表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
満月の微笑む夜に  作者: 島山 平
2/6

第二章

                      1


 「お墓参りに行こう」と祥子から誘われたのは、昨晩のことだ。午後八時過ぎ、土井が帰宅し、インスタントラーメンを食べ始めたときだった。お盆の時期はまだまだ先だし、誰の墓参りなのかもわからなかった。

 メールで話すのが面倒になり、ラーメンをすすりながら電話を掛けることにした。

「あ、もしもし。どういうこと?」

 ズズッと音を立てながら、祥子の返事を待つ。

「長峰先輩のお墓に行こうと思うの」

 彼女の言葉を耳にし、一瞬だけ麺をすするのが止まってしまった。そういうことか、と思いながら、土井はとりあえず口の中のものを飲み込んだ。

「どうして急に」

「あれから十二年もたつのよ。祐介、あそこに一度でも行った?」

「いや、全く」

 答えがわかっていることを訊くな、と言いたくなる。それに、祥子だって同じ想いのはずだ。だからこそ、これまでの十二年間、祥子はあの場所へ近寄ろうともしなかった。

「あの小説が原因?」

 土井の言葉に、祥子からの返事はなかった。それがすでに答えになっており、それ以上追求する必要もなかった。

「いつ行く?」

「・・明日は空いてる?」

「うん、大丈夫」

 本当はやりたいことがたくさんあったのだが、祥子の不安そうな声を聞いてしまえば無下にはできなかった。

「それじゃあ、十時くらいに祐介のとこに行くね」

「あ、寝坊するかもしれないし、迎えにいっていい?」

「祐介が構わないなら、そうして」

 その後は、気まずい雰囲気を振り払うようにわざと世間話をし、通話を終えた。

 土井は延びかけているラーメンを口に運びながら、祥子の意図していることを想像してみた。おそらく、具体的な目的などない。単に、あの小説を読み、いてもたってもいられなくなっただけだろう。罪悪感から、行動しないわけにはいかなくなったということか。

 疲れきった頭を休ませるために、土井は早めにシャワーを浴びることにした。


 その場所まで、祥子の家から一時間ほど掛かった。土井の住んでいるみよし市から、祥子のアパートがある豊明市まで車で三十分ほど。そこから目的地である小牧市まで向かった。車内では普段のように接し、デートと変わらぬ雰囲気を保っていた。だが、それも目的地に近づくまでのことだ。

 小牧市は、幼い頃二人が生活していた場所だった。互いの家族が住んでいたし、いまでも土井の両親は生活を続けている。もうすぐ父親が定年を迎えるが、そのまま持ち家で暮らすらしい。一方、祥子の親はもうそこで暮らしていない。母親は愛知県内の別の場所で生活している。祥子が十四歳の頃、つまりは事件の直後に引越し、そこから土井たちは別々の生活が始まった。

「おばさんたちは変わらず元気?」

「あぁ、たぶん。最近は俺も顔出せてないけど」

「ダメだよ、ちゃんと会えるときに会っておかなくちゃ。いざってときに後悔するんだから」

 祥子の言葉を聞き流し、土井は走り慣れた大通りを進む。土井は専門学校を卒業するまで実家で生活をしていたため、一人暮らしを始めて六年目になる。少しずつ変化する地元の景色に、ほんの少しだけ寂しさを覚えた。

 目的の屋敷へは、迷うことなく辿り着くことができた。十二年振りだというのに道順まで覚えているのは、それほどまで当時必死だったからだ。忘れたくても、この辺りの情景が頭から離れることはない。

「いまでもゴミ屋敷なのかな」

「さぁ。さすがに撤去されていそうなものだけどな」

 自分の言葉に嘘が含まれていることを自覚しながら、土井は車を走らせた。

 祥子と母親が住んでいた家から、歩いて一分ほどの位置にそのゴミ屋敷はある。両親から話を聞いた限りでは、いまでもそのゴミ屋敷は存在しているらしい。家の主人はけっこうな高齢のはずだが、元気にゴミを溜め込んでいるというわけだ。

 その場所へ近づくにつれ、祥子の全身が強ばっていくのが伝わってきた。両手を強く握り合わせ、脚にも落ち着きがない。気分転換に何か話し掛けてやろうかと考えたものの、わざとらしくなるに決まっている。あえて、緊張感を保ったままにした。

 祥子が住んでいたアパートの横を通る際、建物に向かって彼女が無表情で視線を送っていた。そこで起きた事件を思い出しているのか、祥子の横顔から感情を読み取ることはできなかった。

 その後、すぐに目的地に辿り着いた。

 屋敷を建てた当時は、とんでもなく豪華だったことが伺える。屋敷を囲むように高い塀がそびえ、中の様子はほとんど確認できない。それでも、塀の向こうはおびただしい数の瓦礫やゴミ類で溢れかえっているに違いない。

 車を道路脇に寄せ、どうしたものかと考える。祥子は言葉を発する様子もなく、屋敷をぼうっと見つめたまま。墓参りをしたいと言い出したのは彼女のくせに、ここまできて動かないつもりだろうか。

 土井が話しかけようとしたとき、ようやく祥子が動いた。

「まだあるんだね」

「もう、ないと思うけど」

 土井の言葉に、少しの間をおいてから祥子が顔を向けた。土井の発した言葉の意味を理解したらしい。

「中に入ってみるか?」

「まさか」

 勘弁してくれといわんばかりに、祥子が首を振った。

 当時、というよりもあの日。この屋敷へ入ることは簡単だった。入り口の扉が開いていたからだ。普段から扉は開いており、防犯に対する意識は低かった。もっとも、ゴミ屋敷に忍び込む泥棒などいるとは思えないが。そして、だからこそ土井はこの場所を選んだ。誰にも発見されることなく、十分な時間を稼げると考えたからだ。

「来てみて、どう?」

「やっぱり楽しい所じゃないよね」

 窓越しに屋敷を見つめながら、呟くように祥子が言う。

「あの小説に出てきた場所ってさ、きっとここだよね」

 返事を求めていない祥子の口調から、彼女がそれを決めつけているのだとわかる。そして、土井もまた、祥子と同感だった。あの小説の舞台はこのゴミ屋敷で間違いない。

「どうしてあの作家さんはここを知っているんだろう」

「偶然じゃないとしたら、実際にここへ来たことがあるか、誰かから話を聞いたか。例えば、長峰さんの友人とかから」

「その場合はさ、先輩がここに眠っているってバレてることになるよね」

 祥子に見つめられ、気まずさから、スピードメーターに目を向けてしまった。そんなはずはないと思いつつ、もしそうであれば世界が一変することも理解している。

「あの日のことを知っているのは、私と祐介だけだよね」

「そうだと願ってる」

 祥子は一度だけ頷き、三秒後にため息をついた。

「少し歩いてきてもいい? 祐介はここにいてくれて構わないから」

「うん。ちゃんと周りに注意してね」

 無言で頷き、祥子が助手席のドアを開けた。手持ちのバッグを助手席に置き、土井に目を向ける。置いていけばいいよ、の意味を込めて頷くと、祥子は一人で外へ出た。

 彼女が塀に沿って歩いていく姿を眺めながら、土井は自分の置かれた状況に困惑していた。なぜ、再びこの場所へ来てしまったのだろう。来る必要はなかったし、来たいと思ったこともない。

 この中で眠っていた(・・)長峰は、どんな気分だったのか。当然、この屋敷へ運んだ時点で彼の意識はなかった。それでも、あの世へ向かいながら、長峰は土井と祥子を恨んだだろうか。死亡したという事実に変わりはなくとも、きっちりと埋葬されたかったかもしれない。いまのように、遺体すら発見されないというのは望んではいないはずだ。

 数分が経過したところで、祥子の姿が見えないことを不安に感じ始めた。屋敷の向こう側を歩いているには違いない。だが、この場所で彼女を一人きりにすることが危険に感じてしまう。理屈ではない何かが、土井を急かし立てていた。

 車のエンジンをかけ、祥子を探すことにした。ゆっくりと発進し、彼女が歩いていた道を進む。塀に沿うように直角に曲がると、すぐに祥子の姿が目に入った。だがその直後に、おや、と思った。そこにいたのが祥子だけではなく、もう一人いたからだ。自分たちと近い年齢の女性が、祥子と話している。

 車をゆっくりと進ませながら、土井は二人の様子を横目で確認した。口論になっているわけではないが、笑顔で話し込んでいるということもない。どちらかといえば、緊張感を(まと)っているようにも見えた。

 二人の側を通り過ぎながら、祥子の様子を伺った。緊張した面持ちの彼女が見え、その理由はわからなくとも、嫌な予感がしてたまらなかった。とりあえずは車を進ませ、再び屋敷の塀と同じように九十度曲がる。そうして車を道路脇に停車させた。祥子を降ろした位置とは、屋敷を挟んで正反対になる。

