エピローグ
2004年 5月15日。
過去に囚われた自分は、決してそこから自由になることはないのだと、平理恵は自覚していた。
自宅から歩いて十五分ほどの場所にあるスナックで働き初めて、もう十年以上になる。結婚生活がうまくいかず、前科持ちとなった自分を雇ってくれていることをありがたいと思うばかりだ。たとえ給料が低く、微塵もやりたいと思えない仕事でも、生きていくためならば仕方がない。娘の父親にあたる人物が、この土地で力を持っていることが幸いだった。彼の圧力なしには、理恵たちは生きていくことができていないだろう。
それでも、今日も、家に帰ればあの子を殴ってしまう。それが許されぬ行為だとはっきりわかっているのに、理恵は自分を抑えることができない。
いつからこうなってしまったのか。前の結婚生活が破綻したところまでは、まだ人としての心があった。夫と息子を殺害したあの日がきっかけなのだろうが、それも楠理恵という人間の本性だった可能性はある。そもそも、生きるに値しない人間なのかもしれない。
あと二年もしないうちに、娘の祥子は中学校を卒業する。なんとかして高校に入学させてやりたい。できることなら大学にも。祥子には、自分とは違い、真っ当な人生を歩ませてやる必要がある。理恵自身が学歴の壁に打ち当たり、それが原因で心が廃れてしまった。そのせいであんなろくでもない男と結婚し、人生が狂ってしまった。その分、祥子には幸せになる可能性を高めるだけのチャンスを与えてやりたい。
こうして毎日、帰宅しながら娘を想っている。
それにも関わらず、帰宅すればあのザマだ。どうしても、祥子の顔を見ると自分の悪の部分を隠し切れなくなる。日に日に、あの子が昔の自分に似てくるからだろうか。過去への後悔から、自分への戒めとして祥子を傷付けてしまう。まったくもって、愚かな人間だ。
腕時計を確認すると、午後八時すぎ。すでに祥子は帰宅しているはずだ。金曜日は吹奏楽部が休みの曜日だ。中間テストも近いのだから、その勉強をしてくれていることを願うばかりだ。
大雨の中、傘をさして歩いているのは理恵だけだった。雨粒が街頭に照らされ、チカチカ光って見える。アパートの廊下のライトも、今日は静かに灯りを放っているだけ。この時期はいつも、小さな虫がたかってうっとうしい。
アパートの階段を上がりながら、理恵は部屋の明かりが点いていないことに気付いた。もうこんな時間だというのに、祥子はどこで何をしているのか。大事なテスト前に、余計なことで時間を使って欲しくはないのだが。
玄関のカギを開けて中に入る。
やはり誰もいない。昨晩のおかずのにおいが充満しており、生活感丸出しの家が恥ずかしくなった。バッグをテーブルに起き、疲労感に流されるまま椅子に腰掛ける。全身から酒と煙草のにおいがする。今日は早めにあがらせてもらったというのに、全くスッキリしていない。
さすがに、そのうち祥子が帰ってくるはず。たまには作り立ての夕飯でも食べさせてやろう。理恵は体に鞭を打って立ち上がり、冷蔵庫の中身を確認することにした。そうして歩き出した途端、玄関のチャイムが鳴った。
一瞬、祥子かと思ったが、そんなはずはない。あの子ならカギを開けて入ってくるはずだ。対応するのが憂鬱だったが、物音を聞かれてしまっている。仕方なく玄関へ向かうことにした。カギのつまみを回し、ドアを少しだけ押す。隙間から外の様子を伺うことにした。
「こんばんは」
若い男の声がし、理恵は僅かに驚いた。普段仕事で関わるのは大人の男ばかり。こんな時間に若い男が訪ねてくるなど、非常に珍しいパターンだった。
「どちらさま?」
「すみません、突然。祥子さんと同じ中学の長峰といいます」
長峰と名乗る少年の姿を見た瞬間から、娘と同じ制服だとは気付いていた。緊張感はほぐれたが、これはこれで疑問が生まれてやまない。
「祥子さんのことで、少しお訊きしたいことがあって」
「忙しいから短めにしてね」
「はい。祥子さん、虐待を受けてますよね」
「・・は?」
