第四章
1
楠農兵という男について調べていくにつれ、彼の過去に注目せざるを得なかった。その結果、インターネット上だけでは調べ切れず、専門家を頼ることになってしまった。金銭的には問題がなかったが、そこまでする必要があるのかと、土井は自分に尋ねてしまいそうになる。
楠理恵、それが楠の母親の名だ。
楠農兵が五歳だった頃、彼女は自分の夫と次男である幼児を殺害した。事件直後に逮捕され、現在は出所している。生き残った楠農兵は施設に預けられ、高校を卒業してすぐに就職している。彼が作家としてデビューしたのは、三十歳を越えた頃のようだ。
自宅で座椅子に腰掛け、調査資料を何度も読み込む。土井が当初考えていたことは正しかった。だが、それ以上の結果が出てしまい、正直困惑していた。あまりにも予想外の事態に、冷静に計画を立てることすら困難になってしまったほど。
「まじかよ・・」
資料を投げ捨て、土井は天井を見上げた。LEDランプが目を刺激してくるが、それ以上の衝撃を受けている。視界は現実を捉えておらず、自分の無力さだけを実感していた。楠理恵は出所した後、結婚し、名前も変わっている。資料に書かれたその名を目にした途端、土井の中で何かが崩れさるのを感じた。
信じられなかった。
こんな巡り合わせがあってよいものかと、神を恨みたくもなった。
だが、それを踏まえると、いくつかの疑問に答えが出る。そういうことか、と納得ができてしまうのだ。そういった経緯があるからこそ、彼女はそれを知ってしまった。オカルトじみてはいるが、ありうることなのかもしれない。人間の脳に関して、現段階ではそこまで解明できていない。
その一方で、楠は恐れているはずだ。なぜ、彼女が自分の過去を知っているのか。そして、邪魔に感じているに違いない。小説についても興味をもたれ、自分の身辺を嗅ぎ回られているのだから。この状況は非常に危険といえる。土井としても、このまま見過ごすわけにはいかない。
一方で、楠が過去の事件をリアルタイムで知っているという可能性は限りなく低くなった。彼は愛知県に住んでいたことはないからだ。調査結果によると、十二年前の事件が起きた頃、楠は東京で働いていたらしい。それについては、素直に安堵できた。この流れで、全てが都合よく進んでくれればよいのだが。
祥子には内緒で、一人で小牧市へ向かった。目的はただ一つ、ゴミ屋敷の主人に会うためだ。十二年前にもこの屋敷に住んでいた彼は、現在は七十歳前後になっているだろう。父親と祖父の間、微妙な年齢関係に思わず頬が緩んだ。四十歳を過ぎてから子供を作るというのは、決して珍しい話ではない。
屋敷に備え付けられたチャイムは意味を成していない。たとえ来客があっても、主人が玄関まで顔を出すことはないからだ。それを知っている土井は、勝手に屋敷の中へと足を踏み入れた。
あの頃から、この辺りに漂う不快なにおいは変わっていない。変わっていたとしても、ドブと排水溝の違いのようなものだ。普通の者からしたら、こんなところで生活するなど考えられるはずもなかった。
「お邪魔しまーす」
誰に向けてでもなく挨拶をし、土井は建物へと向かう。建てられた当初は、さぞ豪華だったはずだ。その面影は敷地の広さにだけ残っている。一応は人が通ることになっている隙間を歩き、建物の縁側へ向かった。屋敷の主人は、いつだってそこにいるからだ。
砂利を踏みしめながら進み、左右に見える立派な木々を眺める。いまは枯れ果てているが、その幹を見ただけでも元は壮大なものだったとわかる。こんな姿にしてしまうのはもったいないと、無関係な土井ですら感じた。
屋敷を回り込むようにして進むと、目的の縁側が視界に入った。そこには、ひからびたような老人が一人で座っていた。煙の出ていない煙草を咥え、その中にはすでにニコチンがないことが伺える。
「こんにちは」
初めて土井の存在に気付いたのか、のっそりとした動作で老人が顔を向けた。不法侵入を咎める気もないのか、感情の浮かんでいない表情のままだった。
「お久しぶりです。俺のこと覚えてますか?」
老人の側まで近づき、彼から二メートルほどの距離で立ち止まった。
「土井祐介っていうんですけど」
「誰だぁ、おめぇ」
「だから、土井祐介ですって。ほら、十二年前にもお世話になったじゃないですか」
老人は眉間にシワを寄せ、食い入るように土井の全身を観察している。やがて何かを思い出したのか、小さく「ほう・・」と呟いた。
「あんなにちっこかったのにな。ずいぶんとまぁ」
「となり、いいですか?」
老人が「ケケッ」と笑い、土井は彼の隣に腰掛けた。そこら中から嫌なにおいがしていて、老人の不潔感などどうでもよかった。
「あの子はどうした。あれからめっきり見なくなっちまって」
「あの後すぐに転校したんですよ。いまでも元気ですから、ご心配なく」
「なんだぁ? おめぇらうまくいってんのか」
「ぼちぼち、ですけど」
「男がシャキッとしなきゃならんぞ。あの頃のおめぇはそれができていた」
いまの土井を否定するような言い方に、無意識に舌打ちが出た。
「祥子のことで、ちょっとやっかいなことになりまして」
「これ以上巻き込まれるのはごめんだぞ」
「ははっ」
本当に、この老人には感謝してもしきれない。互いに秘密を握り合っているのだから、彼からしても同様だろうが。
「あの日のこと覚えてますか?」
「どの日だ」
「俺が、お願いしにきた日のことです」
「・・あぁ、なんとなくな」
土井が老人と初めて話したのは、長峰の遺体をここに隠した翌日のことだった。それまでも、屋敷の近くで顔を合わせたことはあった。そのときは、ゴミ屋敷の主人だとしか思わず、どちらかといえば苦手な存在だった。
「また何か頼みてぇのか?」
「いえ。もうやってもらうことはありません」
この縁側からは見えないが、屋敷の裏側の様子が頭に浮かぶ。そこに、長峰は眠っている。眠っていた(・・・・・)、というべきか。
「あの子はどこまで知ってるんだ」
「俺と一緒にここで作業して、そこまでです。アレのその後がどうなったのか、彼女には伝えていません」
「はっ、よろしいこったな」
「どうやって処分したんですか?」
土井の問いに、老人が目だけを向けてきた。
「忘れちまったよ、そんなこと」
「なんか、火事が起きましたよね。あの―――名前はわかりませんけど川の側で」
祥子が転校する前の晩、二人が会っていた場所だ。その数日後に同じ場所で火事が発生し、土井たちが疑われた。
「でも、あれって煙草の火が原因ってききましたけど」
「あぁ。あの煙草はわしのだ」
老人の「カカッ」という笑い声が響いた。
「別にあんなとこで人間さんを燃やしたりはしねぇさ」
「じゃあ、どうしたんです?」
「知らねぇ方がいいと思うけどなぁ」
「ずいぶんとおせっかいなんですね」
「うるせぇ」
老人の呆れたようなため息を聞き、土井は庭を埋め尽くすゴミを眺める。この中に中学生の遺体が隠されていたとして、見つけられる者がいるだろうか。まずその作業をしたくはないし、やる気になっても一日では終わらない。だからこそ土井はこの場所を選び、老人に助けを求めた。
「どうして俺たちを助けてくれたんですか?」
「わかってるだろうが、ボケ」
「そうですけど」
あの頃から、老人のひねくれ具合は変わらない。それがどこか心地よく、懐かしさすら覚えた。
「祥子は何も知りません。あなたと母親の関係も、それと自分の関係も」
「知らねぇ方がいいこった。これ以上、あの子の心に負担を掛けるべきじゃあない」
「愛してるんですね」
「自分の子だ。愛してるに決まってらぁ。たとえ一緒に住んでなくてもな」
ぶっきらぼうに言う老人の横顔から、悲しいほどの哀愁が漂っていた。土井は慌てて視線を外し、雲一つない空を見上げる。
その事実を知ったら、祥子は驚くだろうか。自分の本当の父親の存在、そして、その父親が、自らの罪を隠すのに一躍かっていたなど。彼女の立場を考えたら、とても伝えられるものではなかった。
「じゃあ、俺のこと疎ましく思ってます? 娘さんを奪おうとしてますよ」
「はっ! んなことどうだっていい。適当なやつに奪われるくらいなら、運命を共有しちまっているてめぇの方がマシだ。裏切りようがねぇんだから」
「ははっ、ホントですね。裏切る気はさらさらないですけど」
「ただ、約束しろ。死ぬまであの子を守るってな」
「もちろんです。祥子のためなら、どんな嘘だってついてやりますよ」
土井の言葉に満足したのか、老人が鼻で笑った。土井も気恥ずかしさで笑ってしまい、ここがあの事件の重要な現場であることを忘れてしまうところだった。
「おい、ボウズ」
「なんです?」
「人間ってのはな、一人じゃ生きられねぇんだ」
「急になんですか」
このまま死んでしまうのかと心配してしまうような口ぶりだった。
「わしはこうして一人で生きているように見えるかもしれねぇが、そうじゃねぇ。おめぇのおかげで、わしは生きてこれたんだ」
「なんです? 気持ち悪い」
「黙ってきけ、ボケ。おめぇが頼み込んできて、そこからわしにも生きる意味ってのが生まれた。おめぇのためじゃねぇぞ。あの子のために、ここを守りきるって誓ったんだ」
昔語りをするように話す老人を、土井は決して面倒には感じなかった。それどころか、心地いいような、自分と同じ人種に出会えた気がしていた。
「その役目も、もうすぐ終わる。いつ死ぬかもわからねぇからな。その前にこうしておめぇと話せてよかったかもな」
「意外としんみりしてますね」
「うるせぇ。誰のおかげでここまで隠せたと思ってんだ」
「そこは本当に感謝してますよ、心から」
土井の言葉に、嘘は一ミリも含まれていなかった。あの日、ここに長峰の遺体を隠した後。老人はそれを知りながら、警察に突き出さずにいてくれた。そして、長峰の遺体の処理までしてくれたのだ。自らの子供の罪を隠すためとはいえ、そこまで実行できるだろうか。本当に、土井は彼に返し切れないほどの恩がある。