 この辺りは、二人にとっては地元になる。知り合いと出くわす可能性はなくもない。だが、あの女性は誰だったのか。顔に見覚えはなかった。あの頃から何年も経っているのだからそれも仕方がないが、場所が場所だけに楽観視はできない。祥子は無事に帰ってきてくれるのかと不安になる。

 土井の心配をよそに、しばらくして祥子の姿が見えた。バックミラー越しに彼女の姿を確認すると、やや急ぎ足で土井の車へ近づいてくるのがわかった。やはり、先程自分の側を土井が通り過ぎたことに気付いていたようだ。

 助手席のドアが開き、無言のまま祥子が乗り込んでくる。彼女の言葉を待ちながら、とりあえずは車を発進させた。もしかすると、先程の女性から逃げたいのかもしれない。

「家に向かってくれる?」

「オッケー」

 自分から尋ねることはせず、土井は祥子の指示に従うことにした。おそらく、彼女の方から説明してくれるはずだ。タイミングは彼女に任せるつもりだった。

「さっきの人、誰か覚えてる?」

「いや、そんなじっくり見たわけでもないし」

「だよね」

 それだけを呟き、祥子は再び口を閉ざしてしまった。どうやら祥子の知っている人物らしいが、土井には全く覚えがなかった。

「こんなところ、来るんじゃなかったね・・」

 我慢できず、土井は尋ねることにした。

「あのさ、さっきの女の人って誰?」

「長峰先輩のお姉さん。礼美さん」

 予想外の返答に、土井の眉間に皺が寄る。記憶の中の人物と照らし合わせようと努め、ようやく一致した。記憶の奥底に眠っており、なかなかに困難な探し物だった。

「偶然だよね?」

「え?」

 土井の言葉が理解できない様子で、祥子がこちらに顔を向けた。

「長峰礼美さんと出会ったのは偶然だよね、ってこと」

「あぁ、うん。そのはず。私もほんとにびっくりした」

「何を話してたの?」

 長峰礼美があの場所にいたという時点で、土井の中には嫌な想像しかなかった。それが正解だと言わんばかりに、祥子の言葉が届く。

「彼女もあの小説を読んだんだって」

 土井の予想は的中していたが、喜ぶ気にはなれなかった。

 まさか、長峰礼美があの小説を読んでいたとは。そして、あの小説から、先程のゴミ屋敷へ意識が向くとは思ってもみなかった。全て、あの『満月の微笑む夜に』という小説が中心となっている。あの小説のせいで、土井と祥子の平穏な生活が脅かされようとしている。

「礼美さんは、なんて?」

「たぶん私たちと同じこと考えてる。『あなたもあの小説を読んだのね』だって」

 いくつもの分岐点があったにも関わらず、最も望まぬ道へ進んでしまっていることを知る。

「あとね、訊かれちゃった、長峰先輩のこと。居場所を知らないかって」

 ハンドルを握る手に、思わず力が入ってしまった。意識しなければ、交通事故を起こしてしまいそうなほど。

「どうしよう。また疑われちゃう。たぶん祐介のことは気付いてないけど、長峰先輩の事件と私のこと結びつけてしまうかも・・」

「大丈夫」

 自分に言い聞かせるように、土井は言う。

「心配しなくていい。そうだとしても何かが変わるわけじゃない」

 それは、土井自身の希望だった。本心とは別の、単なる希望。いまの状況がそれほど甘くないことは理解している。

「長峰先輩をあそこに運んだって、そこまで証明できるはずないんだから。アリバイだってしっかりしてる」

 祥子は無言のまま、一度だけ頷いた。彼女も、土井の言葉が強がりに過ぎないとわかっている。それでも、いまはその言葉に甘えたかったのかもしれない。否定することなく、口を強く結んでいる。

 形の見えない何かに怯えながら、二人は長峰の墓から逃げ続けた。


                      2


 大学の構内を歩きながら、礼美は昨日のことを思い返していた。十二年前、弟の良平が最後に目撃された辺りへ立ち寄った後のことだ。当時、その辺りにコンビニが存在し、良平の姿が監視カメラに映っていた。それが、良平の最後の姿となった。

 『満月の微笑む夜に』という小説を読み、じっとしていられずその辺りへ脚を運んだ。コンビニへ寄った後、良平がどこへ消えてしまったのか知りたかった。まさかそこで、よく知っている人物と出会うなど思いもしなかった。平祥子という、中学時代の良平の後輩にあたる女性だ。彼女はなぜあの場所にいたのだろう。どう考えても、平祥子もあの小説に感化されたとしか思えない。本人はそれを否定していたが。

 いくつもの疑問を抱きながら、礼美は待ち合わせ場所へと急いだ。


 目的の建物へ入り、礼美は店内を見渡した。その中に玉田和俊の姿を見つけ、早足で彼の元へと向かう。

「ごめんなさい、遅くなっちゃって」

「平気平気」

 手元の本を閉じ、玉田が柔らかく微笑んだ。テーブルの端に本を置き、丁寧な仕草で眼鏡を外す。読書をするときだけ掛けるらしい。読んでいたのが小説ではなく、何かの学術誌だということは表紙からわかった。

「紅茶でいいよね?」

「うん」

 玉田が店員に声を掛ける様子を見ながら、礼美は彼の正面に腰掛けた。最近は暖かくなってきただけに、店内のひんやりとした空気が心地よかった。

「研究は順調なの?」

「うーん、どうかな。何が順調なのかもわからないし」

 嫌味を含まず、苦笑いしながら玉田が言う。彼はT技術科学大学の大学院を卒業したのち、そのまま大学に残った。いまは助教という立場にいるらしい。その辺りの分野に詳しくない礼美は、正直あまり理解できていない。付き合い始めたのは彼が大学院生の頃からで、自分のなすべきことを見極めている彼に惹かれ続けている。

「平祥子さんに会ったんだって?」

 急に本題に入られ、慌てて礼美は頭を切り替えた。

「昨日のお昼頃、小牧市でね」

「平さんが住んでいた場所の近くなんだよね」

「そう。一人で歩いているところに、たまたま出くわした感じ」

「礼美がそこに行ったのは、弟さん関係?」

 礼美が頷いた直後、店員が二人の飲み物を運んできた。十五秒ほどの間、二人とも話すのを我慢していた。

「・・それでもね、平さんは偶然だって言うの。なんとなく地元を散歩していただけだって」

「へえ」

 面白がるように玉田が口元を緩め、ストローに口をつける。彼はブラックコーヒーを愛用し、水とお茶以外はそれしか飲まないほど。礼美は紅茶にガムシロップを入れながら話を続けた。

「でもありえないと思うの。このタイミングで、あの場所で散歩するなんて。だってもうそこに住んでないし、誰もいないのよ」

 ストローを咥えながら、玉田が肯定するように二度頷く。

「絶対に良平のことが関係してる。それか、あの小説か」

「小説を読んだんだけれど、ゴミ屋敷が出てきたよね。平さんと出会った辺りにそんなものがあるの?」

「あるの。まさにそのゴミ屋敷の側で会ったんだから」

「それはなんというか・・、興味深いね」

 難解な問題にぶつかったように玉田がニヤリとした。礼美には理解できないが、難しい数学の問題を楽しむような感覚かもしれない。

「当時からいままで、ずっとゴミ屋敷なんだ」

「いまはどうかな。中を覗いたわけじゃないから。でも、小説に出てきたのはその屋敷だと思って間違いないはずなの」

「礼美の推測が正しいとすると、弟さんはそこにいたってことになるのかな」

 こういうことをサラッと言ってくれるのが彼の魅力だ。単なる可能性として、議論を進めることができる。

「そうなる。十二年前、良平はあの屋敷に運ばれた」

「すでに亡くなった状態で?」

「ってことになるのかな」

 複雑な気分になり、思わずコップに手を伸ばした。アイスティーの冷たさを唇で感じながら、この推測には根拠などどこにもないことを不思議に思った。それでも、きっと正しいと感じている。

「証拠はないという前提で考えるね。単なる可能性の話だ。あの小説を読んだ平さんは、十二年前に自分が関係していたゴミ屋敷へ向かった。きっと、そこにはもうなんの証拠もない。それでもどうしようもなかったんだろうね」

 礼美は無言で頷きながら、玉田の言葉に耳を傾ける。

「それは、彼女が弟さんの事件に関与していることを示しているよね。それとあの小説を読んだことも。本人は否定しているんだろうけれど」

「うん。そんな感じだった」

「さて、ここから考えるべきは何か。まず、彼女が十二年前の事件にどのように関係していたのか。そして、なぜいまになって、わざわざその現場へ脚を運んだのか。そこには必然性があったに違いない」

