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満月の微笑む夜に  作者: 島山 平
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第一章


                  1


----------

 逃げて、逃げて、逃げ続けて。そうして、人はどこへ辿り着くのだろう。

 これから毎朝考えてしまうであろうその問いに、答えを導き出せるとは到底思えない。それでもきっと、おそらくだが、安全な逃げ場なんてない。どこへも逃げられないか、死か。そのどちらも、笑ってしまうほど単純だ。

 瓦礫や折れた木材、腐敗臭のするゴミ袋を掻き分けながら、山本圭太(やまもとけいた)はある場所を探し続けていた。最もそれを隠しやすく、見つかりにくい場所を。できることならば、それが永遠に見つからないような場所を。

 大雨が降っている。

 体を叩き付けるようなこの雨が降り出したのは、一時間ほど前のこと。圭太にはこれが恵の雨に感じられ、清水美樹(しみずみき)には、自らの罪を責める神の叱責に感じられた。二人の想いが異なっている以上、それは当然の相違だった。

「大丈夫だからね」

 安心させようと口にした圭太の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。

「大丈夫だから。美樹ちゃんは何もしてないよ」

「・・・」

「勘違いしてるだけだからね」

 くじけそうになる心を支えるためか、彼は手を動かし続けている。ゴミ袋を両手で持ち上げ、後方に投げ捨てる。その重みに体が持っていかれそうになり、側の真っ黒な袋に手を突いた。

「全部忘れちゃえばいいんだから」

「でも・・、圭太」

「ここらにしようか」

 肩で息をしながら圭太は空を見上げた。その目で見ているものが何なのか美樹にはわからなくとも、恐怖が全身を包んだ。彼が現実を見ていないことは、一目で明らかだったからだ。圭太の視線が美樹を捉え、その奥に潜む感情が見え隠れしている。やがて、それが彼の決意なのだと伝わり、美樹も逃げることを諦めた。

「美樹ちゃんはその辺を見張ってて」

 有無を言わさぬ口調で言うと、圭太はゴミ袋を跨ぐようにしてそれ(・・)に近づいた。二人でこの屋敷まで運んできた、彼に。

 彼の命の火が消え、この屋敷へ運んできた時点で、美樹の人生が真っ当なものにならないことが確定していた。胸を張って生きていくことなど、決して許されない。圭太が彼の体を引きずっているこの場面を目の当たりにしても止めないのだから、美樹は地獄に落ちる権利を手にしている。

「これでよしっ、と」

 ゴミで溢れた地面の中に、小さな隙間が作られている。彼の全身はそこに横たわっている状態だ。体は仰向けで、顔は左側を向いている。そこに誰の魂も入っていないことを理解でき、美樹は思わず顔を背けてしまった。

「いいんだよ、逃げていいんだ。ボクらは何も知らないんだから」

 激しい雨のせいで顔に張りついた前髪の隙間から、圭太の決意の色がにじみ出ていた。彼の目を見ただけで、美樹にはそれがわかってしまった。そして、彼を巻き込んでしまったことをどうしようもなく後悔していた。あんな場面を見られなければ、彼の人生まで(ゆが)めることにはならなかったはずなのに、と。

「早く帰らないとね」

 一仕事を終えたような口調で、圭太が乱雑にゴミ袋を放り投げる。それらが彼の上に落ちていくのを目にしながら、美樹は震える奥歯を強く噛み締めていた。そうでもしなければ、罪悪感に殺されてしまうところだった。

 彼の全身がゴミに埋まり、周囲の乱雑さに同化した。

 この屋敷の住人が、彼の存在に気付くことはあるのだろうか。おそらく、そのときこそ、自分たちが終焉を迎えるタイミングなのだと美樹は思った。そして、その日がそう遠くないことも。

「これで終わり、帰ろう」

 圭太が右腕の袖で額を拭う。それでも、すぐに雨粒に濡れた。彼の目尻を流れるのが雨なのか涙なのか、美樹にはもう、知りたいとさえ思えなかった。歩き出した圭太の後ろ姿を眺めながら、美樹は、死ぬまでこの日を忘れることはないのだろうと思った。決して、自分たちの罪を忘れてはならないのだと。

----------


 危うく落としそうになった雑誌を、平祥子(たいらしょうこ)は必死に掴んだ。全身に力が入り、歯がガチガチと音を鳴らしそうになるほど震えていることに気付く。意識しなければ、呼吸することも忘れてしまいそうだった。

「どうして・・」

 誰にでもなく、そう呟いてしまう。

 これが偶然であるなど、とても楽観的に考えることはできない。あの日の記憶と照らし合わせてみても、ほぼ完全に一致している。実行した彼の冷たい眼差しも、あのゴミ屋敷の腐敗臭も、この物語が鮮明に思い出させてくれる。

 直後に思い立ち、雑誌のページを慌てて捲る。作者の名前が誰だったか、それを確認することが重要だった。『楠農兵(くすのきのうへい)』という風変わりな名前が目に入り、初見ではないことを思い出す。確か、数年前から見るようになった作家だ。とある新人賞を受賞し、年に一・二冊ほど出版されていたはず。まだ片手で数えられる程度しか出版されていないように思う。

 この楠という作家は、あの事件について知っているのだろうか。そうだとすれば、自分たちの人生に多大な影響を与えかねない。それどころか、表面上のまともな生活すら脅かされてしまう。

 祥子の頭に最初に浮かんだのは、楠の正体は彼なのではないか、というものだった。あの日、祥子と共にそれを実行した、土井祐介(どいゆうすけ)なのではないかと。

 だが、直後にそれを否定する。

 土井の普段の生活を知っているし、たとえそうだとしても、彼があの出来事を小説にするはずなどない。そんなことをすればどれだけのリスクを招くのか、聡明な彼ならば容易に計算できるはずだからだ。それに、彼が目指しているのは同じ作家でも、画家の方だ。まだまだ芽は出ず、アルバイトをしながら腕を磨いている段階だが。祥子の中の結論として、楠農兵と土井は一致しなかった。

 では、この作者は誰なのか。そして、なぜ、祥子たちの過去をこうまでも鮮明に描き出したのか。偶然であればいい。偶然でないのなら、作者の意図は何なのか。まずは、楠という作家の正体を突き止めなければならない。祥子はそれを心に誓った。そして、場合によっては、再び自らの手を汚さなくてはならないことを覚悟した。