「わしを殺しに来たんじゃねぇのか?」
「いやいや、そんなことしませんよ」
「てっきりそうなんだと思ったぞ。口封じにしては時間が経ちすぎてるもんだから、奇妙だとは思ったが」
「しません。俺、信じてますから」
「わしをか?」
「いや、祥子を。彼女のためなら、あなたは俺を裏切らない」
「くそガキが」
老人への申し訳なさで、つい笑ってしまった。それでも、老人への信頼は本物だった。彼は土井と同じく共犯者なのだから。
「必ずあの子を幸せにしろ」
「はい」
「そのためなら、わしを殺したってかまわん」
「わかりました」
老人の本音を聞くことができ、土井の中で覚悟が決まった。自分たちが誰に助けられ、守られてきたのか。その恩に報いるためにも、土井は必ず計画を成功させなければならない。それが、祥子を救うことに繋がると信じている。
「ありがとうございました」
立ち上がり、老人に向かって頭を下げる。もうここへ来ることはないだろう。老人が亡くなっても、彼の墓へ参ることもない。これが最後の別れとなる。
「気味がわりぃ。さっさと帰れ」
左手で追い払うような仕草を見せ、老人はひからびた煙草を咥えた。それ以上、何も言う気がないようだ。
「失礼します」
老人に背を向け、土井は歩き出す。この場所に縛られた老人のためにも、この使命を遂行してみせる。祥子を守らなければならないのだ。そのために、再び自らの手を汚す覚悟をした。
2
七月四日、午後八時過ぎ。
祥子は自宅のベッドの上で携帯電話を握りしめていた。明日、『満月の微笑む夜に』の掲載された『マニュフェスト』が発売される。そこに何が書かれているのかと想像するだけで、心臓をやんわりと鷲掴みされているような気分になる。じわじわといたぶられ続けている。
先日、土井と二人で楠のサイン会に参加した。
そこにいた楠からは、祥子に対して、表面上は全く敵意が感じられなかった。彼が隠しているのだとしたらどれだけ恐ろしいかわからないが、おそらくそれは違う。執筆している小説とは異なり、彼自身は祥子たちを糾弾するつもりがない。ただし、彼の書く小説は殺意に溢れている。そして土井は、長峰礼美の存在が危険だと言っていた。あの小説自体に危険性はないが、それを読んだ礼美だけが邪魔なのだと。
だからといって、祥子は自分に何かができるとも思えなかった。明日になれば、礼美は必ず雑誌を購入するだろう。すでに予約だってしているかもしれない。そして、そこに書かれた内容を元に、祥子を疑うのだ。そこまでを容易に想像でき、祥子は食事すら喉を通らなかった。
枕元のスマートフォンを放置したまま、祥子は握りしめた携帯電話をジッと見つめる。十二年前、あの事件が起きた当時に持っていたものだ。家は貧しかったというのに、母親はこれだけは与えてくれた。世間体など気にしなかったはずなのに、なぜ買ってくれたのだろう。祥子のことを心配して持たせてくれた、などという可能性は微塵も考えられなかった。
折りたたみ式の携帯電話を開き、いまとなっては古く感じる画面を見つめる。十二年経ったいまでも、一応は動いてくれる。電話やメールをすることはできないが、祥子はこの携帯電話を処分しようと思ったことはない。この中には宝物が隠れているからだ。
メールの履歴を開き、目的のもの探す。ボタンを連打し、十七回目にそのメールが現れた。これまで何度も行ってきた儀式のようなもので、その回数まで覚えている。忘れることなどできない。彼とのメールの内容すら、全て頭に入っているほど。
『今日は大丈夫だった?』
『もしまた酷いことされたら、僕に言うんだよ』
『そっか。ま、油断しちゃダメだよ。そういうのは気分で始まるから』
『そのときは、必ず助けにいくから』
五月十五日に長峰の携帯電話から届いたメールは、この四通だった。祥子はこれらを受け取り、返事をしたときのことをハッキリと覚えている。
メールのやり取りをした夜のことを思い出すと、祥子は涙が溢れるのを抑えなければならなくなる。彼がどのような想いでこれを送ってくれたのか、それをよくわかっているつもりだからだ。部屋の中で一人、必死な想いでこれを打ち込んでいる彼を想うと、本当に申し訳なくなる。自分のせいで、彼の人生をメチャクチャにしてしまったのだから。
時折、あの夜の真実を、誰かに全て打ち明けてしまいたくなる衝動に駆られる。自分の罪や嘘を明かし、誰かに罰して欲しくなる。それができないのは、土井を巻き込んでしまっているからだ。自分が正直に話してしまえば、彼もただでは済まない。これは、二人に共通した呪縛なのだ。決して解けることのない鎖が二人を結んでいる。土井はこれを望んでいるのかもしれないが。
長峰の遺体を発見した土井は、迷うことなく祥子の側へ来てくれた。覚悟を決めた目で、祥子を真直ぐに見つめた。彼の目を見た瞬間、自分の全てを捧げてよいと思えた。彼が自分の味方なのだと、安心できるほど信じられたからだ。
土井に助けてもらいながらそれを実行し、祥子はすぐに自宅へ戻った。大雨で全身が濡れ、髪や靴までビショビショだった。玄関から室内へ入り、母親は祥子の姿を目撃したはず。それでも何も言わず、タオルを出してくれることもなかった。だが、祥子はそれを怒る気などなかった。母親の気持ちはよくわかっていた。あの人は、祥子になど興味がなかった。それどころではなかったのだから当然だ。
洗面所で服を脱ぎ、携帯電話だけは大切に拭いた。ポケットの中で雨に濡れていたが、道具としての機能は無事だった。それが何よりもホッとした。奥の寝室へ入り、母親の視線から逃げるように布団に潜り込んだのを覚えている。
するとようやく現実に戻り、自分がとんでもないことをしてしまったのだと実感した。携帯電話を握りしめ、土井からの連絡を待った。彼の無事を確認することが、何よりも重要だったからだ。
「ねぇ、あんたさぁ」
居間から母親の声が聞こえ、それが自分に向けられたものだと思うとゾッとした。
「あれ、どうしたのさ」
両手で口を塞ぎ、祥子は必死に耐えた。母親にそれを言ってしまいそうになるのを全力で堪えていた。
「どうなってもあたし知らないから」
その言葉の直後、獣のような叫び声が部屋に響いた。それが母親のものであるとわかると、祥子は全身を縮めて震えた。ガシャガシャと家具の倒れる音がする。皿かガラスの割れるような、耳をつんざく音もする。それらから逃げるように、祥子は耳を塞ぎ続けた。目を開ければ全てがなかったことになるのを願いながら、無意味な希望を抱き続けた。
再び母親の叫び声が聞こえると同時に、胸元の携帯電話が光を放った。小さな振動とともにメールの受信を知らせた。祥子はすぐに携帯電話を開き、彼からのメールだと確認した。内容を読み、その意味も理解した。
そして―――布団の中で声を殺して泣いた。
罪悪感から、すぐにでも死んでしまいたくもなった。土井の人生まで、自分たちと同様、穢してしまったのだから。しかし、逃げることは許されないのだとわかっていた。ここまできてしまった以上、その罪を背負うしかないのだと。
母親の癇癪が止むと、自分の荒い呼吸の音だけが聞こえた。布団の中は祥子の熱で満たされ、携帯電話の画面の光は、彼女の心に希望の光を灯し続けた。土井がいれば自分は一人ではない。共に歩いてくれる人がいる。彼への償いになるなら、自分は何だってしようと、神にも誓った。
涙を流しながら返事を打ち、祈るように携帯電話を握りしめた。できることなら、全ての罪を自分一人で背負いたい。彼の行為を、なかったことにしてしまいたかった。
これが、五月十五日の夜のことだった。
明日発売される雑誌を読み終えたら、土井の元へ行こう。書かれていた内容次第で、彼に全てを打ち明けるかもしれない。万が一、小説の内容が実際の事件であると書かれていたり、その犯人として自分たちの名前を明かされたら。それで全ては終わる。
そうでなくとも、小説の中の被害者がなぜ亡くなったのか、その理由だけは明かさないで欲しい。それは土井に対してもだ。彼に真実を知られるのは、牢屋に入れられるよりも嫌だった。携帯電話を握りしめ、祥子は土井のことを想い続けた。どうか彼だけは助けてあげて下さい、と。
明日を不安に感じ、このまま眠れるのかと心配になる。眠りが浅ければ、またあの夢を見るかもしれない。狭く暗い部屋の中で、何かに怯えている夢を。
最近も見続けるあの夢が何を意味するのか、祥子には全く見当もつかない。十二年前の事件が関係しているのかとも考えたが、あんな場面はなかった。全て屋外で起きたことだからだ。少しずつわかってきたのは、あの狭い部屋には自分を含めて三人がいること。自分の目の前には小さな子供がいて、仰向けで泣き叫んでいること。
それらが何を意味するのかわからないが、夢の中で、祥子は泣き叫びたい気持ちでいる。無意識に見る夢にも関わらず、使命感を覚えているからだ。何かを成し遂げようと、必死に感情を殺す感覚に近い。
後ろにいる子供は、決してこちらへは近寄ってこない。怯えているのだろうか。そうであれば、祥子自身は何をしている? 子供を怯えさせるようなことをしておきながら、自分の心は悲しみで泣いている。
そのとき、祥子はそれを思い出した。あの夢には続きがあることを。
何度も見ているくせに、起きるたびに忘れてしまっていたのか。後ろの子供を振り返った後、祥子は奥歯を噛み締め、叫ばぬように必死だった。そして、目の前の赤子に両手を伸ばす。
「・・どうして!」
思わず叫んでしまった。自分の両手を見つめ、その理由を探す。夢の中で、祥子は目の前の赤子の首を絞めていた。あれは、本当に殺すつもりでやっていた。
