Rain─5 『君は欠陥品』
久々に投稿です。受験終わったら一息つけますかねぇ。
そこに佇む一人の青年を、あの日どれくらいの人が目にしただろう。
時刻は午後の六時、立ち並んだビル群から吐き出された人々は一つの大きな流れとなって駅へと押し寄せる。ある種整然とした人波はコンクリートの街を溜息と足音で埋めた。
一週間前まで花見客で賑わっていた駅前の並木道、花弁も散り切った桜の木が寂しそうに枝を伸ばすその下を、スーツ姿の人々が疲れ切った表情で通っていく。四月らしい浮ついた雰囲気は既に無く、社会という現実の中に溶けきってしまったようだった。
閉塞感を感じて周囲を見渡しても、そこには灰色の壁があるだけ──その筈だった。
ごった返した人波、そこに“彼”はいた。
人の流れに逆らうでもなく、かといって溶け込むわけでもなく、ただその新雪のようなキメ細やかな白肌は周りとは一線を引くような存在感と冷たさを放っていた。
少し襟ぐりの深い黒色のシャツは“彼”の鎖骨を妖艶に浮かび上がらせ、彫像のように整った顔へと舐めるように視線を誘導する。
偶然彼を見ることが出来た者は自分の運の良さに少しばかり歓喜したかもしれないし、その美貌を羨み自身の冴えない境遇を思いまた一つ溜息を漏らしたかもしれない。
だが、数秒目を離す内に“彼”はするりと雑踏の中へと紛れ込んでしまった。まるで、危機を感じた魚が群れの中に身を隠すかのように。
もしくは──見つけた獲物に悟られまいとする一種の狩猟本能なのかもしれない。
そうした一連の光景をあの日、雨坂あおいは目撃した一人だった。
* *
毎日のように教壇に立ち黒板と向き合っていると自然、背後から飛ばされる視線や音に敏感になってくる。そういった視線や音の飛んでくる位置や有無から、何となくあの生徒が寝ていたり、この生徒は隣人とのお喋りに夢中だ。何てことが感覚的にわかるようになってくる。
ある意味、一種の職業病に侵されているような状態だなぁ。数学教諭のあおいはそう思考しながら、そう考える原因に至った視線の主“彼”へと目を向ける。
授業中と言うこともあって、他の生徒が齧り付くようにノートへ板書している中、“彼”は一人、顔を上げていた。
視線が交錯する。
「っ……!」
「……ふふっ」
思わずといった風に目を伏せた“彼”の様子を、あおいは黒板に白跡を刻みながら心の中で「ここ一週間で最も尊い反応」だと評した。
出席番号十三番 加瀬天音。
穏やかに揺蕩った淡い瞳、少し伸びた髪を後ろで纏めたおさげが窓際で揺れている。
顔立ちは目立った印象は無いが、充分に整っており、成績も優秀。運動も不得意というわけではないらしい。
コレと言って欠点の見えない青年。
誰もが彼を非の打ち所の無い優しい青年だと評するだろう。しかし、あおいは思う。
彼以上に“欠けた”人間はいないだろうと。
「加瀬くん、この問題をお願いします」
「っ、はい」
淀みなく、静かに答えを述べ終えた彼は何ごとも無かったかのように椅子に腰を降ろす。周囲もまた、それが当たり前であるかのように反応を示さない。
あおいもまたそれに倣い、彼の答えた数式を黒板に刻む。隣に描いていた図式を消し、新たな図を描く。
こうして授業は進んでいく。
今でも思い出す。あの日、あの場所で見た光景。あの日から加瀬天音はあおいの特別になった。
(天音君……)
彼女の、黒板に面と向かったその表情が恍惚としていることを生徒達は知らない。
白粉のついた指先を、あの感触を思い出すようにして唇に押し当てる。
(ああ、私は……)
あの日からずっと、彼女は夢見続ける。
(あなたの“壊れた姿”がみたいな)
誰かが言った。
加瀬天音は『欠陥品』であると。




