第三章
1
実家のある小牧市を歩きながら、礼美は三日前に読んだ雑誌について思い返していた。『満月の微笑む夜に』が連載された月刊誌『マニュフェスト』のことを。連載二回目にして、いよいよ物語は核心に迫ってきた。物語のクライマックスを迎えたということではなく、あの物語が、良平の事件に関係しているという証拠になり得てきたのだ。
後藤という少年の遺体を隠した二人のうち、美樹という少女は引越すこととなった。二人が離ればなれになる最後の夜の場面で、今月は終わっている。そして、その状況を考えてみると、やはり良平の事件と一致していた。当時、良平と最も近い関係にあった少女――平祥子は、事件が起きた直後に引越しをしている。
これが偶然の一致だと考えるのは、あまりに優しすぎるだろう。客観的に考えてみれば、これは明らかに関係がある。つまり、作者である楠農兵という人物は、当時の事件を知った上であの物語を書いている。
それを確信したとき、礼美は当時の様子を調べ直すことにした。なにしろ、十二年の時が経っている。記憶は鮮明に残っているつもりだが、見落としや勘違いがあってもおかしくない。零れ落ちた手掛かりを拾い直すために、礼美は良平の中学時代の恩師を訪ねることにした。
礼美が高校三年生だった頃、弟の良平は中学三年生で、その年の良平の担任は井上という女性だった。良平が失踪してからというもの、毎日のように家を訪ねてきてくれ、連絡をくれた。あれは担任教師という立場だけでなく、彼女自身が良平の無事を願っていてくれたからだ。だからこそ、十二年経ったいまでも彼女を頼ろうと思えた。そして、礼美が連絡をすると、躊躇することなく受け入れてくれた。
午後二時、それが井上との約束の時間だ。彼女の自宅を訪ね、話す時間を設けてくれた。現在は夫を亡くし、井上は一人で生活をしているらしい。十二年前に五十歳前後だったことから、いまは六十歳を過ぎているはず。礼美からすれば母親よりも少し年上になるが、それほど緊張することもないだろう。
井上の自宅へは、迷うことなく車で辿り着くことができた。平均的な一軒家で、ささやかな庭に手入れが行き届いているのは、井上の几帳面さを表していた。花壇には名前はわからないもののよく目にする花が並んでいる。
駐車場の空いているスペースに停めてかまわない、事前にそう言われていた。指示通りにバックで駐車していると、玄関から女性が顔を出すのに気付いた。一目見ただけで、当時の親切な井上を思い出せた。十二年という月日には勝てなくても、まだまだハツラツとした表情をしている。
「お久しぶりです!」
車を降り、深々と頭を下げる。
井上も嬉しそうに顔を綻ばせ、小さく手を振ってくれた。
「いらっしゃい。遠いとこありがとね」
「こちらこそです。お邪魔します」
玄関で井上と対面し、自然と互いに手を取り合った。同じ苦しみを味わった者としての親近感が働いたのかもしれない。
「さぁ、入って入って」
井上に案内されるまま彼女の自宅へ入る。仄かに線香の香りがし、祖父母の家を思い出した。それと同時に、十二年前の事件後、井上に招待されて夕飯をごちそうしてもらったときのことも頭に浮かんだ。
「若い人がどういうの好きなのかわからなくて、ごめんなさいね」
ソファーに案内され、井上が急須のお茶を出してくれた。「ありがとうございます」と口にしながら、彼女が対面に座るのを待った。
「あのとき以来だから、十年以上経つのかしら」
「はい。十二年ぶりのはずです」
「そんなになるのね・・。良平くんがどこにいるのか、早く見つかるといいのだけれど」
井上は未だに良平のことを気に掛けてくれている。それだけで、礼美は頭が下がる思いだった。
「あの、色々と教えて頂きたいことがあるんです。良平のこととか、学校のことも」
「えぇ。何でも訊いてちょうだい。年をとって忘れてしまう前に、少しでも役に立ちたいから」
「ありがとうございます」
用意してもらったお茶に口を付けながら、礼美は準備してきた質問を口にする。
「平祥子さんと土井祐介さん。この二人の名前は覚えてらっしゃいますか?」
質問の内容に、井上はポカンとした顔で口を開けていた。すぐに瞬きをし、「え?」と言う。全く想像していなかった質問だったようだ。
「ごめんなさい、もう一度言ってもらえるかしら」
「平祥子さんと、土井祐介さんです。二人とも良平の後輩で、平さんは最後にメールをしていた相手です」
礼美の言葉を聞きながら眉間に皺を寄せ、しばらくしてから井上は口を開いた。
「思い出したわ。平祥子さん、確かにそんな名前だった」
「土井祐介さんは良平の二学年下で、平さんと親しい関係にありました」
「ごめんなさい。土井さんの方はちょっと記憶になくて・・」
井上は困ったように首を傾げた。
「そうですか。お訊きしたいのは、事件後の二人の様子なんです。一応調べてあって、平さんは引越しをされています。お母さんと二人で」
「そう・・だったわね。そう、学校でも彼女の立場は厳しかったと思う。良平くんの失踪に関係しているんじゃないかって、他の先生たちも話していたわ」
やはり、あの二人の行動と小説の内容は一致している。
「良平がいなくなった後、二人に特別おかしな様子はありませんでしたか? 平さんはすぐに転校しちゃったわけですけど」
「おかしな様子・・、あったかしらねぇ」
井上はソファーに深く背を預け、当時を振り返るように天井を見上げた。
礼美は彼女の言葉を待ちながら、ほんの僅かでも手掛かりをたぐり寄せたかった。そのためにも、井上の口から出る言葉を一言一句聞き漏らさぬよう集中していた。
「そういえば火事が起きたわ。覚えている?」
「火事? どこでですか?」
「確か、川の側だったかしら。河川敷っていうの? 夜中にぼや騒ぎがあってね、誰かが怪我したわけじゃないけれど」
「原因は何だったんですか?」
「煙草の消し忘れだったかしら。それで、中学校でも持ち物検査をしたの。悪ぶって煙草を吸っている子もいたようだから」
井上の話は初耳だが、それが良平の事件と関係しているようには思えなかった。だが、その直後、河川敷というキーワードが引っ掛かった。最新の『満月の微笑む夜に』の場面は河川敷だったではないか。そこには重要な意味が隠されているように感じた。
「ごめんなさいね、話が脱線しちゃって。おばあさんになるとこういうことが増えちゃうのよ」
苦笑いで返事をしておき、礼美は井上の言葉を待つ。
「その火事が起きた場所でね、平さんたちが補導されたのよ」
「え?」
「たまたま同じ場所だっただけだとは思う。ただ、平さんとその―――土井さんだったかしら? 二人が夜中に会っていて、お巡りさんが見つけたの。土井さんって子のことはあまり覚えてないけれど、たぶんその子で間違いないわ」
「それは火事の前後どちらですか?」
「たぶん、火事の前だったはず。その後で火事が起きたから二人が疑われて、私も印象に残っているんだと思うから」
井上の話を聞きながら、礼美はあの頃の様子を思い出そうとしていた。良平がいなくなり、その事件直後の様子は鮮明に覚えている。だが、火事など起きていただろうか。起きていたはずなのに自分は覚えていない。つまり、二人が疑われたことは、それほど大きな問題ではなかった。少なくとも、当時の学校としては。
「どうして二人は夜中に会っていたんでしょうか」
「その直後だったかしら、平さんが転校したのよ。だからきっと・・、最後に会いたかったのかもしれないわね」
悲しく微笑む井上は、まるで二人の保護者のように見えた。それはおそらく、二人のことを良平と同様、生徒として見ているからだ。礼美のように、良平の失踪に関係した容疑者としては見ていない。礼美の方が異端なのだろう。
「話が飛ぶんですが、良平は学校で問題とかなかったんですよね? 当時もそう聞かされたし、たぶん本当なんでしょうけど」
「えぇ。優しくて、とても優秀な子だったわ。部活動も頑張っていたし、変な事件に巻き込まれる心配なんてしていなかった。・・だから、彼は被害者なのよ。大げさかもしれないけれど、私は拉致されたように思ってるわ。それくらいしか考えられないもの」
