第五章
1
楠農兵の告白から、三日が過ぎようとしていた。
祥子は小牧市内の喫茶店へ向かいながら、自宅の様子を思い返していた。午前中、家を出る前にしっかりと片付けをしてきた。洗い物も掃除もしたし、洗濯は昨晩済ませた。やるべきことは全て終わらせてきたはずだ。万が一家に帰れなかったとしても、恥ずかしい部屋を見られる心配はない。
二日前、長峰礼美から連絡があった。
どうやって住所を突き止めたのかはわからないが、帰宅してポストを見ると、彼女から手紙が届いていた。そこには礼美の連絡先が載っており、二日後の十五日、つまりは今日会いたいと書かれていた。その内容として、十二年前の長峰良平の事件に関することは確実だろう。そして、ここまできてしまった以上、祥子は逃げようとも思わなかった。楠の発表は互いに知っているはずなのだ。
あれ以来、楠の姿は見つかっていないらしい。出版社が隠しているのかと思ったが、どうやら本当に失踪しているようだ。祥子が連絡しても返事はない。彼の証言を得られないためか、盗作に関する盛り上がりは衰え始めている。このままなかったことになってくれればいいが、そんなことはありえない。だからこそ祥子は今日、礼美と対峙することにした。
約束の場所に小牧市を選んだ辺り、礼美の本気が伺える。小牧市は長峰良平の亡くなった場所だ。彼の亡くなった真相について、もう逃げられそうもないことを祥子は悟っている。
約束の時間まで少し余裕があるが、祥子は先に店内に入っておくことにした。一人きりで暑くなってきた外にいたくはない。また、土井が来られなかったことが何よりも痛手だった。彼がいない以上、自分一人で考えて戦わなければならない。それはあまりにも戦力が乏しいというものだ。
礼美から連絡がきたことを伝えても、土井はそれほど驚いた様子はなかった。それくらいのことは想定していたのかもしれない。今日来られなかったのは仕事が忙しいという理由らしいが、本当のところはわからない。礼美と顔を合わせるというのがどういうことなのか、彼にだってわかっているはず。無理を言ってアルバイトを休ませてもらうのだとばかり思っていたが、彼はそうしなかった。祥子の身を心配していた土井の行動とは、ちぐはぐしているように思えて仕方がない。彼には何か考えがあるのかもしれない。
席に腰掛けながら、窓の外を眺める。
あの頃の祥子は、土井がいなければ何もできなかった。家では母親に怯え、外へ出れば世間の風当たりに苦しんでいた。土井がいたからこそ、どうにか生きていられただけだ。事件が起き、長峰の遺体を隠してからもそれは同じだった。そんな生活の中で、土井だけが祥子の心を支えてくれた。彼だけが味方だった。これからも二人で歩いていくことができるなら自分は何だってしようと、心に強く誓える。
しばらくして、よく知る人物が店に近付いてくるのに気付いた。礼美が、男性を一人引き連れている。手紙にも書かれていたが、それが彼女の味方なのだろう。玉田和俊という名らしい。
二人が店内に入ってくると、礼美がすぐに祥子の存在に気付いた。祥子は中腰になって頭を下げる。店員が二人を案内してくるのを見ながら、祥子は覚悟を決めた。いまさら逃げようがない。
「こんにちは。お待たせしました」
「いえ」
「この人が玉田さんです。手紙にも書かせてもらった」
紹介された玉田がにこやかに頭を下げる。眼鏡をかけ、背の高い男性だった。落ち着いた雰囲気で、インテリらしさを醸し出している。彼のプライベートに関する情報は全く伝えられていない。
「もう何か頼まれましたか?」
「あ、いえ」
「それじゃあ」
礼美が手を上げて店員を呼ぶ。その間、玉田はずっと祥子を見つめていた。睨むわけでもなく自然な視線だったが、どうしても不気味に感じてしまった。全てを見透かされているような、少しだけ土井に近い雰囲気だった。
三人が飲み物を注文し、互いにタイミングを見計らっていた。ここへ何しに来たのかは明らかだ。話す内容も決まっているのに、相手の様子を探ってしまう。祥子は心を開くことを恐れていた。
「えっと、わざわざありがとうございます。急な連絡だったのに」
「大丈夫です。色んなことがあって・・、混乱していました」
楠のことが頭に浮かび、祥子は本音を口にした。彼の小説が掲載されてからというもの、一日たりとも落ち着いて眠れた日はない。
「楠農兵さんの書いた小説が盗作だったそうですね。ご存知でしたか?」
「ニュースよりも前からって意味なら、知りませんでした。ニュースを見てすごく驚いたくらいですから」
祥子が返事をしている間も、玉田は無言のまま見つめてくる。それがあまりに不気味で、祥子は何度も彼と目が合ってしまった。礼美もそれに気付いたのか、慌てて玉田の腕に手を添えた。
「ごめんなさい、彼には色々手伝ってもらっていて。事件のこととか小説のこととか。初対面で驚きますよね」
「いえ・・」
祥子が曖昧に答えると、礼美は玉田の袖を引っ張った。驚いた様子で玉田が反応し、奇妙な状況に困惑してしまう。
「どうしたのよ、平さんも驚くじゃない」
「え、ごめん。なんか変な顔してたかな。・・すみません、失礼致しました。気にしないで下さい」
うっかりという顔で謝られ、祥子も一応頭を下げた。この玉田という男性とは心を通わせることができそうもない。第一印象で、それを悟っていた。
「長峰良平さんの遺体を隠したんですか?」
その言葉を聞いても、祥子は何も反応しなかった。耳に届いた言葉の意味を理解するのに時間が必要だったからだ。どちらかといえば、礼美の方がひどく驚いた顔をしていた。そんな彼女の様子を見て、祥子もようやく全身の毛穴が開くのを感じた。
「ねぇ、何を言ってるの! 急にどうしたのよ!」
「だって、礼美もそれを確認したくて彼女をここに呼んだんだろう? だったら、さっさと話に移ろう」
「だからって・・」
まるで怯えているような顔をした礼美が、恐る恐る祥子の様子を確認している。彼女なりにそれを訊くタイミングを見計らっていたはずだ。仲間である玉田に先を越され、彼女の動揺は可哀想なほど明らかだった。
「違います」
自分の声が予想よりも落ち着いていたことに、祥子はまずホッとした。
「本当ですか? それなのになぜ、あの小説のことを調べていたのでしょうか。正直に言います。僕と礼美は、あなたたちが犯人だと思っています。少なくとも、良平さんの遺体を隠したのはあなたたちだと」
「あなたたちというのは?」
「あなたと、土井祐介さんです」
玉田の口調から、彼がそれを確信していることが伝わってくる。それに負けぬよう、祥子も力を振り絞る覚悟で毅然と立ち向かう。震えそうになる両脚に、全力で力を込める。
「どうして『満月の微笑む夜に』とその作者を追っているのですか? 十二年前の事件と絡んでいるとしか考えられないのです」
「・・・」
「あなたのおっしゃりたいことはわかっているつもりです。当時の事件について、あなたたちがやったという証拠はない。少なくとも私たちは掴めていない。ただ、楠農兵さんが全てを明らかにすれば、それも時間の問題かもしれない。だったら、いまのうちに話して頂きたいんです」
冷静な口調で、諭すように玉田が言う。厄介な相手だと理解しながら、祥子は心の背骨が折れぬよう意識していた。土井の姿を頭に思い浮かべれば、それも難しいことではなかった。
「あなたが転校する前日の晩、土井祐介さんと共に過ごしていたこともわかっています。河川敷で、最期の時間を過ごしていた。それも小説に描かれているではありませんか。まだ言い逃れしますか?」
「そういうことがあったのは認めます。実際、彼と夜中に会っていましたから。それが小説の中の場面に出てきたとして、なんだと言うんですか」
「強情な人だなぁ」
呆れたように笑い、玉田が隣の礼美を一瞥する。彼女はこの会話を不安そうに聞きながら、祥子が本当のことを話すのを待っているに違いない。良平の失踪について、真実を知りたくてたまらないのだから。
「あなたがそこまでの態度をとれるのは、なにひとつ証拠がないからでしょう。良平さんが失踪したと思われる時間、あなたは土井さんと映画を見ていた。また、その前の晩は良平さんとメールをしていた。彼と争うような理由もない」
「はい」
それには何一つ不満はない。わざわざ訂正するつもりはなかった。
「でも、そこが間違っているとしたら。良平さんがいなくなった時間を全員が勘違いしていて、あなたのアリバイが崩れれば、その態度も崩壊するのではありませんか?」
「何が言いたいんですか?」
淡々と話す玉田に、じわじわと不安をかき立てられる。ありえないと思いつつ、玉田の一言一句に怯えていた。
「良平さんが失踪したのは五月十五日の深夜、正確には、午後十時三十分以降と考えられています。その直前、彼は自宅に帰り、二階の部屋へ上がっている。そこで平さんにメールを送っている、と」
「その通りです。ですよね?」
礼美に確認すると、彼女も不安げに頷いた。良平の家族がそう証言しているのだから、何よりの武器となる。
「そこが間違っていると考えれば、全てはひっくり返る。たった一つのシンプルなことなんです」
「どういうこと?」
礼美の問いを無視するように、玉田は祥子だけを見つめている。必殺の一矢を狙い続け、それを放つ瞬間を計算するように。
「あの日、家に帰ったのは本当に良平さんだったのか。誰一人疑わなかったのは、全員が身内だったからでしょう。先入観と混乱で、全員の頭に植え付けられてしまったんだ。『良平は午後十時半まで家にいたのに』と」
「・・待って、待ってよ」
初めてそれに気付いたように、礼美が取り乱した姿を見せる。自分の記憶に潜り、あの日の状況を思い出そうとしているに違いない。正直、待ってと言いたいのは祥子の方だった。どうしてそこに気がついてしまったの、と。
「家に帰ったのが良平さんでなければそれは誰か。背格好が似ていて、事件に関係している人物。それに当てはまる人物は一人しかいない。夜中に家を抜け出すことのできる、親の監視が薄い少年」
「・・土井祐介さん!」
「そう」
ようやく、玉田が礼美に顔を向けた。よくできました、と言わんばかりの様子に、祥子は思わず顔を伏せた。いまさら隠したところで、自分の動揺した顔は見られてしまっただろう。なにしろ、ずっと隠し続けてきた秘密なのだ。当時からそれがバレないかとヒヤヒヤしていた。むしろ、なぜ誰もそれを考えなかったのかと不思議だった。