 それにしても、どうして自分たちはこうも不幸に見舞われるのだろう。始まりは、中学二年生だったあの日に思える。だが、振り返ってみると、それ以前から始まっていたことに気付いた。自宅のアパートにやってくる(しお)れた男たち、母に振るわれた数多(あまた)の暴力。それらが全て、祥子の身に降り掛かってきた毎日。

 重力に縛られたようなあの日々を救ってくれたのは、幼なじみの土井だった。思い出すだけで、いまでも涙が溢れかえってくる。祥子は奥歯を噛み締め、現実に向かおうと努力した。

 現時点では、この小説は完結していない。月刊誌で連載されている作品のひとつに過ぎず、クライマックスはもう少し先だろう。だが、それも一年以内のこと。たとえ真実とは異なる結末を迎えるとしても、それほど長い時間を悶えながら生きることは耐えられない。なんとしてでも、自分から動き、作者の正体を突き止める必要がある。

 祥子は雑誌を閉じ、机に突っ伏した。そのまま頭を働かせ、最優先でやるべきことを模索する。考えながらも頭をよぎるのは、あの日の景色と、激しい後悔だけだった。それらが祥子の心を支配し続けていた。

 諦めて、祥子は勢いよく顔を上げた。

 机の端に置かれた小さな鏡が、いまの彼女自身を映し出している。同情してしまうほど不安げな自分の顔を見て、祥子は決意する。楠農兵という作者にアプローチしてみることを。具体的には、手紙を書くことを。

 その内容を考えながら、祥子は昔から見る夢の内容を思い出していた。自分の記憶ではないはずの奇妙な場面が、なぜだか、真実に近付く切符のように思えて仕方がなかった。


                     2


 先程から鳴り響く着信音が、楠農兵の思考を邪魔している。どうせ電話に出なくとも、その内容は容易に想像できる。締め切りを過ぎ、催促の電話に違いないからだ。間違っても、夕飯の誘いなどではない。楠は(はや)る心を抑え、右手で携帯電話を慌ただしく操作する。マナーモードをサイレントにし、壁際のベッドに投げ捨てた。

 これで、自分の邪魔をするものはなくなった。

 編集者である(はやし)の立場を考えれば、彼が催促の電話を寄越すのは当然だ。締め切りなどとうに過ぎ、本当に限界直前のところまできてしまっている。名ばかりの締め切りではない以上、楠自身も心底焦っていた。―――三日前までは。

 三日前、三月三十一日の昼過ぎ、あのノートを拾ったことで全てが救われた。

 ファミレスで執筆をするという、普段であれば全く無縁の行為もしてみるものだ。帰宅してガッツポーズをしながら、楠はそう思った。アパートの自室にひきこもって執筆していたら、あと一ヶ月猶予があったとしても終わりは見えなかっただろう。

 だが、いまでは、焦りながらも確かな自信を持っている。無事に書き終えられること、この物語がこれまでにないほど読者に受け入れられることを。


 高校卒業と同時に就職し、どうにか生きていけるだけの生活を手に入れた。特別な趣味もなく、結婚に対する憧れもなく、一人きりで細々と生きていくのだと漠然と考えていた。

 三十歳を越えた頃のことだ。ふと立ち寄った本屋で手に取った一冊の小説が、楠の人生を大きく変化させた。とある新人賞を受賞したミステリーらしく、それは帯を見ればすぐにわかった。あまり小説というものに興味はなかったが、作者が二十歳ということが気になり、ほぼ衝動的に購入していた。

 アパートへ戻り、ベッドに寝転がりながら読み始めたのだが、気付いたら朝になっていた。あまり慣れない読書に手間が掛かったのもあるが、それ以上に、興奮して何度もページを読み返してしまった。

 面白かった。

 どこに自分の興味が惹かれたのかもわからないし、世の中に存在する他の小説と比較して優れていたのかもわからない。当時の楠には、それを判断するほどの読書経験はなかった。それでも、徹夜してでも読み終えたいと思うほどに興奮させられた。これが本の力なのだと、後になってから理解した。そしてなにより、巻末に載っていた作者のあとがきが気に入った。

『アルバイト感覚で書きました』

 作者のジョークだと思いつつ、こんな内容を載せてよいのかと心配になったものだ。すぐにインターネットで作者の名前を検索し、出版社のサイトに載っているものだけが見つかった。受賞に際したインタビューや、小説に関するコメントも見つかった。

 それらを読み終え、楠は決意した。

 自分もこの作者のようになろう、と。

 思いつきで小説を書き、結果を出せるのはほんの一握りの天才だけ。そんなことはわかっている。自分にその才能がなくても構わない。数年以内に作家になる。そして、こう言ってやるのだ。『仕事がつまらなかったので、作家になりました』と。その結果お金をもらえたら、どれほど幸せだろう。

 その小説を読み終えた日から、楠は無我夢中で読書を始めた。市内の図書館へ毎週出向き、とにかくインプットし続けた。どのようなジャンルがあるのか、また、トリックのパターンを把握する。元々、一人で何かをするのは好きだった。会社で人に指示されている時間よりも、ひきこもって一人で頭を使う方が向いていたというのもある。

 半年後には自らも執筆を始め、そこから二年半経過したとき、ようやく新人賞を受賞した。自分の人生を変えた作家『鈴木健太(すずきけんた)』と同じ新人賞を。

 そして、周囲の反対を押し切り、出版されると同時に退職した。どの道、心は決まっていたからだ。『仕事がつまらなかったので、作家になりました』というセリフは、ネット上のホームページに記載されただけだったが、夢が叶ったような気分だった。

 だが、そこからが苦しかった。

 次回作を急かされ、書くことはできても没をくらう毎日。どうにか出版されたものも大して売れず、重版されることを願うだけのむなしい日々。そうしているうちに三十代の半ばを過ぎ、フリーターと変わらぬ生活に絶望していた頃だった。

 テレビでは鈴木健太の新作が映画化されるというニュースが流れ、自分との差をまじまじと見せつけられる。憧れの作家だとしても、いまでは越えるべき同業者の一人。嫌でも嫉妬は感じてしまう。

 鈴木健太は、プロフィールを非公開にしていることで有名だった。二十代半ばの男性、というだけで、出身地も学歴も明らかにされていない。『アルバイト感覚』と本人が述べているように、別の仕事をしているような情報も小出しにされている。一般的な会社員をしながら年に三冊は出版され、その売り上げも常に好調。そうだとしたら、いったいどれだけ優秀な人物なのかと、楠は絶望していた。