それなのに、なぜだ。
どうして夢の中の自分は、あれほどまでにつらいのだろう。
3
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「ねぇ、本当にやるの?」
「これで全てが終わるからな」
手に持ったライターをカチャカチャと鳴らし、圭太は屋敷を見つめている。彼の覚悟を目の当たりにしながら、美樹はまだ決めきれずにいた。
二人は大学生になり、最近ではよく会うようになっていた。美樹が中学二年生のときに転校し、二人が再会したのはその四年後のことだ。大学受験を目前に控えた美樹が、圭太に連絡を取った。
「あの人は、まだこの中にいるのかな」
「そうだよ。だから、ちゃんと埋葬してあげなくちゃいけない」
圭太は顎を僅かにあげ、美樹を鋭く一瞥した。一見すれば、やさぐれた仕草にも感じられた。彼なりに現実を受け止め、この行為の危険性も理解した上で、ということだろう。
「この場所がある限り、俺たちは忘れることができないんだ。そんなもん、さっさとぶっ壊した方がいい」
「でも・・」
彼にすがりつきたくなる気持ちを抑え、美樹は足元に視線を落とした。四年前、二人はこの屋敷に彼の遺体を隠した。そのときから、美樹は自分の運命を覚悟していた。決して、幸せになどなれないとわかっていた。
「本当に、それで救われるの?」
「あぁ。こんなもんがあるからいけないんだ。だから、全部なくしちまえばいい」
奥歯を噛み締めたように、圭太の表情が引き締まる。
周囲を囲むゴミを見渡し、美樹はやめて欲しいと叫びたくなる。こんなところに火を点けてしまえば、それはたちまち広がるはずだ。屋敷中のゴミや瓦礫に火が移り、あっという間に全焼するだろう。この屋敷に住んでいる老人も助からない。
「あの人の・・、あの人の体だけどこかへ移動させることはできないの?」
「四年も前だよ。腐ってるさ。いまは骨だけだよ」
「じゃあ、燃やしたって残っちゃうよ」
幼い頃に見た親戚の遺骨を思い出し、すぐに頭から吹き飛ばす。四年前に亡くなった後藤の遺骨など、決して見たくはない。
「残るけど、この屋敷の残骸と一緒になって捨てられる。それで全部帳消しになる」
「どうして? どうしてそこまでして・・」
「お前はいつまでたってもここに縛られてる。そろそろ自由にならなくちゃいけない」
圭太の言葉は、彼自身にも当てはまるに違いない。後藤の遺体を隠し、それを心に秘めたまま生きてきた。圭太自身、それが辛くてたまらないのだ。
「海とか山とか、そういうとこに捨てちゃえば・・」
「美樹がやってくれるの? 俺にはムリだ」
一瞬、圭太が泣き出しそうに顔を歪めた。そのまま泣いてしまうのを必死に堪えたことまでわかってしまう。
「だから、全部焼き尽くしちゃえばいいかなって、そう思うんだ」
「・・・」
美樹は何を言えばよいのかもわからず、彼の側へ寄った。空いている彼の左手を取り、両手でそれを包み込む。
「あのね、圭太」
「やめてって言われてもムリだよ」
「違う、そうじゃないの」
美樹の様子がおかしいと感じたのか、圭太が初めて顔を向けてくれた。あの頃と変わらぬ面影に、その懐かしさに泣いてしまいそうになる。
「あなたに言ってないことがあるの」
「・・なんだよ」
「あの日、本当は何があったのか」
圭太の手がピクリと動き、必死に驚きを隠そうとしていることが伝わってきた。美樹自身も、自分の鼓動が速くなっているのがわかる。先程までとは違う汗が出てくるのも感じる。
「後藤先輩がどうして亡くなったのか、圭太はどう考えてるの?」
「どうって、美樹が突き落としたんだろ。あのアパートの階段で」
「・・・」
やはり、圭太はそう思い込んでいる。だからこそ、美樹を守ろうと後藤の遺体をここへ隠してくれた。
「違うの?」
「うん・・」
圭太の呼吸が荒くなっているのが聞こえる。手が焼けるように熱いのは、自分のせいか、彼の熱によるものか。頭の中がガンガンと鳴り響き、耳鳴りがする。
「あの人はね、勝手に転んだんだよ」
「・・は? え、いや、それはおかしいだろ。だって―――俺は見たんだ。美樹が突き落としたところを」
「たぶんそうなんだろうなって思ってた。私が彼に向かって手を突き出してたからでしょう? まるでそれが、私が突き落としたみたいに見えたんだろうって」
後から考えてみて、その結論に至った。圭太が自分を助けようとしてくれるのは、助ける必要があると考えたからだ。それはつまり、後藤の死が事故死ではないと考えている証拠でもある。そして、あの状況を近くから見ていたのであれば、それしか考えられなかった。
「私は、彼を殺してなんかないんだよ」
その言葉を、振り絞るように口にした。初めて、この世に出した。
圭太は何も言わない。繋いだ手はピクリとも動かず、彼の全身が停止したように静かだった。容量をオーバーしたコンピュータのように、煙を立てて爆発してしまうかもしれない。
「そう・・なんだ」
圭太の手から力が抜け、彼の体の側に垂れ下がった。美樹の手をを振りほどくわけでもなく、ただ重力に引かれるように。圭太が空を見上げ、美樹もそれにつられた。雲が多く、星はほとんど見えていない。彼は、それにすら気付いていないのかもしれない。
「――かった」
「え?」
「よかったぁ」
崩れ落ちるようにして、圭太が地面に座り込んだ。汚らしい地面に両手を突き、四つん這いで声を上げた。
「なんだよ! よかったああああ!」
圭太が大声で叫び、地面に顔を伏せた。
予想と異なる彼の反応に、美樹は慌てて彼の側に屈んだ。
「圭太?」
「もっと早く言ってくれよぉ・・。なんだよちくしょう!」
顔を上げた圭太は、幼い頃の無邪気な表情をしていた。いたずらに失敗したときと同じ、汚れを知らない顔だった。
「・・怒ってないの?」
「怒るってなんにだよ。嬉しいに決まってんだろ」
はああああ、と声を出し、圭太は地面に座り込んだ。部屋でくつろぐのと同じように、脚を投げ出して笑う。
「心配させやがって」
「どうして? 私を恨まないの?」
「騙されたって? そんなことどうでもいいくらい、俺は喜んでるっての」
ははっと小さく笑い、そのまま大声で笑い続けた。
「バカみてぇだ!」
圭太の笑い声が屋敷に響く。主人が出てこないかと心配になるが、彼の笑顔を見ていれば、そんなことどうでもよくなった。
圭太は許してくれた。
美樹は彼を騙して後藤の遺体を隠したというのに、それを受け入れてくれた。
「あの人、勝手に転んだだけなのかよ」
「・・私は突き落としてなんかないもの」
「だったらそう言えよ。美樹、一人で泣き崩れてたじゃねぇか。そりゃ勘違いするっての」
「ごめん」
「救急車を呼ぶのが正解だったかぁ。やっぱ正しく生きなきゃいけないんだな」
肩の荷が下りたように笑う圭太を、たまらなく愛おしく感じた。美樹は涙を流しながら、彼に両腕を伸ばした。拒まないで欲しいと願いながら、彼の体を抱きしめる。
「ごめんなさい、ごめんなさい・・」
「いいよもう。美樹のせいじゃないってわかったら、何もかもどうでもよくなったし」
「あんなことさせてごめんなさい!」
「俺が勝手にやっただけだろ。結果的には」
圭太の細い体を抱きしめながら、美樹は全力で想った。この人を失いたくない。自分がどれほどの嘘をついたのかわかっているつもりだ。許されない行為だったと自覚している。それでも、圭太だけは失いたくない。側にいて欲しいと、そう願った。
「痛いってば」
圭太の手が、美樹の頭に乗せられる。彼が優しく髪を撫でてくれるのが、何よりも嬉しかった。温かな優しさだけで、これからも生きてゆけると思えるほど。
「こわかった・・」
「俺もだよ」
圭太の笑い声が耳元で聞こえる。
「あなたに嫌われるんじゃないかって、ずっと怖かった」
「なんでだよ。嫌いだったらあんなことしないだろ」
圭太が優しく笑い、両腕で美樹の体を包み込む。温かかった。彼の温もりが、それだけで心地よかった。周囲をゴミや瓦礫に囲まれながら、二人は抱き合い続けた。そこに言葉など必要なかった。互いに想い合っていることがわかり、他には何も求めてなどいなかった。
美樹の耳元で、圭太の震えたような呼吸音が聞こえる。それは次第に嗚咽へと変わり、やがて、彼は涙を流した。奥歯を噛み締め、必死に押え込もうとしても、その想いはとめどなく溢れてくる。美樹の隠していた真実が、彼の心の氷を溶かした。
自分の想いは届いた。
圭太への謝罪も、後悔も、全ては信頼へと変換されていった。
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4
「どういうこと・・」
仕事中でなければ、きちんと座っていることすらできなかったはずだ。それくらい、礼美は取り乱し、混乱していた。
今月号の『マニュフェスト』が発売されることを知り、礼美は予約しておいた。勤めている図書館のリクエストシステムを利用し、発売当日に到着するよう手配もしておいた。そうすれば必ず発売日に手に入れられることを経験していた。
実際に雑誌が図書館に届くと、勤務の傍らで礼美は読み続けた。休憩時間に食事をすることすらなく、読書に時間を当てた。それでも全く空腹を感じないほど、心が忙しかった。掲載された『満月の微笑む夜に』の内容が、礼美の想像していたものとは掛け離れていたからだ。
小説の中で、少年の遺体を隠した二人は真実を共有することとなった。後藤という名の少年は、少女に突き落とされて亡くなったわけではなかったのだ。後藤は誤って階段から転落し、美樹はそれを側で目撃していただけだった。また、協力者である圭太は、彼女が突き落としたものと勘違いし、それを隠すために手助けをした。これが、事件の真相だったと書かれている。
そんなばかな!
