狂戦士物語
その男は、狂っていた。
どれほど狂っているのかと言えば、それは一般に怪物、あるいは魔物と呼ばれる一切合財を「殺す」ことに快感を覚えるほどであった。市壁の周りをうろつく弱小のものから、たとえば森の奥を住処とする人狼やゴーレムまで、一切合財である。
男を知る誰もが、いつ彼の気が変わって自分が殺されるかと冷や汗を流している。だが、男はこれまで、魔物でないものは何であれ殺したことなどなかった。
その男の名を、メールヘルトという。意味するところは、海のように広い心。
朝日が昇る前に、メールヘルトの一日は始まる。欠伸ひとつせずに上半身を起こし、さっきまで毛布代わりにしていた、茶色くてぼろぼろの革の外套に袖を通す。ベッドのわきに立てかけてある、すり切れた鞘に収まった長剣を手に取って、木造のプレハブとでもいうべき小屋――メールヘルトの「巣」をあとにした。
「さて……今日はどこへ行こうか」
巣から出てすぐに、メールヘルトは独り言を言う。この男は、自分が考えていることをすぐに口に出すのだ。だから、持ち前の殺戮趣味と相まって、よけい気味悪がられる。
「久しぶりに、ゴブリンで殺陣でもやろうか……」
その独り言の内容がこのように物騒なのだから、尚更である。
だが、メールヘルトにとっては、こうしていることこそ自然なのであって、文明とやらを高らかに謳うその他大多数の人間の方が狂っているのだ。本当なら殺すだけで用済みの怪物から皮を剥いだり物を奪ったりして街で換金しているのは、あくまでそうしなければ生きていけないからであって、文明人の輪の中に加わりたいからではない。
さて、鼻歌交じりに歩いていたメールヘルトが小高い丘の上でふと足を止めて、ことさらに声を潜めて言った。
「お、いたぞ。ゴブリンだ」
ゴブリンはふつう、少なくても数体、多ければ数百体で群れを成して行動することが多い。一、二、三……と声に出してその数を数えたメールヘルトは、少々不満そうに首を横に振った。
「……ちと少ないな。しかも、こっちに向かってくるわけでもなさそうだ。俺に後ろをつく趣味はない」
しかし、彼がその場から立ち去ろうと思いかけたその時、興味深い現象――少なくとも彼にとっては――が起こった。男は地平線に少し目を凝らし、そこからやってくるものを認めると、やや感動している風にため息をつく。
「ゴブリンが集まってくる。あっちからも、こっちからも。ほら、また別のところからも来た。こりゃいいな、集まりきったところでまとめて相手してやろう」
普段のメールヘルトならばありえないぐらいの長台詞を言い終えたころには、目は興奮で妖しく光り、口は顎まで裂けたような笑みの形を作っていた。そのまま、ゴブリン達が集まっていく様を観察していると、彼らは皆、ちょっとした森の中に入っていくので、メールヘルトは丘から降りて、見つからないようにその後を追い始める。
女の悲鳴が響き渡った。
「ほう、そういうことだったか。だったら、邪魔することはないな」
メールヘルトは、心の底から納得して言った。
ゴブリンには、確かに雄と雌がいる。だが、雄の割合が圧倒的に高いせいで、必ず雌が不足するのだ。そんなわけがあって、ゴブリンの雄は人間の女に群がる習性を持つ。群がってどうするのかは、このさい想像にお任せしよう。
メールヘルトはその想像の部分の正解を知っていて振り返り、そのまま別の魔物を狩りに行こうとしたのだが、彼の周りにはすでに新手のゴブリン達がいて、その行く手を遮っていた。錆びついた短剣の切っ先をメールヘルトに向け、ケタケタ笑いながら言う。
「お前、ニンゲンだな? ニンゲン、女、大事。でも、キサマ、男、殺す!」
亜人の一団はメールヘルトめがけて一斉に突っ込んでいく。それを見たメールヘルトは、油断なく長剣の鞘を払った。長い柄を両手で握り、体を回転させて叩きつけるように振るう。