井上の考え方は至極真っ当で、思わず頷きそうになる。だが、礼美はそれが間違っていると信じている。良平は何かしらの原因で亡くなり、あの二人に遺体を隠された。そのまま十二年が経過してしまっている。
「すみません、失礼な質問をします」
「かまわないわ」
「学校で不祥事が起きて、例えばいじめとかですね、良平がそれに関わっていた。そして学校側がそれを隠した。そんなことはありませんよね?」
「えぇ。自信を持って答えられるわ。そんなことはなかった」
「ありがとうございます。本当にすみません」
井上と視線を合わせづらく、思わず頭を下げてしまった。
「いいのよ。あなたの気持ちはよくわかる。どんな可能性だって考えるべきよ」
「はい・・」
「良平くんが行方不明になって、学校としても真剣に対応したつもりよ。面倒に感じたり、放っておくような先生たちもいたけれど、私たちは本当に心配していたの。それだけは信じて欲しい」
再度頭を下げ、心の中で謝罪する。素直に申し訳ないと思いつつ、礼美の中に落胆した想いもあった。学校側に問題がなかったのは安心する。だが、そこに問題があり、疑う余地があって欲しかったというのが正直な気持ちだった。このままでは、良平が失踪した原因、さらに突き詰めれば亡くなった原因が全く見当たらない。何か考えるきっかけが欲しかったのも事実だ。
「ねぇ、礼美さん。私からも質問していいかしら」
「はい」
「どうして、いまになって私のところへ訊きにきたの? あ、全然かまわないのよ。良平くんのことは私だって気になってる。でも・・、十二年も経ったいまになってなのはどうして?」
当然の質問だが、礼美は返答に困った。ある小説の中に良平の事件を示唆する内容が書かれていた。―――と礼美は考えている。そんなこと、漠然としすぎていてとても口にはできない。礼美は必死に頭を働かせ、嘘を作り上げた。
「私、結婚しようと思っているんです」
「あら! それは素敵ね」
「でも、良平は見つからないのに自分だけ幸せになっていいのかなって、そう思って」
「・・なるほどねぇ。私は他人だけれど、その気持ちはわかるわ」
井上は言葉が出ないのか、小さく息を吐いた。
「でもね、礼美さん。良平くんがいなくなったことに縛られて、あなたが幸せにならないのは間違っているわ。綺麗事になるけれど、良平くんだってそんなことは望まないに決まっているもの」
「はい、わかってはいるつもりです」
「だから、あなたが満足いくまで調べるといいと思うわ。その結果良平くんが見つからなかったとしても、あなたは幸せになっていいのよ」
井上の言葉に心が救われたところもある。良平を探すきっかけとなった小説については言えなくとも、礼美が口にした悩みは真実だった。それを救ってくれる井上の言葉は、これ以上ないほどありがたいものだった。
「ありがとうございました。本当に、お世話になりっぱなしです」
「いいのよ。私はもうゴールが見えているもの。あなたたちみたいな若い人の役に立てるなら、それが一番の幸せだから。・・せっかくだからご飯でも食べていかない? 出前でもとっちゃいましょう」
雰囲気を変えるように、井上が両掌でパンと音を立てた。それを合図にして、礼美も笑顔を見せることができた。
この幸せな時間を良平にも共有してやりたい。それが叶わないのであれば、せめて、彼の身に起きた全てを明らかにしてやりたかった。
2
「なんで怒ってるの?」
「怒ってない」
「それがもう怒ってるじゃん・・」
自分に背を向ける祥子に対し、土井は困惑していた。約束の時間に遅れたのは自分が悪いし、彼女が最近不安定なこともわかっている。だからこそ我慢しているわけだが、こういう場合にどうすればよいのか、いつも困ってしまう。
「ほら、お惣菜もらってきたし」
「いい、お腹空いてない」
「えぇ・・。一人で食べきれるかな」
アルバイト先の総菜屋で売れ残ったものの一部をもらってきた。午後八時に祥子の家に行くという約束だったため、夕飯のおかずにするつもりだった。祥子も本当は腹が減っているはずで、意地を張っているだけだろう。
「遅くなってごめん。ご飯温めるから一緒に食べよう」
「・・ねぇ、あれ読んだんでしょ?」
「あれって?」
キッチンへ向かいながら、相変わらず拗ねている祥子に尋ねる。本当は、彼女の質問の意味を理解していた。
「あの小説、とうとうヤバくなってきたじゃない」
「あぁ、あれね」
冷凍してあるご飯を取り出し、茶碗に乗せて電子レンジに入れる。ダイヤルを捻りながら、怯えている祥子の姿に同情した。
「あれさ、私が転校する前の晩のことでしょ? 祐介と一緒に過ごしたとき。あの後、補導された日のことよ」
「たぶんそうだろうね。読んでて思い出したよ」
今月号の雑誌に掲載された『満月の微笑む夜に』を読んだが、土井はそこまで驚かなかった。というのも、当時の出来事を考えれば、次の場面はその辺りにくるだろうと踏んでいたからだ。
「そろそろ隠し切れなくなるかもしれないわよ」
「どうだろう。それに、隠すって何のこと?」
からかうように言うと、初めて祥子と目が合った。
「どうしてそんなに余裕なわけ? この状況わかってる?」
「わかってるよ。でも、いまは焦ってもしかたない。まずはご飯食べないと」
温め終わるまであと一分ほど掛かることに愕然とし、土井は空腹と戦っていた。
「あの小説を読んで、そこまで考えられる人は少ない。一人か二人だよ」
「その一人か二人の中に長峰礼美さんがいるのよ!」
「彼女だって、どこまで推測できているかわからないじゃないか」
祥子は首を振り、呆れた様子で言う。
「祐介は直接会ってないからそんなこと言えるの。彼女の目が言ってたわ。『良平をどこへやったの?』って」
「答えてあげればいいさ。『もうどこにもいません』ってね」
「祐介!」
祥子が立ち上がると同時に、電子レンジが終戦のゴングを鳴らした。
「・・まずは腹ごしらえだ。そうしなきゃ頭は働かない」
茶碗と総菜をテーブルへ運んでいる間、祥子は立ち尽くしたまま無言だった。言いたいことはたくさんあるはず。不安に押しつぶされそうで、いてもたってもいられない気持ちもよくわかる。
それらを理解しながら、土井は、せめて自分だけは冷静であることを努めた。感情的になった者は勝負には勝てないことを知っている。
「いただきます」
両手を合わせ、祥子を見上げる。彼女も諦めた様子で、わざとらしくため息をついて腰を下ろした。二人は向かい合って売れ残った総菜を口に運び、確かな栄養を摂取した。客に選ばれなかった総菜でも、過去に追われている二人の腹を満たすには十分な代物だった。
「礼美さん、どう感じると思う?」
祥子が突然口を開いたが、それはタイミングを見計らっていたように感じられた。土井がコップのお茶を飲み、小さく息を吐いた瞬間のことだったからだ。
「当時の俺たちのことを調べたくなるだろうね。そして、祥子が引越したことを知ったなら、あの物語と俺たちの関係を決定づける。『これはあの事件のことで、この二人はあの二人だ』って」
「その後はどうなる?」
「祥子の元へやってくるはず。何かしらの接触があることは覚悟した方がいいね」
土井の言葉に、祥子は項垂れた。両手で頭を抱え、わかりやすいくらいの落ち込みを見せた。
「・・私たちにできることは?」
「彼女に対しては、しらを切ることだね。あとは、楠農兵という作家について調べる。彼はなぜあの物語を書いたのか確認すべきだ」
土井の返事に、祥子は困ったように視線を泳がせた。彼女が何かを隠しているのだと察しつつ、土井は食事を再開した。それが何であろうと、土井は自分のすべきことをハッキリと理解していたからだ。
「あのね、祐介。怒らないで聞いて欲しいんだけど」
「なに?」
ご飯を口に運びながら、土井は視線だけを彼女に向けた。
「楠先生と会ったの。話してきた」
「・・は?」
「黙っててごめん」
叱られることを怯えるように、祥子は俯いた状態から顔を上げない。
「いつ?」
「先月。楠さん、名古屋で取材があるからって、そのときに時間作ってもらったの」
上目遣いで土井の様子を伺い、祥子は小さく「怒ってる?」と口にした。
「いや、怒ってはないけど・・。驚いてる」
それが素直な言葉だった。正直、彼女がそんなことをしているなど知らなかったし、そこまで行動力があるとも思わなかった。おそらく、そうしなければならなかったほど、あの小説の内容に怯えているということだ。