それもいま、ようやくわかった。長峰家の人たちが、帰ってきたのが息子だとはっきり証言したからなのか。その前提がある以上、警察はそれ以降の状況しか捜査しないに決まっている。
「でも、どうして気付かなかったの? 私は直接顔を合わせていないけど」
「人の思い込みというのは、場合によっては恐ろしいほど浅はかなんだ。遅い時間に少年が家に帰ってきた。それも玄関のカギを開けて堂々とね。まさか、それが息子ではない誰かだとは思わないさ。それに、大雨の影響もあったと思う。帰ってきた良平さんは全身がずぶ濡れだったんだろう? 良平さんだと思っていた子は」
「お母さんはそう言ってた・・」
礼美の言葉に、玉田が力強く頷く。
「髪型なんて、あってなかったようなものなんだろう。それに、彼は風呂にも入らず二階の部屋へ上がっていった。それはなぜか。じっくりと顔を見られるわけにはいかなかったからだ。会話だって最低限しかなかっただろうね」
この場から逃げ去りたい気持ちを必死に押え込む。あの日、土井がどれほど不安だったか考えれば、これくらい耐えられるはずだ。祥子は自分に言い聞かせた。
「部屋へ入った後、土井さんは何をしたのか」
「・・平さんにメールを送ったのね」
玉田の話を信じた礼美から、力強い目を向けられる。
「まるで良平さんが送ったような内容で、土井さんが打ち込んだんだ」
『今日は大丈夫だった?』
『もしまた酷いことされたら、僕に言うんだよ』
『そっか。ま、油断しちゃダメだよ。そういうのは気分で始まるから』
『そのときは、必ず助けにいくから』
「当時、良平さんは平さんのことが気になっていたんだろう。だから誰も違和感を覚えなかった。平さんを心配した良平さんの言葉だと思い込んでしまった」
祥子は、涙が溢れそうになるのをぐっと堪えていた。
玉田の言葉は完全に正しい。間違いを指摘する余地も与えてくれない。だが、祥子が泣きたかったのは、秘密を暴かれたからではなかった。あの日、土井がどのような想いでメールを打ったのか。玉田はそれを理解してくれていない。理解などできるはずはないのだが、祥子にはそれが悔しかった。土井が自分のことを想って送ってくれたメールを、まるでトリックの一部でしかないように話されている。訂正するわけにもいかないが、祥子にはそれが悔しかった。
「こうして、良平さんの死亡推定時刻をごまかすことに成功した。そして、二人はいまもそれを隠したままなんだ。何の証拠もなかったために、警察からの追求も逃れた。いかがでしょうか」
玉田の視線を感じながらも、祥子は顔を上げられなかった。
悔しくてたまらない。
あの日の真実を何も知らない男に、塀の外から答えを投げつけられたような感覚だった。そして、何一つ言い返せない自分に一番腹が立つ。玉田が口にしたものは、仮説でしかない。彼にだってわかっているだろうが、そこには何の証拠もないのだ。それにも関わらず強く言い返せないのは、祥子の心が折れてしまっているからだ。
「どうしてそんなことをしたのか、教えてはもらえないんでしょうか」
「ねぇ待って。それじゃあ・・、良平は亡くなっているの? あの小説の通りに?」
玉田の腕を掴みながら、すがるような声で礼美が言う。信じたくないという気持ちが全身から溢れている。
「申し訳ないけど、そうだと思う。良平さんの姿がここまで見えないのは、二人が彼の遺体を隠したからだ。おそらく、死因にも二人のどちらかが関わっているんじゃないかな」
その先までは辿り着けていないのか、玉田は伺うように祥子を見続けている。
祥子は覚悟する。涙を拭うこともせず、静かに顔を上げた。
「・・すみませんでした」
「どうして!」
ガタン! と音を立て、礼美が立ち上がった。
店員が心配そうな視線を送ってくるが、もうどうしようもなかった。カップルの痴話げんかなどではない。一人の人間の命が左右されている。そして、ここには被害者の遺族と、加害者とも呼べる人間がいる。冷静な話し合いをしろというのは酷だった。
「どうして良平を・・」
玉田に腕を引かれ、崩れるように礼美が座った。二人の真剣な表情を受け止めながら、祥子は考えていた。ここで正直に話してしまえば、全てが無駄になる。だからといって、嘘をついてごまかしてよいのか。自分たちのしたことは立派な犯罪だ。それは理解している。後悔も、反省もしている。
それでも、祥子にも譲れぬ想いがあった。自分のためを想い、土井がしてくれたこと。彼の気持ちを踏みにじるような行為だけはできない。たとえ、それが間違っているとしても。
「良平さんの死因について、教えてもらえますか?」
玉田の静かな声にも、祥子は首を振った。どうしても、それだけは口にできない。たとえ無理でも、ありえなくても、見逃してもらわなければならない。その真実を言ってしまうくらいなら、ここで殺された方がよっぽどマシだった。
「質問を変えます。楠さんは、誰かの作品を盗作したと告白しました。それについて何か心当たりは?」
「・・わかりません、本当に」
祥子の中に、一ミリも嘘の気持ちはなかった。あの事件について知っているのは、当事者である祥子と土井だけのはず。いまでは目の前にいる二人にも知られてしまったが、それ以外の人物が知るはずもない。正直、あの発表が嘘だと思いたいくらいだ。
「楠さんにアイデアを盗まれた人物の目的は何だったのか。それ以前に、事件について知っている人物が思い当たらない。だって、残りは土井祐介さんしかいないんですから。彼ではありませんよね?」
「はい」
先程から、礼美はずっと祥子を睨んでいる。いまにも殴り掛かってきそうな剣幕で、必死に自分を抑えているに違いない。祥子だって、自分がそうされるだけのことをしたとわかっている。それで楽になれるのならば、いっそのこと、殺してくれとさえ思う。
玉田は口元に手を当て、何かを考えている。礼美の視線を受ける祥子は、罪に押しつぶされるように俯いていた。
そういえば、土井は奇妙な言葉を口にしていた。楠のサイン会の日、会場で鈴木健太を目撃したと。土井と鈴木に面識があったことに驚いたわけだが、これは何か重要なポイントにも感じられた。
気まずい雰囲気の二人にそれを伝えると、玉田の表情が一層険しくなった。
「鈴木健太という作家のことは僕も知っています。ハッキリ言って、楠さんとは格の違う作家さんですよね。その人が、楠さんのサイン会に来ていた?」
「それはつまり、鈴木さんが今回の騒動に関わっているからでしょうか。たとえば、盗作されたことに気付き、楠さんの様子を確認しにきたとか・・」
祥子の言葉が否定されることはなく、玉田も同様の考えを持っていることが伺えた。『満月の微笑む夜に』の原案を考えたのが鈴木健太という作家だとしたら、彼は事件にどう関わっているのか。十二年前、自分たち以外に事件について知ることのできた人物は思い当たらない。祥子は、鈴木健太という作家の存在のイメージが掴めなかった。
落ち着いて考えることもできず苦労していると、突然、バッグの中から振動を感じた。それが携帯電話のバイブレーションなのだと気付き、ゆっくりと手を動かす。カバンからそれを取り出し、画面を確認した。
土井の名前が目に入ると、一気に涙が押し寄せてきた。どうして、彼はいつも祥子が欲したときに連絡をくれるのか。あの事件の日だってそうだ。家に帰り、怯えていたときに長峰の携帯電話からメールが届いた。それが土井によるものだと理解したとき、祥子は心底ほっとしたのを覚えている。
届いたメールを開き、祥子の頭に浮かんだのは疑問の色だった。『いまから会いたい』と書かれているが、いま礼美たちと会っていることは、彼にだってわかっているはず。それほどまでに急用なら、電話をしてきそうなものだが。住所が書かれており、そこへ来いということか。
「どうしましたか?」
礼美に睨まれ、思わず携帯電話を仕舞ってしまった。友人とたわいもないメールをしようとしているとでも思われたのかもしれない。
「あなたたちのこと、私は許す気なんてないんですからね。正直に話してもらうまで、あなたの前を離れません」
礼美の言葉をはじき返す権利は、祥子にはない。彼女の気持ちは当然で、自分たちのしたことは悪だ。祥子にだってそれくらいわかっている。
それでもいまだけは、土井の元へ向かわせて欲しい。彼が犯罪に手を染めたのは、自分のためなのだ。土井が助けを求めるなら、祥子は命を投げ捨ててでも彼の元へ向かわなければならない。
「待って!」
立ち上がった祥子の動きを遮るように、礼美が道を塞ぐ。
「ごめんなさい。必ず・・、なんとかします」
「礼美」
席に腰掛けたまま、玉田が口を開いた。礼美の左腕をとり、そっと引く。
「平さん、信じていいんですよね? 次に会うときは必ず話してくれますよね?」
「・・はい」
「嘘よ!」
「礼美」
玉田の口調は静かでも、有無を言わさぬ迫力があった。礼美もそれを感じ取ったのか、祥子を睨みながらも席に座った。祥子は二人の顔を見ることができないまま、深々と頭を下げた。どうかいまだけは見逃して下さい、と謝罪しながら。
頭を上げ、二人から逃げるように店の出入り口まで走った。後ろから誰かが追ってくることはなかったが、怖くて振り返ることはできなかった。一日だけでかまわない。明日逮捕されようが、礼美から刺し殺されようがかまわない。それでも、今日だけは土井の側にいたい。
走りながら、祥子は土井を想った。
2
「こんなところへ連れてきて、どうするつもりですか?」
「さぁ。とりあえず、ゆっくりお話ししましょう」
楠には心の余裕があった。ここで全てを終わらせることができるという自信もある。一方で、目の前にいる鈴木は無表情を繕っている。それが彼の強がりなのだということは、楠にも見透かせた。
「色々と教えて頂きたいことがあります。鈴木先生があのプロットを書いたのは、彼女のためなんでしょう? 小説を書いて、彼女を救えるとでも?」
答える気がないのか、鈴木は部屋全体を見渡している。鈴木を連れてきたこの部屋は、先日名古屋へ取材に来たときに見つけた場所だ。三階建てのビルを立て壊す途中だったのか、そこら中ぼろぼろで誰もやってこない。
行方を眩ましたと騒がれる中、楠が鈴木に連絡をした。『満月の微笑む夜に』に関する話がしたいと伝えると、鈴木は簡単に現れた。そのおかげで、この状況が完成した。
「長峰良平さん、それが事件の被害者なんですよね」
「そうみたいですね」
眼鏡のレンズの向こうにある鈴木の目は動かない。バカにしているのか、逃げられないと開き直っているのか。どちらにしろ楠には不愉快だった。この状況で、どちらが優位に立っているのかは明らかだ。それを理解しようとしない鈴木の態度に腹が立つ。
