真っ当に生きたいと思うか
「“この町じゃ特に”ってどういうこと…?」
おずおずとみのりが切り出すと、畳の目を見据えていた青年はようやくみのりに照準を合わせた。
星色の髪の合間から鳶色の瞳が覗く。淀みない眼差しは、稀に見る色彩だ。話もそっちのけで、一瞬見惚れてしまった。
「そのままの意味だよ。汲み取れよ日本語を。お前だっておかしいって思ったんだろ、それに見舞われたから今ここに居るんじゃないのか」
「…それは…」
「命拾いさせて腹ごしらえまでしてやったんだ。黙秘権とかそんなカードもうねーぞ」
何があった。ここに来る前に、一体何があったんだ。つい俯いて口を噤むみのりを前に、青年の口ぶりは問い質す風でなく、諭すようで、それでいて傷ついたみのりを包み込む優しさがあった。
毅然としていて、つっけんどんな態度ばかり取る怖い人、そんな印象があった。しかし、本心からどうでもいいと思っているなら、こんな風に問い掛けてくれるだろうか。少なくとも、実の娘に手をあげる父や、包丁を向ける母よりは、まだ家族に近しい存在なのかもしれない。「家族」という定義を失った今なら、尚。
生唾をごくりと飲み込む。先ほどまでの美味しい米の風味はなく、ほろ苦い味がした。
「………わ、私…き、昨日この街に越してきたの…」
「…」
「元々は都心に住んでて…でもお父さんの仕事の都合で突然引越しが決まって…始めは気が乗らなかったんだけど…来てみたら凄く良いところで。都内なのに自然も溢れてるし、のどかで綺麗な街って
でもきの、昨日突然、夜…夜になってからお父さんとお母さんの様子がおかしくなって…私が寝てるベッドにお父さんが…そ、それでお母さんに助けてって、言いに行ったの。そしたら、お母さん包丁持ってて」
気がついたら、三度頬を水滴が伝うのを感じた。知らず識らずの内に溢れ出ていたらしい。次の言葉が出せずに顔を伏せると、そっと背中に暖かい感覚を覚える。人の手だ。そのままぎこちない手つきでトントン、と優しく叩かれ、嗚咽を漏らしながら制服の袖で顔を拭った。
「わかった。もういい。無理強いして悪かった」
「………こ、怖かった…なんでこんなことになったの…突然…なんで…どうして…」
立ち上がった青年に箱ティッシュを差し出され、それを受け取ると思いっきり鼻をかむ。次いで溢れ出る涙を拭って、数分が経った頃。隣で黙って座っていた青年が小さく息をついた。
そしてようやく落ち着いてきたみのりを見据える。その視線に気がついたみのりもまた、赤い目で青年を見た。
「最後に一つ聞きたいことがある」
「最後?」
「ああ最後じゃなくてもこの際いい。とりあえず聞きたいことがある」
小首を傾げるみのりを前に、青年は無音。そしてみのりを前にして、宇宙をも眺める様な視線で、ゆったりと口ずさんだ。
「真っ当に生きたいと思うか」
青年の言葉は、齢14の中学生にはやや壮大過ぎるテーマのようにも感じた。問い掛けに対し、動揺するみのりを前にして、しかし青年は更に「人間でありたいと思うか」と投げかけたのだ。
「……まだかな」
イト婆所有の日本家屋、その入り口で、みのりは棒立ちしていた。
青年の問いかけに対し、数多の学校教育、中でも道徳的な分野にまで手を伸ばして、思考を巡らし、見出した活路は、結論としてみのりの首を縦に振らせたのだ。物騒な事件やニュースが多い昨今でも、その中で自分だけはせめてまともでありたいと、そうTVの前で切に願ったのを思い出しての事だった。
身支度を整えて入り口で待っていろ、との言いつけを忠実に守る事30分ほど。あれはどういう意味なのだろうか?
園町で迎える初の朝。雲一つない青空を見上げて考えていると、引き戸の向こうから声が聞こえてきた。
「あらぁ生吉今日は休みじゃのうてお勤めやったのぉ?」
「ん。非番だったんだけどなんか今日の人が熱出したらしくてその代理」
「あらんまぁ~、あんたも油断せんね、ちゃんと帰ってくんよぉ」
「ハイハイ」
引き戸が開いて、青年の姿が露わになる。その姿が目に飛び込んで来るなり、みのりは目を見開いた。
頭のてっぺんから、足のつま先まで、青と黒で統一された姿。深い青のジャケットにパンツ、腰に巻いたベルトには拳銃のホルダーと、警棒を収める場所がある。左胸元には携帯無線機が装備され、極め付けに日本の警察の勲章が象られた制帽を被ると、青年はみのりの視線に気付き、ばつが悪そうな顔つきで彼女を睨み返した。
「……なんだよ」
「……お、おまわりさんだったの…?」
「建前上はな。ってかやめろその表現」
これ俺の一張羅だから。そう言うなりさっさと歩き出してしまう青年を口を開けたまま眺めつつ、またしても現れた“建前”という表現に首をかしげた。いやだから、よく遣うそれどういう意味なんだと。謎は深まるばかりである。