これが礼美の素直な気持ちだった。
これでは何もわからないではないか。十二年前、弟の良平が小説と同じようにしていなくなり、この小説を元に調べてきた。小説に登場する二人が、弟と親しかった平祥子と土井祐介なのだと突き止めた。そして、今月号の内容を読み、事件の真相が明らかになることを期待していた。
それにも関わらず、これはどういうことだ。
被害者―――つまり良平は、誤って階段から転落した? そんなバカなことがあるか! 二人が遺体を隠したことは事実だとしても、誰も弟を殺していないということになる。それでは、礼美が心の中に抱き続けてきたこの気持ちは、どこへぶつければよいのだ。
利用者がやってきて、その対応をしながらも心は漂っていた。これまで、楠という作者は、事件の真実と思われるものを執筆し続けてきた。少なくとも、礼美が調査した限り、小説の内容は現実の二人と一致している。祥子と土井は現場と思われるゴミ屋敷に姿を現した。また、事件直後、祥子は実際に転校している。ここまでは問題ない。
今月号の内容が正しいかどうか。決して、ありえないと言い切るつもりはない。もしかすると、二人の間でこのようなやり取りがあったのかもしれない。良平は事故死で、二人で遺体を隠したという可能性は否定しきれない。だが、礼美はそんなこと信じられなかった。信じるわけにはいかなかった。それでは、良平の死に決着をつけることができないではないか。このままでは納得できない。
仕事が終わるまで、残り四十五分。帰宅したらすぐに玉田に連絡をしよう。おそらく、彼はまだ今月号の内容を読んでいない。彼のために、雑誌を借りる処理を始めた。
「ほう、なるほど」
それが玉田の感想だった。
「どういうことかわかる?」
「いや、全く。というか、これが正しいのかもしれないよ」
「そんなはずない! おかしいもの」
「どうして?」
悪気のない玉田の問いに、礼美は返事ができなかった。頭ではわかっている。この小説が間違っているなどと言いきる根拠はない。
「いや、礼美の言いたいことはわかるよ。こんな真実じゃ納得がいかないっていうのはね」
「どうすればいい?」
「楠農兵さんに訊くしかない。この間のサイン会のときにも感じたけれど、あの人は何かを隠してるよ。それに、真実を知るもう一人がいるんだと思う。協力者って言ったら語弊があるかもしれないけれど」
「良平の事件に楠さんは直接関係していない。それを知っている誰かが、小説のネタとして提供したってことよね」
玉田は頷き、落ち着いた表情で言う。
「もう一人がいたとして、わからないことがある。最初からずっと謎だったんだけれどね。その人はこの小説を楠さんに書かせて、何をしたかったんだろう。過去の事件の真相を暴いて犯人を糾弾したいなら、もっと手っ取り早い方法があるよね。警察に言えばいいんだから。そうではなく小説として書かせた理由、それと、十二年経ったいまそれを実行している理由、これらが不明だ」
講義のように話す玉田の言葉に、礼美はじっと耳を傾けた。彼の言うことは一理ある。楠にしろ、もう一人がいたにしろ、彼らの目的は全く見えてこない。もしかすると目的などないのではないか、とすら思えた。
「まずは楠さんに会って話した方がいい。あれこれ考えても仕方ないし」
「うん、今度どこかで会えないか相談してみる。サイン会で印象にも残っているだろうし」
あのとき、玉田が突然おかしな質問をしたのだ。楠としても、嫌でも記憶に残っているはずだ。
「そのときは僕も一緒に行きたい。何があるかわからないし」
「ありがとう。ぜひ」
サイン会当日、礼美は楠に手紙を渡した。それに対して彼からメールの返事が届いている。そのアドレスに連絡すれば、なんとかして直接話す機会は作れるように感じた。
「前に言ってたわよね。先月号の内容についてだけど、平祥子さんが引越す前日の夜、二人が会っていたときのこと。それを知っているのは一部の人間だけだって」
「うん。警察か教師かご家族か、みたいなことだよね」
「そんな人がいたとして、その人の目的は何なの?」
「知らないよ」
玉田が開き直ったように笑う。
「もしかすると、色んなこの偶然には意味がないのかもしれない」
「どういうこと?」
「うん。十二年前の事件に似た内容が小説に書かれて、読んだ僕らがかき乱されてる。でも、作者の楠さんには何も狙いなんてないのかもしれない。どうやって知ったかは別として、彼は深い意味を込めずに書いている。それを、こっちが勝手にああだこうだと解釈している」
玉田の言葉を頭の中でよく噛み砕き、なるほどと思った。だが、素直に認める気にはなれない。
「それにしては偶然が重なり過ぎてるわ。楠さんとは限らないけど、誰かの思惑が絡んでるはずよ」
「うん、否定はしない。やっぱり、いまの僕らには与えられた情報が少なすぎるからね」
この場ではそれ以上考える気がないらしく、玉田がベッドに寄り掛かって天井を見上げた。一日の疲れが出たのか、瞼を閉じて頭を休めているようにも見えた。
礼美がそろそろ帰宅しようかと考え出したとき、目を閉じたままの玉田が口を開いた。
「ひとつ質問があるんだ。嫌な内容かもしれない」
「どんなこと?」
「どうしていまになって、十二年前の事件を調べ出したの?」
玉田が両目を開き、真直ぐに礼美を見つめた。
「あの小説が出たからよ。あれを読んで、良平の事件のことだとわかった。だからそれを調べてるんだけど、何かおかしい?」
「おかしくはない。ないけれども」
玉田は前髪をかきあげ、真剣味を帯びた表情で言う。
「本当に、これまでの十二年間、弟さんを探し続けてきたの?」
「・・どういう意味?」
「最近の礼美を見ていると、驚くくらい必死になってる。弟さんが失踪したままなんだから、必死になるのはわかるよ。でも、僕の知ってるこれまでの礼美は、それほど弟さんに会いたくてたまらないという感じでもなかった」
「・・・」
「そういう姿を僕に見せなかっただけかもしれないから、それ以上何も言えないんだけれどさ」
玉田は作り物の笑顔を見せ、試すように礼美を見ている。礼美は、何も言えなかった。そこまで見透かされていたのか、と思うばかりだ。
「・・良平がいなくなって、うちの親はボロボロだった」
この話をしなければならないのかと思うと、礼美は無意識にため息が漏れた。
「高校生だった私だって、当然辛かったわ。生きてるのか死んでるのか、それすらもわからないんだから、心の整理もつけられなかったし。親はいまでは落ち着いているけど、心のどこかにぽっかり穴が開いたままだと思う」
玉田は何も言わず、礼美の言葉に耳を傾けている。まるで、懺悔を受け止める神父のように。
「でもね、私はだんだん悲しみが薄れていったの。別に、良平のことを忘れたわけじゃない。・・寂しかったのよ。嫉妬っていうのかな。親は二人とも良平のことしか頭にないみたいだし、私が大学生になって、社会人になっても、どちらかといえば無関心だった」
「でも、礼美しか残されてないんだから心配してたはずだよ。門限とか厳しかったんじゃない?」
「確かにね。友達の家に泊まることすら難しかったわ。でも、それは私を心配してってだけじゃない。良平がいなくなったせいで、私がどこかに行かないように近くに置いておきたかったのよ。私を心配しながら、頭の中では良平のことばっかり考えてた」
子供を失った親の気持ちを考えれば、それは仕方のないことだった。そうなってしかるべきだとも思う。
だが、礼美は不満だった。自分を通して、両親はどこかにいる弟の良平を見ている。ずっと、それが不満だった。
「だから、少しずつ良平のことが嫌いになってたのかも。あの子のせいで親が自分にかまってくれないって、拗ねてたのかも」
この想いを自分で口にすると、なんと幼い感情だろうと笑ってしまう。小学生じゃないのだから、客観的に親の気持ちをわかってあげられそうなものなのに。そして、嫉妬のせいで、いなくなった良平のことまで疎ましく感じる自分のことが、何よりも嫌いだった。彼を恨んでしまう気持ちを消したくても、礼美にはどうしようもなかった。
気がつくと、礼美は静かに涙を流していた。良平がいなくなったことよりも、素直に彼を待てない自分を許せなかったのかもしれない。
「でもあの小説を読んで、良平の事件だって確信して。ものすごく後悔したの。良平はこんな目に遭って辛い想いをした被害者なのに、自分は何を嫉妬してるんだろうって、すごく・・、申し訳なくなった」
「もういいよ、ごめん」
「もし二人がこの小説を読んだらどうなるだろうって、怖かった。私ですらこんな気持ちになるのに、親が読んだらって。だから、なんとしてでも解決しなくちゃいけないと思ったの。使命感みたいなものかもね」
涙で歪んだ視界で、玉田を見つめる。いつになく真剣な顔をして、彼は礼美の前に存在し続けている。自分の弱い部分を彼に見せるのがずっと怖かった。幻滅されるかもしれない、嫌いになられるかもしれない。それを恐れ、心に秘め続けてきた想いだった。
「礼美は間違ってないよ。どんな気持ちを持ったとしても、それは礼美の本心なんだ。誰にもそれを否定することはできない」
「そうだといいけど。良平に知られたら、二度と顔を合わせることはできないんじゃないかしら」
「僕はいま反省してる。軽い気持ちで質問してしまったことにね。それと同時に、やっぱり礼美の力になりたいとも思っている。綺麗事かもしれないし、罪滅ぼしのつもりかもしれない。でも、僕は礼美の味方でいたい。それは変わらないから、信じて欲しい」
「・・ありがとう。これ以上かっこわるいとこはもう見せようがないから、安心してくれていいわ」