僅かに罪悪感を感じつつ、土井は情報を共有することにした。
「楠さんは、なんて言ってた? あの小説について」
「特に深い意味はないみたいだった。なんていうか、私たちが不安に感じているような、あの事件のことで脅すつもりはないみたい。少なくとも、そう感じでしまうような話し方だった」
「あの内容をどうやって思いついたとかは?」
「何も。あの事件を知ってる素振りもなかったし、私のことをそれに関係している女だなんて気付いてなかったと思う」
「なるほど・・」
祥子の言葉を聞きながら、土井の中にいくつか考えが浮かんでいた。楠という作家が何を意図してあの物語を書いているのか。そして、あれを読んだ長峰礼美の今後の行動を含め、自分は何をすべきなのかを。
「楠さんは、結末とか教えてくれなかった?」
「さすがにそこまでは。でもあの小説に自信を持ってる感じだったから、最後まで書ききるはず。その最後がどうなるのかわからないけど」
「適当に、高校生くらいになった二人を逮捕して終わらせてくれればいいけどね」
そんなことがあるはずないと思いつつ、土井は小さく笑った。
「あ、楠さんは愛知県に住んでいたことないって言ってたの。もちろん嘘かもしれないけど、そうだったらあの事件について知ってるはずないってことになるよね」
「うん。そこに関してはきちんと調べるべきだな。彼の言葉が嘘でないなら、それは俺たちにとって喜ぶべきことになるし」
「ねぇ、祐介。楠さんがあれを私たちの事件と関係なく、ひとつの物語として書いていたなら、それはどういうことになる?」
土井はゆっくりと頷き、それを考えようとしている祥子を褒めてやりたくなった。彼女の言う通り、その場合には、あの小説には別の意味が出てくるからだ。
「ゴーストライターが書いているのではないと仮定しよう。あの人はまだ数冊しか本を出してないし、そこまでして出版する価値が、あの人の名前にはない」
「けっこう調べてるんだ」
「まぁね」
罪悪感を隠すように、土井は咳払いをした。
「彼があの小説を書いているけど、それ以上の意味を持ち合わせてはいない。つまり、単なる娯楽小説としか考えていない場合。楠さんが考えた物語が、たまたま俺たちの過去とここまで一致するはずがない。偶然だと考えるのは、あまりに現実的ではないね」
土井の演説に、祥子は頷きながら耳を傾けている。
「つまり、あの小説には二人以上の人物が関わっていることになる」
「・・どういうこと?」
「書いているのは楠農兵という作家。そして、彼とは別に、十二年前の事件を知っている人物がいなければならない。その人物が、目的はわからないけど楠さんに伝えて書かせている。実際には、単なる世間話みたいにして話した内容を、楠さんが小説のネタにしたのかもしれないけど」
「そんな人いる? 私たち以外に、あの事件に関わっていた人なんて」
「長峰礼美さんか・・、祥子のお母さん。それくらいしか思いつかないね」
土井の言葉に、祥子が目を見開いて固まった。まさか、という感情が顔に出ていた。
「でも、たぶん違うと思う。長峰礼美さんはあの小説に振り回されている側だし、祥子のお母さんはそんなことをしてもメリットがない。それに、俺たちが事件に関わっていることを知らないんだから」
「・・・」
「つまり、もしかするとだけど、あの事件の真相を知っている人物が他にいるのかもしれない。例えば、俺たちが長峰さんの遺体を隠すところを見ていた人がいた、とか」
そんな人物がいたとは思えないが、それくらいしか考えられないのも事実だった。自分の言葉が祥子を追いつめることを理解しながら、土井は彼女の様子を伺う。
「あのゴミ屋敷のおじいさん・・?」
「いや、それはない。あの人は、そんなことができるほど普通の状態じゃない。もうかなりの高齢だし、不可能だと考えていい」
「それじゃあ誰が?」
「わからない。そんな人がいたとも思ってないし」
「私たちはどうすればいいの? このまま怯えているだけ?」
いまにも泣き出しそうな様子で言い、祥子は唇を噛んだ。
「できることは、あの小説の続きを知ること。そして事件とは関係のない方向に持っていかせること。それ以外、余計なことはしない方がいい」
「それじゃあ、長峰礼美さんがやってきたらどうすれば・・」
「弱みを見せちゃダメだ。無関係という態度をとり続ければいい。彼女が俺たちを疑う根拠は、あの小説だけなんだ。そんな曖昧なもので警察が動いたりはしないさ」
まるで自分に言い聞かせるように、土井は一気に言った。おまじないでも構わない。祥子の不安を取り除くのが自分の役目だ。
「楠さんにもう一度会って続きを教えてもらえばいいの?」
「そんなことができればいいけど、難しいね」
「一応、連絡先は知ってるんだ」
祥子が財布から名刺を取り出すのを見ながら、土井は彼女を甘く見ていたことを反省した。おとなしいと思って放っておけば、彼女はさらに危険なことに首を突っ込みかねない。
「写真撮らせて。俺も知っておきたい」
祥子から受け取った名刺を見て、土井は思わず頬が緩んだ。作家の中には名刺を持つ者がいることは知っていたが、彼がそのタイプだとは思っていなかったからだ。それほど売れているわけでもないだけに、楠の必死さが伝わってくる。
「ありがとう。あと、約束して欲しい。次に楠さんと会うことがあるなら、俺にも声を掛けて」
「わかった。・・勝手なことしてごめん」
彼女を責めるつもりはなく、土井は無言のまま微笑んだ。責められるべきは自分の方だと、強く反省しながら。
「さすがに、俺もちょっと調べてみる。このまま楠さんが小説を書き続けるのを黙って見てるわけにはいかないし」
「絵の方は大丈夫なの?」
祥子が、幼い頃と同じ顔で尋ねる。彼女が素の顔を見せてくれたことが土井を安心させた。
土井の部屋は整頓されており、余計なものは少ない。それでも部屋が狭く感じられるのは、絵に関する道具が多いからだ。何号ものキャンパス、絵の具、床に広がったペンキの類。絵に疎い者からすれば、ただのゴミに見えるようなものも散らばっている。
「一応、進んではいるんだね」
壁際に立てられたキャンパスを見て、祥子が無表情で言う。彼女いわく、『絵心がない』らしい。土井の絵だけでなく、有名な画家の作品を見ても、これっぽっちも感じるところがないという。土井からすればもったいなくて仕方がないが、わからない者からすれば、そんな気持ちにすらならないのだろう。当然、土井の絵を褒めてくれたこともない。それでも、薄っぺらい言葉をかけられるよりはマシかもしれないと思っている。
「まだ難航してる。納得のいくビジョンが見えない」
「これは何を描いてるの?」
悪ぶれることなく、素直な表情で尋ねられる。土井は密かにショックを受けていた。
「あの頃の景色だよ。祥子と同じ学校に通っていた頃の、満月の夜空」
「どこにも満月なんてないけど」
「わざわざ描かないけど、俺には見えてるんだ」
「ふーん」
肯定も否定もしない祥子は、本当に興味がないのだと思う。無関心というのは、なかなかに心に突き刺さるものだ。
「早く絵に集中したいし、さっさと問題を解決するつもり」
「たぶん私だけじゃどうしようもないから、お願いします」
「あ、でも近いうちに東京に行くんだけど、買ってきて欲しいものある?」
「絵のことで行くの? 食べたいのは東京バナナ」
「うん、絵のことでお世話になってる人に会いに行くだけだから、日帰りなんだけどさ」
「ふーん。早くプロになれるといいね」
それほど深刻に捉えていない様子で言い、祥子は箸を手に取った。土井がプロになれるかどうか興味がないというよりは、そのときを楽観的に待っているようだった。
彼女を元気にさせるために、そして、嘘をつき続けなくて済むように、土井は真剣に取り組むことを決意した。
3
「楠先生、順調ですね。なんなら次の作品にも取りかかれるくらいじゃないですか」
おだて、やる気にさせるのも編集者の仕事なのだろう。楠は、それに乗っかりそうになる自分を制御しようと努めた。
「まずは今回のを完成させたいと思っています。せっかくここまできたし、中途半端な終わり方で評価を下げたくないですから」
