を垣間見せた事件があった。


秀忠が自分の目の前を横切った猫を「無礼である」と戯れに切り捨てた事があった。


それだけならば良かったのだが、その現場に運悪く居合わせた侍女がその行為を目撃してしまったのだ。


秀忠は落ち着き払ってにこやかな顔をして侍女にこう言った。


「今見た事は忘れよ、明日より暇乞いをし一度実家に帰ると良い、口止め料ではないが家族に土産を持たせよう」


侍女は秀忠の言う通りに暇乞いをし、実家へ帰る事になったのだが、侍女が実家にたどり着くことは永遠になかった。


伊賀者に事の次第を調べさせていた家康は秀忠を自室に呼び出しこう言った。


「一度被った猫は一生被り通すのがそちの為になろう」


何の罪もない侍女をモノの様に斬り捨てる秀忠の所業に怒り、釘を刺しておいたのだ。


それを聞いた秀忠は戦慄した。


秀忠にとって家康は自分は幼くて記憶に無いが、次兄・秀康に聞いた所、人望があった長兄・信康のぶやすに無実の罪を被せ切腹を命じ、また、覇気に溢れた次兄・秀康は徳川家から追い出される形で豊臣家へと養子に出されていた。


秀忠は常に自分は大丈夫であろうか?自分にも何か不手際があれば殺されたり追放されるのではないだろうか?


そんな恐怖を感じながら幼い頃より従順の仮面をかぶって育ち、心の底では父を恐れ憎んですらいた。


その矢先の「猫を被り通せ」との言葉だ。


もはや秀忠は家康が生きている限り生涯逆らえないであろう。


お江が言った「家康に諫言」なんてとんでもない、諫言どころか意見など言おうものなら一歩間違えれば殺されるかもしれない。


自分の他にも家康には男子が居るのだ。


そんな鬱屈うっくつした性根は日に日に腐って行き、ついには


「そうだ、徳川家の後継ぎは自分一人で良いのだ、よその女に孕ませた子など兄弟と認めるのも忌々しい。」


そんな事すら考えるようになっていた。


秀忠の母は西郷局さいごうのつぼねという女性であった。


家康は西郷局との間に秀忠ともう一人四男・忠吉ただよしという男子をもうけている。


西郷局は周りを温かくさせるような美人で、家臣や侍女たちからも人気があった。


とりわけ重度の近視であった彼女は自ら進んで盲目等、目に不自由な女性に親近感を覚え、彼女たちを手厚く迎え保護する活動をするという慈悲深い女性でもあった。


もちろん彼女も家康好みの後家であった。


先にも書いたが、秀吉は身分の高いうら若き美姫の処女を散らす事を特に好んだが、家康は後家の見目麗しい床上手が恥ずかしがるのを焦らしながら責めるのを好んだ。


西郷局はじめ家康の側室達はそういった家康の性癖をも上手くコントロールし、夜は家康を喜ばせていた。


秀忠は母である西郷局から受け継いだ朗らかさを表に出し、家康から受け継いだしつこさや残忍さを影の顔としていた。


一方同腹の兄弟である忠吉は西郷局の良い所しか受け継がず、朗らかで気が優しい所があるがそれだけであった。


どこか兄・秀忠を生涯にわたり補佐できればそれで十分という姿勢が見える節があった。


秀忠も忠吉のそういった姿勢には敏感に気付き、忠吉を表面上では可愛がっていた。


家康の五男・信吉は体が弱く、その上、家康が手厚く保護をしている武田家の名跡を継ぐ事が決まっている。


「今のところ邪魔なのは辰千代たつちよだな。」


秀忠はまた小さな声で呟く。


家康も秀忠のその様な考えは等の昔に見抜き、十分に承知していた。


辰千代とは家康の六男で年の頃は豊臣秀頼とよとみひでよりの一つ上であった。


養育を任せている皆川広照みながわひろてるの報告では、辰千代はいたずら好きで、物おじしない、人とは身分を分け隔てなく接し、周りにはあまり理解されない人物だという事であった。