 そんな中、ファミレスの一角でそのノートを手に入れた。これさえあれば、数年後には鈴木健太に追いつけるのではないかと思えるほど、宝の眠ったノートを。

 軽食とドリンクバーで時間を稼いでいた楠には、隣に座った人物に関する記憶はない。食事を終えた男性が店を出ていったことは覚えているが、顔を思い出せるほどではなかった。空になった器がテーブルに置かれているのを見ながら、ふとソファーに落ちているノートに気付いただけだ。

 なんとなく気になり、楠はノートに手を伸ばした。学生の講義ノートなら彼は困るだろうなというボンヤリとした気持ちだった。店員が食器を片付けにきたときにでも渡そう、そう思いながらパラパラとめくる。

 だが、その十五秒後には、楠の眠気は吹き飛んでいた。ノートにぎっしりと書かれた内容に心を奪われたからだ。走り書きでメモが書き連ねられ、人物設定からストーリーまで、事細かに記載されている。そして、その内容に驚いた。

 面白かった。ざっくりとしたプロットしか書かれていないはずなのに、その物語に惹かれてしまうほど。楠が考えている次回作など、足元にも及ばない気がした。

 楠は急いで周囲を見渡し、このノートの持ち主が帰ってこないか確認した。おそらく、その人物にとっては非常に重要なものに違いないからだ。素人の創作ノートなのか、プロの作家のものなのか。どちらにしても、このノートの価値は計り知れないように感じた。

 残っていた食事を平らげようという気も起きず、ほとんど逃げ出すようにして楠は席を立った。会計をさっさと済ませ、食い逃げ同然の様子で店を飛び出す。周囲を歩く人々の中に、隣に座っていたであろう人物の姿を探す。だが、どのみち顔は覚えていなかった。急いで歩き出し、アパートへ向かった。

 部屋に入ってカギを掛けるまで、楠は不安に襲われていた。当然、漠然とした期待もあるが、それ以上に、自らの悪事を(とが)められるような不安に包まれていた。だが、それもすでに吹き飛んでいた。椅子に腰掛け、慌ただしくノートを開く。そこに記載されている内容を食い入るように読み込み、何度も驚嘆する。これを書いた人物は、いったいどのような脳みそを持っているのか。興奮しながら、中には涙が出そうになるほどの秘密も書かれていた。

 喜びで声も出ず、楠は机に突っ伏した。

 夢のようだ。ここ数週間、締め切りに追われるストレスで、頭は全く働いていなかった。仮病でやり過ごしてきたし、何度も逃げ出そうとした。それも今日で終わりだ。このノートがあれば、もう悩むこともない。

 三日もあれば、締め切りまでの分は十分に書き終えられる。落ち着いて、自分なりの物語に書き直せばよい。立ち上がり、落ち着かせるために冷蔵庫へ向かう。アイスコーヒーをコップに注ぎながら、楠は奇妙な感覚に襲われていた。

 手に入れたノートの内容に、なぜだか引っ掛かるものがあったからだ。デジャブというには大げさだが、どこかで知っているような内容にも感じられた。すでに出版されている本のプロットなのかと不安になりながらも、いくら思い返しても当てはまるものはない。読書を始めてから、有名なものは全て読み込んだといっても過言ではない。

 それ以外であれば、自分の記憶か、夢の中か。

 もしかすると、自分も似たような内容を思いついていたのかもしれない。そんな楽観的な思い上がりをしながら、楠はコーヒーを口に含んだ。苦い香りが鼻孔に広がり、思わずにやけてしまった。

 これで鈴木健太に近付けるかもしれない。

 不安など、どこにも存在しなかった。


                    3


 長峰礼美(ながみねれみ)がそれに気付いたのは、図書館の利用者がその雑誌を返却した日のことだった。図書館司書として働いていると、このような運命的な出会いに遭遇することがある。予期せぬところから、記憶に残るような本に出会うときが。いつもニコニコしている老人が借りたのと同じ本を読み、あまりのおぞましさに怯えること、中学生の借りた本に性的な描写が多く、お節介な心配に襲われることも。

 今回の雑誌を借りていたのは、真面目そうな大学生だった。二週間に一度のペースでやってきて、ミステリーだけを三冊ほど借りていく。本が好きなのだろうなと思い、礼美は密かに気に掛けていた。自分はミステリー好きというわけではないものの、熱心に読書をする若者には好感が持てる。三十歳を目前に控え、自分が若者ではなくなっていくのを実感していた。

 土曜の夕方、あと三十分もすれば閉館する。館内にいる利用者の数は少なく、他の司書は本の返却に歩き回っている。

 礼美は暇にかまけ、返却された雑誌を手に取った。月刊誌なのか、年に数回だけ出版されるのかすら知らないが、存在だけは知っているレベルのものだ。『マニュフェスト』という変わった名前で、健全な女子高生なら手に取りそうもないな、というのが礼美の感想だった。

 表紙をめくり、目次にざっと目を通す。連載されている作家の中には礼美の知っている名前も多く、想像以上に有名な作家がいることに驚いた。ここに連載されているものも、やがては一冊の本として出版されていくはずだ。それを待たずして雑誌を読む人々は、相当な読書家か、心底優しい性格をしているように感じられた。礼美だったら、単行本で一気に読んでしまいたくなる。

 目次の中でなぜだか目に留まったタイトルのページを開き、読んでみることにした。『満月の微笑む夜に』というタイトルで、作者は『楠農兵』だった。作者の名前は記憶の中でギリギリ引っ掛かったものの、一冊も読んだことはなかった。本棚に並んでいるか確認しよう、そんな軽い印象で読み始めた。

 だが、しばらくすると、礼美の中で緩やかに不安が広がり始めた。

 二人の登場人物が、何かを実行しているシーンが続く。決して人には言えないような行為を、決死の覚悟で行っている。礼美には、それが自らの知っている体験に思えて仕方がなかった。正確には礼美自身ではない。彼女の知っているとある(・・・)事件に関連しているように思えただけだ。

 しばらく読んでいるうちにもう一人の司書が戻ってきた。「お疲れさまです」と声を掛けながら、自分の図書利用カードでその雑誌を借りることにした。物語が気になり、帰宅してから読まなければならないように感じていた。