 右手を口元へ当て、玉田が思案するように俯く。普段の研究でもこのような姿になるのかもしれない。

「十二年前に、平さんが関係していると疑われた理由を教えてくれるかな」

「えっと、良平が最後にメールをしていた相手が彼女なの」

「へえ・・。内容は?」

 目線だけを上げ、玉田が鋭い眼孔で礼美を見る。僅かに緊張しながらも、礼美はすぐに答えられる。それくらい、何度も頭の中で読み返したからだ。

「『そのときは、必ず助けにいくから』って。良平から、平さんへ向けてのメール」

「返事は?」¬¬

「なかった。良平がメールを送ったのが夜の十時二十八分。そのメールが最後の会話だった」

 何度も推理したのだから、数字まで間違えずに覚えている。そして、その時間、礼美は翌日から始まる旅行の準備に忙しかった。それを、この十二年間悔やみ続けている。

「警察が調べたんだろうから、メールが削除されたとかそういう可能性はないものとするね。きっと、本当にそれが最後のメールだったわけだ。・・そのメールの意味に、何か思い当たるものはあるの?」

 玉田の目を見ながら、礼美は首を振った。

 当時、警察や礼美たちもその答えを探した。祥子に届いたメールが、良平の失踪に関係しているに違いないと推測して。だが、祥子はその答えを明かさなかった。嘘をついていたのかどうか定かではないが、礼美たちの求めていたものは返ってこなかった。

「その直前のやり取りもわかってる?」

「うん」

 玉田がコップに手を伸ばしたのを見て、礼美もそれに習う。一呼吸置いたところで、会話を再会する。

「三十分くらい前に、良平から送ってる」


 『今日は大丈夫だった?』

 『はい。ありがとうございます』

 『もしまた酷いことされたら、僕に言うんだよ』

 『はい。でもたぶんもう大丈夫だと思います。最近は何もないし』

 『そっか。ま、油断しちゃダメだよ。そういうのは気分で始まるから』

 『今度はちゃんと逃げます。大丈夫です』

 『そのときは、必ず助けにいくから』


 これが、あの夜の二人のやり取りだった。一字一句間違えることなく覚えている自分が怖くなる。

「平さんはいじめられてたの?」

「わからない。メールの内容からするとそうも思えるけど、本人は否定してた。クラスメイトからもそんなことは聞いてない。まぁ、実際のところなんてわかるはずないんだけど」

「メールが途切れたようにも感じるけれど」

「途中で寝てしまったみたい。よくあるでしょう? 寝落ちってやつ」

 玉田が納得したように頷き、天井に目を向ける。何かを考えている様子だ。

「それじゃあ、いつ弟さんがいなくなったのか、正確な時間はわからないわけか」

「うん。家に帰ってきて、そのあとメールをして。少なくとも、五月十五日の夜十時半までは家にいたはず」

 礼美の言葉に二度頷き、玉田はニッコリと微笑んだ。

「そのあたりの時間の、平さんのアリバイはどうなの?」

「家にいたって本人は言うし、お母さんもそう証言してる。でも、そんなのってなんの証拠にもならないから」

「だろうね。それともう一人は?」

「もう一人って?」

 礼美が尋ねると、玉田が初めて意外そうな顔を見せた。

「男の子がいたはずでしょう? 少なくとも小説の中には出てきた」

「あぁ」

 そういえば、と礼美は思う。すっかり忘れていた。当時はあれほど話を訊きたかったというのに。

「平さんの幼なじみの土井祐介さん。良平からしたら、二つ下の後輩になる」

「その日の夜、彼はどうしていたの?」

「本人いわく、家にいたって。ただ、ご家族は彼の姿を見ていないの。放任主義っていうか、共働きだから仕方ないかもしれないけど」

「その土井さんが関係していてもおかしくないわけだ。だから小説にも登場する」

 まるで推理を楽しむように微笑む玉田を見て、礼美は密かに悲しみを覚えた。弟の事件が、他人からすれば単なるひとつの失踪事件にしか映らないことに。

 礼美の気持ちを察したのか、玉田が苦笑いで頭を下げた。

「無神経だった、ごめん」

「ううん、大丈夫」

「あの小説を書いた人がどうしてそんなに詳しいのか、それはわからない。でも、ひとつハッキリしていることがある」

 自信ありげな表情で右手の人差し指を立て、玉田が言葉を続けた。

「昨日、その土井さんも一緒にいたということだ」

「どうしてわかるの?」

「だって、平さんが事件に関係しているとしたら、一緒に連れて行くのは土井さんだろう? 他の誰かに、その屋敷まで一緒に行こうだなんて言うはずがない」

「待って。平さんが一人で行ったかもしれないじゃない」

 玉田の自信がどこからくるのか、それがわからなかった。

「簡単なことさ。礼美が出会ったときの平さんの姿を思い出してみて」

 昨日の祥子の姿を頭に浮かべてみても、何もおかしな点は思いつかなかった。礼美が答えに辿り着けないと踏んだのか、玉田が静かな口調で言葉を続けた。

「平さん、何も持っていなかったんでしょう?」

「持って・・なかったね」

 それが何を意味するのか。礼美は彼の言葉を待った。

「礼美は出掛けるとき手ぶらで行く? 普通そういうときは、ハンドバッグとか持つでしょう。女性の場合は特に。ましてや、フラッとコンビニへ買い物にきたわけじゃない」

「あぁ・・、そうね。言われてみれば確かに」

「つまり、彼女は車にバッグを置いていたんだ。誰かと一緒にいたならその人の車に置いた。もちろん、一人で運転してそこまで行ったのかもしれないけれど、その場合、車にバッグを置いていくはずがない。普通、女性はそんなことしないはずだ」

 確かに、と礼美は思う。一人で運転していてどこかへ立ち寄るとしたら、バッグを助手席に置いていくことはない。多少面倒でも持って降りるはずだ。

「だから、彼女は誰かと一緒にいた。そして、場所を考慮すれば、その相手は土井さんである可能性が高いということさ」

 学生が発表を終えたときのように、玉田が恥ずかしそうに口元を緩めた。自慢げに話さない彼を褒めてあげたくなる。

「じゃあ、二人であそこへ行っていたんだ。となると絶対に、事件に関係した理由があった」

「うん。別にいまさら証拠を隠しにいったわけじゃあるまいし、小説を読んで動揺したんだろうね。放火魔が現場に戻るのと同じ心境だったのかも」

 それ以上はわからないよ、と言わんばかりに両手を広げ、玉田がアイスコーヒーを勢いよく飲み干した。ズズッという音と共に、二人の間の緊張がほぐれた。

「私は何をすればいいんだろう」

 つい、本音が漏れてしまった。

 彼に頼りっぱなしになることを申し訳ないと思いつつ、何か助言が欲しかった。自分一人では事件の真実に辿り着けないことを思い知らされたというのもある。

「あまり危ないことはして欲しくないから、本当は何もしないでって言いたいけれど。・・たぶん、あの小説の作者に話を訊くのが手っ取り早い。どうやればいいのか、僕にはサッパリわからないけれど」

 玉田は諦めているように笑った。

「やっぱり、どうしてあの小説を書いたのか知るべきよね。『楠農兵』って人の正体を知るのが最優先か」

「ただ、ひとつお願いがあって。できるだけ礼美の情報は伝えないで欲しい。それに、万が一直接会うことになったら、僕にも声を掛けてね」

「心配しすぎ。別に浮気するわけじゃないんだから」

 礼美が軽い気持ちでからかうと、思いのほか真剣な眼差しで見つめ返された。

「その人が弟さんを殺した人かもしれないんだよ」

「・・・」

「もちろん、本気で思っているわけじゃない。弟さんが殺されたと思っているわけでもない。ただ、可能性としてはありえるし、何かしらの危険性を孕んでいることは確かだ」

 玉田の心境を理解し、礼美はゆっくりと頷いた。確かに、自分が楽観的すぎたことを反省する。当時の事件を知っている人物であれば、嗅ぎ回っている礼美のことを疎ましく思うかもしれないのだ。

「わかった。気をつける。できるだけ勝手なことはしない」

「心配している僕の気持ちも覚えておいてね」

 まるで保護者のように微笑む彼を見て、礼美は誓う。玉田に迷惑を掛けるようなことはしない。その上で、良平の身に起きた真実を追ってみせる。


                      3


 暗闇の中で、何かが(うごめ)いている。それが幼い赤子だとわかったのは、楠がこの夢を何度も見てきたからだ。もう数え切れないくらい、同じ場面を夢に見ている。

 そして、すぐに、あの赤子が自分の弟だと気付けるようになった。まだ言葉にして感情を伝えることができず、ひたすらに泣き叫んでいる。母親に自分の気持ちを察してもらうために、彼なりに必死なのだ。

 夢の中で、楠は母親の顔を見たことがない。すぐ側にいることは理解していても、母親の顔が見えることはない。底のない闇のように、彼女の顔は真っ黒に塗りつぶされている。それはきっと、楠自身が心の奥底で蓋をしているからだ。母親の顔を見てしまえば、押え込んでいる感情が爆発してしまう。本能がそれを察していた。

 夢を見ているとわかっていても、楠は目を覚ますことができなかった。それでも不安はない。いつも同じ場面で終わるからだ。この暗闇が昔住んでいた家の箪笥(たんす)だということも、その中に自分たち三人がいることもわかる。その理由も、ハッキリとわかる。

 やはりこの場面がきた。

 夢の中で、楠はいつもと同じ気持ちを感じていた。次に何が起こるのかまで宣言できてしまう。楠は、必死に耐える準備を始めた。見たくもない、思い出したくもない場面にも関わらず、この先を避けることはできない。

 のっそりと母親が動き出す。楠から距離をとるように、幼い弟の方へ近付いていく。床で仰向けになり泣き叫ぶ弟を見下ろすようにして、母親の動きが止まった。そのまま、顔だけで楠を振り返る。

 やめてくれ、楠はこれまでと同じように祈りを捧げた。

 真っ黒な顔をしている母親は、楠に何と言っているのだろう。それがわからないでいるうちに、母親は弟の方へ顔を戻した。そして―――泣きわめく弟の、細く、柔らかな首に両手を伸ばす。優しく包み込むようにして、蛇のような十本の指が弟の首に絡まる。

 やめろ!