「かっこわるくなんてないさ。弟さんの事件をこれだけ真剣に追っている姿を側で見続けてきたんだからわかる」
玉田の言葉に安堵してしまうのは、心が弱い証拠だろうか。たとえそれでも、礼美は彼のことを信じたかった。リスクを負ってでも、人を信じる心を持ち続けたかった。それが、良平のためにもなることを願う。
「正直ね、僕はこれまで、あの小説に関してそれほど真剣に考えてこなかった。頭は使ってきたけれど、どこか他人事だと思ってた。でも、ここで誓うよ。礼美と一緒にこの謎を解く。弟さんの身に起きた事件についてケリをつけよう」
玉田の言葉が、礼美の中に染み渡っていく。自分はどれだけ単純なのかと笑ってしまいそうになる。
それでも、心地よかった。無防備に誰かを信じることが、側にいて欲しいと思える者がいることが、きっと生きる糧になる。自分は一人ではないことを実感しながら、礼美は最後まで戦うことを決意した。
5
中学二年生になったことは、祥子にとって非常に大きな変化点となった。幼なじみの土井が、同じ中学に進学してきたからだ。
それまで、学校の中に祥子の味方はいなかった。それなりに親しい友人はいたし、一学年上の長峰は気に掛けてくれていた。だが、祥子はその誰にも心を開くことはできなかった。自宅で受ける暴力が原因なのか、他人の好意を素直に受け止めることができなくなっていた。
だが土井だけは違った。それがなぜなのか、祥子自身にもわからない。幼なじみだから、などという単純な理由ではないはずだ。その理由はわからなくとも、祥子は土井のことを信頼していた。だからこそ、彼が同じ中学に進学してくるまでの一年間、首を長くして待っていた。そろそろ限界を迎えるというところで、彼が側にきてくれた。
土井が中学に進学するまで祥子のことを気にかけてくれていた長峰は、相変わらず接触してきた。時折メールが届いたり、直接話す機会も多かった。祥子はあまり歓迎してはいなかったが、彼が悪い人ではないことはわかっていた。だがそれも、この四月からは必要ない。土井がいる限り、祥子は他の誰にも頼るつもりはなかった。
「お母さんの様子はどう? ひどいことはされてない?」
「あの、大丈夫ですから。私にかまわないで下さい」
「そういうわけにもいかないよ。だって、そんな簡単に終わるものじゃないでしょう?」
学校の下駄箱を出たところで、長峰に話し掛けられた。周囲に他の生徒はほとんどいなかったからよかったものの、人前で話し掛けられるのはできれば避けたい。ただでさえクラスで浮いているというのに、これ以上目立ちたくはないからだ。
「困ったことはない?」
「だから、大丈夫ですってば!」
長峰に触れられた腕が不快で、祥子は反射的に叫んでしまった。すぐに我に返り、俯きながら言う。
「そっとしといてください。そのうち終わりますから」
長峰は何も言わず、それでも祥子の側を離れるつもりはないようだった。
中学を卒業すれば、祥子は働き出さなければならないかもしれない。以前に母親からそれを仄めかすような言葉を掛けられている。無力な中学生の祥子には、母親の言葉に従うしか生きる術はない。
「平さんちのこと、うわさで聞いたんだけどさ」
そう前置きをして、長峰が言いづらそうに口を開いた。
「お母さん、昔悪いことしたんだって?」
「・・・!」
思わず顔を上げてしまった自分を殴り飛ばしたくなった。反射的なその反応が、長峰にどのような印象を与えるのか明らかなのだ。
「だからやっぱり、酷いことは終わらないと思うんだ・・」
長峰の言葉に、祥子は奥歯を噛み締めて堪えた。ここで何かを言い返したら負けだ。母親に前科があることは、幼い頃に知ってしまった。祥子が生まれる前のことだったらしいが、そのせいで、祥子まで迫害されかけた覚えがある。
そのときに学んだのは、たとえ自分が悪くなくとも、何かを言われても我慢するということだ。意地になって言い返せば、その何倍にもなって返ってくる。不毛な苦痛を味わうことになる。
「・・帰ります」
「あの家に帰ったって、味方はいないんだよ?」
長峰を睨みつけることが精一杯だった。本当は泣き叫んでしまいたい。あなたには関係ない、私が悪いことをしたんじゃない、そう言ってしまいたい。それでも、必死に耐えるのだ。耐えて耐えて、周囲が飽きるのを待つ。
長峰にサッと背を向け、祥子は歩き出した。後ろから何を言われても絶対に振り返る気はなかった。
「平さん!」
長峰はまだ用があるらしいが、祥子はこれ以上付き合う気などなかった。どこで自分が爆発してしまうかわからないからだ。
長峰が追ってこないことを察し、祥子はようやく深く息を吐いた。なぜ、自分ばかりこんな目に遭うのだろう。昨晩受けた暴力のせいで脇腹が痛み続ける。それだけでは飽き足らず、学校ではこうして精神的にダメージを受ける。自分が心から休める場所はこの世にあるのかと、真剣に考えてしまうほど。俯きながら、ひとりぼっちの世界を歩く。
「あ、祥子ちゃん」
その言葉に顔を上げる。相手の姿を見なくとも、祥子の警戒心は吹き飛んでいた。
「いま終わったの? 一緒に帰ろうよ」
「・・うん」
無垢な土井の姿を目にし、堪えていた涙がぶり返してきた。必死に唇を噛み、表情の強ばりが治まるまで顔を上げられなかった。
「どうしたの? お腹痛い?」
「ううん、なんでもないよ」
ようやく落ち着いたところで、土井の側に駆け寄る。二人並んで下校ルートを歩き始める。
「部活ってどうすればいい?」
「え?」
「部活動。何かやらなくちゃいけないでしょう?」
「あぁ・・」
土井の新鮮な問いに、慌てて頭を働かせた。土井は運動が好きなのだから、どの部活に入っても努力できるはずだ。
「興味あるスポーツとかないの?」
「サッカーも野球も、何だって好きだよ。でも、吹奏楽部にしようかなって迷ってる」
「なんで?」
「祥子ちゃんも入ってるし、楽器できたらかっこいいじゃん」
笑顔で言う土井に、心が救われる。彼は、本当に自分のことを身近な存在として受け入れてくれている。そこに恋心があるのかどうか、本人も理解していないのかもしれない。それでも、自分に味方がいるという安心をくれる。土井の存在は、祥子にとって生きる糧となる。
「祐介は不器用なんだから、楽器やったって上手くならないよ。やめといた方がいいと思う」
「えぇ、やってみなきゃわかんないかもしれないのに」
「せめて、美術部くらいにしときなさい。絵だけは上手なんだから」
「うーん、そうなんだけどさ」
不満そうに唇を尖らせ、土井が足元の小石を蹴る。勢いよく転がっていき、草むらの中に消える。祥子がそれを眺めていると、土井が強ばった声で言った。
「嫌なことがあったら、いつでもうちに来てくれていいんだからね。どうせお父さんたちは帰り遅いし」
土井は決して祥子の方に顔を向けない。緊張しながら、彼が真剣な想いで言ってくれているのが伝わってきた。それが何よりも力になる。
「ありがとね。みっともないとこ見せちゃったのに」
「そんなことあったっけか」
わざとらしくごまかし、土井は俯きながら照れていた。
土井がまだ小学生だった頃のこと。祥子が母親に包丁を突きつけた日に、彼が家にやってきた。玄関を開けて土井の姿が目に入った途端、祥子は彼に抱きつき、崩れながら涙を流してしまった。小学生だった土井には、わけがわからなかっただろう。それでも、彼は祥子の頭に手を乗せ、拒まずにいてくれた。あのときの温もりを、祥子はいつまでも覚えていたいと思う。
「あとさ、メールもしてきていいよ。せっかく買ってもらったし」
土井は嬉しそうに目を輝かせていた。中学に入学すると同時に、携帯電話を買ってもらったらしい。両親は共働きなのだから、息子と連絡をとれるようにしたいということだろう。土井の両親は、忙しいながらも彼のことを大切にしている。祥子からすれば羨ましいほどに。
「メールでも電話でも、くれたらすぐに飛んでくから」
土井の言葉に照れてしまうのは祥子の方だった。彼の無邪気な優しさが、じわじわと心の奥底まで広がっていく。
二人の家は歩いて五分ほどの距離にある。ほとんど家の側まで二人で歩き、「それじゃあまた明日」と言って土井が手を振る。祥子もそれに応え、彼の姿が見えなくなるまで見送った。
土井が角を曲がり、姿が消えると、祥子はひとりぼっちになったことを実感していた。明日になればまた学校で会える。その気になれば、彼の家へ行くことも簡単だ。それなのに、この自分一人の時間は、堪え難いほどに寂しく感じる。家の中に味方が誰もいないからかもしれない。
自宅のアパートまで一人で歩く。
母親の機嫌が悪くないことを願いながら。
祥子の願いが叶わなかったことは、玄関の扉を開ける前に明らかとなった。家の中から、男女の言い争う声が聞こえてきたからだ。土井との楽しかった時間も忘れ、祥子は扉の前で立ち尽くしていた。中の会話など聞きたくなかったが、絶望感で動けなかった。その間も、家の中からは品のない叫び声が続いている。
『誰のおかげでやっていけてると思ってんだ! おい!』
男の威圧的な声が聞こえてくる。隣の部屋の住人にも聞こえているであろうことが、何よりも恥ずかしく、申し訳なかった。
『―――したら、ただじゃおかないからね!』
『偉そうな口きいてんじゃねぇよ!』
母親が男に言い返したらしいが、その直後に何かが倒れる音がした。母親が殴られ、リビングの椅子と共に転んだのかもしれない。普段は祥子に暴力を振るう母親も、大の男の前では無力らしい。現実の理不尽さに、祥子は知らぬ間に震えていた。
『今度くるまでに準備しとけよ、ボケが!』