「確かにそれもありますね。あと二回、盛り上げちゃってください。ラストまでこの調子なら、おもいっきり売り出せますから。『新生! 楠農兵』とかって」
「それも恥ずかしいですけど」
苦笑いをしながら、楠は悪い気がしなかった。『満月の微笑む夜に』のラストまでの道筋は見えている。あとは自分が慌てず、丁寧に進めればいいだけだ。
「いまさらながら、今回で作風は変わりましたね。案外、こっち系の方が向いてるのかも」
林の言葉には一理ある。これまでの楠は、ライトミステリーと呼ばれるジャンルに近かった。ミステリーでありながら、軽快に読ませることに重点を置いてきた。というより、そういったものしか書けなかった。
「正当派のどっしりしたミステリー、これからも取り組んでいきましょう。そのためにもサイン会はきっちり成功させないとですね」
勢いよく言う林に、楠は無言のまま二度頷いた。急遽サイン会が実施されることになり、楠もその準備に追われていた。四日後にあたる日曜日、場所は名古屋市でのことだ。連載中の小説の舞台が愛知県に移ったことが関係しているのか、あまり縁のない場所で開かれることになった。そのサイン会でしっかりと名前を売り、小説が出版される頃までに話題を作っておく狙いのようだ。
次号の打ち合わせもまとまり、今日のところはお開きになった。楠がこの後の予定を考えていると、部屋を出ようとした林が振り返った。
「どうします? たまには一緒に飯でも行きましょうか」
「いいですね。・・あぁ、でもどうしようかな」
「あ、もしかして誰かと約束してます? それなら申し訳ないので僕は遠慮しときます」
林が勝手に勘違いをし、楠は否定しながら立ち上がる。
「違います。そんな楽しい予定は入ってません」
「大丈夫ですよ。また別の機会に誘いますから」
林は笑いながら部屋を出ていった。
その直後、廊下から林の声が届いた。その声色が先程まで聞いていたものと異なり、上司か誰かだと思った。出版社のビルにいるのだから、その状況が起きて当然だ。
「楠先生、こっちこっち」
部屋の中に顔だけを戻し、林が急かすように言う。わけもわからず、楠は言われる通り廊下へ向かった。
「あ、楠先生! お疲れさまです」
意外な人物の登場に、楠は一瞬声が出なかった。すぐに頭を切り替え、失礼のないように心掛ける。
「お久しぶりです。お世話になってます」
「お世話なんてしてませんよ」
笑いながら否定する鈴木健太は、今日もラフな格好をしていた。ポロシャツにジーンズ、そこら辺の大学生と何も変わりはない。
「鈴木先生も打ち合わせですか?」
楠が尋ねると、鈴木が疲れた様子で答える。
「いえ、インタビューでした。あんまり乗り気じゃないんですけど、このビルの中でやるっていうからつられて。ここの昼食、好きなんですよね」
照れながら笑う鈴木は、本当に子供のように見えた。黒ぶちの眼鏡も、彼の幼い顔立ちのせいで、知性とは程遠いものに感じられた。二十代半ばで、どれだけ稼いでいるのかわからないほどの人物像とは一致しづらい。また、どうやら身につけているのはだて眼鏡のようで、レンズには度が入ってないらしい。彼の顔を観察してわかった結果だ。
「ちなみに、ボクのオススメはヒレカツ定食です」
林に聞かれないように小さく教えてくれたが、その内容に思わず笑ってしまった。
「楠先生は? 林さんと打ち合わせですか?」
「はい。もう終わったところですけど」
「そうなんですか。あ! じゃあちょうどいいや。お時間ありますか?」
「え、はい」
「ダメですよ、鈴木先生。楠先生はこれからデートなんです」
横から林が口出しをし、楠は慌てて否定しなければならなかった。
「いやいや、違いますって。暇です暇」
「本当ですか・・? 忙しいなら全然いいんですよ」
「本当に暇です。寂しいくらいに」
楠の言葉に笑顔を見せ、鈴木が嬉しそうに両手を合わせる。
「じゃあ、一階の喫茶店行きませんか? 新しくできたんですけど、ボク行ったことなくて」
「あぁ、あそこいいですよ。値段も味もまあまあですけど、可愛い子がいますから」
林が右手の親指を立て、嬉しそうに言う。鈴木もそれが目当てなのか、目を輝かせて楠に顔を向けてきた。
「それじゃあ、行ってみましょうか」
「ありがとうございます! 楠先生とお話ししてみたかったんですよ!」
鈴木の言葉に感動しながら、楠は何度も頷いた。たとえお世辞でも、尊敬してやまない鈴木から言われれば悪い気はしない。
「じゃあ、僕は仕事に戻ります。作家の先生同士、刺激し合ってくださいね」
林が頭を下げて去っていくのを見ながら、楠は作家になったことを誇りに思っていた。ついに、あの鈴木健太と接点を持てるようになるからだ。
「行きましょうか! ごちそうしますから安心してください」
「そんなわけには」
楠の返事を待たずに歩き出し、鈴木はどんどん進んでいく。いくら楠の数倍稼いでいるからとはいえ、年下の鈴木に奢られるわけにはいかない。
すぐに彼を追い、二人で一階へ向かった。
平日の午後三時ということもあり、ほとんどの社員は働いている時間だ。ビルのフロアでのんびりしている者の方が少なく、楠は目立ってしまうことを心配した。もっとも、二人ともメディアへの露出は多くなく、ファンから声を掛けられるというイベントは発生しなかった。
「アイスコーヒー二つお願いします。楠さんも大丈夫ですよね?」
「あ、はい。それで」
『先生』と付けなかったあたりに、鈴木の配慮が読み取れた。それに、プライベートで彼と接しているような錯覚を覚え、楠は内心興奮していた。もしかすると、仕事上の関わり以上の関係を築けるかもしれない。
「あっちの窓際にしましょうか」
勝手に会計を済ませ、鈴木が先頭で歩いていく。小説から受けた印象と、この間初めて顔を合わせたときの印象とは異なり、意外とアクティブな人物なのかもしれない。楠の想像する作家像とは掛け離れているが、この無邪気さが彼の作品の原動力になっている可能性はある。
全身を包み込むようなソファーに腰掛け、二人は向かい合った。
「すみません、ごちそうさまです」
「いえいえ、お気になさらず。付き合って頂いて申し訳ないくらいですから」
二人でアイスコーヒーを飲み、これは何の時間だろうと不思議に思う。相手は年下の男で、作家としては先輩にあたる。数年前から憧れていた作家で、幸せな時間であることに違いはない。それでも、楠はいまいち実感が持てなかった。どこか不安に感じてしまう部分もあった。
「『満月の微笑む夜に』は順調そうですね。今月も読ませて頂きました」
「ありがとうございます。なんとか進んでます」
「ボクは書き下ろしに取り掛かっているので連載はしてないんですけど、ちょっと悩んでるんです。だから楠先生からアドバイスでももらいたいなーって。お付き合い頂いてありがとうございます」
「恐縮です」と口にすることすらためらわれた。自分のような人間がアドバイスできる相手ではない。なにしろ、鈴木健太という作家は、知名度・売り上げともにトップクラスなのだ。普段読書をしない者でも、彼の作品ならば読んだことがあるというほどに。
「たぶん半年後には出版されると思うんですけど、探偵物なんです。だから楠先生は得意かなと」
「無理ですよ、アドバイスなんて。私の思いつく探偵なんて、これまでに出てきたパターンの組み合わせに過ぎませんから」
楠の作品には、わかりやすい探偵が登場してきた。現在は、デビュー作の主役を引き続き利用し、三作目までシリーズ物になっている。今回連載している『満月の微笑む夜に』は、楠にとっては数少ないシリーズ外の作品ということになる。
「苦手なんですよね。本格ミステリーっていうか、きちんと謎が提示されて、最後にみんなが集まって謎解きをするっていうのが。ボクの性に合わなくて」
本当に困ったように瞼を閉じ、鈴木は首を傾げた。鈴木健太という作家にしては珍しく、執筆に難航しているようだ。彼は次々に作品を出版することでも有名だった。コンスタントに出版され、本屋に行く度に新作が出ていると勘違いするほど。
「もう、誰かの作品をパクっちゃおうかなって思うくらいです」
冗談のつもりなのだろうが、楠は鈴木の言葉に胸の奥がチクリとした。身に覚えのある内容だったからだ。