 楠がどれだけ叫んでも、母親の動きが止まることはない。半ば諦め気味になりながら、楠は叫び続けた。母親の背中から鬼のような狂気を感じる。そして、弟の首に絡められた指に、少しずつ力が加わっていく。やがて―――¬¬¬。

 楠の耳に超音波のような悲鳴が届いた、そんな気がした。


 天井の明るさに目が驚き、思わず瞼を閉ざしてしまった。無意識にぼうっとしながら、楠は自分が眠ってしまっていたことを知った。両腕で顔を覆い、再び見てしまった夢を振り返る。

 いつもあの場面で夢は終わる。母親が、弟の首を絞める場面で。楠は知っている。あの夢が、ただの夢ではないことを。記憶の奥底に仕舞ったはずの、あの日のワンシーンそのものだということを。

 楠はゆっくりと体を起こし、必死な思いで椅子へ向かった。

 座椅子を平らにし、そのまま眠ってしまっていたようだ。卓上の時計を確認すると午後五時十五分。そろそろ、編集者の林がやってきてしまう。原稿は完成しているものの、こんなダラけきった姿を見せたくはない。飲みかけのぬるくなったコーヒーを口に含むと、少しだけすっきりした。この飲み物がなければ楠は何もできない。それくらい、執筆には欠かせないアイテムだ。

 午後六時直前になる頃、林が家を尋ねてきた。

 楠は出版社からそれほど遠くない位置に家を借りているため、こうして林が直接家へやってくることも多い。原稿などはメールで送れば済むわけだが、直接話して打ち合わせをしたいこともある。楠の家で菓子でもつまみながら話す方が、林も気が楽なのだろう。

「いかがですか? 次回の分は終わったんですよね」

「はい。なんとかなりました。終わりまで見えているし、いまのところ順調です」

 楠の返事に満足したのか、林は持ってきたレジ袋から飲み物を取り出した。缶のコーラとペットボトルのお茶。林はコーラへの愛情が異常なほど強い。人生で飲んだ量を比較しても、水にひけをとらないのではないかと思うほど。それくらい、いつでもコーラを飲んでいるイメージがある。

「あ、そういえば」

 楠はふと思い出し、部屋の隅にまとめておいた紙袋に手を伸ばした。

「こういうファンレターって、林さんたちは読んだりしてるんですか?」

「あぁ、いや、僕は読みませんよ。チェックしてるって人もいるけど、正直大変じゃないですか。だからすみません。・・もしかして、何か嫌がらせとかありましたか?」

「いやいや、そうじゃなくて」

 慌てて否定しながら、楠は椅子に腰掛ける。林が中身を読んでいないことに、ホッと胸を撫で下ろしたい気分だった。

「もしかしてあれですか。ファンの女の子の連絡先とか書いてありました?」

 からかうように言う林のことを、なんて楽観的なのだろうと思う。それと同時に、深刻な問題として捉えられていないことに安堵した。

「先生がファンと何をしようと自由ですけど、やっかいな問題を起こすのだけはダメですよ」

「もちろんです。そんなことしません」

 それ以上追求するつもりもないのか、林は満足げにコーラを飲んでいる。

「次の分はどこまで書くつもりなんですか?」

「悩んでます。今回は被害者の遺族が犯人を追うところまで。次くらいで、二人の存在に気付かせようかと」

「そうですねぇ。でも、これってどうやって結末を迎えるんです? 先生もまだ悩んでるっておっしゃってましたけど」

 林の問いに対する答えは、すでに決まっている。本当はこの物語の結末まで完成しているからだ。だが、それを林に言うつもりはない。そんなことを言ってしまえば、色々と突っ込まれ、締め切りだって縮められるかもしれない。そんな面倒なことにはしたくなかった。

「二人の犯行を隠し通しちゃダメだと思うんです。やっぱり、因果応報っていうか、勧善懲悪が推奨される世の中ですから」

「まぁ、読者は満足するんでしょうけど。個人的には、うまいこと逃げ切ってくれてもおもしろいかなーと思いますよ。だってこれ、主人公がヒロインの罪を隠そうとする物語ですもんね」

 林の意見にも一理あると感じ、楠は頷いた。

 『満月の微笑む夜に』は、主人公である少年が、ヒロインの犯した罪を発見するところから始まっている。それを隠し通すために、少年は自らの手を汚していくというわけだ。

「ヒロインの子が、自分で罪を明るみに出さないようにしてくださいね。そういうのは、もうありきたりですから」

「大丈夫です。一応、満足のいくラストを用意できると思います」

「さっすが! 頼りになるなぁ」

 林はおだてるように言い、その後は、単なる友人のような時間を過ごした。年齢も近く、比較的仕事に対する情熱の薄い林とは、不思議と気が合う。楠はプレッシャーをかけられるのが苦手なため、林のようなパートナーでよかったと思っている。

 三十分ほど談笑したところで、林が帰宅する支度を始めた。林のアドレスに原稿を送ると、彼は満足げに去って行った。

「さて・・」

 林が残していってくれたジュースや菓子類をキッチンに運びながら、楠の頭はファンレターのことでいっぱいだった。

 あのファンレターを送ってきた人物は、何を企んでいるのか。夢の内容とやらが書いてあったが、それが楠の過去と関係していることを知っているのだろうか。何の意味もなく書くとは思えないが、脅しのつもりならヘタクソすぎる。楠にとって、幼い頃の記憶を呼び覚ますのは苦痛でしかない。何度も夢に見るほど強烈に記憶に残っているそれが、楠の人生を狂わせた。

 楠真梨(まり)、それが楠の母親の名だ。『楠農兵』という名をペンネームだと思われることが多いが、これはれっきとした本名だ。そして、楠真梨は、楠の父親と弟を殺害した張本人でもある。

 その事件が起きたのは、楠が五歳の頃だった。まだ悩みなどなく、毎日の楽しさに追われていた幸せな日々だった。事件が起き、終わってからも、楠は何もわからなかった。とにかく泣き続け、覚えているのは、鼻の奥にいつまでも染み付くようなむせ返る血のにおいと、家中から聞こえてくる怒声。そして、幼い弟の首を絞めて殺害する母親の姿だけだった。

 楠の父親と弟を殺害し、母親の真梨はその直後に逮捕された。返り血を浴びた状態で家を出て、近所の住人の通報により事件が発覚した。それ以降、楠は母親と顔を合わせていない。刑務所に入っている間も、その後、楠が施設に預けられた後も。

 殺害の動機としては、酒に酔った父親の暴力に耐え切れず、ということらしい。また、弟に関しては、その泣き声が耳障りで殺害したと供述している。そのどれもが、事件後にテレビや新聞で知り得た情報だった。幼い楠には、それらが真実に思えてしまった。というよりも、疑うことすらできなかった。

 母親には実刑が言い渡され、いまは出所しているらしい。だが、楠は顔を合わせなかったし、これからもそのつもりはない。人殺しの息子、いつからそう言われるようになったのかわからないが、母親はその原因となった人物だ。許せるはずがない。母親、とすら認めたくない。いつしか楠の中で、母親は『あの人』になった。

 ファンレターに書かれていた内容は、楠の見る夢と完全に一致する。それはつまり、幼い頃に経験したあの事件と一致するということになる。ファンレターを送ってきた人物は、なぜその内容を知っているのか。興味深いというよりも、不気味に思えて仕方がなかった。事件の全容を覚えている者がいたとして、それは何も不思議ではない。それなりに大きく取り扱われたからだ。だが、それを手紙に書いて送り届ける人物とは誰か。

 楠の中に、ふつふつと嫌な予感が呼び起こされる。

 この手紙の送り主は母親なのではないか。息子が作家として働いていることを知り、何かしらのアプローチをしてきたのでは。その目的など理解できなくとも、ありえない話ではない。それだけに、楠は落ち着いて生活することもできない。

 結論として、楠はこの手紙の送り主と会うことにした。返事を出し、直接話してみよう。そうすれば全てが白黒ハッキリする。

 だが、場合によっては、楠の過去を知るその人物を殺さなければならないかもしれない。それほどまで、いまの楠は、自分の人生を脅かす者を排除したいと考えている。


                       4

 