 なぜだかわからない。

 それでも、十二年前に姿を消した弟の笑顔が頭から離れなかった。


「それで、その小説に出てくるのが礼美の弟さんだってこと?」

「ううん、そこまでピンポイントで言ってるわけじゃないの。自信もないし。でも、そんな気がして仕方なくて」

 自宅へ帰り、着替えを済ませてすぐに小説の続きを読み始めた。連載されているのはそれほど長い量ではない。一時間も掛からず読み終えることができた。

 そして、その結果、礼美の中にある確信が芽生えた。この内容は過去の事件と関係している、と。何も証拠はない。偶然の一致かもしれないし、礼美の勘違いかもしれない。それでも気になり、恋人である玉田和俊(たまだかずとし)に連絡することにした。

「もう一回説明してくれる? 誰が弟さんに似てるの?」

 仕事中にも関わらず、自分のくだらない話の相手をしてくれている。彼の仕事は自由がきくとはいえ、申し訳ない気持ちで話し始めた。

「弟は良平(りょうへい)っていうんだけど、良平は中三のときに失踪したの。前触れもなくいなくなっちゃって、未だに見つかってないの。で、小説の中に出てくる遺体が、良平を表しているとしか思えないの」

「待って、わからない。どうしてその遺体が弟さんなの?」

 当然の質問を受けながら、礼美は説明の複雑さに困惑していた。

「当時、良平の事件と関係していた子が二人いるの。同じ中学の一年生の男の子と、二年生の女の子。その二人だと思えるような登場人物が小説の中に出てくるの」

「読んでるのはミステリーなんでしょう? それくらいの一致はありうるんじゃないかな」

 馬鹿にしているような口調ではなく、玉田は客観的な意見を述べていた。

「わかる、わかるんだけど・・。でも私には偶然とは思えないの」

「うーん」

 しばらくの沈黙の後、玉田の落ち着いた声が届いた。

「電話ではよくわからないし、僕にもその小説読ませて。明日、そっちに行ってもいいかな」

「ぜひお願い。なんか不安で、ハッキリさせないと気が済まないから」

「その真面目すぎるとこ、いつか自分の首を絞めるよ」

 玉田が諭すように笑い、「それじゃ」の一言で通話が終わった。

 礼美自身、自分の抱えている不安が無駄になるだろうと考えていた。玉田の言う通りで、小説の内容を無理やり過去の出来事と関連づけてしまっているだけのはず。それでも、未だに見つかっていない弟のことを思うと、理屈以上の想いを隠し切ることはできない。自分が何もできなかったことを後悔しているのだと、改めて思い知らされた。


 良平がいなくなったとされる日、礼美は友人と旅行に出掛けていた。高校三年の受験シーズンを迎え、勉強に追われる前に、思い切り遊び尽くす計画だった。それを励みに受験勉強に取り組むつもりだった。

 母親からメールが届いたのは、旅行一日目の夜だった。五月十六日のことだ。礼美は友人と予約していた旅館の部屋へ戻り、買い込んだお菓子を広げていた。

『良平が帰ってこないんだけど、お姉ちゃんに連絡ない?』

 絵文字のないメールから、母親の心境が垣間見えた。普段はこれでもかと言わんばかりにキラキラとしたメールを送ってくる。届いたメールが普段と違っていただけに、礼美も無視することはできなかった。

 とはいっても、礼美の中に心配する気持ちはなかった。良平も中学三年生になった。いつまでも子供扱いされることを嫌う年齢のはず。礼美にもその覚えはあったし、良平は男なのだから、余計にその気持ちが強くても不思議ではない。高校入試は推薦をもらえそうだと聞いているし、多少の夜遊びくらい放っておいてやろう。礼美はその程度に考えていた。

 連絡がないことを伝え、自分も旅行を満喫していると返信しておいた。その後、翌日の夕方まで、礼美は特に何も考えていなかった。だが、実際には、母親からメールが届いた翌日になっても良平の行方は知れず、それは十二年経ったいまでも同じだ。

 最期に良平の姿が目撃されているのは、彼がいなくなったとされる日の前日、つまり、礼美が旅行に出発する前日のことだ。金曜日で、大雨が降っていたことを思い出せる。あの日、確かに良平は自宅にいたように思う。夜に帰ってきて、雨に濡れていることを心配する母親との会話も聞こえてきた。礼美は翌日から始まる旅行のことで頭が一杯で、良平を気にしている時間はなかったが。まさか、それが弟と過ごせる最後の夜になるとは思いもしなかった。

 後になって、良平が帰宅した時刻は午後十時過ぎだったことがわかった。階段で二階へ上がる彼と母親が話した時間だからだ。その後、良平がいつまで家にいたのかはわからない。

 旅行初日の朝、礼美は早くに家を出た。その後、起きてこない良平を見に、母親が彼の部屋を確認したのが昼の十二時。その時点で良平は家にいなかったという。彼の持ち物は消え、玄関にあったはずの靴もなくなっていた。いつの間にか、良平が遊びに出掛けたと思ったらしい。

 結局良平は帰ってこず、翌日の昼前に両親は警察に相談した。それが礼美の旅行二日目にあたる。本来であれば、礼美はその翌日に帰宅する予定だった。だが、両親からの必死の説得により、礼美は旅行二日目で急遽帰宅した。他の友人らは、翌日も旅行を楽しんだと後で聞いた。

 良平がいなくなってからというもの、礼美は自分の無責任さを責め続けた。客観的に考えれば、自分にできたことなどほとんどないし、責任を感じる必要はないのかもしれない。それでも、こうして良平が行方不明になってしまうと、自分を責める以外に方法はなかった。

 当時、良平と最後にメールをしていた人物がいた。平祥子という名の、中学二年生の女子生徒だ。良平が彼女に送った最後のメールは午後十時二十八分、『その時は、必ず助けにいくから』という文面だった。当時、平祥子は警察や礼美の両親から何度も説明させられていた。メールの文面から、良平の失踪が彼女と関係しているのではないかと疑われたからだ。

 だが、彼女はそれについて何も知らないと言い続け、メールの内容も特に深い意味はないはずだと口にした。どうやら良平は彼女に好意を寄せていたらしく、一方的な気持ちをぶつけたのではないかと考えられた。また、良平が失踪したと思われる五月十六日は、彼女のアリバイがほぼ成立していた。朝早くから家を出て、友人と映画を見に行っていたからだ。

 良平がいなくなってから、礼美も彼女の周囲を嗅ぎ回った。結果的には疑う根拠もなく、今日まで十二年が経過してしまっている。

 だが、その中で重要と思われる人物が一人だけいる。土井祐介という名の、当時中学一年生だった男子生徒だ。平祥子の幼なじみで、彼女とは最も親しい人物にあたる。そして、五月十六日に平祥子と共に映画を見ていた人物でもある。