ドタドタと足音を響かせ、男が玄関に向かってくるのがわかった。祥子は慌てて隠れようとしたが、近くにそんな場所はない。いまはアパートの二階の廊下にいる。廊下の奥に棚があったが、恐怖で足がすくみ、そこまで走れるとは思えなかった。他に逃げられるとすれば上がってきた階段を駆け下りるしかないが、それも無理だろう。
祥子が混乱して動けずにいると、目の前の扉が開いた。
「ぅお!」
部屋の中から出てきた男が祥子に気付き、驚いた様子で飛び退いた。それでもすぐに歩き出し、舌打ちをしながら祥子のすぐ側を通り過ぎた。大きな足音を立てて階段を降り、振り返ることなく去っていった。
開かれた玄関の前で立ち尽くし、祥子は中の様子を伺った。想像通り、母親が床に倒れ、祥子の視線から逃げるように顔を伏せた。いい気味だ、と思いながら、祥子は黙って部屋の中へ入る。靴の散らばった玄関から上がり、母親の側で立ち止まった。
いまならこの人にやり返せる。
そう思いつつ、祥子は母親の側を通り過ぎた。自分でもわからないが、むなしかった。自分の無力さも、母親の惨めな姿にも。いずれ自分もこうなるのかと思うと、母親にやり返す気すら失せた。
洗面所で手を洗いながら、祥子は笑った。涙を流していることが悔しく、無理やり笑った。どんな理不尽も、苦痛も、笑い飛ばせると思い込みたかった。歯を食いしばり、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、祥子は必死に笑顔を作った。嗚咽で呼吸が乱れ、ほとんど泣き声だった。それでも、嘘が本当になることを願い、笑い続けた。
どれだけの時間そうしていたのかわからない。
母親がやってくることもなく、祥子は洗面台に覆い被さるように崩れていた。泣き疲れ、放心状態になりながら、ゆっくりと立ち上がった。目の周りを真っ赤に腫らした汚い女が鏡に映っている。すぐに目を逸らし、冷水で顔を洗う。これでもかというほど洗い、開き直ることができた。全力で泣き、スッキリしたのかもしれない。
洗面所を出て、奥の寝室へ向かう。母親はリビングの椅子に腰掛け、脚を組んで煙草を吸っている。普段と同じ姿を装っているが、気まずくて仕方がないのだろう。決して祥子の方に顔を向けようとはしなかった。カバンを寝室に置き、祥子は少しの間動かなかった。これからどうしようかと考えていた。母親から暴力を振るわれることはなさそうだ。だが、二人きりのこの家にいるのは息が詰まる。
仕方なく私服に着替え、出掛けることにした。目的地などないが、ふらつきたい気分だった。
リビングの母親に「買い物してくる」とだけ言い、祥子は家を出た。自分はみっともない顔をしているはずだ。人気の少ない道を散歩することにした。アパートを離れ、周囲を確認しながら歩く。先程の男が近くにいたら危険だ。顔も見られたし、母親から話を聞いているに違いない。
一人で歩いていると、家のすぐ側にあるゴミ屋敷が目に入った。広い敷地を囲むように塀がそびえている。それに沿って歩いていると、敷地から出てきた男が目に入った。ゴミ屋敷の主人だとすぐにわかった。着ている服がぼろぼろなのと、時折姿を見たことがあったからだ。
前方から歩いてくる男を避けるようにして進む。すれ違う瞬間は緊張したが、何もされることはなかった。微かに獣のにおいのようなものを感じ、思わず息をとめてしまったくらいのことだ。しばらく歩いてから振り返ると、偶然なのか、ゴミ屋敷の主人と目が合った。彼も振り返り、祥子の姿を見ていたことになる。
慌てて前に向き直り、やや早足で歩き出す。先程の件もあり、男に見られるのは気分が悪い。何をされるわけでもなくとも、できることなら避けたかった。逃げるようにして角を曲がり、一応振り返って確認しても、男の姿はなかった。
ホッとしながら歩き出し、しばらく一人の時間を満喫していた。あと数年もすれば、自分も母親のようになるのか。スナックかどこかで働き、毎日男と顔を合わせることになる。それだけで済むなら、まだマシかもしれない。
運良く誰もいない道をゆっくりと歩く。
家に帰ったら、また母親と二人きりだ。一般的な家庭のように、たわいもない話で盛り上がることなどありえない。電子レンジで温めた食事を一人でとり、宿題をして眠るだけ。唯一の救いは、土井が携帯電話を持つようになったこと。家にいても、彼とメールをすることができる。それを思うと、ほんの少しだけ気分が晴れた。
家に向かって歩いていると、見覚えのある人物に気付いた。中学の先輩である長峰が、二十メートルほど先を歩いていた。祥子には気付いていない様子だが、制服姿で歩いている。その方角を考えると、祥子はなんとなく嫌な予感がした。長峰の向かう先には、祥子の住むアパートがあるからだ。
長峰に気付かれぬよう距離を保ったままあとをつける。隠れるまでもなく、長峰は振り返る様子がなかった。そして、祥子の不安が的中する。
長峰は祥子の住むアパートの手前で立ちどまり、二階を見上げていた。そこにはまさに祥子と母親の暮らす部屋がある。明らかに、目的地はそこだった。祥子が不安に感じながら様子を伺っていると、長峰は覚悟を決めたようにアパートの階段を登り始めた。
背中を蛇が這うような寒気を感じ、祥子は慌ててアパートへと走る。彼はおそらく、祥子の家を訪ねるつもりだ。そこで何をする気なのかわからないが、部屋にいるのは母親一人だけだ。それも、男に暴力を振るわれ、苛立った状態で。確実に、平和なやり取りだけでは済まない。
アパートのすぐ側から、二階の廊下を見上げる。ちょうど長峰が部屋のチャイムを鳴らす瞬間だった。間に合わない、そう思いながら、祥子は動けずにいた。
五月一日、長峰が亡くなる二週間前のことだった。
6
七月十二日、木曜日。
祥子は自宅でくつろいでいた。心境としては、とてつもなく混乱していたが。ベッドに横になり、掛け布団を抱きしめながら考える。
今月の『マニュフェスト』に掲載された『満月の微笑む夜に』を読み、その内容に度肝を抜かれた。ここへきて、全く見覚えのないシーンが現れたからだ。小説の中で、美樹という少女は隠し続けてきた真実を口にした。亡くなった少年は事故死なのだと。それを知らされた圭太という幼なじみは、美樹に騙されていたことを知りながら、彼女を許した。美樹が突き落としたのでないなら、それでよいのだと。
いまの祥子は、それを綺麗な展開だと他人事のようには考えられない。祥子と土井の間に、あのようなやり取りはなかったからだ。そもそも、長峰は事故死などではない。彼は確かに突き落とされ、亡くなった。また、祥子は土井に対し、事件の話をしたことはない。二人で長峰の遺体を隠してから、あの事件について話すのは互いに避けていた。
正直、祥子は困惑していた。これまでのように、小説の内容に焦っているわけではない。むしろ、内容が真実とは掛け離れたもので、安堵しているほど。作者の意図がわからないことを奇妙に感じているだけだった。
午後七時過ぎ、カーテンの柄を見つめながら考えていた。何かがおかしいと思いながら。突然部屋のチャイムが鳴り、訪問者がいることを知らせる。それが土井だとすぐに理解し、祥子は起き上がった。そろそろ約束の時間になる。彼がやってくるのをずっと待ち続けていた。
「おつかれさま」
「ごめん、遅くなって」
土井の服が濡れており、雨が降っていることを思い出した。彼の傘を受け取りながら、部屋の中へ招く。
「急に降ってきたよ。怪しいと思って傘持って出てよかった」
カバンも持たず、体一つの土井が苦笑いで言う。タオルが要るかと訊いたが、首を振って拒まれた。
「お腹空いてる? 今日は残り物持ってこられなかったんだけど」
「大丈夫、すぐ食べられるものあるから。何か作ってもいいし」
こうなるかもしれないと思い、食材を買っておいてよかった。少し話してから作ることにし、彼と共に奥の部屋へ進んだ。
「あれ、読んでくれたのよね」
「あぁ。なかなか面白いことになってる」
座椅子に腰掛け、土井が困ったように笑った。
「どうしてあんなことになってるのかな」
「さぁ。色々想像はしたけど結論は出ないね」
「楠さんにメールしてみたんだけど、まだ返事はない」
パソコンを一瞥して言うと、土井は小さく頷いた。
「あ、ごめん。何か飲む?」
「ううん、大丈夫」
土井は右手を振り、「でもまぁ」と呟く。
「これで、作者の姿がおぼろげに見えてきたよね。きっと、その人が知っていることを書き終えちゃったんだ」
「どういうこと?」
祥子はベッドに腰掛け、彼の説明を待つ。
「たぶんだけど、先月号までの内容は、作者かその協力者が知ってたんだと思う。十二年前の事件をさ。でも、あれ以上はわからないんだ。つまり、いまの俺たちの間に交わされた会話とかはね。だから、今月の内容からは作者の想像になってる」
「あぁ、なるほど。だから今月のは事実と異なってるわけね。・・あれ、ちょっと待って。それっておかしくない?」
「そう、おかしいんだよ」
祥子がそれに気付いたことが嬉しいのか、土井が笑顔で言葉を続ける。
「その場合、楠さんは事件の真相を知らないってことになる。俺たちが遺体を隠して、その後で祥子が転校したことまでは知ってる。なのに、長峰さんの死因についてはっきりとはわかってないことになる」
「だよね。これってどういう場合?」
眉間に皺を寄せ、土井が教えてくれることを期待する。
「考えられるのはだ。俺たちが遺体を隠すところは見たけど、長峰さんが亡くなる瞬間は見ていない。まぁ、それは俺も同じか。あとは、あの頃の俺たちは知っているけど、祥子が転校した後は関わりがなくなった人。それが誰かはわからんけどね。もしくは、俺たちのどっちかが小説に関係してるか」