 土井に連絡もせず、勝手にこんなことをしたら叱られるだろうか。きっと、危険すぎる無鉄砲さに怒るだろうし、祥子に失望するかもしれない。それでも、祥子は一人で動かざるを得なかった。「楠農兵に会いに行く」などと言えば、土井に止められたに決まっている。そうでなかったとして、自分も同行すると言い出すだろう。

 名古屋行きの急行に乗りながら、祥子は持ってきた雑誌を広げる。『満月の微笑む夜に』の載った、何度も読み返した『マニュフェスト』を。月刊誌で、次号が出るまでは二週間ほどあるはず。もし可能ならば、楠から次号の内容もきかせてもらいたい。その内容次第で、彼がどこまで知っているのかも推測できるはずだ。

 楠から手紙の返事がきたときは、思わず玄関で立ち尽くしてしまった。何かの請求書かと思った封筒の裏を確認し、その文字を見たとき。コンビニで買ったアイスクリームを仕舞うことも忘れてしまったほど。手紙にはファンレターの感謝と、直接話してみたいという内容が書かれていた。特に変な意味も感じられず、祥子の見た夢について興味があるようだった。

 楠の目的が何であれ、彼と会うことは祥子も願っていた。多少の不安を抱えながらも、一週間後にあたる今日、週末を利用して名古屋へ向かうことにした。最寄りの駅から電車に乗れば、乗り換える必要もなく簡単に行けることもあり、祥子に迷いを抱かせることはなかった。

 土井には友人と出掛けると言ってきた。別段、彼から怪しまれている様子はなかった。それに罪悪感を感じつつ、祥子は電車に揺られていた。


 金の時計といえば、名古屋駅の待ち合わせ場所として最も有名な場所だろう。単に金色に塗られた時計が存在するだけなのに、集まりやすさから、そこを待ち合わせ場所にする人々で溢れている。駅の外への出入りもしやすく色々と便利なのだが、人が集まり過ぎて探しにくいという面もある。いまの祥子は、人混みにうんざりして逃げ出したくなっていた。

 楠との待ち合わせは午後二時。あと十分ほどだが、楠は無事にこの場所へ向かっているだろうか。取材のために名古屋へやってくるということだから、彼が嘘をついている可能性は低い。それに、もし楠のイタズラだとしても、祥子はここまで来るのにそれほど苦労していない。受けるダメージも小さいため、このまま出会えなくても構わないのではないかとすら思う。

 祥子がぼんやりと周囲を見渡していると、ひと際背の高い男性が近付いてくるのが見えた。髪の毛はウェーブがかったというよりも癖っ毛で、丸い黒ぶちの眼鏡を掛けている。それが楠なのだと、祥子は本能的に理解した。

 彼は売れっ子作家というわけではない。テレビに出たことはあるかもしれないが、他の有名作家ほど顔を知られていない。祥子はインターネットで彼のインタビュー記事を読み、そこで初めて顔を見たくらいだ。緊張しているのか、あたりをキョロキョロと見渡している。周りに気付かれるか心配する素振りはなく、彼が知名度の低さに慣れていることが伺える。

 祥子は覚悟を決め、ゆっくりと一歩を踏み出すことにした。こうして出会えてしまった以上、自分のなすべきことをしよう。人混みを掻き分け、楠の側へ近付く。彼は携帯電話で時間を確認しているのか、祥子に気付く様子はない。もっとも、祥子が自分の写真を見せたわけでもないのだから、彼にはわかるはずもなかったのだが。

「あの・・」

 視線を合わせながら声を掛けると、楠の両目が緊張したように広がった。近くにくると彼の体の大きさに驚いてしまう。百九十センチ近くあるのではないか。

「楠農兵先生ですか?」

「あ、はい。それじゃあ、あなたが・・」

「平です。はじめまして」

 二人でどぎまぎとあいさつをする。気まずさから、逃げ出したくなった。

「どこか近くのお店に入りましょうか?」

「あぁ、そうですね・・。どこでも大丈夫ですけど」

「それじゃあ」

 祥子が動き出すと、楠が後ろをついてきているのがわかった。とりあえず、近くの店で座りたい。東京の高級店に慣れているだろうが、この際チェーン店でも何でも構わないだろう。

 コーヒーショップに入り、二人で向かい合って席に着く。別に構わないのに、楠が二人分の料金を出してくれた。デートじゃあるまいし、わざわざこんなところまで来てもらって申し訳ない。この代金も、経費とやらで落としてくれると気が楽になるな、そう思いながら話し始めるタイミングを伺っていた。

「わざわざありがとうございます。お忙しいところ」

「いえいえ、こちらこそです。取材でこっちの方に来たいと思っていたし、口実ができてむしろよかった」

 緊張がほぐれたのか、楠が落ち着いた表情で話す。楠のプロフィールには三十六歳と書かれており、祥子よりも十歳年上ということになる。

「また次の作品の取材ですか?」

「いえ、連載中のです。読んで頂いているアレです」

 店員が二人の飲み物をテーブルに運んできて、その間祥子は迷っていた。訊きたいことはたくさんある。だが、何からどうやって尋ねればよいのか、その答えは見つからない。

「いつも読んでくださっているんですか?」

「え? あ、えっと、読んだのは今回のが初めてでした。でもこれまでに出版されたものも読みました。気になったので」

「ありがとうございます。感想は言わないでください。恥ずかしいので」

 それが本音なのだと伝わり、楠という人物に悪い印象は抱かずに済んだ。だがそれも、重要な点を確認してからだと自分に言い聞かせる。

「ファンレター、ありがとうございました。あまりもらったことはないので、とても嬉しいものでした」

「いえ、なんか変なことも書いてしまって、むしろ申し訳なかったです」

「あの中に書かれていた、平さんの夢に関することなんですけど」

 一瞬だけ楠が真顔を見せたあたり、それが彼にとって最も重要な質問のようだ。

「いつも見るんですか?」

「えっと、いつもじゃないですけど、けっこう見るんです。暗い部屋の中で、何かに怯えている自分がいて。・・おかしいですか?」

「いやいや、とんでもない。なんだか小説の中に出てきそうな場面だなと思って」

 そう言いつつ、楠は満足していない様子だった。求めていた答えではない、という感情が見え隠れしている。

「あの、どうして、こうして時間を作ってくれたんですか? ファンレターを出した全員にこんなことしている時間はないですよね」

「はい。あ、不安にさせてたら申し訳ないんですが、こういうのは初めてです。今後もないと思います。だからその、身の危険を感じる必要はありません」

 必死に言い訳をするように、両手で祥子との間に壁を作る。

 それほどまで真剣に不安を感じていたわけではないが、彼の言葉に安堵したのも事実だ。その一方で、そうであればなぜ時間を作ってくれたのか、それを知りたくなる。

「ただ、どうしても気になったのでお会いしにきました。あなたがどんな人なのか知りたくて」

「どんな人?」

「なんて言えばいいんでしょう・・。ナンパしてるわけじゃないんです。うまく言葉にできないんですけど、どうしても会わなくちゃいけない気がして。作家なのに言葉で説明できないのが恥ずかしいですけど」

 困ったように笑う楠を見て、祥子も苦笑いをするしかなかった。彼に変な下心があるとか、そんなことはもう不安に感じていない。だが、彼の言葉を理解することはできないし、自分が何を求められているのかもわからなかった。つまり、困っていた。

「あの、私の方からも質問していいですか?」

「あ、はい。どうぞどうぞ」

 楠が姿勢を正し、顔色が強ばった。

「『満月の微笑む夜に』は、どうやって考えたんですか? えっと、どうやってあのストーリーを思いついたのかなって」

 事前に考えてきた質問は、もっとうまかったはずだ。こんなにどぎまぎと、言い訳のように尋ねる予定ではなかった。いまさらどうしようもないが。

「どうやって・・、この仕事をしてるとたまに訊かれるんですが、いつも困るんですよ。自分でもわからないから」

 アイスコーヒーに口をつけながら、楠が逡巡するように眉間に皺を寄せる。

「だいたい、突然ポトッと落ちてくるんです。それをきっかけに考え出して、書いてたらまたポトッと落ちてきて。そんな感じなので、あまり参考にならないかも」

「それじゃあ、自分の経験とかを元にすることはあるんですか?」

 あのストーリーが楠の記憶の中から生まれたものなのか、それを知りたかった。『否定して!』と心の中で願う。

 そして、それは叶った。

「そういうこともあります。でも今回は違います。夢に出てきた可能性はありますが、実体験じゃないです。あんな経験したくないです」

 そう言って笑う楠の目を見て、彼が嘘をついているわけではないことを知る。少なくとも、祥子には彼の言葉が真実に思えた。心の中に安堵の温かさが広がる。

「そうなんですね。なんとなく、私もあの小説みたいな場面を知っている気がして、楠先生に会ってみたくなったんです。でも勘違いでした」

「その気持ちが勘違いで、少し残念です」

 楠が照れたように笑う。いまの言葉が冗談であってくれと願うばかりだ。

「あの、もうひとついいですか?」

「どうぞどうぞ。もう会えないかもしれないですし」

「小説の続きって、どうなるんでしょうか。ちょっとだけでも教えてもらえたら・・」

「あぁ」

 そんなことか、と言わんばかりに楠が笑う。

「ネタバレになったらいけないから、あまり細かいことは言えないですけど。主役の二人がいるじゃないですか。彼らが、一度離ればなれになります。本当のお別れではないですが」