少年から飛び出した言葉に、理恵の全身が硬直した。少年の外見とその言葉が、まったくもってアンバランスだった。
「なに言ってんの?」
「僕は色々知ってるんです。祥子さんの体のアザとか、お母さんにやられてることとか」
駆け足の口調で話す少年は、僅かに緊張しているのだろう。それでも表情に焦りはなく、理恵を見下すような笑みを浮かべていた。それが何よりも不気味だった。
「許されると思ってるんですか?」
「なに言ってるのか・・よくわかんないわね」
「祥子さん、傷付いてますよ」
理恵は何も言えず、少年から目を逸らした。それ自体が罪を認めている証拠になってしまう。娘と同年代の少年に言いくるめられていることが、それに何一つ言い返せない自分がみっともなかった。
「あなたにいなくなって欲しいって、彼女言ってました」
少年の言葉に、理恵の視界が歪んだ。あちこちからチカチカとした光が飛び、三半規管が狂う。
「・・あんたには関係ないわ」
「あります。祥子さんから助けて欲しいって言われたので」
「帰ってちょうだい!」
少年の言葉を振り払うように、思わず叫んでしまった。
一瞬だけ、二人の間に沈黙が広がる。
「それに、あなたが悪いことしてるのも知ってるんです。昔、犯罪をしたんでしょう?」
少しずつ、目の前の少年が悪魔に見えてきた。罪は償ったはずだ。それで許されるとは思わないが、こんな子供からとやかく言われる筋合いはない。
「最近だって、色んな男と不倫して。恥ずかしくないんですか?」
「うるさい」
「あなたのことは、なんだって知ってるんです。あそこのスナックに通ってる人の中に、僕の知り合いがいるから」
思わず蹴り飛ばしてしまいそうになるのを、理恵は必死に堪えた。ここで暴力をふるってはいけない。そんなことをすれば、完全に自分が悪になることはよくわかっている。
「隠してること全部言ったっていいんですよ。祥子さんにも、他の人にも」
「何が目的なの?」
「別に、祥子さんを助けたいだけですよ。あなたと一緒にいたら、祥子さんは酷い目に遭うだけだ」
「あの子はまだ一人で生きていけないの。わかる? あんただって親に育てられてる」
「そうですけど、あなたみたいな親じゃかわいそうだ」
どうして、いつもこうケンカ腰になってしまうのだろう。そのせいで、前の夫との関係も悪くなった。その原因は自分にあるのだとわかっていても、どうしようもなかった。
「僕が祥子さんを助ける。それで、彼女を僕のものにする」
「バカ言ってんじゃないよ」
「あと少しなんです。あなたがいなくなれば、祥子さんはひとりぼっちだ。そうすれば僕のもんです」
少年の表情から正義の色が消えた。たったいま口にした言葉が、この少年の本音なのだと伝わってくる。
「あんたなんかに祥子は渡さない」
「無理ですよ。あなたはもう、親として終わってる」
「あんたなんかに! あんたみたいな子供に・・、何がわかるってんだ」
まるで、自分の人生を否定されたような気分だった。親に育てられ、幸せな生活をしてきたであろうこの少年に、偉そうに語られたくはない。まだ親の苦しみもわからない子供には。
「僕は全部知ってるんです。あなたの悪いとこも、どうすれば祥子さんを手に入れられるのかも」
「帰れ!」
「・・また来ます。今度来るときまでに考えておいて下さい。そのときは、祥子さんをいただいていきます」
少年が勝ち誇った顔をした。一礼して動きだし、玄関先での争いは終わった。
玄関の扉が閉じても、理恵はその場から動けなかった。少年の言っている内容は正しい。自分の行為が間違っていることは自覚している。親として、祥子を幸せにしてやれていないこともわかっている。
だが、どうしようもないのだ。いまの状況では、たとえ間違った道でも進むしかない。どれほど汚い方法でも、祥子と二人で生活しなければならない。生きて、将来への希望を繋ぐしかない。
扉の向こうで、少年がにやついている気がした。あの少年はきっと、祥子のことが好きなのだろう。だからこそ、こんなところまで来て、祥子を手に入れようと必死になっている。あの少年に祥子を託せば、祥子は幸せになれるのか? なんとしてでも手に入れようとする気持ちは、果たして本当に愛情なのか。