家康はその報告を受けた時、辰千代は信長公の再来ではないかと思った。


しかし、辰千代の英気を他に知られてはならない。


とりわけ秀忠は悪逆非道の男、家康が辰千代に信長公の影を見ていると知ると何をするかわからない。


「これは早めに何か手を打たねばならぬな。」


家康も心の中でそう呟くのであった。


しかし辰千代と家康が面会するのはもう少し先の話である。


太閤・豊臣秀吉とよとみひでよしの薨去はすぐには発表せず、喪を秘したまま、朝鮮に和睦を申し入れ、全軍の撤収を図る事、撤収軍の受け入れには毛利輝元もうりてるもと石田三成いしだみつなり浅野長政あさのながまさの三名がこれに当たる。


これは五大老・五奉行からなる十人衆の談合で決定し、連署起請文を作成した。


この談合、談合と言えば聞こえは良いが、実質は太閤亡き後の実力者である徳川家康とくがわいえやす前田利家まえだとしいえの二名で詳しい内容を決めたようなものである。


御異議ごいぎござらぬな?」


家康が十人衆に睨みを効かせながら問いかける。


前田利家以外の殆どの大名は家康の人睨みでもはや何も言えないのが秀吉の最期に遺した五大老・五奉行制の実情であった。


そんな家康と利家で決めた事なのだ、他の大名達は「御異議ござりませぬ。」と答えるしかなかった。


そんな中一人家康に意見する者があった。


「異議にはござりませぬが、何故、この三名を御名指おなざし致したのか理由をお聞かせ願いたい。」


家康が発する威圧の中にあり真っ向から意見を言う男。


石田治部少輔三成いしだじぶのしょうゆうみつなりである。


太閤・秀吉の懐刀と言えば聞こえは良いが、その行為の多くは秀吉の権威を笠に着て、秀吉に権力を集中する為に多くの大名に対する罠や讒言ざんげんを使い改易かいえき(領地没収)させたり、自分より格上の大名を平気で呼び捨てにしたり、その増長ぞうちょうが目に余る男でもあった。


そんな三成の問いには前田利家が答えた。


「なれば申し伝えておく、まず輝元殿であるが領地が筑前ちくぜん博多はかたから近くにあり、また多くの将兵を送り出しているゆえ、軍の撤収指揮に当たってもらいたい、三成殿と長政殿は常に殿下でんか(秀吉の事)の御側おそばはべり朝鮮の役を差配してきた。故にそなた達二人は実際に博多へと赴き、毛利殿を補佐するように決まったのじゃ」