「楠先生。平祥子がどうして先生の過去を知っているのか、ご存知ですか?」
突然の問いに、楠の頭が一瞬停止した。鈴木が何のことを言っているのか、理解が遅れてしまった。
「私の過去?」
「母親が事件を起こしましたよね。被害者は元夫と、あなたの弟にあたる幼い赤ん坊」
淡々と口にされる内容に、楠の心がかき乱される。なぜ鈴木はそれを知っているのか。なぜそれをいま口にするのか。そして、平祥子がそれを知っている理由にも心当たりがあるような口ぶりだった。
「その様子だと、何も知らないんですね」
「あなたはいったい何を知っているっていうんですか? 私の過去と今回の事件は無関係でしょう」
「それがですね、全くの無関係だとは言えないんですよ。あなたが平祥子に興味を持ったのは、彼女があなたの過去を知っているからでしょう? もしそれがなければ、あなたは彼女の手紙に返事をしようとも思わなかったはずだ」
鈴木は落ち着いた表情のまま、全てを見透かしたように言う。楠の元に祥子から手紙が届いたこと、その内容までを把握している様子だ。それを知っているのは、せいぜい楠の担当編集者である林くらいだと思っていた。それ以外の人物には、ファンレターを読む機会などなかったはずだが。
「では、なぜ彼女はあなたの過去を知っているのか。夢に見るという、暗い部屋の中の場面は何なのか」
「鈴木先生、待って下さい」
「彼女が夢に見るその場面は、あなたの母親がまさに罪を犯す瞬間だ。箪笥の中にあなた方三人がいて、父親の暴力から逃げている、そうでしょう? そして、その真っ暗な箪笥の中で弟さんは殺された。実の母親によって。あなたはそれを目撃してしまっている」
「待て!」
楠は自分が取り乱していることにも気付かなかった。完全に鈴木のペースに乗せられてしまっていると理解する余裕もなかった。それくらい、彼の言葉は想定外のものだった。
「・・なぜそんなことを知っているんです?」
「あなたのことを調べたからです。そのせいで、色々と興味深いこともわかりました」
椅子の背もたれに体重を掛け、鈴木が脚を組む。
「なぜ、あなたの過去を平祥子は知っているのか。彼女もボクと同様、あなたについて調べたのか。ありえなくはないですが、タイミング的に早すぎます。あなたの元へ彼女から手紙が届いたのは、小説の一話目が掲載された直後だった」
鈴木の言葉に耳を傾けつつ、楠は困惑していた。彼がなぜそこまで把握しているのか。そして、そこから導き出される結論は何なのか。
「平祥子があなたの過去について知っているのは事実なんです。昔から知っていた、と言うべきかもしれない」
「どうして・・」
「彼女自身、それを望んでいたわけではない。いまだって、夢に見るその場面があなたの過去だとは知らないでしょう。ただ単に、その場面を知っているというだけだ」
「だから、それはなぜなんですか!」
「二人が兄妹だからですよ」
鈴木の表情に初めて苛立ちの色が浮かんだ。淡々と話しながらも、その気持ちを隠しきれてはいなかった。
「誰と誰がです・・?」
「あなたと、平祥子がです。異父兄妹と言うべきか」
言葉の意味を咀嚼しつつも、楠はまだ信じられなかった。自分の人生をメチャクチャにした母親が、いまどこで生活しているのか。それを知らなかったし、知ろうともしてこなかった。その人物が平祥子の母親。つまり、あの母親は現在どこかで幸せな家庭を築いているということになるのか。
「ボクも、調査を依頼して初めて知りました。あまりに意外な接点すぎて信じられなかったくらいなんですけどね」
「平さんと私の血が繋がっている・・。だからといって、彼女が私の過去を知っていることに、どう関係するんですか」
「わかりません。想像はありますけど、何の根拠もない。二人の年齢差は十歳。母親の起こした事件当時、あなたは五歳だったそうですね。その後母親は逮捕され、出所したのが五年後。平理恵さんというのがいまの名ですが、彼女は出所直後に妊娠し、祥子を生んだ。そういうことみたいです」
理屈としては間違っていない。年齢やタイミングを考えても、矛盾はないように感じた。だが、そんなことがあるのだろうか。前科があり、出所した直後のあの女と結婚するなどという人物がいるとは思えなかった。
「正式に籍を入れているのかは知りません。ただ、子供の認知はしていたはず。だからこそ、祥子はこれまで生活してこられた」
「・・私たちの血が繋がっている、それはとりあえず認めておきましょう。でもどうして彼女は私の過去を知っているんですか?」
まさか、母親がそれを話したとでもいうのか。過去に夫と子供を殺し、逮捕されたなどと。
「想像でしかありませんが、血のせいでしょう。オカルトチックになりますけどご容赦下さい。母親の遺伝子を受け継いだ祥子は、母親の記憶も受け継いだ。つまり、平祥子が夢に見る場面は、母親が経験した場面なんです。それがあなたの記憶と一致していてもおかしくはない。同じ場面を経験しているわけですからね。繰り返しますが、これは単なる推測ですよ。でも、そう考えれば辻褄が合う」
自分が追い込まれていることを察し、楠は必死に瞼を閉じた。昔から、自分を不利な立場にするのはあの母親だ。あの人の起こした事件のせいで、まともな生活はできなくなった。それなのにまだ足りないというのか。ここまできて、母親の呪縛から解き放たれることもできない。
「だから、あなたは平祥子を恐れる必要がありません。彼女を狙うのはやめにしましょう」
このとき、楠は一筋の光を見つけた気がした。鈴木の口にした言葉こそ、彼の本音なのだ。鈴木は平祥子を救いたい。ならば、自分はそれを邪魔してやればいい。
「ねぇ、鈴木先生。もう遅いんです。私にとって彼女は邪魔な存在だし、それはあなたも同じだ。黙っていてもらえるとは思えないし、消えて頂きます」
「ムリだと思いますよ。ボクたちを消したとして、あなたがこれから成功するはずがない。いまの方がマシですよ? 盗作したっていう、珍しいアドバンテージを持った作家のままがいい」
「無責任なこと言わないでくださいよ」
思わず、楠は笑ってしまった。これだけ売れている鈴木ならまだしも、楠は作家としての実績が弱い。話題にはなっても、今後売れるかどうかは運任せの状態だ。それに加えて、自分の過去を知る人物が二人。明らかに邪魔な存在だった。
「そのうち、平さんはここに来ます。彼女はもう助からない」
「それだけは勘弁して欲しいなぁ。なんとかなりません?」
作ったような笑顔で鈴木が言う。彼だって、自分の身が危険であることを理解している。両手を縛られ、身動きも自由にとれない。祥子がここに来たとして、彼女を助けられないことは明らかだ。
「彼女を見逃してくれるなら、何だってしますよ。あなたのゴーストライターだって」
「・・バカにしてんじゃねぇぞ」
楠は感情を抑えることができなかった。作家として成功した鈴木にそれを言われるのは、何よりの屈辱だった。彼の作品を盗作し、評価を得られた。それだけで明らかなのだ。自分よりも彼の方が優れているということが。鈴木だってそれをわかっている。その上でゴーストラーターだなど、受け入れられるはずがない。
「お前なんかに何がわかる! まともな人生歩んできて、若いうちに成功して。俺たちみたいなのを見下してんだろうが!」
ただただ、悔しかった。実力で押しつぶされ、必死の策も平気な顔で受け流される。自分の存在など、足元の小石と同等に扱われる。どうしようもないこの世の縮図に腹が立って仕方がなかった。
「わかりますよ。ボクだって、まともな人生を歩んできたわけじゃない。あなたと違って家族には恵まれたし、いまはお金だってある。それでも安心して眠れる日は少ないし、毎日が不安なんです。好きな女性に振り向いてもらいたくて必死なんです」
「そんな言葉、信じられるわけがないでしょう。成功した人がそんなこと言っても、ただの暴力にしかならないんですよ」
鈴木は何も言い返さず、楠をじっと見つめたままでいる。
「そのまま黙っていて下さい。じきに、全てが終わります」
楠の予想が当たったことを告げるように、部屋の外から階段を駆け上がる音が聞こえてきた。彼女に住所を伝えておいてよかったと、楠は心底思った。あんなメールを送られたら、罠だとわかっていても動くしかない。
そして、この状況を作れた時点で、楠は勝利を確信していた。
「・・誰を呼んだんですか」
「あなたの大切な人ですよ」
鈴木の悔しがる顔を見たかったが、彼はまだ取り乱しはしなかった。だが、それももう限界だろう。彼女が現れたら、鈴木だって余裕を見せることはできないはずだ。
足音がゆっくりになり、彼女が扉のすぐ外にいることがわかった。
楠は静かに歩き出し、彼女を迎え入れることにした。
「平さんですね」
「・・はい」
扉越しに、祥子のか細い声が届いた。振り返って鈴木の様子を伺うと、彼は楠を睨んだままじっと動かない。彼が歯を食いしばり、悔しがっていることが伝わってきた。その表情を見られただけで、ここまで努力してきた価値があると思えた。
扉を開くと、ドアから後ずさるような姿勢の祥子が目に入った。楠は精一杯笑顔を作り、彼女を部屋の中へ招く。
「どうぞ、彼も待ってますよ」
「どうして楠さんがいるんですか・・?」
「彼に用があって。さぁ、どうぞ」
不安げに楠を見つめていた祥子も、ようやく歩き出した。部屋の中へ入り、奥の椅子に座る彼に気付いたようだ。安堵と驚きの入り交じった顔で楠を見つめる。
「どうして?」
「なにがでしょうか」
「本当に、祐介がメールを送ったんですか?」
楠から距離をとり、何度も鈴木に視線を送っている。
「あなたは・・、何をしているんですか?」
「ここで全てを終わらせるつもりです」
祥子を部屋の奥へ追いやるように迫る。二人の間の距離は縮まらないまま、入り口から遠ざけることに成功した。
「祥子、逃げろ」
「何がどうなってるの!」
「話は後だ。お前はここにいちゃいけない」
「どうして祐介が捕まってるのよ!」
二人の慌てふためく様子に、楠は笑いを堪え切れなかった。本当に、思い通りに事を運ぶことができた。あとはこの二人を排除するだけだ。
十二年前に長峰良平の遺体を隠した、平祥子と土井祐介を。
3
土井は作家を目指していたわけではない。それでも作家になれたのは運がよかっただけだ。