「・・そうなんですか」

「その先、また二人は再会するかもしれないですが、いまはこれくらいにしておきましょう」

 祥子は必死に笑顔で頷いた。小説の先が気になって仕方がないという、純粋な読者を演じきる。心の中とは正反対だった。

「ありがとうございます。それじゃあ、二人のどちらかが愛知県にやってくるんですかね。だから取材に来られた」

「鋭いです。良い読者さんなんでしょうね」

 楠が困ったように笑った。それでも、嫌な気分ではないのだろう。

 彼が腕時計に視線を移すのを見て、祥子もそろそろかと思う。一度、落ち着いて考えたい気分でもあった。

「今日はわざわざありがとうございました」

「いえ、こちらこそです。素敵な女性と過ごせて楽しかった」

 楠はカバンに手を入れ、何かを探している。すぐに小さな黒いケースを取り出し、中から一枚の紙を取り出した。

「私の名刺です。一応、営業用に持っているんです。よかったら」

 差し出された名刺を受け取り、そこに楠のアドレスが書かれていることを確認する。これで、いざとなれば再び連絡することもできる。

「平さんの連絡先は訊かないでおきます。もしまた用があれば、そこに連絡下さい。いつでも大歓迎ですから」

 楠がケースをカバンに戻すのを見て、祥子も受け取った名刺を財布に仕舞う。今日のところはこれで終わりだが、大きな収穫があった。土井に相談したいこともある。

「お住まいは近いんですか?」

「電車で三十分くらいです。楠先生は、愛知県にお住まいだったこととかあるんですか?」

「いえ、生まれも育ちも東京です。だからこんなに面白味がないのかもしれませんね」

 冗談なのかわからない言葉を口にし、楠が立ち上がった。ショルダーバッグを肩に掛け、右手を差し出した。握手を求めているのだとわかり、祥子もそれに応えた。

「ではお元気で。小説の続きも、ぜひ読んでください」

「はい、必ず。頑張ってください」

 楠は笑顔で頷き、あっさりと手を離した。

 彼が何度も頭を下げて店の外へ出ていくのを眺めながら、祥子の心境は穏やかではなかった。むしろ、不安で満ち溢れていた。楠が話した小説の続きは、やはり祥子の過去と一致していたからだ。

 長峰の遺体を隠した祥子と土井は、一度離ればなれになった。事件のせいで生活に支障をきたし、祥子と母親が引越したからだ。そして、現在、祥子と土井は再会している。まさか、ここまでの全てを把握されているのか。だが、楠が祥子の過去について知っているようには見えなかった。祥子を犯罪者として見てはいなかったし、罪を裁きにきたわけでもない。そこは安心できた。

 だが、なぜだろう。なぜ彼は、ここまで事件の全容を知っているのか。それが間接的に祥子を苦しめる。

 手に入れた楠とのパイプを利用しない手はないが、具体的な解決策はない。このまま小説が進み、自分たちの過去を物語にされたとする。それだけならば問題ないと思いたい。だが、どうしても長峰礼美の存在が気掛かりだった。彼女は、祥子のことを疑っているに違いないからだ。

 形すら見えない何かが、祥子と土井を取り囲もうとしている。

 不気味な不安を抱きながら、祥子は過去に想いを馳せていた。


                      5

 

 母親が家に帰ってくる時間になると、祥子はいつも寝たふりをしていた。ひとりぼっちの家で布団に潜り込み、妄想をする。

 残業で遅くなった父親の帰りを待ち、母親と二人でおしゃべりをしている。空腹で我慢ができず、本当は目の前のおかずを食べてしまいたい。我慢しなさいと母親から注意されてふてくされていると、玄関のカギが開く音が聞こえてくる。母親と二人で顔を見合わせ、走って玄関まで迎えに行く。家族三人が再会し、祥子は父親に頭を撫でてもらう。

 そんな場面を、毎日のように妄想する。ありえなくても、せめて幸せな想いをしたかった。現実はこんなにも寒く、厳しいのだから。

 玄関の扉が開き、母親が帰ってきたことがわかる。バタバタと足音を立て、祥子の眠る部屋へ直行してくる。こういう日は、母親の機嫌が悪いことを経験上知ってしまっている。今日もまた殴られるのだと覚悟した。

「おい!」

 頭上から母親の怒鳴り声が聞こえ、それでも祥子は寝たふりをしていた。そうでもしなければ、母親に食って掛かってしまうからだ。

「なに寝てんだよ!」

 布団越しに思い切り蹴られ、思わず顔が歪んだ。全身を縮め、丸まるように防御していても、酔った母親の攻撃は受け切れない。それも一度や二度ではなく、祥子が謝っても止まることはない。

「誰のおかげで生活できてると思ってんだ!」

 布団の中で体を丸め、嵐が収まるのをただただ待つ。母親が自分に怒りをぶつけてくるのは、職場で面倒なことがあったときだ。時折シャンプーの香りがしていることもあるし、女同士、なんとなく察してしまう。まだ中学一年生の祥子も、大人の世界の汚さがぼんやりと見えている。

「ったく、つまんねぇやつだな」

 ドタドタと足音を立て、母親は部屋を出ていった。布団の中でそれを理解しながら、祥子は涙を堪えていた。あんな人間でも、母親がいなければ生活していくことができないのは事実だ。自分は無力で、義務教育を受けているだけの身。体を売ってでもお金を得ているあの人に対し、言い返すことなどできはしない。

 布団から顔を出し、居間の様子を確認する。

 扉が開かれたままで、向こうの明るさが入り込んできている。母親は脚を組んで煙草を吸い、テレビを見ているようだ。賑やかなバラエティ番組と、この家の陰鬱(いんうつ)さの対比が、なんとも皮肉に感じられてしまった。

 祥子は居間に背を向けるように寝返り、机に置かれた写真立てを見つめた。小学生だった頃、クラスメイトと共に写った写真だ。その中には土井の笑顔もあり、あの頃の楽しさが頭に浮かぶ。いまとは対極の幸せな時間が、外国のように遠くへ行ってしまった。もう、あの日は帰ってこないのかもしれない。

 写真を眺めていることに悲しみを覚え、祥子は布団に潜り込んだ。

 明日の朝になれば、あの頃に戻っていないだろうか。そんな無駄な祈りを続けていた。


『放課後、時間あるかな』

 長峰からメールが届いたとき、正直、祥子はうんざりした。部活が休みの日で、ギリギリまで図書館で過ごそうかと考えていた頃だった。

 一学年上の長峰は、祥子の家庭事情が複雑であることを知ってしまった。祥子の体のアザを見つけ、そこから察してしまったに違いない。クラスでいじめられているなどとは考えなかったのだろうか。実際にそんなことはないのだから、彼の推測は正しいわけだが。

 放課後に彼と会ったとして、色々と詮索されることは目に見えている。長峰は味方をしてくれようとしている。それはわかっていても、面倒事を起こされないかという不安の方が勝っていた。

 午後の授業を終え、クラスメイトと談笑しながら時間を潰す。長峰との約束の時間が迫るにつれ、祥子の憂鬱は肥大していった。味方ができたにも関わらず心が晴れないのはなぜだろう。幼なじみの土井が中学校に入学してきてくれる日が待ち遠しい。彼の側にいるだけで、祥子は不思議な安心感に包まれることができる。

 少しずつクラスメイトが帰宅し始め、祥子は図書室へ行くと言って教室を出た。廊下をゆっくりと歩き、諦めて音楽室へ向かうことにする。そろそろ、長峰もそこへ来ている頃だ。