前田利家の申し状に、浅野長政が「かしこまりました」と答え、三成は不服そうに「畏まりました」頭を下げた。


石田三成は会合の後、別室に毛利輝元を呼び出し、五奉行ごぶぎょうの内、浅野長政を除いた四奉行と共に輝元に誓紙を出すように迫った。


五奉行の内四名とはすなわち石田三成、前田玄以まえだげんい増田長盛ましたながもり長束正家なつかまさいえである。


それがしが、筑前・博多へと赴くにあたり何卒なにとぞ、毛利殿の誓紙せいしたまわりたく。」


輝元が面倒臭そうに三成に答える。


「家康殿の事か?」


三成は頷きながら「はっ」と答え


「これに来しましたる三奉行も心を同じにしますれば、輝元殿のご助力を・・・」


そう言いかけた時、輝元は手をひらひらと振り


杞憂きゆうに過ぎまい?家康殿とて太閤殿下の恩恵は十二分に受けておる。」


輝元は祖父・毛利元就もうりもとなりの「天下を狙うべからず」という遺言通り天下を狙う様な企てに参画するのを嫌がった。


長束正家がそんな輝元を説得する


「わかりませぬぞ、相手は名うての古狸ふるだぬき、腹中一体何が潜んでおるやら皆目見当が付きませぬ。」


輝元も四奉行がここまで必死に自分を懐柔してくるともはや断れないのだと悟り


「一旦有事の際には家康殿に加担せず。とこれで良いか?」


と折れたのだ。


「ははっ、ありがたき幸せ。」


三成は輝元に礼を言い、輝元と長政と共に筑前・博多へと向かうのであった。


筑前・博多には撤収してきた武将が多くいた。


黒田長政くろだながまさ加藤清正かとうきよまさ福島正則ふくしままさのり小西行長こにしゆきなが藤堂高虎とうどうたかとら大谷吉継おおたによしつぐ浅野幸長あさのよしなが、など長く朝鮮半島に在陣した将兵は疲れ果て、その顔はやつれていた。


そんな将兵たちを見ながら三成は


此度こたび撤兵てっぺいつつがなく終わりたるは祝着しゅうちゃくの極み、さればこの三成、諸将の無事を祝い大坂にて慰労の茶会を催したく・・・」


と言いかけた時に加藤清正と福島正則が激昂する。


彼らは三成とは小姓から出生したいわば兄弟の様に育ったはずなのだが、三成の秀吉への権力集中計画の中で讒言などで僻地へきちに追いやられたりしていた事から三成を心の底から憎んでいた。


「茶会だと!!!では各々(おのおの)がたは三成の茶会に呼ばれるが宜しかろう!!かく申す清正は朝鮮の地にて茶も酒も無いむなしい日々を送っていた!!治部じぶ(三成の事)の茶会の際にはかの地の思い出を治部に散々聞かせてくれよう!!」