「でも、思うんです。人の頭の中全てを覗けて、それを共有できたとしたら楽でしょうけど、実際はそうじゃない。例えば、その人が思いついたことをメモしていたとして、それを他人が見ても解読はできないじゃないですか」
「はぁ」
突然饒舌になった鈴木を不思議に思いながら、楠は彼の言葉に耳を傾けていた。
「だからその場合、盗む側にも才能が必要だと思うんです。才能というか、能力ですか。残されたメモだけを見て、書いた人の考えを推測しなくちゃならない。これってダイイングメッセージみたいなものですよね」
「ダイイングメッセージが登場するんですか?」
楠も過去に扱ったことのあるものだ。わかりやすく謎を提示できることに助かっている。
「いえ、今回は出てきません」
鈴木は顔を綻ばせ、コップに手を伸ばす。
「きっと、ボクにはその能力がないと思うので。学生の頃ありませんでしたか? 机の上にメモ書きが残されてるのに、意味がわからなくて捨てちゃったりとか」
「どう・・でしたかね。そこまで難解なメモ書きはなかったように思えますけど」
「あれ、じゃあやっぱり、ボクに問題があるのかもしれませんね」
困ったように笑い、鈴木はアイスコーヒーを一口飲んだ。
「楠先生は得意ですよね。だって、他人の書いたプロットを見ただけで、あれだけのものに広げられたんだから」
鈴木が笑顔で口にした内容は、ゆっくりと楠の体内へ侵入してきた。最初は気付かないほど、静かな波だった。
「なんのことですか?」
それだけを必死に言い、楠はコップに手を伸ばした。それは無意識な行動だったが、心が救いを求めていた結果かもしれない。じっとしていることはできなかった。
「よくあそこまで想像できたなぁって思って。ボクの書いたプロット、わかりにくくなかったですか?」
「・・・」
腹の底から沸き上がる不快感に、楠は吐き気を覚えた。冷水が全身を包み込むように、その場から一歩も動くことができなかった。
「たぶん、あそこのファミレスですよね? 品川駅から歩いてすぐの」
「いや、何を言ってるのか・・」
「あ、大丈夫ですよ。誰にも言うつもりはありませんから」
鈴木は先程までと同じく、屈託のない笑顔を見せている。それも、いまの楠にとっては悪魔の微笑みに見えた。いまにも、背後から刃物で刺されそうに感じるほどの恐怖だった。
「『満月の微笑む夜に』ってタイトルは、楠先生が考えたんですよね。悪くないなぁって思いました。当初は『鏡月』にしようと思ってたんですよ」
「すみません、ちょっと調子が悪いのでそろそろ・・」
「あの小説は、ボクにとって大切なものなんですよ。昔見た場面を元に考えてあって、ある人のために書くつもりだった。まさかこんな形で世に出てしまうなんて、想定外なんです」
鈴木は、いつからそれに気付いていたのか。楠は彼と初めて出会ったときの様子を思い返し、恥ずかしさで消えてしまいたくなった。楠の小説の感想を口にしていたあのとき、すでに彼は気付いていたはずだ。自分のプロットを手に入れた者によって盗作されていたことを。
「繰り返しますけど、誰にも言うつもりはありませんから大丈夫ですよ。ただ、代わりと言ったらなんですけど、お願いしたいことがあります」
「・・お願い、ですか」
「はい。お金とか脅しじゃないんです。こうなっちゃった以上どうしようもないし、前向きに考えるしかないですから。それに、ここまでのあの小説は、ボクの目的からそれほど逸れていない。十分に修正可能なんです」
ゲームを楽しむような笑顔で言い、鈴木は右手でVサインを作った。
「お願いしたいことは二つあります。・・大丈夫ですか?」
大丈夫かと訊かれても、頷ける余裕はなかった。まさか、自分の手に入れたプロットが、鈴木健太のものだったとは思いもしなかった。それを本人に気付かれた以上、楠は彼の言葉に従うしかない。
「・・どうぞ」
「はい。一つは、このことを誰にも口外しない、ということです。あの小説の元をボクが考えたことも、楠先生がそれを利用したことも。ついでに言うなら、仕事以外の場面でボクを見掛けても他人の振りをしてくださいね。間違っても『鈴木先生!』なんて言わないでください。親しいと思われたら、真実に近付くヒントを与えてしまいますから」
「・・・」
無言で頷きながら、鈴木のまくしたてるような口調に押されていた。彼がここまで流暢に喋るのは、こうなることを予想していたからか。楠に言いたいことが山ほどあり、その内容を考えていたに違いない。
「それともう一つ。どちらかというと、ボクにとってはそっちの方が重要なんです。あの小説の―――」
その後、鈴木が口にした内容を、楠は不思議に感じながら聞いていた。彼がそうしろと言うならば楠に拒否権はない。楠の今後の作家人生は、鈴木に手綱を握られているようなものだからだ。人道的におかしなこと以外、楠は彼の言葉に従うしかない。いや、もしかすると、犯罪に手を染めることすら厭わないかもしれない。それくらい、いまの楠を取り巻く状況は最悪だ。
「それじゃあ、ボクからは以上です。二つのお願い、理解してもらえましたか?」
「・・はい。必ず、おっしゃる通りにします」
「ありがとうございます! よかったぁ、どうなるかなって不安だったんですよ」
ホッとしたように両掌を合わせ、鈴木は息を吐いた。残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干し、「それじゃ」と言って立ち上がった。
「次にお会いするのがどこかわかりませんけど、くれぐれも約束を忘れずに。楠先生の書く『満月の微笑む夜に』楽しみにしてますから」
鈴木は笑顔で言い、一礼して歩き出した。
彼が建物から出ていき、姿が見えなくなるまで、楠は動くことができなかった。金縛りにあったように、呼吸していることすら忘れてしまいそうだった。ようやく自分を取り戻したときには、全身に汗をかいていた。アイスコーヒーの残りはほとんどなかったが、溶け始めた氷のおかげで、水分を補給することはできた。
鈴木に全てを見透かされた。これはもう、どうしようもない事実だ。
彼はかまをかけていたわけではなく、あれは確信した上での質問だった。実際、楠はノートを拾い、小説のプロットを手に入れた。万が一、あれが鈴木のノートではなかったとしても、楠が誰かのアイデアを盗んだことには違いない。立場が悪くなることは避けられないのだ。
「はああああ・・」
ソファーに腰掛けたまま、頭を抱えてしまう。鈴木からの要求は、想像よりも軽いものだった。何億円もの金を要求されるわけでも、誰かを殺してこいと命じられたわけでもない。だが、その内容が軽いからこそ、楠は不安に感じて仕方がなかった。鈴木の目的が何なのかさっぱり見えてこないからだ。
鈴木の二つ目の要求は、小説の内容に関するものだった。
連載は残り二回分残っている。次号の分はすでに完成しているが、鈴木の要求を満たす内容ではない。なんとしてでも、内容を変更する必要がある。まずは林に相談し、当然その理由は伏せる必要があるが、改めて書き直さなければならない。そんなことが可能かどうかわからないが、信頼を失う覚悟で頼まざるを得ない。
しかし、鈴木はなぜ、あの小説の内容を変更するよう要求してきたのか。それも、亡くなった被害者の死因を事故死にしろ、だなど。
現時点では、小説の中で被害者の死因は明らかになっていない。つまり、真実を変更することは可能だ。現在の予定では、主人公の一人である美樹が突き落として殺したことになっている。プロットにもそう書かれており、楠もそのつもりで執筆を続けてきた。それをここで変更することになるとは。被害者の死因を変更することで、鈴木にはどんなメリットがあるのか。
そういえば、彼はあの小説を誰かのために書いたと言っていた。その人物にとって、被害者の死因が重要になるということか。楠にはさっぱり見当もつかないが、それ以外の理由は思い当たらなかった。
とにかく、まずは急いで林に相談する必要がある。鈴木との会話で疲労困憊しているが、ここで怠けている余裕はない。楠農兵という作家の、今後の人生全てに影響してくるのだから。
4
六月十七日、日曜日。
名古屋駅とほぼ一体化したビルの中で、そのイベントが開催された。