「最後のはありえない。じゃあ、どうなるんだろう・・」
土井の仮説を頭の中で検討してみる。それ以外の可能性は現時点では思いつかない。それに、仮説に当てはまる人物も思いつかなかった。
「祐介はどう思う?」
「正直わからんね。楠さんに訊くしかないけど、彼が素直に答えてくれるとは思えない。十二年前、楠さんは東京で働いていたんだ。だからあの事件について知っているはずはない。そこは信じていいはずなんだけど、だからこそわけがわからない」
手詰まりな様子を見せ、土井はテレビに目を向けた。何も映っていない画面に、彼の顔がぼんやりと見えた。祥子はリモコンに手を伸ばし、テレビの電源を入れた。
「あれを読んだ礼美さん、どう思うのかな」
「これまで通り信じてくれたらいいけど、そう甘くはないだろうね」
テレビではニュースが報道されている。二人でなんとなくそれを眺めていると、気になるワードが目に飛び込んできた。
『では、次のニュースです。ミステリー作家の楠農兵さんが、自らの作品が盗作であると発表しました』
「え!」
祥子は思わず声をあげてしまったが、驚きは土井の方が大きかったようだ。いつの間にか立ち上がり、口を開けて固まっている。
『また、作者である楠農兵さんの行方がわからなくなっているそうです』
『どうして盗作だと明らかになったのでしょうか』
コメンテーターらしき人物が、メインキャスターに質問する。
『楠さん本人が、自らのツイッターで発言したことが原因のようです。その内容もご覧頂きましょう』
画面が移り変わり、ツイッターと思われる画面が表示された。
『私、楠農兵の作品である『満月の微笑む夜に』は、ある人物のアイデアを盗作したも
のです』
『読者の信頼を裏切ったこと、また、その作者へ心よりお詫び申し上げます』
楠が書き込んだと思われるメッセージについて、スタジオでは憶測が飛び交っている。
「なにこれ・・」
立ち尽くしたままの土井を見上げる。いまはもう口も閉じ、しっかりとした表情をしている。それでも、何かに対する怒りなのか、信じられないほど厳しい目をしている。彼が本気で怒っているのだと、近くにいるだけで伝わってきた。
「祐介?」
「・・ふざけてやがる。俺たちのことバカにしてるな」
ようやく彼の体が動き、元通り座椅子に腰掛けた。そこにリラックスした雰囲気はなく、膝を抱え、現実ではないどこかを見つめていた。
「盗作ってことは、楠さんはあの事件のことを知らないのよね。むしろアイデアを盗まれたっていう誰かが私たちの事件を知っていて、小説にしようとしてたのかも」
「まあな」
土井は腕を組み、祥子を一瞥しただけだった。
何が、彼をここまで怒らせているのだろう。楠の作品が盗作で、それを知らずに彼に振り回されていたことは腹立たしい。だが、決してそこまでの怒りはではない。軽い気持ちで、十二年前の事件を掘り起こされたことが不愉快なのか。
「祐介、大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ、これは。久しぶりに腹が立ってる」
「何に対して? 楠さんが盗作してたこと」
「そうじゃない」
ハッキリと首を振り、土井は祥子を見つめた。それでも無言のまま、それ以上の説明はなかった。両手で頭を抱え、何かを思案するように俯く。
とても話し掛けられる雰囲気ではなく、祥子はテレビのボリュームを下げた。コメンテーターのつまらない憶測が流れている。画面を眺めながら、楠の作家としての年表を再確認していた。
「この人の狙いが何かわかる?」
唐突に問い掛けられ、慌てて土井に顔を向ける。彼は黙ったまま、祥子の返事を待っていた。
「狙い? この発表の? ・・なんだろう、意図的に話題を作って本を売りたいのかな」
「それはあるかもしれない。でもそれだけじゃない」
「他に・・。何だろう、盗作がバレそうになってるから、ここで正直に話すことで自分への被害を最小限に留めたとか」
「祥子、なかなかいい性格してるよ」
ようやく土井の表情が緩んだ。そこには彼の憤りが存在したままだったが。
「もしかすると、この人は小説の内容が俺たちの事件と関係していることまで話す気かもしれない」
「え!」
「だって、この人はもう後には退けないんだよ。今回の件で搾れるだけ搾って小説を売るつもりだと思う。そのためなら、俺たちのことを平気で利用するさ」
土井が怒っているのは、その点なのかもしれない。確かに、楠は退路を断っている。この騒動で作家としての信頼を失えば、今後やっていくことはできないはずだ。そのリスクをわかった上で、彼は勝負に出ている。
「そんなことされたら、私たちはどうすればいいの?」
「・・・」
土井は頭を抱えたまま動かない。必死に頭を働かせ、打開策を練っているはず。
祥子はテレビ画面を見ながら、それを思い出した。
「楠さんの行方がわからないって言ってたよね」
ようやく土井が顔を上げ、テレビを見つめた。彼もそれを忘れていたらしい。
「このタイミングでいなくなるっていうのはどういうこと?」
「それが本人の意志なら、騒ぎを大きくするだけ大きくして、ベストなタイミングで現れるはず」
「そうじゃなかったら?」
「・・別の誰かが彼を監禁してる、とか」
祥子は無意識に大きく息を吸っていた。その可能性を見落としていた。ツイッターに書いた文書というのも、彼自身によるものとは限らない。
「だとしたら、楠さんに盗作された人?」
「順当に考えればそうなるかな。・・楠さんは何を考えてるんだ」
冷静さを取り戻した様子で、土井が画面を見つめている。そこにある楠の狙いを読み取ろうと、必死に頭をフル回転させているに違いない。祥子も自分なりに考えてみた結果、まず頭に浮かんだのは長峰礼美の姿だった。このニュースを知ったら、彼女はどう感じ、どう動くだろう。
「礼美さんは、私たちのこと疑うのをやめてくれはしないよね。盗作だとしても、あの事件を知っているのが別の人ってだけだから」
「うん。むしろ喜ぶかもしれない。盗作された人を突き止めればあの事件の真相に近付ける、ってね」
それを容易に想像できてしまい、舌打ちをしたい気分だった。土井の言う通りだ。この発表は、祥子たちにとってメリットが一つもない。それどころか、急所を一突きするような、予想以上のダメージを与えられた。
「楠さんに電話してみていい? 連絡先はわかってるし」
「・・いや、メールだけにした方がいい。万が一向こうから連絡があっても、決して一人で会いに行っちゃダメだ。必ず俺も同席する」
土井の鋭い視線に、思わず頷いてしまった。テレビは別のニュースに移り、楠に関するそれ以上の情報は得られずに終わった。
この状況を迎えた以上、祥子も腹をくくらなければならない。全てを守りきることはできない。妥協点を見誤らないことが重要だ。
「楠さん、見損なったな」
ボソッと呟く土井の目に、悲しみの色が浮かんでいた。それが少しだけ不思議に感じ、祥子は彼の横顔を眺めていた。サイン会で初めて顔を合わせたとは思えないほどの、まるで旧知の仲である相手に対する目にも見えたからだ。
祥子は、土井のことを全て理解できているわけではないのかもしれない。昔から共に過ごし、信頼している相手とはいえ、彼もなかなかの道化なのだ。それを知っているからこそ、祥子は土井を頼りにしているわけだが。
道化という意味では、祥子は自分もそうだと自覚している。土井に伝えるわけにはいかない、重要な真実を隠したままなのだから。
7
「どういうつもりなのか説明してもらえますか?」
向かいの席に座る鈴木健太が、形だけの笑顔で言う。
「発表した通りですよ。『満月の微笑む夜に』は、あなたのプロットを元に書いたんですから、それを正直に言っただけのことです」
「そのことは誰にも明かさないという約束をしたはずですが」
「そうですね。でも、思ったんです。あなたから世間に公表されるのが怖かったからその約束を守っていたわけですが、覚悟してしまえばなんてことない。自分から公表すれば、あなたに怯える必要もないんですよね」
鈴木は何も言わず、楠を見つめている。言い返す言葉もないのだろう。楠は覚悟を決めている。鈴木の小説を盗作した事実により彼から利用され続けることに比べれば、現状の方が遥かにマシだ。
「あなたはもう、作家としてやっていけないかもしれないんですよ」
「どうでしょうね。ここで一気に知名度を上げて、次回作でどかんと復帰する。芸能界でもよくあることですし」
「そんなリスクを負ってまでやる価値があったんですか?」
鈴木の表情から感情が消えていく。腸が煮えくり返っているはずだが、それを必死に抑えている証拠だ。気持ちは理解できるが、ひどく滑稽に見えた。
「あなたにはわからないでしょうけどね。それに、作家としての懸けだけが目的ではない」
「過去の事件に関係していることですか」
さすがに、鈴木も自分で調査をしているらしい。こちらの目的にも多少の目処がついている様子だ。
「でも、正直言って驚きましたよ。鈴木先生が、まさかあんな形で関わっていたなんて」
楠は、顔がにやつくのを抑えられなかった。目の前にいる鈴木健太を、あの憧れていた偉大な作家を動揺させている。楠の狙い通りに、彼の計算を狂わせている。
名古屋で行ったサイン会で、鈴木は楠の前に現れた。どうして会場に来たのか、その目的がなんだったのかはわからないが、考えてみればいくつか合点がいく。楠が彼の立場でも、同じことをしただろう。
「そういえば、鈴木先生にお訊きしたいことがあって。あのプロットを考えたのは何のためですか? 十二年前の事件とやらをなぞって小説にする。そこにどんな意味があるのか」