正則も同じように三成に怒鳴りつける。


これに同意し感心したのが藤堂高虎と黒田長政である。


「よくぞ申された!!それは良き案でありますな、某も同意つかまつる!」


三成はバツが悪くなり。


「それでは御免」


と一言残し、その場を立ち去っていく。


「何が茶会だ!糞茶坊主くそちゃぼうずが!自分は安全な所から指示だけ出しておいて!あの忠義面は見ているだけで腹が立つ!」


高虎の憤懣ふんまんは収まらない。


「此度の賞罰にまたもや不都合があれば、あのそっ首ねじ切ってくれるわっ!!」


福島正則の怒りも収まらない。


そんな中、三成に味方をする将が全くいる訳では無かった。


大谷吉継と小西行長である。


大谷吉継は元々寡黙な男ゆえ何も言わずただ、事の成り行きを聞いていたのだが、商人出身という小西行長は茶坊主出身の石田三成とは特に昵懇じっこんであった。


「三成は真っ直ぐな男よ!何があってもまず第一には豊臣家大事!!」


行長が正則たちに言い付ける。


正則は行長の物言いが面白くなく


「何が真っ直ぐな男か!?俺はあの男の讒言(ざんげん)でいかほどの屈辱を被った事か!!」


行長もどんどん熱くなり


「讒言とは過ぎたるもの言い!三成は名誉も野心も持たぬ男、忠義に生きる男だぞ!!」


正則は商人出身の行長に


「武人の心を知るのは!武人のみ!!」


と強く言う。


これに怒った行長は「御免」とその場を退席する。


家康は、三成が自分を面白くないと思っている事を知っていた為、こうした三成に対し不満を持つ大名の懐柔を行うのである。


特に家康は秀吉が死んだ後、積極的に勢力拡大の為、伊達政宗だてまさむね蜂須賀家正はちすかいえまさ、福島正則、黒田長政、等と婚姻を強引に進めていた。


この家康の動きに真っ向から立ち向かったのは加賀大納言かがだいなごん前田利家まえだとしいえである。


石田三成は秀吉の次は利家の名を笠に着て家康を糾弾する。


伏見・徳川屋敷には家康糾問いえやすきゅもんの為、長束正家、前田玄以、増田長盛の三名が派遣された。


「殿下の薨去以来、内府ないふ(徳川家康の事)殿の振る舞いは遺命に背きし事多々あり。とりわけ諸大名との縁組は法度をないがしろにする振る舞いと存ずる。」


家康は糾問の使者の言葉を爪を噛みながら黙って聞いている。


「内府殿の御答おこたえ次第では大老の職を解き、十人衆より除外いたす!!」


家康は落ち着き払い答える。


「これは、異なことを聞く、この家康は太閤殿下の遺命により秀頼君の補佐役を任じられた。それを勝手に役職を解くとは、それこそ殿下の遺命に背くのではないか?」


三人衆は裏でこそこそ相談しながら家康に言う。


「申し開きは大坂城にて承る。我らと共に大坂城へと御出仕ごしゅっし(城に行く)願いたい。」


家康はじろりと三名を見据えて一言「断る」と言った。


三人衆は大いに驚き「なんと仰せになりますか!?」と家康に聞き返す。


「昨今、ただならぬ噂がある、石田治部少が奸計を企て、大坂城内で家康を亡き者にせんと企んでいるとの事。」


三人衆は家康を正面から見据え


「ただの風説にすぎませぬ」


そんな三人衆に家康はひらひら手を振り「とにかく断る」の一点張りを通すのだ。


「ご出仕無くば逆心ありと見なしますぞ?」


などと家康を何とかして大坂城へと呼び出そうと画策する。


「逆心とは心外な!この家康、かつて殿下の妹君を正室に迎え、次男・秀康を殿下の養子に差し上げている!しかも孫娘は秀頼君の許婚だ!!これ程の忠義がまたとあろうか?それを三成如き小僧に糾弾されるとは片腹痛い。」


これは周知の事実であり、そこを突かれると三人衆も何も言えなくなってしまう。


万策尽きたかに見えた三人衆は次に違う角度から家康を詰問する。


「家康公に於かれましては、伊達政宗の息女・五郎八いろは姫と六男・辰千代殿をめあわせるとの事、真実にござりますか?」


家康は何の問題があるのか?といった顔で「いかにも」と答える。


「蜂須賀家正の子に小笠原秀政おがさわらひでまさの娘を養女として嫁がせる事も相違ござらぬか?」


家康は同じように「相違ない。」と不敵にも答える。


「福島正則の子、正之まさゆき松平康元まつだいらやすもとの娘を養女として娶せる件は!?」


家康は爪を噛みながら「相違ない!!」と強めに答える。


「大名同士が許可なく婚姻を結ぶのは法度に背いており申す!」


家康がとぼけた顔をしながら


「ほぉ、ころりと忘れておった。」


と言い出した。


これには三人衆も「わ、忘れておった!?」などと驚いていた。


傍で侍っていた正信に家康は問いかける。


「弥八郎、世話人の今井宗薫いまいそうくんは届け出をしていないのか?」


正信も「はて?如何でしょうか?」などととぼけていた。


三人衆はここぞとばかりに「届け出は出ておらぬ!」と詰問する。


「これはわしの失態だ、宗薫にすぐにでも縁組届を提出させよう。」


三人衆はいきり立ち


「時すでに遅し、法度を蔑ろにした罪は免れませぬぞ!?」


と家康に言い付ける。


家康も「それではどうすれば良いのだ?」と呆れた顔をして三人衆に問いかける。


「大坂城で申し開きをするべし!」


と三人衆が家康に言った刹那、家康の顔が穏やかな顔から怒りの顔に急変し


「それは断った!!!」


と三人衆を怒鳴りつけるのだった。


その後、穏やかではあるが怒気を孕ませた声で


「各々がた、大坂に立ちかえり大納言だいなごん(利家の事)と治部少にお伝えあれ、今回の縁組の一件は家康の粗忽そこつ(うっかり)によるもの、これをあくまで不忠とあげつらうなら、直ちに江戸へ立ち帰り引き籠る!それでも良いか!!」