 土井祐介の両親はその日も働いており、彼がどこで何をしていたのか、他人の言質(げんち)は得られなかった。土井祐介と平祥子は互いのアリバイを主張しているが。もっとも、午後一時からの映画を見たことは事実のようだ。映画館の監視カメラに二人の姿が映っていたからだ。

 礼美は、いまでも二人のことを疑っていた。とはいっても、具体的に行動することも、二人に接触しようという気もなかった。『満月の微笑む夜に』を読むまでは。読み終えたいまでは、物語に登場する二人の男女が、彼らに思えて仕方がなかった。そして、物語の中で彼らが行ったこと、つまり、遺体をゴミ屋敷に隠したというのが、どうも真実味を帯びてしまうのだ。

 自分でも説明できない不安を解消するために、礼美は十数年ぶりに、平祥子について調べ始めることにした。


                    4


 平祥子から連絡をもらった後、土井祐介はすぐにインターネットで検索を始めた。今月発売の『マニュフェスト』その目次をホームページ上で確認する。すぐに祥子の言っていたタイトルを見つけ、土井はため息をついた。

 『満月の微笑む夜に』の作者は『楠農兵』と書かれている。土井も知っている作家だったが、これまでは特別な印象を抱いてこなかった。本屋に並んでいるのを見たことはあるが、手に取って確認したこともなかった。当然、読んだこともない。

 だが、今回はそうも言ってられなかった。祥子の言うことが正しければ、それは土井にも関係しているからだ。すぐにインターネットで電子書籍を購入し、ダウンロードされるのを待つ。

 土井はあくびをしながら、最近の忙しさを思い出していた。画家を真剣に目指し始めたのは、高校三年生の頃だった。それまでも絵を描くことは好きだったが、所詮は趣味の領域でしかなかった。コンクールで入賞することはあっても、自分に特別な才能があるなど思えなかった。

 だが、高校三年生の受験シーズンに、自分が本当に画家になりたいのだと知った。そして、真剣に画家を目指すことにした。美術系の専門学校へ進学して腕を磨きながら、プロの画家が運営する教室へも足を運ぶようになった。いまでは、それなりのレベルに達することができている。それでも、そこから一歩抜け出すことができず、このままではプロにはなれないのが現状だった。

 土井は、普段はアルバイトをして生活している。画家として生きていくことができるようになるのか、その不安を抱えたまま、どうにか生活はできているというところだ。元々物欲もなく、質素な生活をすることには慣れていた。心が貧しくなることもなく、祥子との交際も続いている。

 そんな中、アルバイトの方に問題があり、日が変わるまで働くことが続いてしまった。睡眠時間を削って働き、なんとかノルマを達成できた。そのせいで、世間の動向がわからなくなってしまうほど。

 土井は瞼を開き、眠りかけていたことに気付いた。頭を数回振り、ダウンロードが完了した『マニュフェスト』を開いた。電子書籍には慣れておらず、要領を掴むまで時間が掛かってしまったが、ようやく、目的のページを開いた。

 『満月の微笑む夜に』を読み始めた途端、土井は祥子に拍手を送りたくなった。彼女の心配は、見事に的中していたからだ。この物語は、確実にあの事件をなぞっている。それがわかるのは、土井と祥子くらいのものだろう。

 それにしても、彼女はよく気付いたものだ。まずこの小説に出会ったことが奇跡的であり、彼女が気付いたことは、それすら上回る確立の低さだ。本当に、恐ろしくなるほどの偶然が重なった。

 連載されている分を読み終え、土井は腕を組んだ。知らぬうちに、彼は苦笑いをしていた。

 まさか、こんな事態になるとは思ってもみなかった。

 この物語の作者である『楠農兵』は、どのようにしてこの内容を書いたのか。それが最も気になると同時に、土井は、いまの状況を正確に把握できる人物がどれだけいるのか計算した。この物語の内容、意味、それらを理解できる人物がいれば、土井と祥子の身が危険に晒される。十二年が経ち、ようやくあの事件を完全に葬り去れたと思っていたのに。

 霧に覆われた脳で、土井は計算する。何を調べ、自分はどう動くべきなのか。やらなければならないことが多く、とても絵に集中できそうもない。

 まず最優先で、楠の正体を調べる必要がある。彼がこの物語の内容をどのように知ったのかが重要だ。当時の事件を知っているのか、誰かから情報を得たのか、それとも偶然か―――最後の可能性はおそらくゼロだろうが。そして、彼の目的は何か。単に、この内容を面白いと思って書いたのかどうか。また、結末をどのようにするつもりなのか。

 おそらく、祥子は何か動くつもりだ。楠に関して調べ始めるのかもしれないが、放っておくには危険すぎる。あの事件の真実を最も知られたくないのは、彼女に違いないからだ。土井自身はそれほど重要に考えてはいない。というよりも、どうしようもないと開き直っているに近い。

 

 あの日、長峰良平の遺体を運んだときの感覚は、いまでも土井の体に染み付いている。全身を叩き付ける雨の強さも、祥子の怯えた表情も覚えている。

 長峰の遺体が発見されなかったことは、不幸中の幸いだった。少なくとも、土井と祥子にとって。十二年が経過したいまでは、彼の肉体は朽ち果てているはず。万が一発見され、調査されれば正体はわかるだろう。それでも土井の中に不安はない。そんなことになるなど、微塵も考えられないからだ。

 その一方で、長峰の遺族の気持ちを考えると、自分がなんと無責任なのだろうと思う。あまりのクズっぷりに、思わず笑ってしまうほど。土井自身が行ったのは、長峰の遺体を隠したことだけ。決して、彼を殺したわけではない。それを実行したのが誰なのか、土井は思い出さないようにして生きてきた。

 長峰という人物に対し、当時の土井はそれほど良い印象を持っていなかった。それは嫌っていたというよりも、嫉妬が原因だった。長峰は祥子に好意を寄せていて、二人が話している場面を何度も目撃していた。

 それでも、土井には自信があった。仲の良い先輩よりも、幼なじみである自分を選んでくれるという、確証のない自信を。そしていまでは祥子の心を掴んでいるし、それが離れることはないと言い切れる。土井と祥子は、切り離せない呪縛で結びついているからだ。おそらく、それが切れるのは、真実が明るみに出たときだけだろう。祥子には申し訳ないが、土井は彼女を離すつもりはない。