高校を卒業して、美術系の専門学校へ進学した。本当は、東京にある有名な芸術大学へ進みたかった。それを選択しなかったのは、祥子が愛知県で生活を続けると知ったからだ。正直、あの事件を経験したにも関わらず地元を離れようとしない祥子の気持ちは理解できなかった。こんなところに住んでいたら、事件について忘れることなどできないのだから。
しかし逆に考えれば、祥子の心はまさに囚われていた。十四歳で経験するには、あまりに非日常的な出来事だった。土井だって、できることなら避けたかった。それでも現実は、祥子はこの地に縛られている。そしてそれが今後も続くのであれば、土井は彼女の側にいなければならない。放っておくことなどできないのだから、目先の目標は諦めた。彼女のためになるなら、それも我慢できる範囲内だった。
専門学校を卒業する一年前になっても、画家になる夢は諦め切れなかった。両親には反対されたが、フリーターとして働きながら自宅で絵を描き続ける覚悟をした。それくらい本気だった。自分には才能がないと諦めることはできなかった。客観的に、画家になるのが不可能ではないレベルだったからだ。
このまま問題が起きなければ、祥子は順調に大学生活を送り、二年後には卒業する。側で見ている限り、祥子が崩れてしまうことはないように思えた。それは心から嬉しいわけだが、今後、祥子が社会人として働き出したとき、土井は彼女の側にいる自信はなかった。どれだけ彼女を想い、夢を追ったとしても、二人で生活するだけの金は必要になる。祥子も働き出し、互いに支え合えば生活していくのは不可能ではない。それでも、土井のちっぽけなプライドがそれを許さなかった。
空いた時間にでき、絵を描くことの邪魔にならない仕事。それを探していた頃、ふと立ち寄った本屋でそれを見つけた。専門学校を卒業するちょうど半年前のことだ。
何気なく手にした雑誌の裏表紙に、ミステリーの新人賞に関する内容が書かれていた。これなら自分にもできるかもしれない、その程度のきっかけだった。小説を書く自信などなかったし、その経験もなかった。だが、ちょうどいいと思った。運良く結果が出れば、それなりの金も手に入るように感じた。
そして、土井の予想以上に物事は順調に進んだ。初めて応募した作品で受賞してしまったのだ。ちょうど専門学校を卒業する時期だった。こんなものかと慢心する余裕もなく小説を書き続け、二年もすれば、平均以上の収入を得ることができた。そこからさらに二年で十分すぎるほどの金を得た。このまま続けていれば、いわゆる勝ち組に属すると思えるほど。
デビュー当時に受けたインタビューで答えた『アルバイト感覚で書きました』というのは正直な気持ちだった。祥子と二人で生活していくだけの金を得るために書いただけだったのだから。自分が楽しみたいとか、読者に感動を与えたいなどという大それた理由はなかった。金さえ手に入れば、何だって書くつもりだった。
作家になったことは、祥子に話さなかった。自分の将来を心配してくれていた両親には伝え、とりあえず安心してもらったものの、他の誰にも言うつもりはなかった。親しい友人は少なかったし、隠すことはそれほど難しくもなかった。祥子に伝えられなかったのは、いつまでも画家を目指している自分を応援してくれている彼女に、あっさりと夢を諦めたと思われたくなかったからだ。作家としてこれほど成功するとも思わなかったため、伝えるタイミングがなかったというのもある。総菜屋でのアルバイトを続け、祥子の前では単なるフリーターを演じた。
作家になってから、ビジネス以外で書こうとした作品は一つだけだった。それが、楠に盗作された『鏡月』だ。あれは、十二年前、土井と祥子の経験した事件を元にしている。小説として発表する気はなく、完全に土井一人しか知らない作品だった。まさか盗作され、ここまで大々的に知れ渡ってしまうとは予想していなかった。
『鏡月』を書こうと思い立ったのは、二人の過去を清算するためだった。二人とも、いつまでもあの事件に囚われ続けている。地元から離れなかったのも、それを助長してしまっているのだろう。このままでは前を向いて歩くことなどできなくなる。十二年が経過し、たとえ時効を迎えたとしても―――いまは廃止されたわけだが、事件の呪縛からは逃れられない。
だからこそ、あの事件を小説として形にすることにした。そして、結末を変更し、祥子の心を救いたかった。それだけがあの物語を考えた理由だった。人の命を奪い、その遺体を隠した。そのせいで、祥子の心は、いつ崩壊してもおかしくなかった。
プロットの書いてあるノートをなくしたことにはすぐに気付いた。置き忘れたと思われるファミレスへ問い合わせたが、ノートは見つからなかった。多少ショックだったものの、内容は頭の中にある。それほど心配することなく、作家としての仕事を続けていた。
土井が盗作に気付いたのは、祥子から雑誌に掲載された『満月の微笑む夜に』の話をされたときだった。実際に読んでみるまで、なんのことかわからなかった。だが、読んでみると笑いがとまらなかった。まさかこんなことが起きるだなど、現実も捨てたものではないように思えた。どれだけ細い線が繋がったのか。どこか一つでも違っていれば、この小説が盗作され、掲載されることはなかったはずだ。自分の運の悪さを恐ろしく感じてしまったほど。
祥子が不安がるのを側で見ていても、それほど深刻になる必要はないと感じていた。この小説にそこまで深読みをする人物がいるとは思えなかったからだ。出版社で楠農兵の姿を目撃し、彼と話してみても、十二年前の事件との関係性を掴んではいなかった。単なる小説として、自分の作品が盗まれたと思っていた。
だが、事態はそう甘くはなかった。長峰良平の姉、礼美がそれに気付いてしまったのだ。過去の事件に関連しているのではないか、と。
その後も楠はプロット通りに作品を執筆し、次第にごまかしきれなくなっていった。土井と祥子が最期に話した場面も描かれ、まるで二人の罪を糾弾する作品に仕上がっていった。礼美が二人を疑うのも無理はない。そうなるべくして起きた事態なのだ。唯一の救いだったのは、十二年前の真実をノートに書かなかったことだ。変更するつもりだった結末を書いただけで、十二年前とは違う内容になっていた。そのため楠に事件の真相を知られずに済み、足掻くチャンスが生まれた。
一方で、祥子を安心させたくても、いまさら作家であると名乗り出ることはできなかった。真実を伝えたところで、礼美に疑われている以上、祥子は安心できない。ならば、影から支えるしかないと思った。この事態の真相を共に探る振りをして、裏から事態の終息を図った。楠の前では『鈴木健太』を演じ続け、盗作されたことも知らない振りをした。
本当は、このまま静かに終わらせたかった。盗作に気付いていることを楠に伝え、小説の結末を変えさせる。それによって、礼美が自分たちを疑う気持ちを遠ざけたかった。せめて、それだけでも祥子の不安を減らせると思っていた。願っていた、というのが正直なところかもしれない。
現実はそう優しくはなく、楠は祥子の存在を邪魔に感じ、礼美はいつまでも二人のことを疑い続けたままだが。
「祐介が『鈴木健太』なの・・?」
「そう。素性を明かさない作家は、案外とすぐ側にいたわけです」
楠の勝ち誇った様子に苛立ちを覚えた。それでも、いまは彼にかまっている余裕はなかった。祥子がここへ来たせいで、全てを知ってしまった。楠は自分たち二人を消し去ろうとしているに違いない。特に、過去を知る祥子のことは最もそうしたいはずだ。土井は結ばれたロープを解こうと悪戦苦闘していた。
「あの小説の元を書いたのも祐介?」
「あぁ」
「どうして! どうして・・、そんなこと」
「彼はあなたのために書いたそうですよ。私もいまいち理解できませんが」
祥子の不安げな視線を受け止めるのは、なかなかに困難だった。あのときもそうだ。祥子の不安げな目を見ると助けなければならなくなる。長峰の遺体を発見したときにはそれができた。だが、いまの土井は無力だった。何もできないまま、彼女の不安を和らげられないことに腹が立って仕方がない。
「平さん、あなたは私に尋ねましたよね。何のためにあの作品を書いたのかって。それに答えられるのは彼だけだ。そして、いまなら全てに決着がつけられる。ここで、これが最期ですよ」
楠は油断している。勝利を確信しているいまが、抵抗するビッグチャンスなのだ。だが、動揺している祥子にはそんなことできないだろう。そして、戦うべき土井は動けない。あと一手、何かきっかけが欲しかった。
「あなた方二人は長峰良平さんの遺体を隠した。彼を殺したのは平さんで、二人は協力してその事実をなかったことにしようと試みたわけだ。実際にそれは成功し、十二年もの月日が流れた。・・いいですよ、まさに小説にふさわしい流れだ」
「うるせぇよ」
「余裕を見せられるのもここまでですよ。あなたはもう鈴木先生じゃない。ただの追い込まれた一人の人間、土井祐介でしかない」
とにかく時間を稼ぐことが最優先だ。祥子がここへ来たのは、楠が土井の携帯電話を使って彼女にメールを送ったからだ。それを受け取ったとき、祥子は何をしていたのだろう。今日は長峰礼美と会う日だと言っていた。その最中だったのか、終わって自宅で過ごしていたときか。ここへ来る前に、祥子が誰かにそれを伝えてくれていればよいのだが。
「平さん、最期に教えてもらえますか? どうして長峰良平さんを殺したのか」
祥子の肩がピクリと反応した。俯き、震えを押え込むように唇を噛んでいる。
「彼に何をされたっていうんですか」
「おい、もうやめろ」
「あなたは黙っているように」
楠に指差されても、身動きがとれず睨むことしかできない。
「階段から突き落としたというのは本当なんでしょう?」
祥子の口から真実が話されようとしている。正直、土井はそれを聞きたくなかった。これまでだって、何度尋ねようと思ったことか。だが、それを彼女の口から聞いてしまえば、全てが壊れてしまうような気がした。たとえ祥子が殺人犯でも、土井は彼女の味方でいる自信がある。それでも、祥子が真実を口にした瞬間、このギリギリ保っている関係が崩れ去るような気がしてたまらなかった。
どうか、祥子にそれを言わせないで欲しい。
幻でかまわない。二人だけの世界でもかまわないから、嘘の平和を維持させたかった。
「・・違うんです」
「なにがですか?」
「みんな、勘違いしてるんです」
ぽつりと呟くように祥子が言う。小さな声で、何を言っているのか聞き取るのが精一杯だった。勘違いというのは、何のことを示すのか。
「私は、長峰先輩を殺してなんかない」