「ギッ!」
ゴブリンが二、三体まとめて吹っ飛ぶ。それを視界の端に収めた狂戦士は、黄色い歯を剥いて笑った。灰青色の瞳は瞳孔が収縮して、まるで点のようになっている。
「うわ! コイツ、強いぞ!」
生き残ったゴブリン達の足が止まり、あるいは止まりきれずメールヘルトの足に頭をぶつけた。その、止まれなかった不運な亜人に、狂戦士は逆手に握った剣を突き下ろす。
その時も、彼は笑っていた。
「決めた」
長剣を握った両腕をだらりと下げ、舐め回すように周囲を睥睨する。
「こいつらぜーんぶ……殺してやる」
剣を胸に引き寄せ、神速の踏み込み斬りを放つ。同時に、一体のゴブリンが二つに千切れた。
数十分が経過した。辺りの地面は黒ずんだ血に満たされており、その上を数百の短剣と、その持ち主の死骸が覆っている。
まさに地獄絵図だ。しかも、血に塗れた怪しげな男がただ一人そこに立っているとあれば尚更である。その男、メールヘルトは、先ほど斬り倒したゴブリンから奪った布きれで、長剣についた血をぬぐっている。
メールヘルトの口元には、まだ薄気味悪い笑みが浮かんでいた。瞳孔が縮み、口は顎まで裂けて、黄色い歯が覗く。
「そこにいるだろう? 文明人。出てこい」
彼はだしぬけにそう言うと顔を上げた。その視線の先には太い木がある。とは言っても辺りには「太い木」というものがいくらでもあるのだが、その中でも大きなものだった。
その裏から観念したように出てきたのは、十六、七ぐらいの女だ。木の葉の隙間から入った光を、指にはめられた金属製の物が反射する。
女はメールヘルトの姿を見ると、しばらく呆然としていたが、やがて思い出したように慌ててお辞儀をして、今度はおどおどし始めた。
メールヘルトは、顔に浮かぶ笑みの種類を変えて、籐のバスケットを抱えた女に声をかけた。
「お前は誰だ?」
威嚇ではないその言葉に、女はある程度の落ち着きを取り戻して言う。
「あ……ありがとう、ございました。私はリサといいます。ええと……」
「それ以上は言わなくてもいい」
メールヘルトは、遮るように言った。
「きっかけというやつだ。ということで、一つ質問をする。俺は街での暮らしを捨てた。それからはできるだけ街に近づかないようにしている。魔物狩りを続けていると、文明人どもはとても窮屈な暮らしをしているように見える。事実はどうなんだ」
リサと名乗った女は、少し考え込むそぶりを見せた。それはメールヘルトの問いに脈絡がなく難解だったからだ。だが彼女は彼女なりの答えを思いついたらしく、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私は……一か月前に結婚したばかりなんですけど、毎日、楽しく暮らしていけています。近所の方々も優しくしてくれて……今日は、そのお礼も兼ねて、皆さんをお招きして家でパーティーを開くために、森のキノコを採りに来ていたんです。そしたら……」
「そうか」
メールヘルトが再び話を遮る。
「俺が街を離れたのは、そういえばそのご近所付き合いだった。思い出すのも嫌なことだが……そういうことだ。人はいろいろなんだろう。あの暮らしには、絶対に戻りたくない」
顔にありありと嫌悪の色を滲ませて話した内容には、まとまりというものが欠片ほどもなかった。いや、元はある程度しっかりした話だったのだろうが、省略した言葉が多すぎて意味がわからなくなってしまっているのだ。
「…………」
リサは何も言わなかった。血生臭い森の中が静寂に包まれる。
メールヘルトは踵を返し、その場から立ち去った。小高い丘を越え、その住処にたどり着くと、建て付けの悪い扉を閉じ、ぼろぼろに錆びた閂を下ろして、それから二度と外に出なかった。