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三甚内

歴史って一つ一つ異説もあるからこれが正史であるというものが無いんですよね。

だからこそ細かい所は調べながら書いているんですが、皆さんと同じ歴史観に立てていたなら嬉しいです。

三甚内と呼ばれる江戸を影から守っていた盗賊たちが居た。


これは南光坊天海が次郎三郎と風魔の結託に対して危機感を抱き影働きを柳生には任せられないと考え、3名抜粋した者達であった。


一人は「鳶沢甚内とびさわじんない」。


この鳶沢、後北条氏の家臣であったが、太閤秀吉の小田原征伐の後、後北条氏が滅亡し鳶沢は仲間を集め盗賊の頭になる。


次第に混沌とした戦国時代も終わりつつ、盗賊稼業も先が見えてきたと悩んでいた鳶沢にとって天海の申し出は渡りに船であった。


天台宗のお墨付きで江戸の町で昼間は古着商い、夜は自分たち以外の盗賊団を見かければ追い出しをかけるなんて盗賊に身をやつしてしまったらこんな話は、まず来ない。


古着は顔を見ない盗賊も売りに来た。


鳶沢はそういったはぐれ盗賊も仲間に加え、勢力を拡大していった。


この鳶沢が日本橋の古着屋が集まり、鳶沢町の名がついた。


これは「日本橋富沢町」の名の来歴であるという説もある。


2人目の甚内は「庄司甚内しょうじじんない」である。


彼も後北条氏の家臣であり、後北条氏の滅亡後に鳶沢と同じような道を辿っていたのだが、彼は天海の指示で江戸に遊郭を開かせ運営させた。


天海の大きな後ろ盾もあり庄司家が遊郭の惣名主として認められ、以降、遊郭の惣名主は庄司家が務めた。


3人目は「高坂甚内こうさかじんない」という男である。


高坂甚内は上の二人とは少し違う毛色の育ちであった。


彼は、武田四名臣の中でも逃げ弾正と名高い高坂昌信の孫であった。


高坂昌信とは身寄りがなくなった所を信玄に拾われ、始めは奥近習として召し抱えられ、戦場では使い番を経た後、足軽大将、海津城主と出世していった武将である。


そして最後まで生きたの武田四名臣でもあった。


他の四名臣、馬場信春、山県昌景、内藤昌豊の他の三名は長篠で討ち死にし、昌信も嫡男・昌澄を長篠に参戦させたがそれも討ち死にしてしまう。


自らは武田勝頼始め、武田の重臣達が甲斐を離れる間、信濃の海津城にあり上杉謙信への牽制に勤めていたのである。


高坂昌信は落ち延びて来た勝頼を迎えに行き


「御屋形様がこの様なお姿ではいけませぬ。」


と用意させていた新品の具足、陣羽織を勝頼に渡し、勝頼にその具足と陣羽織に早速着替えさせ、勝頼が甲府に到着した時はその立派な出で立ちに、負け戦と聞いて士気が落ちていた甲府の人々の士気を上げたという。


信長の甲州征伐はすぐにでも始まると皆が思っていた。


しかし信長は一向宗との戦いや毛利との戦いにも忙殺されていた為、なかなか甲斐に本格的に征伐を行う時間が無かったのだ。


その間武田家は何とか生き延びる為に同盟者を探していた。


信長の本格的攻勢は無くても、徳川家が長篠以降攻勢を強めた為、勝頼は度々出陣をしていたのだ。


戦の合間を縫うように、勝頼は北条氏、佐竹氏、そして上杉氏等と同盟相手を探り最終的に高坂昌信と武田信豊が上杉氏の跡目争いである「御館おだての乱」で上杉景勝側と交渉していた為、甲越同盟が締結されるのだが、その間に祖父・昌信は亡くなってしまう。


叔父である昌元は織田に帰順した後、森長可の与力として所属した。


しかし本能寺の変で信長公が壮絶な死を遂げた後、森長可は一向宗門徒や旧武田遺臣等による一揆、上杉景勝の南下を恐れ美濃へ撤退しようとするが、昌元は一揆勢と共に長可の美濃撤退の行く手を阻んだ。