 その原因となったあの事件を、土井は永遠に隠し続けるつもりだった。だからこそ、今回のような面倒事が起きてしまった以上、自分も見て見ぬ振りはできない。祥子を危険な目に遭わせないためにも、楠の目的を暴く。場合によっては、口封じをする覚悟もある。それくらい、この物語は土井と祥子にとっての危険因子を孕んでいる。

 どのようにして楠に近付くのがよいだろう。祥子と協力するか、自分一人で動くか。集中して絵に取り組むことは難しくなりそうだ。

 『満月の微笑む夜に』の結末がどのようになるとしても、それを易々と迎えさせるわけにはいかない。土井は、あの日、長峰の遺体をゴミ袋で隠したときと同じ、心の底に冷たい水が溜まっていく感覚を思い出していた。

 この冷たさに耐えられたなら、土井はどんな悪事でも実行できる自信がある。


                     5


 中学校に入学した頃、平祥子は死にたかった。中学校が合わなかったのではなく、様々なタイミングが重なったのがその頃だった。

 祥子には父親がおらず、母親と二人きりで生活していた。物心つく頃からそんな生活で、父親に関する記憶はない。もしかすると、母親がどこかで適当な男との間に授かったのが自分なのかもしれない。そう思うと、家族というものが偽りに感じてしまった。

 小学生の頃は、それでもまだマシだった。片親ということの意味もよくわからず、クラスメイトから虐められることもなかった。だが、中学生になり、次第に状況は変化した。祥子の家庭事情をからかう者が現れ、それはクラスで孤立してしまう原因となった。

 また、それだけではすまなかった。

 祥子の母親の過去について、あらぬ噂も流された。その中のいくつかには真実が含まれており、祥子は何も言い返せなかった。とにかく、嵐が過ぎ去るのを待ち続けた。そうした祥子の努力のかいあってか、少しずつ静かな生活が始まった。これで、どうにか生きてゆけると信じていた。

 だが、それはあまりに楽観的だった。

 母親と二人きりの家で、母親が、祥子に対して暴力を振るい始めたからだ。自分の母親があまり品のよい人間ではないことは知っていた。言葉遣いは荒く、とても尊敬できるとは思えなかった。だが、それはまだ我慢できる範囲ではあった。直接的な暴力が始まるまでは。

 こうして、中学生になった祥子はひとりぼっちだった。幼なじみの土井はまだ小学六年生で、ほとんど顔を合わせることはない。これまでは毎日のように一緒に登下校をしていただけに、彼のいない生活は想像以上に孤独だった。次第に増す母親の暴力に耐えながら、祥子はできるだけ長く部活動をした。家に帰れば一人きりだし、いつ母親が帰ってくるのかと怯える時間はつらくて仕方がなかったからだ。

 そんな生活を続けていた中、声を掛けてくれたのが一学年上の長峰良平だった。同じ吹奏楽部の先輩で、担当している楽器も同じクラリネットだった。小柄で眼鏡を掛け、天然パーマの髪の毛が特徴的な先輩。誰にでも優しく、それでいて思春期特有のプライドも表には見せない。一年生の女子からは密かに人気があった。

「平さんは、スカートの丈をいじらないんだね」

 思い返せば、祥子が彼と親しくなったきっかけはこのときだった。それまでだって何度も顔を合わせてきたし、部活内で会話もしていた。だが、そこから一歩踏み込み、プライベートの話をするようになったのはこのときからだ。

「ごめん、変な意味じゃないよ」

 祥子が返事をしなかったからか、良平は慌てた様子だった。後ずさるように祥子から離れ、両手を突き出した彼を見て、悪い人ではないように感じた。

「スカート短い方が好きなんですか?」

「違う違う! ただ、他の一年生は短くしてるから平さんだけ珍しいなって・・、そう思っただけ」

 叱られた子犬のように顔を伏せ、恥ずかしさに耐えているようだった。祥子は特に嫌な思いもしていないし、怒ったつもりもなかった。逆に申し訳なくなり、自分から声を掛ける。

「特に意味はなくって、めんどくさいだけですよ。腰のとこクルクル巻くと変な感じするし」

 自分はどうして嘘をついているのか。祥子は不思議に思いつつ、良平に笑顔を向けた。ぎこちなさも、照れているように映るだろう。

 それからというもの、良平とは自然に話せるようになった。決してプライベートで一緒に過ごすことはなかったが、学校の廊下で会えば冗談を言い合う程度になった。彼はいつも誰かと共に歩いていて、やはり人気者だった。

 その年の冬になると、祥子は厚着できることに安心した。良平から指摘されたスカートの長さに関して、短くしない本当の理由があった。体中についたアザを見られるわけにはいかなかったからだ。スナックで働いている母親は、酔って帰ると、必ずといっていいほど祥子を殴った。仕事のストレスを紛らわすためなのか、もしかすると、そんな理由すらなかったのかもしれない。

 夏場、特にプールの授業は大変だった。一度、クラスメイトから太もものアザについて質問されたことがあった。彼女の問いに特別な意図はなかったはずだし、その場は適当にごまかすことができた。だが、それ以来祥子は怖くなった。だからこそスカートの丈も短くできなかったし、着替えも可能な限り急いだ。

 冬になり、しばらくは心配する必要もないと思っていた頃だった。油断していたつもりはない。それでも、良平は祥子の秘密に近付いてしまった。

「平さん・・、大丈夫?」

 普段以上にオドオドした様子で話し掛けてきた良平を見て、祥子の方が心配になった。何をそんなに怯えているのかと勘ぐってしまうほど。

「大丈夫ですけど、何がですか?」

「いや、なんていうかさ・・。最初の頃より笑わなくなったから」

 不安そうに話す良平は、軽い気持ちではないように見えた。それが伝わり、祥子は内心驚いていた。なぜ彼はこれほど目ざといのかと。

「何も変わってませんよ。ちょっと疲れてるかもしれませんけど」

 できる限り、なんでもないと装ったつもりだった。必死に笑顔を作り、彼が勘違いだと思ってくれることを願う。

 だが、そう甘くはなかった。

 良平の放った一言に、祥子は演技をすることすらできなくなった。

「手の甲の傷、家でついたんでしょう?」

 核心に迫られ、祥子の両目が見開いた。すぐに視線を逸らしたことも、良平には十分な返事だったらしい。「やっぱり・・」と呟き、困ったように唇を噛んだ。

「前から気になっていたんだ。時々、手とかふくらはぎに怪我していることがあったから」

「・・・」

「それ、誰につけられたの?」

 無意識に祥子は駆け出していた。

 逃げ出したかった。良平の言葉からも、思い出してしまう家での暴力からも。

 廊下へ飛び出し、無我夢中で走る。後ろから追ってくる何かに捕まるわけにはいかなかった。必死に、死にものぐるいで走った。

「待って!」

 背後から声が届き、自分よりも早い何かに追われていることに気付いた。そして悟ってしまう。逃げ切ることはできないのだと。焦って階段を駆け下り、祥子は最後の一段を踏み外した。勢いよく前に倒れ込み、体中に傷みが走る。それでも、家で受ける苦痛よりはマシだった。心が痛むことはなかった。