『作家、楠農兵 サイン会』というタイトルのイベントは、事前予約も必要なく、当日整理券が配られるシステムになっている。ビルの五階にある書店にコーナーが設けられ、参加したファンは、楠のサインをもらうと同時に、僅かな時間、彼と接することができる。
当初、このイベントはもう少し先に開催される予定だった。本来ならば新作が出版されると同時に開催することで、その売り上げを伸ばすことが目的とされる。それがきっかけで話題になり、多くの人によって読まれることもあるだろう。だが、今回は急遽開催された。楠の編集者である林が、楠の名を少しでも早く広めたがったからだ。
その話を林から伝えられたとき、楠は若干の不安を抱えながらも、イベントには積極的だった。現在掲載されている小説に自信があり、それが出版される前に盛り上げたかったというのもある。
だが、当日を迎えた今朝、楠の気分は最悪だった。
四日前の、鈴木健太との会話が原因だ。『満月の微笑む夜に』の元となったプロットは、鈴木の書いたものだった。それを伝えられ、奇妙な取引を申し込まれ、楠はサイン会どころではなかった。
そんなことなどいざ知らず、ファンは予想以上に大勢押し掛けた。その中に、長峰礼美と玉田和俊もいた。
「意外と集まるものなんだね。女性も多いけれど、楠さんはイケメン?」
「うーん、イケメンではないかな。三十代だし、大人の色気みたいなものはなくもないけど、私は全然興味なし」
礼美は階段の手すりに寄り掛かりながら、上を見上げて言う。螺旋階段に列ができ、先頭の方はすでに楠のサインをもらっているようだ。
「みんなすごいね。こんなに並んでまでサインを欲しがるんだから」
「私たちもその一員なわけだけど。まぁ、目的は違うか」
「でも、この人たちの気持ちもわからないでもない」
玉田は周囲を気にするように見渡し、声のトーンに配慮していた。
「学会に有名な先生が来るってわかったら、それがどこだろうと行きたいものさ。それこそ、海外の場合でもね。適当にこじつけて参加してる人、けっこういると思う」
「この中に、そこまで必死になってる人は少ないと思うけど」
玉田のズレた価値観に困惑していた。この人は学問に夢中すぎる。お気に入りのおもちゃで何十年間も遊び続けるタイプだ。
「楠さんに会える時間は限られているし、どこまで話せるかな」
「他の人もいるし、サインをもらってるとこで長々と話すつもりはないわ。とにかく印象づけて、後で話すチャンスをもらう。最悪、手紙を渡せればなんとかなる」
事前に、楠に渡す手紙を書いておいた。彼の小説に、自分の過去が関係しているという推測を記してある。あと三十分もすれば、これを楠に渡すことができるだろう。
螺旋階段の列が少しずつ進むにつれ、上の階の様子が聞こえてきた。係員が順番に案内しているのか、指示を出す声もある。玉田と二人で参加しているわけだが、二人で一緒に楠の前に出向けるだろうか。
「この間の小説だけどさ」
「ん?」
「井上先生だっけ、弟さんの担任の先生。その人の話を信じれば、平祥子さんと土井祐介さんは、弟さんがいなくなった後、火事の起きた河川敷で密会をしていたわけだ」
「そうね。平さんが転校する直前の夜に」
「今月号の小説を読んで、そこだけがずっと不思議なんだ」
「どういうこと?」
二人は階段を進み、踊り場で立ち止まる。
「うん。事件の内容というか、弟さんの遺体が隠される場面が描かれているのは、その場面を見ていたからだと思ったんだ。二人が自分たちの様子を小説にしたならともかく、それ以外だと、誰かが目撃していたと考えるべきだよね」
「そうね」
礼美には、玉田が引っ掛かっているポイントに見当もつかなかった。
「その場面を見ていたのはいいとしよう。でも、どうして二人が密会していた夜のことまで知っているんだろう」
「あ・・、ほんとだ」
ようやく彼の考えに辿り着き、礼美も不思議に感じた。事件後、二人が河川敷で密会していたのは事実だろう。近くを通り掛かった警察官が二人を補導しているのだから。だが、それを知っている人物となると、ある程度限られるはずだ。
「警察の人か、学校の先生。もしくは二人の家族くらい?」
「そう。友達にも知れ渡っていたかもしれないけれど、そんなことを言い出したらキリがないから一旦置いておこう。その中の誰かは、二人の密会を知り得ることができた。ただ、それでも不思議なんだ」
踊り場から一歩進み、狭い階段で玉田と向かい合う。
「その人物は、小説の中に全く登場しない。二人が遺体を隠す場面と、河川敷で密会していた場面。その二つを知っているほど身近な存在にも関わらず、小説の中には出てこないんだ。それが奇妙で仕方ない」
「それは・・、作者の楠さんが、意図的に隠しているということ?」
「その可能性はある。目的はわからないけれどね。第一、楠さんが事件について知っていることがおかしい。当時、彼は愛知県内に住んでいたわけじゃないと思うし。となると、誰かから聞いたのか」
右手を口元に当て、玉田が思考のポーズを取る。
周囲を楠のファンに囲まれた状態で、あまり深刻な話をしたくはない。礼美は玉田の手を取り、できる限りの笑顔を見せた。
「もうすぐ彼に会える。詳しいことはその後でもいいんじゃない?」
「・・まぁ、そうだね。あれこれ考えても無意味かもしれないし」
とりあえずは納得してくれたのか、玉田の表情から真剣さが消えた。それに安心しつつ、礼美自身は彼の言葉に揺れ動かされていた。確かに、あの小説には奇妙な面がある。当時の事件を知っている人物が関係しているとして、それを物語にする意味がない。また、非常に深い部分まで把握できる人物に違いない。中心人物の二人以外で、それが可能な人物は思いつかなかった。
それから十分もすると、二人は上の階に辿り着くことができた。十五畳ほどのスペースがあり、奥の席に楠と思われる人物が座っていた。列の先頭は彼から四メートルほど離れた位置で、そこから一人ずつ、彼の元へ向かう仕組みになっていた。楠の側には三十代くらいの男性が立っており、編集者かマネージャーではないかと推測できた。
「あと少しだね。意外と普通の人でよかった」
どのような人物を想像していたのかわからないが、玉田は勝手にリラックスしている。難しい問題は得意なくせに、一般的なことは苦手らしい。いかにも学者らしいズレが、少しだけ可笑しかった。
二人が列の先頭に辿り着くと、楠の様子がハッキリと見えるようになった。ファンの持っている本にサインをし、僅かな時間会話をしている。緊張は解けたのか、終始笑顔を見せていた。玉田の言うように、少なくとも人当たりのよい人物らしい。
「では、お次の方どうぞ」
係員に声を掛けられ、礼美はいよいよ覚悟を決める。玉田と自分を指差すと、二人組であることを理解したのか、「お二人でどうぞ」と案内してくれた。礼美が先頭で、パイプ椅子に腰掛けた楠の元へ歩いた。
「こんにちは。本日はどちらからいらっしゃったんですか?」
「豊橋市です。電車で来ました」
「あぁ、それはわざわざありがとうざいます」
営業スマイルを見せ、楠は礼美の持つ本に視線を移した。サインをしようという意図が伝わってきた。
「あの小説を考えたのは誰ですか?」
「えぇ!」
玉田の突然の問いに、悲鳴を上げたのは礼美だった。すぐに楠の様子を伺うと、彼も氷づけにされたように固まっていた。近くにいた編集者らしき人物が、不思議そうな顔で様子を伺っている。
「考えたのは、私ですよ」
振り絞るように言い、楠はぎこちない笑顔を見せた。彼の必死さが伝わり、礼美はなんだか申し訳なくなった。
「ごめんなさい、この人の言葉は気にしないでください」
なぜ自分が謝っているのかと不思議に思いながら、礼美は持参した本を差し出した。
「『長峰さんへ』でお願いします」
「あぁ、はい・・」
楠は二人と目を合わせたくなかったのか、奪うように本を受け取った。表紙の裏にサインを書く際、その手が微妙に震えているようにも見えた。
「ありがとうございます。あと、これよかったら読んでください」
礼美が封筒を差し出すと、楠は二度頷いて受け取った。取り乱している様子がよくわかってしまう。
「あとで、あの小説についてお話しを伺いたいんですが。無理でしょうか?」
「え、どうですかね。時間もあまりないから・・」