「言ったところで、あなたには理解できない」
真直ぐ睨まれても、楠は余裕を保っていられた。完全に、立場が逆転しているからだ。盗作をした楠は世間から批難される。それと同時に、盗作された側の作家についても調べが進むはずだ。それが鈴木健太だったとわかれば、世間はさらに関心を増すだろう。若手トップの作家が絡んでいるとなれば、楠の小説は爆発的に売れるに違いない。
「鈴木先生にも問題があるんですよ。あんな特別な意味を持つプロットをファミレスに置き忘れるなんて。油断し過ぎです」
「ですね。それは本当に愚かだった」
目を閉じて首を振り、鈴木がソファーの背もたれに体重を掛けた。
喫茶店はそれほど混んでおらず、数人のお年寄りが軽食をとっているくらいだ。テレビでは競馬中継が流れ、都合よく二人の会話をかき消してくれている。
「これは単純な興味なんですが、あのプロットは、出版される前提のものですか? なんていうか、こうして世間に出て欲しかったものなのかなって」
楠の問いに、たっぷりと間を取ってから鈴木が口を開いた。
「違う。あのプロットは、ある人のために書いたものです。その人にだけ読まれる前提の小説だった」
「ってことは、こうして盗作され、あまつさえ雑誌に掲載されたらマズいわけですね。小説の中身を書き替えろと指示したのも、それが関係しているわけですか」
無言の鈴木が、それを正解だと物語っている。プロットを盗んだことを鈴木から追求されたとき、彼から二つの指示を受けた。他の場所で会っても親しげに話さないこと、小説の中で亡くなった少年の死因を変更すること。
こうして鈴木と話してみると、その意味も漠然とだが理解できた。彼にはそうする必要があった。読まれることを想定した誰かがいる。その人物にとっては、少年は事故死でなければならない。
「その相手は誰です? 長峰良平くんのお姉さん? それとも遺体を隠した平祥子とか」
「さぁ」
「隠したってムダですよ。そりゃ私は十二年前の事件なんて知りませんでしたけど、すでに色んな人が関わっている。あの小説を読んで動き出した人がいる以上、事実なんでしょう? 実際に遺体が隠される事件が起きた」
鈴木は楠を見つめたまま、ゆっくりと首を振る。無表情で、強がっているようにも見えた。
「もう隠しきれませんよ。私にはもうあとがない。生きるためなら、どんな秘密も公表するつもりですから」
「何も証拠はない。どうしようもない」
「どうですかね。ちなみに、鈴木先生はその事件にどう関わっているんですか? おおよそはわかっているつもりですけど」
「なんのことでしょうね」
鈴木がとぼけるのを見て、これ以上追求するのをやめた。どうせ、彼の口から真実が明かされることはない。念入りに隠し続けてきた以上、墓場まで持っていくつもりなのだろう。
「まあいいですよ。この騒ぎにケリがつくのも時間の問題です。最後に勝つのはどちらか、勝負ですね」
溶けた氷で薄くなったコーヒーを飲み干し、楠はこの場を離れることにした。鈴木に一泡吹かせることはできた。これ以上、無駄な時間を過ごすことはできない。伝票を手に取り、鈴木を一瞥してから歩き出す。
会計を済ませて店を出ても、鈴木が追ってくることはなかった。公表しないでくれとみっともなく縋ることもできないらしい。若いうちに成功した人間は、余計なプライドの鎧を纏っているものだ。
歩いて駅まで向かいながら、楠は十二年前に起きたという事件について考えていた。鈴木のプロットを手に入れ、自分なりに書いた小説。それを読んだ二人の女性―――平祥子と長峰礼美の言葉や行動。それらを踏まえ、バラバラのピースを繋ぎ合わせる。いくつかの仮説が生まれ、すぐに消えていく。考える過程は嫌いではない。
最も重要なのは、鈴木健太という作家が事件にどのように関わっているのかという点だ。おそらく、彼が関わっていることを知る者は少ない。なにしろ、彼に関する情報は世の中にほとんど広まっていないのだ。楠も、鈴木健太と同じ作家という人種にならなければ、ほとんど何も知らないままだったろう。まるで幽霊のような、この世に存在するか怪しい人物だからだ。
だが、いまでは彼の顔も、名前も、人物像もわかっている。彼の目的もなんとなくだが見えている。楠の握っている最後のカードをきれば、彼は全てを失うだろう。大切な者も、社会的な地位も。鈴木の力を飲み込んでやるためにも、カードをきるタイミングが最も重要だ。
駅のエスカレーターに乗りながら、壁に貼られたポスターを眺める。アイドルグループのアルバムの宣伝や、ゆうちょ銀行の案内などがある。最近CMでも流れている映画のポスターを見て、楠は思う。小説も映画も、作り物の物語では現実には勝てない。何よりも不思議で、おもしろいのは、常に現実の方なのだ。物語はその中の一部だけを切り取って、密度の濃いものを作っているに過ぎない。
それでも、作家として小説を書いてきた。自分の作品を含め、物語には誰かの人生を左右する力があると信じている。今回の『満月の微笑む夜に』も、それができると信じていた。鈴木のプロットを手に入れたとき、楠は感動したのだ。ストーリーの根本はありきたりなテーマかもしれない。たとえそうでも、人はそれに感動し、心を揺さぶられる。王道でよいのだと信じさせてくれたのは、数年前に読んだ鈴木の小説だった。それは確かだ。
それにも関わらず、鈴木本人はなんとみっともないのだろう。大切な者を守ることもできず、全てを失おうとしている。楠に光を照らしてくれた、あの頃の鈴木はもういないのか。鈴木を追い込んでいることを喜びつつ、楠はガッカリしていた。こんなものか、というのが本音だった。こんなものに希望を感じ、自分も小説を書き続けてきた。本当にこれでよかったのだろうか。
改札を通り、駅のホームへ繋がる階段を上がる。
たとえ自分が懸けに勝利したとしても、素直に喜べそうもない。それが、言葉にし難いほどむなしかった。
楠が希望を持って生きてこられなかったのは、幼い頃のあの事件のせいだと考えている。おそらく、トラウマにでもなっているに違いない。母親が加害者で、父親と弟が被害者。それこそ、小説の中の事件ではないか。あの事件のせいで楠は普通に生きられず、素直に物事に感動できなくなった。『どうせ・・』という考え方が、心の奥底に根付いてしまっている。
母親の起こした事件を、さっさと自分から切り離したい。そして、新たに生まれ変わり、イチから人生を再スタートさせたい。その障害となるのは平祥子だ。彼女は、なぜだかわからないが楠の過去を知っている。それが楠の経験したものだとは理解していないだろうが、その場面を夢に見るらしい。信じられないほど忌々しい呪いだ。
彼女を消し去ってしまえば、楠は自分が自由になれることを確信していた。脳に残った記憶は消せずとも、それに囚われずに生きていくことはできる。そうして初めて、楠農兵は自分の脚で歩き出せる。
こうなってしまった以上、さっさとケリをつけることにしよう。楠が盗作したニュースは、少しずつにテレビでも扱われなくなっている。そのギリギリのタイミングで鈴木健太の名を出す手筈だが、それもそう遠くはない。それまでに、平祥子との問題を終わらせる必要がある。
ホームの端で立ち止まり、視界に広がる街並みを見渡す。
この世界のどこかに平祥子がいる。そして、楠の人生を狂わせた母親もいる。やっかいな、障害となる人物は何人もいるのに、大切に想える者は一人もいない。信頼できる友人すらいない。楠はひとりぼっちだった。それをはっきりと実感してしまう。
放送が流れ、楠の乗る電車の到着を知らせる。
電車に乗っている人々の中で、話題になっている楠がすぐ側にいることに気付く者は誰一人としていないはずだ。若い頃の顔写真も公表されているが、人はそれほど他人に興味がない。それが真実で、だからこそ社会が成り立っているように思える。
激しい音を立てながら、電車がホームへ近づいてくる。楠の感情を表すように、低いうなり声をあげている。苦しみに耐え、いつか幸せになれることを願っている。電車がブレーキ音を立てながら、楠の目の前を進む。少しずつ減速していく中で、楠はそれに気付いた。一瞬だけ見えた中に、母親の姿があった気がしたのだ。
母親の乗っていたと思われる車両は、すでに遥か先に進んでしまった。それでも、楠は無意識のうちに駆け出していた。母親に再会したとして、どう声を掛ければいいのか。これまでもずっと会いたくなかったというのに、楠の脚は止まらなかった。
やがて電車の扉が開き、中から大量の乗客が降り始めた。それらを掻き分け、ときには怪訝な顔でぶつかられながらも、楠は前へ進み続けた。どうしようもなく、母親の姿を目に焼き付けたかった。自分の人生をメチャクチャにしたあの人のいまを、この目で確かめたかったのだ。
それでも、あまりに多くの人に遮られ、楠は動けなくなった。人の波に逆らおうとしても、東京の人の多さには勝てなかった。母親がホームに降りたとしても、すでにどこへ行ってしまったかわからない。もしかすると、電車に乗ったままかもしれない。楠がそれに気付き、扉を探した瞬間、騒がしい音と共に扉は閉ざされた。楠の想いは、どこへも届かなかった。
電車が発進し、楠の周囲から人の姿が減っていく。次の電車を待つ人々の中で、楠は一人で立ち尽くしていた。辺りを見渡しても、母親の姿などどこにもない。あれは幻だったかと思うと、楠は自分自身に問いかけていた。
『あの人に会いたかったのか?』
『あの人の姿を見て喜んだのか?』
あまりに一瞬の出来事に、楠は混乱していた。これまで積み重ねてきた自分の想いが、一瞬にして崩れさったかのように感じていた。