そうして織田軍から抜けた昌元は上杉に属し、上杉家にいる間、後北条氏が信濃佐久群へ出兵した際、旧武田遺臣の真田昌幸に調略されているのが露見し昌元は誅殺された。


高坂甚内の父は三男の高坂昌定という男である


自分は兄達の様にならないようにひっそり生きるが、この子には一人でも生きて行ける術を学ばせねばと、武田乱波の業を教え込んだ。


こうして高坂甚内は親元を離れ自由に生きる為、後北条氏がまだ健在な頃から風魔と鎬を削り合い盗賊仕事をしていた。


それだけの大盗賊でもあった。


天海はこの三名を江戸の街を裏から他の盗賊団や乱波から守る様にと命じ、三甚内として秀忠と柳生の負担軽減に努めた。


秀忠はこの天海の心遣いに対し機嫌よくし、天海をますます幕閣の中枢に押し出す。


風魔がこの動きを察知し次郎三郎に江戸での活動が難しくなりつつある旨を伝え、次郎三郎は策を練る。


未だ三甚内が連携を取れていない今こそが好機なのではないか?と機をみて敏なりとはよく言ったもので、慶長六年閏11月2日に腕利きの風魔を江戸の町に放ち、大規模な放火活動を行った。


秀忠はすぐに幕府が開かれるものであると思っていた為、町割りを急ぎ過ぎ民家は全て火の手が回りやすい藁葺き屋根にしていた事が致命的になり総死者数不明、江戸の町を殆ど焼き尽くす大火となってしまったのだ。


この事件の後、すぐに御前会議が開かれた。


御前会議とは次郎三郎が居るか居ないかの違いであるが、秀忠腹心の青山忠俊、酒井忠世、土井利勝などは家康の入れ替わりを知らされていない為、切腹覚悟でこの会議に参加した。


次郎三郎は何一つ言葉を発することは無かった。


此処で秀忠や青山、酒井などを怒鳴りつけているのは家康の腹心、本多弥八郎正信であった。


「中納言様!何故、江戸の町割りなどの大事を少数の家臣の意見だけで進めたのですか!?君主たるもの民の生活を安んじる為に町割りを考えるのであり、行き当たりばったりの行政など民衆にとっては迷惑千万!!!」


青山、酒井などは真っ青な顔をして次郎三郎を見たが、次郎三郎は我知らずといった涼やかな顔をしていた。


こうして関東総奉行という関東の政治を取りまとめる役職を設け、そこに本多正信が就任する事でこの場は収まった。


正信と次郎三郎が二人きりになった所を正信が再度次郎三郎に問い詰める。


「此度の火事、そなたの仕業ではないであろうな?」


次郎三郎は開き直り「わしじゃよ」と答えた。


正信は顔を赤くし、


「先ほど中納言様にも申し上げたが・・・」


次郎三郎が面倒くさそうに


「わかっているよ、政や人命を軽んじているわけでもない。此度は江戸に其方の役職を作るための苦渋の決断だったのだ。江戸の町は今や秀忠の心の拠り所、表も裏もそうなりつつある。秀忠に軍師が付いたのだろう。」


正信が


「わしにそれを探れというのか?」


次郎三郎は首を横に振り


「いや、弥八郎は江戸の町を少しでも良い街にしてくれればそれで良い。後はこちらから探る。とりわけ南光坊天海には気を付けろ秀忠殿が推挙した人物だ。この者何かあるに違いない。」


正信は了承し、関東総奉行としての職務に全力を注ぐのである。


次郎三郎の傍には正信との交信係として正純が侍る形となった。


こうしていくつかの不安の種を残しながらも江戸の町を後にする。

ここまで読んで頂き誠に有難うございます

誤字脱字等ありましたらご指摘いただければ幸いです。

これからもよろしくお願いします。

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