玉田の問いに、楠は助けを求めるように編集者を見た。その編集者が「そろそろですね」と言うのを合図にして、礼美たちの時間は終了した。名残惜しい気持ちで楠から離れながら、礼美は彼を見続けていた。楠は意地でもこちらを見る気はないのか、次のファンに笑顔を振りまいていた。
「あれ、完全に何かあるね」
「なに考えてるの? 全く説明してもらえなかったじゃない!」
本屋の中を進み、隣を歩く玉田に不満をぶつける。礼美の想定していた事態とは全く異なるものになってしまった。
「でもさ、収穫はあったじゃないか。彼は何かを隠している。もしかすると、近くにいたあの人にも知られていないことかも」
「そうかもしれないけど、どうするのよ。もう楠さんと話す機会はなくなっちゃったのよ」
「それなら大丈夫。彼の控え室に行けばいい」
「どうやって行くのよ」
「ここの店長さん、後輩なんだ。学生の頃に付き合ってた」
「・・は?」
「うそうそ」
笑いながら店内を歩く玉田のことを、礼美は初めて出会った何かに感じられた。彼がどこまでを計画しており、隠していたのか。彼の先を歩くことはできない悔しさに、思わず舌打ちが漏れた。
「ねぇ! 待ちなさいよ!」
5
「長峰さんたち、もういないよね?」
周囲を見渡しながら、祥子は顔を見られぬよう必死だった。楠のサイン会が開かれ、土井と二人で参加することにした。まさか、そこに礼美がいるとは思ってもみなかった。
「大丈夫だと思うよ。だいぶ先の方だったし、もう終わってるはず。俺たちが終わった後の方が怖いかもね」
「待ち伏せされてたり?」
「それはないだろうけど」
土井は呆れるように笑った。
「本屋の中で、偶然会ってしまうことはあるかもしれないね」
「うわぁ・・、それ最悪」
本当に、それだけは避けたかった。自分たちがここに来ていることを知られてしまえば、それは楠の小説を気にしていることに直結してしまう。礼美がここに来ていた理由もそのはずで、言葉にしなくとも全ては明らかになる。
「祐介のこともバレたくないし」
「まぁ、俺の存在には気付いていると思うけどね。あの小説を読めば、祥子だけじゃなくて俺にも注目するはずだから」
「なのになんで平気な顔してるのよ・・」
今日のサイン会のことを彼に伝えると、土井はすぐに、自分も行くと申し出てきた。それがあまりに意外で、彼に何か考えがあるのだと推測できた。それが何かはわからないままだが、普段ひきこもってばかりの土井が自分から外出するなど、裏があるに決まっている。
「いや、俺もけっこう緊張してるんだけどさ」
とてもそうは見えない顔で言われ、祥子はため息が漏れた。
階段の上を見上げると、先程よりは先頭に近づいていることがわかる。二人はほとんど最後尾に並んでおり、自分たちのところまで順番が回ってくるのか不安に感じてしまう。
「楠先生に会っても、何もしないんだろ?」
「もちろん。ただ、この間のお礼を言うくらいかな。私のこと印象づけられたらバッチリ。・・あ、嫉妬してる?」
土井が不満そうな表情を見せ、彼の幼さが可笑しかった。こういうときくらいしか、彼を年下だと感じられない。
「そんなんじゃない。むしろ、危険なんじゃないかと思うくらい」
「楠さんが事件のことを知っているなら、私たちを追いつめるから?」
「いや、それはたぶんないんだけどさ。あまり目立つことはしない方がいいのは確かだ」
土井が真面目な顔をして黙り、祥子も彼の後ろに並んでいた。
次第に列は進み、午後三時になる頃、二人も上のフロアに到達した。
「案外こじんまりとしてるんだな」
「そりゃ、大きな賞をとった作家さんじゃないし。テレビの取材もきてないね」
二人は並んで楠の姿を眺める。遠くからでも彼の表情はよく見えた。緊張しているのか、それとも疲れてきたのか。楠の表情に明るさは少なかった。自分の義務を果たそうと努めているようにも見えた。
「あの人いくつだっけ」
「三十六歳だったかな。どうして?」
「いや、別に意味はないけどさ。十年後には自分もあんな感じになるのか」
「あの人くらいなら悪くないと思うよ。お腹も出てないし」
「大事なのはそこなんだ」
「もちろん」
二人で気楽に話していると、楠がこちらに気付いたようだ。目を見開き、驚いた様子が見て取れる。自分のことを覚えてくれていたことが嬉しく、人は単純なものだと思い知らされた。
「なんか緊張してきた」
「それは向こうも同じかもな」
「正直、ファンでもないから申し訳ないなぁ」
「どちらかといえば、倒すべき敵だしね」
土井の物騒な言葉を聞きながら、列は進んでいく。あと三人終われば、再び楠と話すことができる。隣にいる土井が小説に出てきた少年だと知れば楠は驚くはずだ。そんなことを伝えるつもりはないが。
二人の番になる頃には、祥子の緊張はピークに達していた。目の前にいる楠が、自分たちの運命を左右しかねない人物なのだから。
「お久しぶりです。覚えてて下さいましたか?」
「はい、もちろんです。わざわざありがとうございます」
「あ、この人は・・、私のボーイフレンドです」
名前を言いそうになり、一応伏せておくことにした。
「どうも、お世話になっております。近くにお住まいなんですね」
「はじめまして。土井と申します」
土井が自ら名乗ったことに驚いたが、まずは楠のサインをもらうことにした。全く興味はなかったが、形式的にやらなければ怪しまれる。
「たくさん集まったんですね」
「え? あぁ、ありがたい限りです。『平さんへ』でよろしいですか?」
「はい、それで。あの、また小説のことお訊きしたいんですけど、どこかでお時間頂けませんか?」
周囲に聞こえぬよう、できるだけ小さな声で伝える。土井にはギリギリ聞こえる程度に。
「そうですね・・。今日時間を取れたらよかったんですが、これから用があって」
「今日じゃなくても大丈夫です。またメールさせて頂きますね」
「ぜひ」
笑顔の楠から本を受け取り、隣の土井の様子を伺った。ここまでついてきて、彼の目的は達せられたのだろうか。楠に訊きたいことでもあるのかと思っていたのだが。
「楠さん。一つよろしいですか?」
「なんでしょうか」
土井から話し掛けられ、楠の緊張が増したように見えた。やはり、初対面同士の方が緊張するものかもしれない。自分に対しては警戒心を解いてくれたことが、祥子には都合がよく感じられた。
「今日、ここに鈴木健太先生がいらっしゃってましたよね?」
「え!」
祥子が大声で反応してしまい、恥ずかしさで顔を伏せた。土井が何を言い出したのか理解できず、楠の反応を伺ってしまう。彼も酷く驚いた様子で、両目を見開いたまま固まっていた。
「さっき、この建物の入り口にいらっしゃったので、楠さんのサイン会に関係しているのかと思ったんですが」
「あ、あぁ・・。そうだったんですか。こちらにはまだいらしてないみたいですね」
「祐介、鈴木先生と知り合いなの?」
詰め寄るように尋ねても、土井は祥子の方を見ようともしなかった。相手にしてもらえていないことに不満を覚えてしまう。
「今日は、本当に色々重なるもんだな・・」
楠がボソッと言い、それが彼の本音なのだと伝わってきた。素の言葉が出てしまったに違いない。
「鈴木先生にも会えるかと思ったんですが、それは無理みたいですね。残念だけど諦めます」
土井はそれだけを言うと、「行くよ」と言って祥子の体を押し始めた。
「え、ちょっと! まだ・・」
「これ以上目立つのは得策じゃない」
土井の言うように、列に並んでいる者たちは何事かと興味深げな視線を送っている。その気まずさを感じながら、祥子は楠に頭を下げた。歩きながらの、適当な挨拶になってしまった。
楠から離れ、二人で書店内を歩く。土井が一人で歩いていってしまい、祥子の中に疑問は溜まっていくばかりだった。
「ねぇ! 祐介ってば!」
走って土井に追いつき、彼の右腕を掴む。
「ん?」
「どういうことよ! いつから鈴木先生と知り合いだったの!」
「あぁそれか。えっとね、一年くらい前かな。ほら、描いている絵のことで東京の方に行ったことがあったでしょう? そのときに出版社にも立ち寄ったんだけど、そこで初めて会ったんだ」
「一言も聞いてないんだけど・・」
「だって、訊かれなかったし」