三人衆はもはやぐうの音も出ずに家康公の覇気に当てられ、大坂へとすごすごと帰るのであった。


これに激怒したのは石田三成である。


前田利家はじめ、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元の四大老に家康の行動を弾劾する為、家康打倒を公然と打ち上げ四大老を説得していたのだ。


「これで内府殿の逆心は火を見るよりも明らか!」


三成の檄が飛ぶ、しかし四大老は冷静である。


宇喜多秀家は若く血気に逸る所があるが、上杉景勝や前田利家などは冷静に事態を把握していた。


「戦うにしても内府殿は大敵だぞ?」


上杉景勝が三成に現実を突きつける。


「しかしこちらは四大老五奉行を擁し、豊臣家を頂いております、豊臣家へと弓引く謀反人を成敗するという大義がござります!」


三成は得意満面である。


「何も家康殿は豊臣家に弓引くとは言ってはいないぞ。」


得意満面の三成を制したのは加賀大納言・前田利家であった。


利家は信長の小姓こしょうから真っ直ぐな心根で成り上がった男で、信長も秀吉もこの男だけは別格で信頼し、また一目置いていた。


秀吉亡き後、「虎の威を借る狐」ならぬ「猿の威光を借る茶坊主」の石田三成は利家を頼みとしていた。


家康も秀頼が頼みとし諸大名から絶大な信頼を寄せる前田利家を敵に回そうとは思わなかった。


五大老の中でも家康に真っ向から立ち向かえるのは利家だけなのである。


そんな利家の言葉は今の三成に重くのしかかる。


「なんと仰せですか?」


三成が利家に言葉の意味がわからないといったような顔をしたので、利家ははっきりという。


「家康殿が申すにはだ、君側の奸、面白からず。だそうだ」


三成が家康の云う所の「君側の奸」が自分を指している事を即座に理解し


「なんと仰せになります!!私は殿下の心を己が心としこれまで豊臣家にお仕えしてまいりました!!」


利家が三成をなだめる様に「わかっておる」と答え、次いで景勝が「そういえば内府に味方している将の多くは三成と敵対関係にある将ばかりであったな。」などと言う。


三成は「なんと、三成に落ち度ありと申されるのか!?」と言い顔を青くする。


利家は三成に「そなたの忠義はわかっておる」と言うのだが。


「もし徳川殿の逆心が三成の振る舞いからくるものであれば腹掻っ切ってお詫び申し上げる!」


と今度は三成が激昂するのだ。


そんな様子を黙ってみていた宇喜多秀家も「如何いたしますか?」と利家に伺いを立て


利家は「池に石を投げてみるか。」と決断を下した。


加賀大納言・前田利家も秀吉亡き後、病魔に侵されいまや余命いくばくも無い状態であった。


利家は、家康の本意を見抜く為、病に蝕まれながらも家康の下に訪れた。


腹芸が一切出来ない利家と権謀術数けんぼうじゅっすうの塊の家康の会談が始まる。


「内府殿は変わりなく、いつまでも若々しいのぉ」


利家は先制ジャブの様に口を開いた。


「おぬしもまだまだ元気そうじゃないか。」


家康が探るように聞き、利家は正直に答える。


「わしはもう駄目じゃ、体が言う事をきかん、もう三月ともたんじゃろう。」


家康は少し悲しさを感じた、今や対岸にいる利家だが、その昔は共に信長公に憧れ、若い頃からの戦友なのだ。


時には敵対することもあったが、利家のその真っ直ぐさは家康から見ても素直に好感が持てる男であったのだ。


「今、そなたに死なれたら後が大変じゃわい。」


家康はうつむき加減で答えた。


その言葉を聞いた利家は家康の目を直視して尋ねる。


「それは本心か?本当は早くあの世へと逝って欲しいと思っているのではないか?」


家康はなお悲しそうに答える。