言葉というのは、ときに静寂をも支配する。まさにいま祥子の放った言葉は、二人の男を停止させた。
「・・どういうことですか?」
最初に反応したのは楠の方だった。それは彼が事件の部外者であり、蚊帳の外で聞いていられたからだ。土井は縛られた腕を解くことも忘れ、祥子の言葉に耳を傾けた。
「私は誰も殺してなんかない!」
「いまさら言い逃れはみっともないですよ」
楠の言葉に、初めて祥子が敵意のこもった視線を向けた。逃げや言い訳ではなく、彼女が本気で言っていることが見て取れる。それはつまり、良平を殺したのは祥子ではない、ということを示している。
「あぁ、私の小説のマネをしているわけですか。長峰さんは事故死なんだと言いたいんですね」
「違う!」
祥子が再度叫んだ。自分を取り巻く邪魔な空気を振り払うかのように。
正直、土井は祥子の言葉が信じられなかった。あの日からずっと、祥子が長峰を突き落としたのだとばかり考えていた。だからこそ彼女の手助けをし、遺体を隠した。もし殺したのが祥子でなければ、自分の行為は何だったのか。彼の死が事故死であればまだ救われる。小説の中と同様、祥子が殺人犯でないことを喜べる気持ちはある。せめて、その救いだけは残しておいて欲しい。
「私はそんなことしてないし、長峰先輩は事故死なんかじゃない」
「・・祥子、大丈夫か?」
ようやくそれだけを口にし、土井は心を鎮めるために深く息を吸った。
「大丈夫。ごめんね、祐介」
両目に涙を浮かべ、祥子は悲しげに微笑んだ。その儚さが、いまにも朽ち果てる花のようで、土井はたまらなく悔しかった。彼女の側にいられないことも、強く抱きしめてやることもできない自分が許せない。
「ずっと、言わなきゃって思ってた」
「お二人で何を話してるんです?」
わけもわからないのだろう。楠は混乱した様子で二人の顔を見比べている。
「長峰先輩を突き落としたのは―――あの人なの」
消え入るような声で言い、祥子の目から涙が零れた。
誰も言葉を発さず、空気の振動すら見える気がした。そして土井は思った。なるほど、と。ゆっくりと天井を見上げ、あの日に想いを馳せる。
全てはそこから始まったわけか。
4
祥子がそれを目撃したのは、住んでいたアパートの廊下でのことだった。
十二年前の五月十五日。この日の出来事を、祥子は忘れることなどできはしない。学校の先輩を母親が突き落とす瞬間を見たことがある者など、日本中探してもはたして何人いるのか。
金曜日、普段であれば部活動は休みのはずだった。だが、臨時で部活動が行われることになり、家に着いたのは夜の八時を回っていた。夏が目の前に迫っていたこともあり、周囲は暗闇というほどではなかった。街頭に照らされた通学路を傘をさして歩き、アパートの玄関に辿り着くまで、普段となんら変わりなかった。部屋の中から二人の言い争う声が聞こえてきたが、見方によっては、それも普段通りだったといえる。
だが、玄関に顔を近づけ中の様子を伺うと、そこに奇妙な感覚を覚えた。母親の口調が普段と僅かに違ったからだ。それに、もう一人の男の声も、普段のような怒鳴り声ではなかった。そもそも声質が違う。少しかすれたような、思春期の男のような声だった。
部屋の中にいるのが誰なのか、祥子には見当もつかなかった。どこかで聞いたことのある声だとは思いながらも、特定の人物は思い当たらなかった。
「無理ですよ。あなたはもう―――ってる」
聞こえてくる言葉は曖昧で、詳しい内容は聞き取れない。それでも、母親が誰かに追い込まれていることは推測できた。男の声が落ち着いており、母親の方が惨めに感じられるほど。
次第に母親の口調が荒れ、祥子の心がざわつき始めた。脳みそをがんがんと殴りつけるような叫び声を聞くだけで、胸が圧迫される。幼い頃より受け続けた声に、拒否反応を示してしまう。
『今度来るときまでに考えておいて下さい。そのときは―――』
中の男が、玄関へ向かって歩いてくる音が聞こえた。
祥子は慌ててドアから離れることにした。聞き耳を立てていたことを知られれば、母親から何をされるかわからない。だが、階段を降りるには間に合わない。廊下を見渡し、二つ隣の玄関の前に棚が置かれているのに気付いた。二メートル近い棚で、全身を隠すこともできる。
ドアノブがガチャガチャと音を立てるのを聞きながら、祥子は必死に廊下を走った。壁にぶつかるほどの勢いで棚の後ろへ飛び込み、どうにか間に合った。呼吸を落ち着けながら顔を出し、部屋から出てきた男の姿を確認する。―――そこには、祥子の想像していなかった人物がいた。玄関の扉を閉めながら、男は中に向かって何かを口にしている。自分の呼吸が荒く、耳元で血液の脈動を感じる。そのせいで、長峰良平の話す言葉は聞こえなかった。
どうして長峰が家にいたのか。
その理由を考えてみると、祥子にとってやっかいな内容しか思いつかなかった。余計なことをしてくれたものだと恨みつつ、長峰が玄関に背を向けるのを見ていた。祥子の存在に気付かれなかったことに安心しながら。濡れた傘がスカートに触れ、シミが広がることにも気付かなかった。とにかく、長峰が帰ってくれるのを待っていた。
だが、その直後、祥子は再び動けなくなった。
閉まりかけた玄関の扉が開き、中から人が飛び出してきた。それが母親だとわかると同時に、祥子は両手で口を覆っていた。部屋から飛び出した勢いのまま、母親が長峰の背中を突き飛ばしたからだ。長峰の体が一瞬だけ宙に浮き、直後、重力に引かれて転げ落ちていく。
祥子は、自分の目で見た光景が信じられなかった。母親は廊下の縁に立ち、階段の下を見下ろしている。放心状態なのか、横顔から感情を読み取ることはできなかった。表情も変えず、ただただそこに立っていただけだった。まさか、自分の行為を娘に見られているとは思いもしなかっただろう。
祥子は、自分の膝が崩れ落ちるのを感じた。廊下に倒れ込む直前でなんとか堪え、壁に手をついた。呼吸が乱れているのは必死に走ったからではない。目撃した信じられない光景が、脳と心を揺さぶり続けていた。
母親は静かに後ずさり、階段に背を向けた。周囲の様子を確認することもなく、玄関のドアノブに手を伸ばす。そのまま、まるで幽霊のような薄っぺらさで部屋の中へと消えていった。そうして母親の姿が見えなくなった直後、祥子はついに崩れ落ちた。両手は震え、船の上にいるかのように視界が揺れる。これが現実なのか、それすらも自信がなかった。
あの人は、なぜ長峰を突き落としたのか。二人の間にどのようなやり取りがあったのかわからない。それでも、突き落とすにふさわしい理由などない。どうして、どうして。その想いだけが、祥子の頭を支配していた。
だが、その直後、祥子はそれに気付いた。
まだ助かるかもしれない。長峰の生死を確かめてはいない。
ふらつく脚に鞭を打ち、祥子は必死に立ち上がった。アパートの灯りに照らされた廊下を一歩ずつ進む。どうか、長峰が苦しみ悶えている姿を見せて欲しい。ピクリとも動かない彼を見てしまえば、救いなどないのだから。大雨に濡れながら、祥子は必死に歩き続けた。
慎重に、階段の下に顔を向ける。
そこには、突っ伏した状態の長峰がいた。うつ伏せで、全身を投げ出した状態の彼が。祥子は視界が歪むのを感じた。自分も階段の下まで転げ落ちてもおかしくない。無意識に何かに掴まっているが、それが階段の手すりなのだと認識する余裕もなかった。
どうして・・。
長峰の全身を雨が叩き付けている。髪の毛が顔を覆い、もし血を流していたとしても見えはしなかった。雨に濡れた手すりの冷たさなど気にもならなかった。頬を伝うのが雨なのか涙なのか、それすらもわからない。祥子は、どうしようもない絶望感に打ち拉がれていた。
これが夢だったら、どれだけよかっただろう。
再び目を開けてみても、長峰の姿は消えていなかった。このままでは誰かがやってきて、彼の姿を目撃してしまう。階段を転げ落ちたことは明らかだ。そして、二階に住む住人を疑うだろう。祥子と長峰が同じ学校に通っていることがわかれば、二人の関係も調べられる。そして―――、いつか母親が逮捕されてしまう。そうなれば、祥子は胸を張って生きていくこともできなくなる。
悪い想像が湯水のように溢れてくる。もう諦めようかと思ってしまうほどに。ここから飛び降りたら、自分も彼のように死んでしまえるだろうか。そんな、全てを投げ出したくなる気持ちに負けてしまいそうだった。
「――祥子ちゃん」
その声が耳に届いても、幻聴だと思った。現実逃避をしている自分が救いを求めているだけなのだと。
「祥子ちゃんだよね?」
再度聞こえてきたその声が、どうやら現実のものだと気付いた。そして、それが土井によるものだとわかると、体の奥から温かさがじんわりと広がった。泣いてしまう、はっきりとそれがわかった。
「大丈夫?」
土井は階段の下から声を掛けてきている。つまり、倒れている長峰にも気付いているということ。祥子は、自分がもう逃げられないことを悟った。なぜ土井がいまここにいるのかと恨みたくなる。それでも、彼に見られてしまった以上、なかったことにはできない。
祥子が返事もできずに手すりにしがみついていると、土井が階段を上がってくる音が聞こえてきた。ゆっくりと、一歩ずつ近付いてくる。
「こないで!」
振り絞るように祥子は叫んだ。雨が酷くなり、体を叩き付ける冷たさを吹き飛ばしたかった。それでも土井の足音は止まらない。同じペースで、すぐ側まで来ている。
「怖がらなくていいよ。誰にも言わない」
目の前で立ち止まった土井が、普段と同じ声で言う。その優しさに甘えてしまいそうになる。これでもかというほど全身に力を込め、祥子は立ち続けた。
「あれ、長峰先輩でしょう? あんなとこにいたら邪魔だよね」
静かに話す土井が不思議だった。この状況を見て、どうして冷静でいられるのか。
「早くどこかに運ぼう。手伝ってくれる?」
耳に入った言葉が信じられず、思わず祥子は顔を上げてしまった。
目の前には自分よりも背の低い土井が立っていて、その表情は落ち着いていた。『どうしたの?』といわんばかりの柔らかな表情のせいで、自分の方がおかしいのかと錯覚する。だが、明らかに土井がおかしい。あまりに自然体過ぎる。
「・・運ぶって、どこに」
「あそこ」
土井が振り返って指差した方向に目を向けると、ゴミ屋敷が見えた。近所にゴミ屋敷があることを不快に感じ続けてきたが、まさか、自分がそこに関わるとは思ってもみなかった。
「あそこまで運ぶだけでいいから、一緒に手伝って」