わざとらしい真顔を見せてから、土井は吹き出すように笑った。
「サプライズだよ、ごめん」
「こんなサプライズはいらない!」
鈴木健太という作家のことは祥子もよく知っていた。有名な作家で、読書好きな祥子が知っているのは当然だった。どちらかといえばファンに近く、そんな人物と土井が知り合いだということに嫉妬してしまう。
「でも、なんであんな質問したの? 楠さんもびっくりしてた」
「二人が楽しげに話してたから、ちょっと邪魔したかっただけー」
「バカみたい」
拗ねるようにそっぽを向いてしまった土井に、祥子は思わず笑ってしまった。自分はこんなにも緊張していたというのに、土井はいつまでたっても子供のままだ。
「この後どうする? もう用は済んだけど」
「そうね。ただ、楠さんはやっぱり、私たちのこと気付いていない。小説に出てくる二人のモデルが目の前にいたと知ったら驚くでしょうね」
「知られない方がいいわけだけど」
「でもどうしよう。このままじゃ楠さんは小説の続きを書いてしまう。その内容もわからないし、さすがにヤバいんじゃない?」
祥子の言葉に頷き、土井は本棚に近付いていく。
「ヤバいよ、間違いなく。あの人は俺たちの存在に気付いてないけど、小説の中身は非常に危険だ」
目の前の一冊を手に取り、裏表紙に視線を落としながら土井が言う。
「どうすればいい?」
「出版されるのを止めることはできない。あの人にすべてを話して、内容を変更してもらうこともね」
「諦めろってこと?」
「違う」
本を手に取ったまま、土井がこちらに顔を向けた。
「問題なのは、あの小説を読んでそこから深読みしてしまう人物がいることだ。要は、長峰礼美さんの存在だけが、俺たちにとって邪魔なんだ」
「邪魔って・・。どうすればいいのよ」
土井の目から危険な色を察知し、祥子は彼の側へ近付いた。土井が何か危険なことをしてしまいそうで、彼を檻に縛りつけたくなる。
「大丈夫。そんなことはしないから。長峰さんに小説の続きを読まれたとして、それでも俺たちが関係していると結論付けさせなければいいわけだから」
「無理だよ・・。この先はわからないけど、あそこまで知られているなら、事件の奥まで書かれちゃうかも」
「大丈夫。必ずなんとかするよ」
土井の言葉を信じる根拠はない。それでも、祥子は彼にすがりつくしかなかった。自分一人では、何をすべきか見当もつかない。
「誰があの事件のこと知ってるのよ。私たち以外誰も知らないはずなのに・・」
「うん。そのはずなんだ。俺たちがどこかでミスをしたか、勘違いをしているのか。なんにせよ、あの事件の真相は知られていると覚悟した方がいい」
土井の静かな声を聞きながら、祥子は十二年前のあの日の光景が頭に浮かんでいた。長峰が階段から転げ落ちて死亡し、その遺体を二人で隠した場面が。
あの日、土井にその瞬間を見られていなければ、祥子の運命は変わっていたはずだ。
それは祥子の母親も同じく。
6
サイン会を終え、控え室に戻った後。楠はソファーに倒れ込むことすらできなかった。先程会場へやってきた二人が再び訪問してきたからだ。
長峰礼美と玉田和俊。どうやら、この二人も小説の内容に興味を抱いているらしい。特に、礼美の方はそれが深刻だった。どこであの内容を知ったのかと、それを探ろうとしてきた。楠が考えた物語だとは微塵も考えていない様子で。
玉田はサイン会を取り仕切った店長と知り合いらしく、二人で親しげに話していた。大学で働いているという玉田と、木こりのような外見をした店長が話していると、住む世界が違うように見えて奇妙だった。
礼美に問いつめられても、楠は口を割ることなどできなかった。鈴木健太が書いたプロットを手に入れた、などと言えるはずもない。鈴木から口止めされるまでもなく、誰にも言うつもりはない。
話を聞く限り、礼美の親しい人物が、あの小説と同じように姿を消したらしい。それらがあまりに一致しているようで、彼女は楠が事件の真相を知っているのではないかと考えていた。それを楠に話すというのは、彼女たちから敵だとは思われていないということかもしれない。その根拠はわからないが、助けを求められた形だった。
二人からの追求―――主には礼美からだが、それを避けることができたのは、ある意味では鈴木のおかげだ。彼に脅されていなければ、この不可解な状況を打開すべく、正直に話してしまっていたかもしれない。だがそれは、あくまで最終手段だ。
二人が去り、控え室に一人残されてから、楠は突然それに気付いた。なぜいままで気付かなかったのか不思議に思うほど、当然の思考だった。礼美は、あの小説が過去の事件に関するものに違いないと言っていた。玉田もそれを認めている様子だった。
あの物語を考えたのが誰か。それは鈴木健太という作家だ。つまり、彼は十二年前に起きたというその事件を知っていることになる。彼女たちの言うように、これほどまでの一致が偶然だとは思えない。鈴木は、あの事件に関わっているということになる。
ソファーで仰向けに寝転がり、いくつかの疑問を繋ぎ合わせる。しばらく考え続けた結果、楠の中にシンプルな答えが生まれた。「そういうことか・・」と思わず言葉が漏れるほど、単純なことだった。
楠は体を起こし、続きに集中しようと試みた。
鈴木からの要求は、自分との関係を隠すことと、小説の中で死亡した少年の死因を事故死に変更すること。それだけだ。そして彼は今日、この会場へ現れている。その意味を踏まえ、いくつか調べなければならないことも決定した。
「ちくしょう・・!」
楠は頭を抱え、心からのため息を漏らした。
どうすればいい。このままでは、鈴木に操られ続ける。それがいつまで続くかすらわからない。邪魔になったら、鈴木はいつでも楠を切り捨てることができる。だからといってこちらから彼に危害を加えたとして、それが成功する確率は低い。ミステリーに関わっている者として、自分が殺される場合まで想定しているに決まっている。それくらいの計算は、鈴木だって完了しているはずだ。また、楠にとっての邪魔者は、鈴木一人だけではない。今日出会った長峰礼美と玉田和俊もそうだ。こそこそと嗅ぎ回り、楠の小説に対して疑いを持っている。
そして、最も邪魔な人物、それは平祥子だ。彼女とは個人的にも関わってしまい、すでに無関係ではいられない。なにより、彼女は楠の過去について知っている。それがなぜかわからないが、楠が幼い頃に経験した、母親の起こした事件について知っている。夢に見たというが、全く意味がわからない。
楠は瞼を閉じ、あの日の光景を思い出していた。幼い弟の首を絞め、真っ黒な顔をした母親の姿を。その後、覚えているのは病室でのことだが、楠が気を失っている間にも、母親は自分の夫も殺害した。暴力に耐え切れず、というのが殺害の動機らしいが、楠は信じていない。なぜ、まだ言葉を話すこともできなかった弟まで殺害したのか。そして、なぜ自分だけは生かしたのか。
すでに三十年ほど会っていない母親のことを、楠はいまでも恨み、憎んでいる。顔を合わせればその瞬間に殺してしまう気がするほど。
楠は思う。自分の人生が間違った方向へ進んでしまったのは、あの事件からだと。もっとまともで平凡な家庭で育っていれば、自分だって普通に成長できた。他人の作品を盗むこともなく、無関係の事件の関係者と疑われることもなかった。それらは全て、母親の起こしたあの事件に起因している。
腹の底から沸き上がる憤りに支配される。
なぜこんなことに。
どうして自分が。
瞼を開いた楠の目に、祥子の笑顔が浮かんで見えた。彼女は、過去の事件をなぜ知っているのか。小説の中身にも口を出し、楠の邪魔をするだけでは飽き足らず、過去の事件にまで踏み込んでくる。まるで死神のようではないか。優しい女の顔をして、人の命を背後から狙っている。
「あいつか・・」
あの女がいる限り、楠の生活に平穏は訪れない。そう勘違いしてしまうほど、いまの楠にとって祥子は邪魔な存在になっていた。彼女と共にサイン会に現れた土井祐介と名乗る男にも、腹が立って仕方がない。全てを見透かしたように、上からものを言うあの男の存在が、楠を追いつめる。
あの二人を消し去りたい。そうしなければならない。
楠は決意する。
自らの過去を断ち切れないなら、そこに踏み込む者を排除するしかない。