「馬鹿げた事を」


利家は家康のそばに寄り強い言葉で言う


「よいか家康殿、わしが死んだからとて天下がどうにかなるとは思わんが、この利家亡き後の事は全て徳川家康に託すぞ?天下を安寧に導く器は徳川家康おいて他に居ない!」


家康は一言、耳元で囁くように


「あいわかった」答え、会談は無事終了した。


その後、家康は利家の徳川屋敷訪問の返礼と病気見舞いの為、前田邸を訪れ、利家より昔利家が信長公より拝領した郷義弘ごうのよしひろの太刀を一振り贈られる。


そうして利家は家康に今生の別れを告げた。


その帰りの事である、家康一行は正体不明の一団に襲われたのだ。


警備に当たっていた藤堂高虎とうどうたかとらが暗殺者を蹴散らし、逃走先を突き止めた、そこは加賀前田屋敷(利家の屋敷)であった。


高虎は一団の引き渡しを要求したが、襲撃者は利家の病床に張り付き、全く動く気配を見せず双方事を成し遂げるに至らなかった。


その時正信が即座に伊賀者を使い襲撃者の正体を突き止めたところ、主犯は石田三成である事が判明した。


慶長けいちょう4年閏3月3日(1599年4月27日)


加賀大納言・前田利家没する。


これで事実上、天下は家康の独壇場となった。


前田利家の死は当然、石田三成にも大きな影響を及ぼした。


利家は存命中に三成と様々な武将たちの仲を取り持っていて、皆が「前田利家の言う事なら」と我慢していたものが利家の死と共に爆発し、特に三成に恨みを持つ武将、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興ほそかわただおき、浅野幸長、池田輝政いけだてるまさ加藤嘉明かとうよしあきらの七将が三成を襲撃したのだ。


七将の動きより先に命の危機を察した三成は、盟友である佐竹義宣さたけよしのぶの手を借り、伏見・徳川屋敷の門をたたく。


これには寝ていた家康も驚き一瞬、耳を疑った。


まさか目の敵である徳川屋敷に三成が助けを求めてくるとは。


そんな家康の寝所を正信が訪れ


「治部をどうなさいます?」


と一言聞いた。


家康はうーむと唸り答える。


「今考えている所よ」


とこれまた一言で回答した。


正信は「かしこまりました」と言い寝所を後にする。


大坂城もまた三成が七将により強襲きょうしゅうされたとの急報に、にわかに騒然とした。


太閤亡き後、三成を頼りにしていたよどかた大野治長おおのはるながは特に狼狽ろうばいした。


大野治長とは秀吉の家臣であり、秀吉亡き後は淀の方にべったり張り付いている男で、淀の方の乳母うば(乳母とは粉ミルクの様な代用乳が無い時代に実母の代わりに母乳を与えていた女性)・大蔵卿局おおくらきょうのつぼねの嫡男である。


淀の方と大野治長はいわば乳兄弟ちきょうだいであった。


そんな慌ただしい大坂城内にあり状況を冷静に判断していたのは秀頼ひでより傅役もりやく(補佐役)の片桐且元かたぎりかつもとである。


且元は秀吉子飼いの武将の一人で、本能寺ほんのうじへんの後に秀吉が柴田勝家しばたかついえと戦った賤ケしずがたけの戦いにて華々しく武功を上げた七人の将を賤ケ岳の七本槍しちほんやりと呼んだのだが、且元もその一人で、今は大坂城番の城詰めとして秀頼に仕えていた。


淀の方は治長に問う。


「どうすればよい?」


治長は焦りながら


「まずは三成殿を助けねば」


と答える。


且元は治長の言葉にそれを具体的に示すのがお主の仕事だろうに、と思いながら淀の方に進言する。


「伏見へ使者をお遣わしなされませ。清正も正則も豊臣家子飼いの武将なれば、北政所きたのまんどころ様とは御昵懇ごじっこん、お墨付きをちょうだいすれば三成の命は助かりましょう。」