 三階にある音楽室の扉を開けると、案の定長峰の姿が目に入った。椅子に座り、俯いて楽譜を見ていた。すぐに祥子に気付き、笑顔で左手を挙げた。

「わざわざごめんね」

「いえ」

 扉を後ろ手で閉め、彼の側へ歩みを進める。長峰も楽譜を閉じ、静かに立ち上がった。

「最近はどう? 大丈夫?」

「大丈夫ってなんですか。どういう状態なら大丈夫なんですか」

 素っ気なく返事をすると、長峰が困ったようにため息をついた。

「やっぱり、まだ続いてるんだね」

 祥子の全身を確認するように目線が動く。それが不愉快で、祥子は顔を背けてしまった。

「お母さんには何も言い返さないの?」

「はい?」

「だから、酷いことされて、我慢してるだけ?」

 長峰の言葉が癇に障り、無言のまま睨みつけた。何も知らない他人が、自分の価値観で喋るんじゃない。他人から綺麗事を語られるのは、いまの祥子には我慢ならなかった。

「だってさ、我慢していたってそれは終わらないんだよ。弱い者はいつまでたってもやられるだけだ」

「あなたに・・! あなたなんかに、何がわかるっていうんですか」

 憤りを抑えるのに必死だった。味方をしてくれようとしていても、所詮は赤の他人だ。祥子の気持ちなどわかろうともしていない。

「・・ごめん。ただ、何か動かなきゃダメなんだ。だから考えた」

「何をですか」

「虐待とか、そういうのを扱ってる人たちがいる」

 意を決したように話す長峰は、確かに真剣だった。

「そういう人たちはプロだから、平さんに被害が出ないようにうまくやってくれるかもしれない」

「あの人を逮捕してもらうってことですか?」

「逮捕じゃないみたい。でも・・、きっと平さんの側から離してくれる」

「ははっ」

 思わず祥子は笑ってしまっていた。

 本当に、この人は何もわかっていない。祥子の気持ちも、何を求めているのかも。

「何かおかしなこと言った?」

「いえ。でもムダです。そんなことしても、私は全然嬉しくない」

「どうして? これ以上殴られることもなくなるんだよ」

「別にそんなのどうだっていいんです。もう慣れたし、諦めてるし。それに」

 祥子の言葉を待つように、長峰がジッと見つめてくる。

「親がいなかったら、私はどうすればいいんですか? どこかの施設に預けられて幸せに暮らせる保証はあるんですか?」

「わからないけど、いまよりはマシかもしれない」

「悪いんですけど、私はもうそんな希望は持ってません。絶対にいまより良くなるなら考えるけど、あの人のことがバレて、どっかの施設に行きたいなんてこれっぽっちも思ってませんから」

「どうして・・」

「そんな夢を見られるのは、先輩が恵まれてるからです」

 話しながら、祥子は鼻の奥がツンとするのを感じた。慌てて気を引き締め、瞼をぎゅっと閉じる。そうでもしなければ涙が溢れてしまうところだった。

「あんな親でも、あの人がいなくちゃ私は生きられないんです。どうせわかってもらえないでしょうけど」

「・・・」

 何も言えずに見返してくる長峰の視線が、ゆらゆらと歪んでいる。

 祥子が口にした言葉は本音だった。何度、あの家から出ていきたいと思ったことか。母親からの暴力を受け続ける生活でも、祥子にはそれが必要だった。たとえ母親が犯罪者であろうと、それについていくしかないのだ。

「先輩の言うことはわかりますけど、私はそれに従うことはできません」

「それじゃあ、これからどうするつもりなの・・」

「さぁ。いつか私が大人になったら、あの家から出ていきます。それまではいまのままでいいんです」

 泣き出しそうに顔を歪める長峰を見て、なぜあなたが、と思う。大声で泣きわめきたいのは祥子の方だった。

「それじゃあ、失礼します」

 一度だけ頭を下げ、長峰の顔を見ぬようにして歩き出す。これ以上、彼に縛られたくはなかった。所詮は他人の綺麗事だ。気持ちはありがたいが、本当に必要なのはそんなことじゃない。

 音楽室を出て、扉を閉める。

 誰も追ってこない廊下を、祥子は一人で歩き続けた。


 自宅の玄関の前で祥子は立ち尽くした。家の中の明かりが点いている。それはつまり、母親が家にいるということになる。今日は確か仕事だったはず。不思議に思いながら、祥子は玄関のカギを開けた。

 部屋の中に入った途端、顔をしかめてしまうほどの香水の匂いにやられた。まるで香水の入った小瓶をぶちまけたような強烈さに、しばらく動けなかったほど。

「帰ってきたんなら声くらいかけな」

 寝室から出てきた母親が祥子に気付き、気怠そうに言う。その母親の格好を見て、祥子はへどが出るほどうんざりした。

「適当にあるもん食べな」

 下着姿で椅子に腰掛け、母親はテーブルに置かれた煙草を咥え火を点けた。祥子が帰ってくる前、この家で何が起きていたのか考えてしまいそうになる。慌てて靴を脱ぎ、洗面所へ向かった。手を洗い、鏡に映る自分の姿を見つめた。

 大丈夫、おかしなところはない。

 自分に言い聞かせ、母親のいる居間へ向かう。

「あんたさぁ、中学出たらどうするつもり?」

 突然の問いかけに、冷蔵庫へ伸ばした手が止まってしまった。その内容と、母親から出た言葉というのが、祥子を不安にさせるのに十分だった。

「特に考えてない」

「あっそ。働くことも考えときなよ」

「・・わかった」

 振り絞って返事をし、祥子は冷蔵庫の扉を開ける。冷たさが顔を襲い、どうせならこのまま凍え死んでしまうたいとすら思う。先程の質問の意図がハッキリとわかるからだ。

 母親は、祥子を高校へ進学させるつもりはない。すぐにでも働かせ、自分が楽をしたいのだ。その職業として想像できるのは、祥子が最も嫌悪感を抱く部類のものに違いない。それくらいしか、いまの祥子に務まるものはない。

 冷えたオムライスを電子レンジで温める間に、学校のカバンを置きにいく。畳の寝室にカバンを置きながら、部屋の中の異様な雰囲気に戸惑った。憂鬱な雰囲気に満たされたこの部屋から、大人の醜さが溢れ出ている。たとえ間違った行為ではなくとも、いまの祥子には受け入れられるものではなかった。

 テーブルに置かれた写真立てが見当たらず、胸の鼓動が早くなる。慌てて床を探すと、すぐに、それが落ち着いていることに気付いた。ホッと安心しながら手に取ると同時に、手に違和感を感じた。木のフレームとプラスチックの板でできているはずの写真立てから水分を感じた。その意味を本能が理解した途端、祥子は「きゃっ!」と悲鳴をあげて手を離してしまった。

「なんだい」

 母親がめんどくさそうに部屋を確認しにくる。居間の明るさをバックに姿を現した母親が、なんとも醜い生き物に感じて仕方がなかった。それと同時に、祥子の大切な思い出でもある写真立てを(けが)したことに対する憤りが沸き上がる。

 殺してやりたい、心がそう叫んでいた。

「なに睨んでやがるんだ」

「許さない・・」

「はぁ? 頭いっちまったのか?」

「許さない!」

 心のままを叫び、祥子は駆け出した。落ち着いて考えることなどできなかった。とにかく許せなかった。自分を取り巻くこの状況も、祥子の大切なものを平然と踏みにじる母親のことも。そして、何もできない自分のことも。

 部屋の入り口にいた母親を突き飛ばし、キッチンへ向かう。カエルのような醜い悲鳴をあげ、母親が転んだ。

「てめぇ!」

「あんたなんかに!」

 キッチンの引き出しから包丁を取り出し、両手で強く握る。

 振り返ると、目の前まで母親が迫ってきていた。

「こないで!」

 祥子の剣幕に、さすがに冗談ではないと悟ったのか、母親がたじろいだ。重心が体の後ろに移った母親を見て、いまなら楽に襲えるように思えた。

 だが、それでも動くことはできなかった。

「なんだ、ヤル気かい? 殺せるもんなら殺してみな!」

 怯えながらも、祥子がそれ以上何もできないと決め付けた様子だった。

 包丁を握りしめながら、祥子は悔しさに震えていた。これほどまで怒りに包まれているのに、自分は最後の一線を越えることができない。所詮、親に生活させてもらっている子供にすぎないのだと、それを実感してしまう。

「できもしねぇくせに、偉そうに睨んでんじゃないよ!」

 母親が歩き出し、祥子との距離を縮める。両手を突き出せば刺せる距離なのに、祥子の体は動かなかった。母親が舌打ちをした直後、左頬を衝撃が襲った。耳の奥まで振動が届き、頭の中がガンガンと鳴る。床に倒れ込み、左の人差し指に鋭い痛みが走った。

「誰のせいでこんな生活してると思ってんだ!」

 腹部を蹴られ、声にならない悲鳴が漏れる。涙が浮かび、爆発してしまいそうなほどの悲しみが溢れ出る。

 殺してやりたい。

 この女を殺してやりたい。

 それができないなら、自分が死んでしまいたい。

 祥子が叫び出しそうになった瞬間、玄関のチャイムが鳴った。部屋の中の様子などおかまいなしに、気楽な高音が鳴り響く。

「チッ」

 母親の暴力が止み、祥子がうずくまっている間も、チャイムは鳴り続けた。

「さっさと出ろよ」

 母親は奥の寝室へ引っ込み、襖が閉まった。祥子は動くことができず、這いつくばって両手を強く握りしめた。それでもなお、チャイムは鳴り響く。

「出ろって言ってんだろ!」

 母親の怒声が飛ぶ。祥子はボロボロの体を持ち上げ、左手で涙を拭った。なんとか玄関まで辿り着き、必死に呼吸を整える。

「はい・・」

「こんにちは。祐介です」

 ドアの向こうから聞こえてきた声に、抑え込んでいた涙が再来した。どうして、こんなにも優しく響くのか。祥子の傷を癒すような土井の幼い声に、全身を委ねたくなる。

 カギを開け、ドアをそっと押す。

 土井の姿が目に入ると同時に、祥子は彼に駆け寄った。


                       6


 『満月の微笑む夜に』の掲載された雑誌が手元に届き、楠は満足していた。順調に進んでいる。あと三ヶ月もすれば、この物語は結末を迎える。その後出版されたとして、自分の作家人生が華やかなものになるという確かな自信がある。