「平さん!」

 逃げることを諦め、祥子は廊下にうずくまりながら痛みに耐えた。目を開ければ全てが夢だった、そんな淡い期待を抱いたまま。

「はぁ・・はぁ。大丈夫?」

 すぐ側に良平がいることがわかり、恥ずかしさで顔を上げられなかった。両手の拳をギュッと握りながら、祥子は悔しさで奥歯を噛み締めた。どうして、こうもうまくいかないのだろう。自分が耐えさえすれば、やがて嵐は過ぎ去ると思っていたのに。

「怪我はない?」

 良平に支えられ、ゆっくりと体を起こす。彼に顔を向けることはできなかった。それだけは、祥子のプライドが許さなかった。

「何もしない。誰にも言わないよ」

 良平の言葉が耳から脳に入り込む。気付いたときには、祥子は涙を流していた。

「平さんを傷付けるつもりもないよ。でも・・、なんとかして力になりたいんだ」

「・・・」

 彼の言葉を信じたわけではない。恥ずかしさが消えたわけでもない。それでも、祥子は彼の顔を正面から見ることができた。

「――ればいいんですか」

「え?」

 祥子は思いきり、全力で叫んだ。

「どうすればいいんですか!」

 廊下に自分の声が響いている。誰かが聞きつけたら、心配してやってきてしまうかもしれない。そんなことに気を向ける余裕などなかったが。

「戦おう」

「・・・」

「このままじゃダメだ。何かしないときみは救われない」

 他人の無責任な言葉だ。祥子はそう思いながら、良平を睨みつけた。

 だが、そこにある彼の顔を見て驚いてしまった。良平は涙を流していた。罵声を浴びせてやろうと思っていた祥子は、予想外の事態に言葉を失った。

「ダメだよ。このままじゃ、平さんが傷付くだけだよ・・」

「どうして先輩が泣くんですか」

「ごめん・・」

 右腕の袖で涙を拭い、良平が顔を上げた。どちらかといえば小さい体格のはずなのに、彼の姿が大きく、頼りになるように感じられた。

「力になりたいんだ」

「・・先輩には関係ありません」

「でも何かしたいんだ」

 良平の目を見れば、彼が真剣であることは伝わってくる。それでも、祥子にはただの綺麗事にしか感じられなかった。どうせ、自分に味方してくれる人などいないと割り切っていた。少なくとも、この学校の中には。

「・・それじゃあ、手伝ってくださいよ」

「何をすればいい?」

 祥子は落ち着きを取り戻しながらも、曖昧な形をした何かに対する怒りが増していた。全てをぶち壊してやりたい。こんなにも不幸な目に遭っているのだから、他のやつらにも同等の不幸を味合わせてやりたい。

「あの人を殺してください」

 祥子の言葉に、良平の動きが固まった。

 ほら、やっぱり。

 祥子は現実を受け入れようと、僅かな希望すら投げ捨てた―――そのときだった。

「わかった」

「・・え?」

「殺してあげるよ」

 何を馬鹿なことを、そう思いながら良平に目を向ける。そこには冗談を言っている少年はおらず、決意した顔の良平がいた。

 この人は、本気なのだろうか。

「適当なこと言わないでください。できるはずない」

「それでも、平さんがそうしたいなら僕は手伝うよ」

 良平の言葉が、強く張った警戒心の間をすり抜けてくる。まるで麻薬のような彼の言葉に、祥子のペースが崩される。

「必ずきみを守るよ。守らせて欲しい」

 良平の手が祥子の腕を掴んでいる。優しく、力強い彼の手に、祥子の心は揺らいでいた。


                     6


「楠先生、絶好調ですね」

 そう声を掛けてくる林の声は、珍しく活気に溢れていた。

 担当編集者である彼とは、すでに三年近い付き合いになる。デビュー当時から世話になり、いまではプライベートでも親しくなった。ただ、最近は彼と顔を合わせることを避けていた。なかなか満足のいく新作を書けていなかったからだ。

「ちょくちょくいい声を聞くんですよ。楠先生も一皮剥けたんじゃないかって」

「本当ですか? まぁ、最後まで書ききれるかわかりませんから」

 謙遜しておきながら、楠の中に不安はなかった。現在執筆中の小説『満月の微笑む夜に』の続きは、絶好調で進んでいる。これまでの苦労はなんだったのかと思えるほど、書いている時間を楽しめるくらいだ。

「出版されるのが待ち遠しいですよ。部数もこれまで以上のものが期待できます」

 林の浮かれた声を聞きながら、楠にも彼の気持ちが理解できた。今回の小説で結果を出せば、その後の売り上げにも影響してくる。『楠農兵』という名前だけで買ってもらえるようになるのが理想だ。

 楠が期待に胸を踊らせていると、林が廊下の奥にいる誰かに気付いた。

「先生!」

 大きく右手を振り、相手に頭を下げた。

 遠くで立ち止まった人物を確認してみても、それが誰なのか楠にはわからなかった。やや小柄な男性で、自分よりも年下に見える。まだ二十代半ばだろう。林から『先生』と呼ばれているのだから、自分と同じ作家なのは明らかだ。

「あれが鈴木先生なんですよ」

 林が小声で教えてくれた内容を、楠は最初理解できなかった。鈴木という名の人物が誰なのか、すぐに特定できなかったからだ。だが、それが誰かわかってしまった瞬間、楠の背筋が伸びた。本能がサイレンを鳴らし出したからだ。

 鈴木はこちらへ向かって小走りで向かってくる。申し訳なさそうに、猫背で頭を下げながら。人見知りなのか、気が弱い青年なのか。楠にはそんなことどうでもよかった。憧れ、目標としてきた人物に、ついに出会うことができたのだから。