そう言うと、土井は階段を下り始めた。足を滑らさぬようゆっくりと、落ち着いて進んでいく。
祥子には信じられなかった。土井の行為も、この状況も。母親が突き落とした長峰の遺体を、土井はゴミ屋敷へ運ぼうとしている。ドッキリではないかと思いたくなるほど、非現実的な状況だった。
「ほら、祥子ちゃんも早く」
長峰の遺体の側に立ち、こちらを見上げながら土井が言う。それが当然だという態度で、祥子が下りてくるのを待っている。―――こうなったら、彼を信じるしかない。もう、何かを考えるのはやめた。どうせ逃げられないのだ。全てが都合よく進むことに懸けるしかない。
悪魔に魂を差し出す覚悟をし、祥子は土井の元へと向かった。
「これが全て。あの日の真実」
ようやく全てを話し終えた。
武器も持たず、戦場に立っているような気分だった。殺されるかどうかは、完全に相手に委ねられている。
「だから、私は長峰先輩を殺してなんかないの」
目の前にいる二人の男が、祥子を見つめたまま動かない。それが奇妙で、笑ってしまいたいのに、涙がとめどなく溢れてくる。どうしようもなく悲しくて、全てを投げ出してしまいたいくらいに。
「・・気付かなかったなぁ」
天井を見上げたまま、土井がポツリと呟いた。彼の表情は落ち着いている。クイズの答えがわからなかったくらいの、軽い口調だった。
「ごめんね。恨まれて当然だと思う。・・だから楠さん、私を殺さないで下さい。殺されるなら、その相手は祐介じゃなきゃだめなんです」
「いや、えっと。勝手に話を進めないでもらいたいんだけど・・」
楠が頭をかき、困ったように顔をしかめる。祥子の話した真実は理解したのだろうが、彼は所詮部外者だ。誰が長峰を殺そうが、そう大して重要な問題ではないはずだ。
「平さんのお母さんは、人殺しなわけですよね」
「そうなりますね」
「・・チクショウ」
楠が何に対して怒っているのか、祥子にはわからなかった。赤の他人が人を殺したところで、そこまで怒るだろうか。自分だって、これから自分たちを殺す気ではないのか。
祥子は違和感を覚えていた。
「祐介があれを物語にしたのはどうして?」
「・・小説にしてしまえば過去を清算できるかなと思ったんだけど、無理だったみたいだな」
土井は開き直った様子で、儚げに微笑んだ。それが昔と同じ表情で、祥子はどこか安心した。自分の知らないところで人気作家になっていて、色々と騙されていたわけだが、やはり彼は昔のままだ。いまだって、心から信じられる人物であることに変わりはない。
「わだかまりが消えたみたいでなによりなんですが。申し訳ないけど、話し合いはここまでです」
影のある顔で楠が言う。ようやくか、というのが祥子の感想だった。これまで、よく我慢して聞いていてくれたと感謝しているくらいだった。
「十二年前の事件なんて、私には興味ないわけです。お二人がここにいて、私の障害となっている。重要なのはそれだけなのでね」
「楠さん、ロープを外してもらいたいんですけど」
「できるわけないでしょう。バカなんですか」
二人の当たり前すぎるやり取りを笑う余裕もなかった。楠の隙を見て土井の側に駆け寄ることはできるかもしれない。それでも、二人で無事に逃げ切るビジョンはない。祥子がどう頑張ったところで、男の楠に勝てるはずはないのだから。何か武器になるようなものを持ってくるべきだったと反省がやまない。
「私たちを殺して、それで満足ですか?」
「どうなんでしょう。正直、いまは何も考えられない。でも確かなのは、あなたたちが邪魔だということ。そして平さん、あなたのお母さんも同じく」
楠の言葉を理解できず、祥子は奇妙な感覚に陥っていた。彼はなぜ、母親のことを気にするのだろう。彼の人生と何か関係があるということかもしれないが、祥子にはまるで見当もつかなかった。
「楠さん、殺すなら俺からにしてください。祥子が殺されるところを見るなんて耐えられない」
どっしりとした態度を装って、土井が言う。彼の言葉が強がりなのは明らかだ。おとなしく殺される気など、さらさらないに決まっている。とにかく楠のペースに乗らないようにと、それだけを優先しているように見えた。
「大丈夫ですよ。一緒に終わらせてあげます」
楠は不気味な笑顔を見せ、ゆっくりと歩き出した。壁際へ向かい、そこで何かを手に取る。
「このビルはもう誰にも必要とされていない。昔の持ち主が、面倒になって放置しているんでしょう。だから、ここが燃えたって誰も悲しむことはない」
楠が手にしているのがマッチだとわかり、祥子は全身の毛穴が開くのを感じた。そんなものを使ってやることは一つだけ。楽に死なせてもらうことすらできないのか。
祥子の予想通り、楠は壁の扉を開き、中からポリタンクを取り出した。彼の動きから、その中に大量の液体が入っていることがわかる。それを使って自分たちを殺そうとしていることも。
「そんなことをしたって、あなたは何も救われない。もういいじゃないですか。誰もあなたを傷付けるつもりなんてない」
「あなた方の存在そのものが、私には邪魔なんです」
土井の必死の説得も、いまの楠には届かない。彼が火を点ける前に、土井の身を自由にするしか勝てる可能性はない。
「平さん、そこから動かないでくださいね。そうすれば二人で一緒に死なせてあげることができる」
こちらの考えを見透かしたように楠が言う。必死な想いで土井をチラリと見ても、彼は唇を噛んで小さく首を振った。何も策がないことが伝わり、いよいよ諦める覚悟が生まれてきた。
「あなたのお母さんはなぜ事件を起こしたのか。その理由に気付いていますか?」
土井の発した言葉に、一瞬だけ楠の動きが止まった。その効果もすぐに薄れ、楠が悪魔的な笑みで口を開いた。
「そんなことで時間を稼ごうとしても無駄ですよ。悪あがきはみっともない」
楠は手を休めることなく、ポリタンクを持って土井の側へ近付いていく。祥子が動けずにいると、椅子に座る土井の周囲に液体を巻き始めた。ビチャビチャと音を立てながら広がる液体から、想像通りのにおいがする。ガソリンスタンドにいる気分になり、祥子は下腹部に焦りを感じた。どうしようもないのに、それでも諦め切れなかった。
「祥子だけでも見逃してもらうことはできませんか?」
「できませんね。残念ながら」
土井は、ガソリンらしきものを撒き終えた楠を睨み続けている。せめてもの抵抗も、この状況では惨めだった。
「現実は、物語より非情なんですよ」
その言葉を最期に、楠はマッチに火を点けた。一度で成功してしまうところに、神様の意地悪な性格が表れていた。
楠が火の点いたマッチを投げ捨てると同時に、祥子は駆け出した。
何をすればいいかなどわからなかった。とにかく、土井の側にいかなければならないとだけ感じていた。彼を一人で死なせるわけにはいかなかった。土井は祥子が人を殺したと思い込み、それでも全てを受け入れ、許してくれた。共に手を汚し、長峰の遺体を隠してくれた。そんな土井を一人で死なせることなどできない。命が尽きるそのときまで、祥子は彼の側にいたかった。
土井の体に向かって飛び込み、二人で床に転げ落ちる。周囲を囲む炎は手加減を知らない。全力で炎の雄叫びをあげている。土井の両手を縛ったロープを解こうとしても、焦ってうまくいかなかった。
「逃げろ、祥子だけでも」
「いや!」
「もう間に合わないって」
「絶対にいや!」
諦めたように、落ち着いた口調で言う土井が許せなかった。
祥子がこれだけ大切に想う彼の命を、そんなぞんざいに扱わないで欲しい。あなたのことを大切に想っている者がいるのだと知って欲しい。一度くらい、自分のことを最優先に考えて欲しい。
「これでさようならだ」
炎の外から楠の声が届いたが、祥子にはそんなものにかまう余裕などなかった。いまさら、楠の存在になど興味がない。どこへ行こうが勝手にすればいい。大切なのは、目の前にいる土井だけなのだ。
「祥子! もういいから!」
「うるさい!」
爪が欠けるほど力を込めても、土井の両手を縛っているロープは解けなかった。ナイフかカッター、刃物なら何だってかまわないのに、どうしてここにはそれがないのか。
「お二人のことは、私が小説にしてあげますよ」
楠が去っていく足音が聞こえる。それをかき消すように、周囲を取り巻く炎は威力を増していく。本当に、この建物全てを焼き払ってしまいそうなほど。
全身から汗が吹き出す。息が苦しく、呼吸をするのもつらくなってきた。それでも諦めることはできない。たとえ死ぬとしても、最期まで土井のために生きたい。床に倒れ込んだ土井は、苦しさに耐えるように顔を歪め続けている。祥子に向かって「逃げろ!」と言い続けたまま。それでも、祥子はそんな言葉に従うわけにはいかなかった。いまだけは、彼の願いを受け入れることはできない。
祥子が意識を失いかけたとき、どこかから人の叫び声が聞こえた気がした。もしかすると幻聴だったかもしれない。それを確かめる余裕すらなかった。炎は部屋中に広がっている。楠が無事に逃げられたかどうかすら怪しいくらいだ。
祥子の視界が霞み、意識が遠のき始めた。
そのとき、目の前の土井が驚いた表情を見せた。煙で目が痛いのか、眉間に皺を寄せながら。祥子が土井の視線の先に顔を向けると、そこに誰かがいるのに気付いた。両腕で顔を覆いながら、その人物は二人の姿を見下ろしている。それも一瞬のことで、その人物は素早く土井の側に駆け寄った。
「おかあさん・・?」
横顔を見て、それが母親だとわかった。あまりにも信じられず、とうとう限界を迎えたのかと思ってしまう。母親がここにいるわけがない。自分たちを助けに来るはずなどないのだから。
「あんたはさっさと逃げなさい!」
土井の腕を縛るロープを、刃物のようなもので切り続けている。そこに何か赤いものが付着しているような気もしたが、周囲の炎のせいでよくわからない。そんなことを冷静に考える暇などないのも事実だった。
「早く!」
両腕が自由になった土井を、母親が必死に起こす。
「行くぞ!」
土井はふらつく足取りのまま、祥子の腕を取る。わけもわからないこの状況に、祥子は考えるのをやめた。土井にすがりつくようにして立ち上がり、すぐに走り出す。目の前の炎を恐れる余裕もなく、その中へ飛び込んでいく。この部屋に入ってきた入り口があったと思われる方向へ走る。それしかできなかった。
土井と二人で、無我夢中で前へ進んだ。母親はどうしたのか。彼女が後ろから追ってくる気配はない。どこか別の逃げ道を知っているのだろうか。
「走れ!」