 この物語を雑誌に掲載し始めた当初は、誰かから訴えられるのではないかとビクビクしていた。それこそ、あのプロットをなくした別の作家から。だが、未だにそんな様子はない。誰かから脅されることもなく、予想以上に評価されている。

 だが、楠はひとつの問題に直面していた。問題というより、悩みに近い。

 手に入れたプロットには、結末までが描かれていた。楠が読んだだけでも、なるほどと思えるものだった。そのまま執筆すれば綺麗にまとまるであろう内容だ。だが、楠の中のちっぽけなプライドがそれを拒んでいた。万が一、誰かから盗作だと訴えられたとき。ラストを変更していれば、自分で考えたと言い張れるかもしれない。そんな予防線の意味もあった。

 また、それ以上に、自分の力を証明したいという想いもある。これだけ評価される物語の骨格を得られた。そこに自分なりのラストを加えたら、これまで以上のものになるのではないか。そんな淡い期待を抱かずにはいられなかった。

 雑誌のページを無意識で捲りながら、楠は葛藤し続けていた。この物語を自分なりに終わらせようと思ったら、どのように変更するべきか。主役の二人を幸せにするのか、それとも罪を暴かせ、読者に納得してもらうのか。楠個人としては、真実を闇に葬り去ってやりたい。自分自身が過去に囚われている者として、二人を単なる登場人物だとは思えなかった。

 この間出会った平祥子という女性は、この物語を読んでどう思うのか。なぜか楠の過去を知っている―――夢に見たというが、彼女にどんな想いを抱かせるのだろう。

 あの女性と自分の接点を探しつつ、楠はゆっくりと瞼を閉じた。


----------

 家を抜け出す、それは山本圭太にとって容易なことだった。

 共働きで働く両親は、帰宅してから眠るのが早い。翌朝も早くから仕事へ向かうため、少しでも休息したいのだろう。それでいて、決して圭太のことを(おろそ)かにしない。栄養のある食事を摂らせようと工夫しているし、短い間でも、必ず会話する時間を設けようとしてくれる。同じような環境の子供たちと比較しても、圭太は自分が恵まれていると感じていた。

 夜中の十二時過ぎ。中学生にとっては夜更かしにあたる時間帯に家を抜け出した。約束の場所で美樹と出会えることを信じて。

 明日になれば、美樹はこの街を離れてしまう。あの事件がきっかけなのか、遠くの中学へ転校することとなった。圭太の気持ちとしては行かないで欲しかった。大好きな幼なじみ、これからもずっと一緒にいたいと思える美樹と離ればなれになるのだから、そう思うのは当然だ。

 だが、それでも、この方がいいのではないかという気持ちも生まれている。あの事件のせいで美樹は苦しみ、生活的にも追い込まれている。そんな彼女の姿を見るのはつらかったし、彼女が楽になるのであれば、おとなしく見送るべきなのかもしれない。

 待ち合わせの橋が見えてくるに従い、圭太の中で様々な感情がふつふつと沸き上がってきた。彼女と会えるのはこれが最後になるかもしれない。大人になれば簡単に会えるのだろうが、いまの自分たちにとって、別の学校というのは大きな障害となる。それくらい、子供の世界は貧弱だ。

 橋が目の前に迫り、圭太は眼下を見下ろした。約束の場所は橋の下の河川敷。夜の河川敷は、なんとも言えぬほど不気味だった。その中に美樹の姿を見つけ、圭太はホッと胸を撫で下ろしたい気分だった。美樹はコンクリートの壁にもたれかかるようにして立っていた。最後に出会えたこと、そして、無事でいてくれたことに安堵した。すぐに駆け出し、名もわからぬ雑草が広がる地面を進む。転げ落ちぬように気を付けながら、一刻も早く美樹の側に行きたかった。

 圭太の足音で気付いたのか、美樹がこちらに顔を向けた。彼女のホッとした表情が見え、圭太が声を掛けようとした瞬間だった。足元の何かにつまずき、全身が重力に引っ張られた。

「うわっ!」

 どうすることもできず、圭太は坂を転げ落ちた。その直前、美樹が両目を見開いた表情が見え、恥ずかしさで逃げ出したくもなった。そのまま落ちきる所まで落ち、圭太が瞼を開けると、目の前に美樹がいた。それだけで、体の痛みなど吹き飛んた。

「大丈夫?」

「ははっ、大丈夫みたい」

「バカなの?」

 祥子は両膝に手を当て、屈むようにして圭太を見下ろしている。彼女のバックには満月が浮かび、世界がひっくり返ったような錯覚を覚えた。

「けっこう待った?」

「ううん」

 美樹の返事に安心しながら、圭太は体を起こした。全身の汚れを手で払い、それを美樹も手伝ってくれた。お姉さんぶるのは、小学生の頃から変わらない。

「お母さんにはバレてない?」

「さぁ。もう知らない。バレてもいいし」

 拗ねた表情でそっぽを向き、美樹がため息をついた。そのまま空を見上げ、圭太もそれに習う。

「私たち、どうなるんだろう」

「どうって?」

 圭太の方に顔を向け、美樹が困ったように笑う。

「逮捕されちゃうのかな」

「うーん、いや、大丈夫。ボクが必ず守ってあげるから」

「あははっ」

 美樹が軽やかな笑い声をあげた。圭太の言葉を信じていないのか、それとも素直に喜んでくれているのか。どちらともわからないが、圭太も一緒になって笑ってみた。そうすることで、不安や悩みが吹き飛ぶと思い込むために。

「大丈夫だから心配しなくていいよ。だってほら、今日まで捕まってないわけだし」

「今日まではね。でも明日には警察がやってくるかも。私を捕まえに」

「やだよ」

 美樹の手を握り、もう一度言う。

「そんなの、嫌だよ」

 圭太の気持ちが伝わったのか、美樹もこれまでのような軽い雰囲気ではなくなった。なにしろ、最も不安なのは美樹自身なのだ。圭太のように、遺体を隠すのを手伝っただけではない。彼女の手は汚れている。

「あの人はもういない。証拠だってどこにもない。だから大丈夫だよ」

「・・ありがと」

「美樹ちゃんは信じてくれないかもしれないけど、ボクの考えが正しければ、美樹ちゃんが捕まる可能性はゼロだ。全くのゼロ」

 美樹の手が震えるのが伝わる。彼女が歯を食いしばり、不安と戦っているのもわかる。わかってしまう。

「あの人を階段から突き飛ばしちゃったことも、ゴミ屋敷に隠したことも、全部忘れちゃおうよ。それでさ、明日からまた生まれ変わるんだ。なんにも悪いことしてないボクらに」

 すぐ隣にいる美樹が鼻をすすった。小さな嗚咽を漏らし、涙を流しそうになるのを耐えている。

 圭太は自分の言葉を信じていた。たとえ強がりでも、口にすることで力になることもある。『大丈夫、大丈夫』そう言い続ければ、いつか心から信じられるようになる。人間には、そんな都合のいい部分だってあるはずだ。

「ごめんね・・」

「なにが? なんにも困ってないよ」

「巻き込んでごめん・・」

「もう忘れちゃったなぁ」

 美樹の体が崩れ、手を離してしまった。砂利に膝をつき、顔を覆いながら美樹が泣いている。それを隣で聞きながら、圭太は心に願った。この人を守りたい、その力を手に入れたい、と。

 後藤(ごとう)という先輩を突き落とし、美樹はどうするつもりだったのか。あの瞬間を圭太が発見しなければ、彼女は警察に全てを話してしまったかもしれない。正しい生き方をする彼女のことだ。そうしたに決まっている。だからこそ圭太は、よくやったと自分のことを褒めてやりたい。あのとき、よくぞ彼女の家に立ち寄った。よくぞ階段から転げ落ちた後藤をゴミ屋敷まで運んだ。そして―――。

 満月を見上げながら、圭太は穏やかに微笑んだ。

 嘘をついて生きていこう。大切な人を守るためなら、自分自身にも嘘をつこう。

 いつか、それが真実に変わる日を待つ。

「必ず、また会えるよ」

「・・・」

「大人になって強くなったら、美樹ちゃんを迎えにいく」

 美樹の側に屈み、圭太は彼女に誓う。

「ボクが迎えに行くまででいいから、ちゃんと生きていてね。約束だよ」

 両手で顔を覆う美樹の、その震える肩に手を添える。

 この偽りのない想いが、彼女を救ってくれることを信じたかった。

----------

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