「こちらが楠農兵先生です。ほら、『満月の微笑む夜に』って小説を連載している」

「あぁ! どうも、はじめまして。鈴木健太と申します」

 丁寧に頭を下げ、握手を求められる。

 立場がおかしいじゃないかと思い、林に救いを求める視線を送る。林は相変わらず楽しそうに頬を緩ませており、仕方なく楠は握手に応じた。

「先生の小説、とても面白いです。続きが気になってます」

 恥ずかしそうにハニカミながら、鈴木は眼鏡の奥の瞳を輝かせている。鈴木という人物は、どうやら自分の想像とは掛け離れていたことを知る。『アルバイト感覚で書きました』という一文のイメージが強すぎて、最近の冷めた若者だとばかり思い込んでいた。

「あ、ありがとうございます。まさか鈴木先生からそんな言葉をもらえるなんて・・、恐縮です」

 心からの本音だった。雲の上の存在である鈴木から、認めてもらえたような気がした。

「こちらこそ、鈴木先生の小説の大ファンなんです。昔っから、先生に憧れていました」

 自分は何を告白しているのか。楠はわけのわからない高揚感に包まれていた。初めて女性に告白したときと似た感覚だった。

「ありがとうございます。あまり人から言われないので、ちょっと感動します」

 とんでもない嘘だと思いながらも、鈴木の謙虚さに驚いていた。彼の書く小説の中にはひどく冷酷なものもある。とても、こんな素直な青年が書いたものとは信じられないほどに。

「打ち合わせでしたか?」

「はい。ちょっと難しいところに差し掛かってて、困ってます」

 小さくため息をつき、鈴木が苦笑いで答えた。

「とか言って、簡単に結果出しちゃうんだから憎いなぁ。ねぇ、楠先生?」

「え、あぁ、尊敬してます。すごいと思います」

 子供のような言葉を林から馬鹿にされる。それでも、決して悪い気分ではなかった。鈴木と面識ができたし、誇れるほどの言葉ももらった。しばらくは、この浮ついた気持ちが続きそうだ。

「それじゃあボクはそろそろ・・。すみません、まだまだやらなくちゃいけないことがあって」

「あ、こちらこそ。また次回作も期待してますね」

 林の言葉に、鈴木が笑顔で頭を下げる。逃げるように歩き出し、廊下の奥に消えた。

「どうですか? 鈴木先生の印象は?」

「カッコいいです。想像とは違いましたけど」

「でしょうね」

 大きな笑い声を上げ、林が腕を組んだ。

「ゆとり世代の大学生みたいなのに、あれだけのものを書いちゃうんだからなぁ。天才ですよ、あの人」

「同感です。憧れます」

「あと二年。二年で楠先生もああなりましょう」

 驚きを隠せず、素の反応で林に顔を向けてしまった。それをまた馬鹿にするように笑い、林に肩を叩かれる。

「冗談なんかじゃないですよ。楠先生なら不可能じゃありません」

「ムチャな要求ですね・・」

「それだけ期待してるってことです。『満月の微笑む夜に』をとことん突き詰めて完成させましょう。あと、これファンレターです。いままでよりもたくさんきてますよ」

 持っていた小さな紙袋を渡し、林は手を上げて去っていった。

 この数分間の余韻に浸りながら、楠も帰宅することにした。なぜだかわからないが、続きを書かなければならないと感じていたからだ。いまのモチベーションのまま書かなければ、中途半端になってしまう気がした。

 鈴木健太という作家は、思いのほか身近なところに存在している。もしかすると、本当に追いつけるかもしれない。今回の小説が、彼に手の届く唯一のキーパーツに思えて仕方がなかった。


 自宅へ向かい、電車に揺られながら、楠は渡されたファンレターを開くことにした。紙袋には十数枚の便せんが入っており、太い輪ゴムで留められていた。ほとんどはカラフルな便せんで、書かれている文字も女性らしい丸文字が多かった。

 一番上のひとつを取り、慎重に封を開ける。これまでにもファンレターをもらったことはあったが、せいぜい一・二通だった。こんなにもらえることが嬉しく、誇らしく、電車の中だというのにニヤけてしまいそうだった。

 中から手紙を取り出し、二枚に渡って書き綴られていることを確認する。全て手書きで、整った字で書かれている。時間を掛けて書いてくれたことが伝わり、楠は素直に感謝していた。ありがたい、本当にそう思えた。

 だが、手紙を読み始め、しばらくすると、楠は周囲の状況など目に入らなくなった。書かれている内容だけに集中し、自分が電車に乗っていることも、自宅へ向かっていることも忘れてしまった。予想だにしない内容に、ひどく呼吸が乱れる。脂汗をかいていることがわかるほど、全身が緊張で震えていた。

 どうして? というのが素直な気持ちだった。

 この手紙を書いた人物は、なぜこのことを知っているのか。全く想像もしていなかった事態に、楠の浮かれた気持ちは吹き飛んでいた。


『はじめまして。ファンレターというものを書くのは始めてですが、頑張ってみようと思います。満月の微笑む夜に、とても引き込まれて読んでしまいました。早く続きが読みたいし、ラストがどうなってしまうのか気になって仕方ありません。

 楠先生は、どうやってこの物語を思いついたのでしょうか。これまでの作品とは少し傾向が違っているように思えます。きっと、何かきっかけでもあったのかもしれないなぁと、勝手に想像しています。

 とても面白い内容だったのですが、私には、少し不安に感じているところがあります。私は、この物語を知っているような気がするからです。どうしてなのか自分でもわかりません。それでも、知っているのだとハッキリわかります。

 もしかすると、楠先生とは知り合いなのかもしれません。昔どこかでお会いしていて、それが原因で、この物語を知っていると思うのかも。だから、できることなら先生とお話しがしてみたいです。ストーカーみたいで気味が悪いと感じるでしょうが、決してそんなつもりではないのです。どうしても、この気持ちの理由を知りたいのです。


 それと、もうひとつ知りたいことがあります。最近見る、不思議な夢についてです。私は狭く暗いところにいて、何かから隠れています。そこには私以外にも誰かがいて、たぶん、小さい子が泣いています。耳に残るのは、竜巻のような大きな物が、何かを叩き付けている音。

 こんな夢を最近よく見るのです。きっと、ただの夢に違いないのですが、毎日のように見るものですから、どうしても気になってしまいます。満月の微笑む夜に、を読んで私が感じたように、楠先生もこんな場面に覚えはありませんか? たぶんないのだろうと思いながら、一応、質問してみることにしました。全く覚えがなければ、次回作にでも活かして頂ければ幸いです。


 それでは、また来月の、満月の微笑む夜に、楽しみにしています。いつも応援しています。頑張ってください。』

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