理恵はあの少年を信用することができなかった。祥子を渡してしまえば、あの子はいつまでたっても少年の操り人形になってしまう。それでは、自分と同じ道を歩んでしまう。男に支配され、いつか爆発する。愛する娘にそんな道を歩ませるわけにはいかない。
細かいことなど考えてはいなかった。理恵は扉を開き、無我夢中で外へ飛び出していた。守らなければならない。まだ生き抜くだけの力を持たない祥子の代わりに、あの子の障害となるものを排除する。
あの子のために。
祥子を守るために。
それしか頭になかった。
アパートの廊下に、少年の後ろ姿が見えた。いつまでこんなところにいる。祥子が帰ってくるのを待っているつもりか。
全力で飛び出し、そんなことを考えている時間は一瞬だっただろう。目の前に立つ少年が、祥子の人生を脅かす脅威にしか感じられなかった。そして、理恵は両手を突き出していた。
自分の行為がどのような結果をもたらすのか、そんなことは考えられなかった。とにかく、無我夢中で少年を突き飛ばした。そうすることで娘を守れると信じていた。
少年の体は一瞬宙に浮き、そのまま、階段を転げ落ちていった。理恵の全身を大雨が叩き付ける。階段の下まで転げ落ちた少年は、ほとんど動かなかった。そのまま、いつまでも雨音だけが響いていた。
どれくらいの時間が経ったのかわからない。
理恵の心は停止し、そこには結果だけが残った。少年を殺した、という結果だけが。理恵はゆっくりと階段に背を向け、部屋へ戻ることにした。自分はまた人を殺してしまった。逃げるつもりはない。自分の行為に責任を取らなければならないこともわかる。人殺しだと罵られる、その場面も頭に浮かんだ。
部屋の中へ入り、後ろ手で玄関の扉を閉める。そして、理恵は床に崩れ落ちた。
なんてことをしてしまったんだ!
ここでまた人を殺してしまえば、娘を守るどころか傷付けてしまう。世間からの攻撃を受け、今度こそ心が死んでしまうかもしれない。母親が殺人犯、祥子はその十字架を背負って生きていくことになる。生まれる前に起きた事件とはわけが違う。自分の行為が、思春期の祥子にどれほどの影響を与えてしまうのか。そんなこと、考えるまでもなかった。
視界が歪んでいるのは、雨粒のせいか、それとも無責任な涙なのか。祥子のことを想うと、理恵は涙を堪え切れなかった。全身を掻きむしりたい衝動に襲われる。どうして、どうして、と。
また家族を傷付けてしまった。あの日、夫と息子を殺した感覚は、この両手に染み付いてしまっている。たとえ子供を助けるためだったとしても、自分の行為は間違っていた。人として許される行為ではなかった。それでも、あのときは他に選択肢がなかった。自分の命など、いくらでもくれてやる。ただただ、一人でも子供の命を救いたかった。未来に希望のある子供を守りたかった。
今回だって同じだ。同じだったはずだ。祥子を守りたいという想いに嘘はない。それなのに、どうしてこうなってしまうのだろう。自分の行為は、何もかも逆効果ではないか。全力で叫びたくなる。理恵はそれを抑えることもできず、大声で泣いた。自分の体を全力で抱きしめ、涙を流しながら叫んだ。
どうすればいい。どうすればよかった。
祥子の代わりになるのなら、どれほどの苦痛を味わったってかまわない。だから、祥子だけは見逃して欲しい。この想いは空に届くだろうか。笑って許してくれる、そんなことはありえないのか。
部屋の外では大雨が降っている。建物を叩き付ける雨音を聞きながら、理恵は見えるはずのない満月に想いを馳せた。息子を守ろうとしたあの日も満月だった。きっと、理恵の愚かな行為を蔑み、雲に隠れてほくそ笑んでいるに違いない。それでもかまわない。この想いにだけは、嘘など微塵も含まれていないのだから。
―――祥子を守りたい。
せめてこの気持ちだけは、誰かに認めてもらいたかった。よく頑張ったと、笑って褒めて欲しかった。
五月十五日。
満月を迎えたこの日、理恵は空に願った。