姿もろくに見えない土井の声が聞こえる。彼に導かれるまま、祥子は生きるために一歩を踏み出し続けた。その先に何が待っているのかわからない。怖くてたまらないし、いますぐに諦めてしまった方が楽に違いない。
それでも、いつか、生きていてよかったと思える日がくるのかもしれない。
それを信じて、土井と共に走り続けた。
『祥子・・』
背後から母親の声が聞こえた気がした。
それが幻聴なのかどうか、いまの祥子には考えることもできなかった。
5
楠農兵が死亡したというニュースは、発生から二週間もしないうちに静まっていった。焼け跡からは楠ともう一人の遺体が発見され、楠の遺体の腹部には、刃物で刺されたような痕が見つかった。そのため、遺体となった二人の間に何かしらの問題が起き、それが事件の原因と思われている。楠ではないもう一人は、まだ特定されていないらしい。
礼美は、この事件の真実を追うことを諦め始めている。亡くなる直前、楠は自らの作品『満月の微笑む夜に』が誰かのアイデアを元に執筆した盗作だと発表した。その相手が誰なのかはわからないまま、盗まれたと思われる人物に関する憶測だけが宙に浮いていた。楠が亡くなったのは、それに関わることが原因とも考えられており、礼美も同じ気持ちでいる。
また、平祥子とは、楠が亡くなった直後に再会することができた。彼女はもう逃げようとせず、時間を掛けて良平の事件について話してくれた。そこで明らかとなったのは、祥子と土井が遺体を隠したのは事実で、その場所は、小説の中と同様に近所のゴミ屋敷だったそうだ。そして、偶然なのかわからないが、祥子が真実を話してくれた直後にそのゴミ屋敷は火事で全焼した。ゴミ屋敷の主人の男性も共に亡くなり、良平の遺体はまだ発見されていない。
良平の遺体を隠した理由について、平祥子は『面倒ごとに巻き込まれるのが嫌だった』と口にした。礼美にはそれが真実なのかどうか判断する術はなかった。良平の死因はやはり事故死で、祥子に交際を迫り、フラれたことにショックを受け、足を滑らせたという。こちらも、その真偽を突き止めることはできない。祥子の嘘かもしれないし、真実である可能性も捨てきれない。
礼美はもう、特定することを諦めている。その代わり、祥子の人生をいつまでも見続けることにした。良平が好意を寄せていた彼女が、今後どのように生きるのか。良平の姉として、最期まで見届けるつもりだった。それだけが礼美にできる償いに感じた。
結局、いまでもあの小説の元を考えたのが誰なのかわからないままだ。平祥子と土井祐介、二人の有力な容疑者を突き止めたにも関わらず、事件は闇に消えようとしている。
それでも、これ以上二人を追い込む気も起きなかった。玉田の言葉が原因だ。
『前を向くことが、残された者の義務なんだ』
まさにその通りだと感じた。良平の死の真相を追い続けても、礼美は前を向くことができない。あの事件を過去のものだと割りきり、玉田と共に過ごす日々を幸せだと受け入れる。それだけでも、人は生きていけると信じている。
午後八時半まであと一時間以上ある。礼美はアイスティーを飲みながら、中部国際空港で玉田を待っていた。午後八時半の便で、祥子と土井はイギリスへ発つらしい。しばらくの間、二人だけで過ごすことにしたという。
『完全に、海外に逃亡する気だよね』
玉田の言葉だが、笑ってしまうほど同感だった。それでも、自分たちにそれを伝え、最期に見送りに来させようとしている。その勇気と厚顔無恥な態度にはあっぱれだった。あの二人を信用することはできないが、最期くらい、思い切り睨んで送り出してやろうと思う。
ふと、空港のデッキから、夜の滑走路を眺めてみたくなった。玉田と共に行きたかったが、もう少し時間が掛かるかもしれない。
カフェを出て、一人でエスカレーターに乗る。夜だというのに、空港には人が溢れている。世界中の人が集まっているのだから当然ではあるが、奇妙に感じなくもない。この中に自分と同じ目的の者はいないだろうと思うと、自然に表情が緩んでしまった。憎むべき相手を見送りにくるなど、まさに愚の骨頂だ。
エスカレーターを上がり、デッキへ向かって歩く。十五歳で亡くなった良平は、この空港を利用したことがなかったはずだ。それを思うと心が痛むが、いまさら仕方がない。精一杯生きて、自分自身と向き合うしかない。
デッキに向かっていると、バッグに入れた携帯電話が振動するのを感じた。玉田からかと思い確認すると、知らないアドレスからのメールだった。疑問を抱きながらメールを開く。―――そして。
「チクショウ!」
一人で立ち尽くし、礼美は大きくため息をついた。
『すみません。私たちはもう日本にはいません。良平さんのことを背負いながら、祐介と二人で生きてゆきます。いつか、良平さんのお墓参りに行かせて下さい。
最後になりますが、祐介からの伝言です。
リンク先のページにアクセスして頂ければ、楠農兵さんが当初予定していたラストを読むことができます。私たちなりの償いの気持ちです。それでは、失礼致します。
平祥子・土井祐介』
このメールをどこから送ったのか、それすらもわからない。携帯電話の通信履歴なりを調べれば何かしら特定できるのかもしれないが、そんな気すら起きなかった。最後まで、あの二人にしてやられた。
完敗を受け入れると、礼美は知らぬうちに笑っていた。悔しいが、まんまと出し抜かれてしまった。仕方なく、メールに載っているURLにアクセスすることにした。フロアの中央に置かれた椅子に腰掛け、脚を組む。そこに何が書かれているのかと、僅かに緊張しながら。
読み終わるまで、それほど長い時間は掛からなかった。せいぜい二十分というところだろう。礼美は自分が涙を流していることに気付き、慌ててハンカチで拭った。周りからは、恋人が海外へ転勤してしまったように見えるかもしれない。一人で恥ずかしくなり、顔を伏せてしまう。そして、携帯電話を握りしめながら声を殺して泣いた。
どうして、こんなにも優しいのだろう。
楠が当初予定していたという小説のラストは、礼美の想像とは掛け離れたものだった。予想外の優しいラストに、心を揺さぶられている自分がいる。悔しくて、それでもどうしようもなかった。
なぜだかわからないが、良平を傷付けたことは許せなくとも、あの二人の愛が本物なのだと伝わってくる。小説に出てくる二人は精一杯生きようとしていた。少年の遺体を隠すという罪を背負いながらも、生のエネルギーを感じた。それが、どうしようもなく心に響いた。楠が予定していたラストをなぜあの二人が知っているのか。そんなことすら、どうでもよく感じてしまうほどに。
握りしめた携帯電話が振動し、礼美は画面をチラリと確認する。それが玉田からの着信だとわかると、慌てて呼吸を整えようとした。泣いたせいで鼻声になっているはずだ。いまさら取り繕うことは不可能かもしれない。
「・・はい」
「どうしたの? 元気ない? いま空港の駅に着いたんだけどさ、国際線の方へ向かえばいい?」
「私たちの負け。もうここにはいないみたい」
「・・なるほどねぇ」
電話越しに、玉田の笑い声が聞こえた。その後ろから電車の案内も聞こえてくる。彼のいる位置が容易に想像できた。
「礼美はどうしたい?」
「・・もういいかなって。なんだかバカバカしくなった」
「そうだね。それがいいと思う」
鼻声で話しているのだから、泣いていたことは玉田にもバレているはずだ。それに触れてこないのは、一応はデリカシーを持ち合わせている証拠か。
「こんなときに言うのはなんだけどさ」
「なによ」
「九州って嫌い?」
「・・は? 別に嫌いじゃないけど」
玉田が何を言いたいのかわからない。九州行きの便が安くなっているとでもいうのか。
「一緒に研究しないかって誘ってくれている先生が九州にいるんだ。そっちへ移って頑張ってみたいなと思ってる」
「へぇ。いいんじゃない? 出世したってことよね」
「まぁ、准教授になるわけだから、出世ともいえるかな。それでさ、礼美も一緒にどうかなと思うんだ」
玉田の言葉を深読みしてしまったのは、礼美が女だからだろうか。この気持ちを卑しいと思われたくなく、礼美は必死に平静を装った。
「まぁ、断る理由はないかも」
「図書館は日本中にあるから、どこでも仕事は続けられると思うんだよね。それに、働きたくないなら家にいたってかまわない」
「ねぇ、これってプロポーズ?」
もう我慢ができなかった。回りくどい玉田の言い方に焦らされてしまった。
「そうなるのかな。できれば礼美と結婚したいと思ってるわけだし」
「へぇ・・」
現実は、こんなにあっさりしたものなのか。小説やドラマとはまるで違う。コンビニに行こうと誘われたのと同じではないか。
「ふつう電話で言う? それもこんなときに」
「ごめんごめん」
ははっ、という笑い声も聞こえてくる。
「礼美の顔を見て言う自信はなかったんだ」
「意外と小心者なんだ。私が断るとでも?」
「ううん。その可能性は限りなく低いと思ってたよ。ただ、きみの泣き顔は見たくなかった」
「どういうことよ」
自分が鼻声であることが、途端に恥ずかしくなった。
「だって、礼美は嬉し泣きするだろう? そんなの、こっぱずかしくて見てられないから」
「・・コノヤロウ」
思わず、礼美は吹き出してしまった。玉田に返事をすることも忘れて、涙を流しながら笑った。本当にこの人は底が知れない。何もかも、玉田の掌で踊らされているような気がした。
「よろしくお願いします」
「・・ありがとう。安心したよ」
優しい口調で言われ、それが彼の本心なのだと伝わってきた。それと同時に、全身に温もりが広がる。幸せというのはこういうことなのかもしれない。
「やっぱり、夜景の見えるレストランとかがよかった?」
「ううん。そんなのどうでもいい。これもとっても素敵だと思うわ」
「変わり者だなぁ」
「あなたに言われたくないんだけど」
二人で笑い合う。この時間がいつまでも続いて欲しいとさえ思う。
「一つだけ、お願いがあるの」
「うん」
「必ず幸せにして。泣かせたら許さないんだから」
「それ、普通はお父さんが言うセリフだよ」
玉田が呆れたようにため息をつき、ハッキリとした口調で言う。
「約束します」
「ありがと」
「何か食べに行こうか。今日は何でもごちそうするよ」
「うーん、そうねぇ・・」
周囲を見渡し、空港内にあるレストランを思い出そうとした。大抵は知っている店で、いまいち乗り気にならない。―――それならば。
「すき家がいいな」
「そんなとこでいいの? 遠慮はいらないよ」
「そこがいい。良平が好きだったのよ」
「・・そっか。わかった」