淀の方は伏見の北政所に宛て文を出した。


北政所は三成を助けるのはやぶさかではないが大坂でそれを対処できる者が居ないのが歯がゆかった。


「ひげを生やした大名がいくら頭を下げても、内府殿一人に治部の助命嘆願じょめいたんがん出来ぬとは、嘆かわしきかぎりじゃ。」


北政所は家康宛に取り急ぎ文をしたため徳川屋敷へと使者を走らせた。


使者が家康の下に辿り着く前に七将は既に徳川屋敷を囲んでいた。


皆々口に「治部憎し」の声を荒げやれ「治部を出せ」、「逃がすわけではあるまいな」などと息巻く始末。


家康は三成に死んでもらうか、大老として保護するか未だに迷っていた。


そんな中、北政所の文が届き、三成を生かしておくことにしたのだ。


家康は淀の方よりも秀吉の正室であった北政所の言葉を重視し昵懇にしていた。


北政所のお墨付きがあるならばと決めた家康の行動は早かった。


七将の中で黒田長政と細川忠興を呼び出し三成の処遇を取り決める。


三成の奉行衆からの除名、及び居城である佐和山城への蟄居と決定した。


再三に渡り斬首を主張してきた七将も家康の決定には逆らえず、正式に三成の処遇は奉行の職を解き、三成の所領である佐和山さわやまで謹慎となった。


ここにきて前田利家の死、石田三成の失脚と五大老・五奉行制は確実に綻び始めたのだ。


家康は佐和山までの道のりで七将からの襲撃に備え、三成の警護に家康の次男にして武勇の誉れ高い結城秀康ゆうきひでやすを付けた。


三成は秀康の丹念な警備に感じ入り秀康に秀吉より拝領した名刀・正宗を贈った、秀康はこれを石田正宗と銘し、終生大切にした。


そんな三成の徳川家に対する感謝の心も一瞬で吹き飛ぶ事件が起きる。


前田利家が亡くなり、一時帰国中であった加賀大納言の後継者・前田利長まえだとしなが


利長は利家の後を継ぎ五大老の一人として就任したばかりであったが、家康は若い利長に罠を仕掛けた。


浅野長政。


太閤秀吉の正妻・北政所の実家、浅野家の養子であり、秀吉とは義理の兄弟にあたる人物である。


長政は北政所をないがしろにする淀の方や秀頼中心の政権を作る三成の振る舞いを好ましく思わず、秀吉や北政所が信頼していた利家によく懐いていたが、利家亡き後は何かと北政所を立てる家康に急接近していた。


これには北政所の指図もあった。


「豊臣の家は一代限りじゃ、これからは内府殿を頼りなさい」


長政にとって北政所のこの一言は何より重い一言であった。


長政は家康と図り、過日の「前田邸家康暗殺未遂事件」の犯人を自らをおとりにして次々犯人をでっち上げたのだ。


これにて、様々な大名が一斉に詮議を受け罰せられた。


前田利長や大野治長もその中の一人であった。


治長は淀の方に泣きついたがどうにもならず常陸国ひたちのくに(現在の茨城県辺り)の佐竹義宣に身柄預かりとなる。


治長の身柄は淀の方にとっては絶望でこの世の全てを失うような心地であったが、三成を仰天させたのは、利長の事だ。


利長は身に覚えのない罪状で裁かれようとしている事に驚愕した、それも父を慕ってくれていた浅野長政が証言したというのだ。


利長は事ここに至れば家康と一戦交える覚悟を一度決めるが、前田利家の正室にして前田利長の実母・芳春院ほうしゅんいんに時勢を考えなさいと叱責され、妹婿の細川忠興の周旋しゅうせんで母・芳春院を人質として「江戸城」に預かる事が決まった。


大名の親族を人質として「江戸城」に預かるのは芳春院が初めてである。


こうして、五大老・五奉行制は前田利長、浅野長政、石田三成を欠いて秀吉の死後数年で瓦解したのである。


こうして徳川派と三成派の対立は深まっていくのだ。

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