玉田はそれ以上何も言わないでくれた。その優しさだけで、すでにお腹いっぱいになってしまうほど嬉しかった。
「待ってて。すぐに迎えに行くから」
「早くしてね。どっか行っちゃうかも」
「ダッシュで行くよ」
玉田の笑い声と共に通話が終了した。
礼美はデッキの方へ顔を向ける。どこまででも続く空の中に良平はいるのだろうか。玉田と二人で幸せになろうとする自分を許してくれるだろうか。この不安は、いつまで経っても消えないかもしれない。良平を妬み、彼のことを考えないようにしてきた自分がいたのは事実だ。無責任に幸せになる権利はない。
それでも、どれだけ自分勝手で惨めでも、毎日を精一杯生きようと思う。誰かのために自分が不幸になったところで何も生まれない。ちっぽけな存在でも、精一杯生きることが、生きている礼美の責任なのだ。良平に叱られないためにも、這いつくばってでも生きていこう、そう誓った。
夜空を飛ぶ飛行機が小さく見える。
自分の惨めな弱さも、後悔も、いつまででも背負っていこう。
それが自分に架せられた十字架なのだと、強く心に刻んで。
6
「行っちゃった」
礼美が歩き出すのを見て、祥子の中にほんの僅かな後悔が生まれた。
「私たちのこと、死ぬまで許してくれないんだろうね」
「ま、仕方ないな。当然だし」
土井と二人で柵に寄り掛かり、下のフロアを見下ろす。
中部国際空港には何度か来たことがあったが、まだまだ知らない場所も多い。イギリス行きの便の搭乗時刻が迫ってきたが、空港探索も悪くないかもしれない。なにしろ、次に日本へ帰ってくるのはいつになるのかわからないのだ。
「お母さんのお墓はどうするの?」
まるで、それを尋ねるタイミングを探っていたような口ぶりだった。祥子は土井の方に顔を向け、小さく微笑む。
「お墓なんて用意しないよ。私、あの人のこと許せないと思うし。それに、私が死んだってお墓に入るつもりもないから、おあいこかな」
「本当にそれでいいのか?」
「いいよ。私たちが真っ当な死に方するわけにはいかないもの。あの世で幸せな生活したら、それこそ恨まれちゃうじゃない」
たとえ死に際に助けてくれたとしても、それだけで母親を許すことはできなかった。感謝はしている。土井の身を自由にしてくれたことは特に。だが、それと、これまでの人生とは別だ。母親から受けた暴力も暴言も、祥子の心に染み付いている。いつまでも忘れることなどできはしない。
「あのとき、俺の言った言葉覚えてる?」
「なんだっけ」
「楠さんに殺されかけたとき。楠さんのお母さんがどうして事件を起こしたのかわかるかって」
「――あぁ」
なんとなく、そんなやり取りがあったような気がする。あのときは必死すぎて、まともに考える余裕などなかったが。
「それがなに? 祐介にはわかるの?」
「うーん、少しだけ思い当たることがある」
下のフロアを見つめながら、土井は静かに言った。世間話とは違う、彼の中に確固たる考えがあることが伝わってきた。
「楠さんの父親による暴力に耐えられず刺した。逮捕された後、そう証言しているらしいね」
「うん」
「でもさ、それだとおかしいと思わない? まだ小さい赤ちゃんを殺す理由がないんだ」
「それは・・、まぁね」
祥子も同様の疑問は抱いていた。だが、当時の警察だってそれを不審に思ったはずで、何かしらの結論が下されている。母親の方も気が狂っていたとか、常人には理解できない様子だったのかもしれない。
「それで考えたんだ。どうして楠さんのお母さんはそんなことをしたのかって」
「祐介が考えたって仕方ないと思うけど。他人の母親のことなんて」
土井から悲しげな目を向けられる。彼の心境は理解できないが、なぜだか悪いことをしている気がした。絶対にそんなことはないはずだが。
「そう。俺が考えたって、いまさら何が真実かなんてわからない。でも、だからって考えるのをやめちゃいけないと思うんだ。そこには誰かの意志とか想いが詰まっているはずだから」
柵に背を向け、土井が遥か遠くの天井を見上げる。彼の横顔から哀愁が漂っている。悲しげな、手遅れな優しさを見せつけられる気がした。
「お母さんは、楠さんのお母さんはさ、きっと泣いていたと思う。祥子が夢に見る場面ではどう? お母さん泣いてない?」
「私の夢・・?」
土井の言葉が何を指すのか、一瞬わからなかった。ようやくあの夢のことだとわかったが、それと楠の母親の事件との関連性は見えてこなかった。
「わかんないよ。だって、顔が真っ黒なんだもん」
「・・そっか」
土井は納得いかない様子で腕を組む。考え込むように、黙って宙を見つめている。
「どうして泣いているって思うの?」
「楠さんのお母さんは、きっと彼を守ろうとしたんだ。楠農兵さんを」
「どうして? 赤ちゃんを殺してるのに」
「うん。でも現実は楠さんだけが生き残っている。自分は逮捕され、夫と次男は殺害しているのにだよ。ここには矛盾があると思うだろう?」
「まぁ、そうだけど」
土井の考えがまだ理解できない。回りくどいと文句を言いたかったが、彼の様子は普通ではない。ふざけていたり、わざと焦らしているのとは違う。土井自身、その考えを口にすることをためらっているかのよう。
「楠さんのお母さんは、彼を守るために赤ちゃんの首を絞めて殺害したんだ。そうしなければ、全員が父親に殺されていたから」
「どういうことよ」
「そのときの状況を考えてみて欲しい」
土井はフェンスから背を離し、祥子に向き合う形になった。
「楠さんの父親は酔って暴れ出した。きっと、包丁を持って他の三人を襲おうとしたんだ。母親が使った凶器は包丁だったし、正当防衛ならそう考えるのが妥当だ」
有無を言わさぬ口ぶりだった。
「たぶん、お母さんは二人の息子を連れて箪笥に隠れたんだ。父親から逃げるようにして。本当は家の外へ出たかったんだろうけど、できなかったんだと思う。祥子が夢に見るのはそのときの場面だ」
「どうして私はそんな夢を見るの?」
土井に真直ぐ見つめられる。それでも、彼は答えをくれなかった。SFのような理由を口にするのを嫌がったのかもしれない。
「そう考えるとさ、母親の犯行の理由も明白なんだ」
「・・赤ちゃんがいたら足手まといってこと?」
自分で言いながら、なんと残酷なのかとゾッとした。
「きっと違う。それなら、赤ちゃんをほっといて二人で箪笥に隠れたらいい。大事に思っていたからこそ、二人ともを引き連れて隠れた。できることなら二人ともを守りたかったんだ」
「ねぇ、はっきり言って。楠さんのお母さんはどうして赤ちゃんを殺したの」
「泣き声だよ」
「え?」
「赤ちゃんの泣き声がやまなかったんだ、きっと。そのせいで、隠れていることが無意味になってしまうからだ」
土井の言葉を頭の中で反芻する。そして、ようやくその想いに辿り着いた。楠の母親の決断がどれほどのものだったか。赤の他人である祥子ですら、心を締めつけられる想いだった。
「・・だから、楠農兵さんを守るためって言ったのね」
「あぁ。三人とも殺されるか、赤ちゃんを諦めて二人で生き残るか。いや、それは違うか。子供をそんなパズルのピースみたいに考えられるはずがないから、せめて長男だけでも、って気持ちだったと思う」
「・・優しいんだね」
土井のことを言ったのだが、彼に伝わっているだろうか。赤の他人が過去に起こした事件について、土井はそこまで考えた。それも、加害者を庇うような、どうしようもない動機があったはずだと信じて。実際のところは何もわからないし、すでに楠の母親は刑罰を受けている。いまさら掘り返したところで、誰一人得はしない。その事件で生き延びた楠農兵でさえ、いまはもう亡くなっている。
「祥子もさ、お母さんのこと認めてあげてもいいんじゃないかな。許してあげろなんて言えない。俺だって、祥子が苦しんできたのは見てきた。その気持ちを理解してあげることなんてできないし、そんなもん、おこがましいと思うよ。でもさ、祥子のお母さんだって必死だったはずだよ。過去に色々あったんだろうし、結婚生活もうまくいかなかった。それにさ、」
「大丈夫」
右手を突き出し、土井の言葉を遮る。彼の想いを受け止めるのがつらかった。顔を見て話すこともできず、俯いてしまった自分がいる。
「わかってるよ。ちゃんとわかってるつもり」
「・・ごめん」
「私がここまで生きてこられたのは、あの人がいたから。気持ち的にはそんな風に思いたくないけど、現実はそうだもんね。だから感謝するところはしなくちゃいけないと思うし、目を背けちゃいけないのもわかってる」
祥子は自分の声が震えているのを自覚しながら、どうしようもなかった。
「でもさ、そう簡単にはいかないんだよ・・。あの人のせいで人生メチャクチャになったのも事実だし、祐介だって巻き込まれてる。あの人が長峰先輩を突き飛ばして殺してしまわなかったら、こんなことにはならなかったの」
「うん」
こんな本音を口にして、土井が離れていってしまわないかと不安になる。
「だからさ、お墓とか考えられないし、あの人のために何かしてあげようって気持ちにはなれない。間違ってるってわかるけど、恨んじゃう気持ちは消えないんだもの」
俯きながら、足元に涙の粒が落ちる。それを止めることもできず、祥子は歯を食いしばった。変えようのない過去に、どうしようもなく後悔がこびりつく。自分はどこで間違ってしまったのだろう。母親の行為を止めることができはしなかったのか。もしかすると、最後の一線を越えることだけは防げたかもしれないのに。
考え出すと、後悔が湯水のように溢れてくる。どれだけ必死に塞ごうと、指と指の隙間から、遠慮もせずに漏れていく。大切なものまで流れていかぬようにするだけで精一杯だった。
「たぶんだけどさ」
祥子の右手を、土井の左手が優しく包み込む。
「みんな後悔しながら生きてくんだ。誰だってそうだから我慢しろってことじゃないけど、それはどうしようもないことなんだろうな。でも、それでも足掻かなくちゃいけないんだなって、最近はそう思う。祥子と二人で死ぬまで足掻いてやるつもりだよ」
土井の手から伝わる温もりが、ゆっくりと、強く、祥子の全身を包み込んでいく。他人を傷付け、他人に守られ、それでも歩き続ける覚悟をしなければならない。側にいて欲しいと思える相手のために、嘘をついてでも生きてゆきたいからだ。涙を流すことも、歯を食いしばる覚悟もしよう。どれほど惨めでも歩き続ける。土井と共に生きる。確かに、それを心に誓った。
「そろそろ行こうか」
「・・うん」
彼と一緒なら、どこへだって行ける気がする。
たとえ、その先が地獄だったとしても。