生吉と遥とイト婆とおにぎり
「あらあら、やっと目ぇ覚ましたんかいねぇ。よっぽどお腹空いとっちゃけぇ、握り飯握ったるねぇ待っとき」
「えっ、えっ」
麦わら帽を脱ぎ、青年の手を借りて縁側の床に足を踏み入れると、老婆は肩に巻いていた手拭いを頭に巻き直して家屋の奥へと歩いていく。動揺もそのままに、同じく老婆を見送っていた青年を見上げると、彼はさして気にも留めてなさ気にぽりぽりと首の辺りを掻いた。
「口裏合わせとけ。会って5秒で親族と勘違いする人だ、あらかたひ孫とでも思ってんじゃねえの。俺のときもそうだった」
「……貴方も私と同じような目にあって、ここに?」
「俺はお前とは違う」
青年の言葉には、どこか棘があった。
出会って数時間、みのりにとっては目が覚めてからなので実質数十分と経っていないというのに、貴方に私の何がわかるのだ、そう言ってしまいたかったが、そこでムキになるのも違う気がして、結局そのあと相槌を打つことはなかった。
「それはそうと体は大丈夫なのか」
「平気。こう見えて、頑丈なの。小学校以来、風邪もひいたことないんだよ」
「あぁそう」
「それより、聞きたいことがたくさんあるんだけど…」
身を乗り出して、優に20㎝は差がありそうな隣の彼方を見た時だった。みのりが声を発する前に、体の中心から悲鳴が上がった。矢鱈と長い、ぐーきゅるるる、そんな音。
俯いて、きょとんとした顔でお腹を抑えるみのりを見下ろして、青年はため息をつく。それから一呼吸置いて、のんびりとした声が問いかけた。
「お前おにぎりの具、何が好き?」
何てことはない普通のおにぎりだったのに、いざかぶり付いてみると、この上ない感動に見舞われた。
ひと齧りで辿り着いた中心から現れたのは、みのりがリクエストした南高梅だ。
「うんやぁ、よぉっぽどお腹空いとったんねぇ、いい食べっぷり」
「あっ、ごめんなさい。でもおばあちゃん、このおにぎりすっごく美味しい!」
「あらぁたんとおあがり。うちで採れた米はそんじょそこらと違って格別やっけん、身も心も元気になるんよ」
「うん!」
一つ目の梅おにぎりを早くもたいらげて、次のおにぎりに手を伸ばす。海苔が巻かれたそれは昆布らしい、かぶり付くと中から大量の具が飛び出した。
「言っとくけどおにぎりなんてどこも同じだからな。稲の香りのする縁側で婆さんが握ったとでもいや7割型美味く感じんだよ」
「またっこの子はそんなこと言ってぇ、細っこい体して何言うちょるかね、憎たらしい子は食べんでええよぉ!」
「いや俺さっき朝食べたし」
誰も取って食いやしないと言うのに、がつがつとおにぎりを口に運ぶ余り喉に詰まらせる。トントンと胸を抑えるみのりにさりげなく茶を差し出して、青年は膝に肘をついて外を眺めていた。
「ほんに、そいでも生吉にこげな可愛い妹おったんねぇ。遠いとこ遥々来てくれて、おばあちゃん嬉しかよ。名前はなんちゅうん」
「あ、えっと」
「遥」
みのりが口を出す前に、間髪入れず青年の言葉が横切る。ギョッとするみのりをよそに、相変わらず青年は外を見たままだ。
「遥ぁ?いい名前ねぇほんに似合ってる。春らしくって、女の子はやっぱりいいわぁ。ハルちゃんて呼んでええかな」
「えっ、あっ…う、うん。そう呼んでっ」
みのりが事の真意を理解するべく、真向かいの青年に目配せをして見せても、気付いているのかはたまた見えていないのか、結局その合図が彼に届く事はなかった。物事の辻褄を合わせようといったのはあなたじゃないか。そのくせ、その気がない気がするのは、絶対気のせいじゃない。
結局美味しさに負けたみのりは皿に乗っていたおにぎりを8個もたいらげて、空になった皿をイト婆に差し出した。
三食食事を抜いた訳でもない。普通に夕食を食べた末、家を飛び出し川に落ちただけだ。完全に胃がキャパオーバーを叫ぶ中、客間で大の字になってラマーズ法を繰り広げるみのりの足を、何処からともなく現れた青年が軽く足先で小突いた。
「どこの妊婦だよ。何を生むつもりだ、食ってソッコー寝たら牛になんぞ」
「く…苦しくて」
「そりゃ米あんだけしこたま食えばな」
俺でも5つが限界だよ、そう言ってからその場に腰を下ろす青年。相変わらずスウェットにラグランTシャツは何の締め付けも無さそうで、制服のスカートのホックを外して寝転んでいたみのりは、その姿を心底羨ましく思った。
「…ねえさっきなんであんな嘘ついたの」
「あ?」
「私“遥”じゃないよ」
「…見ず知らずの人間に本名なんて言う必要ない。物騒だろ?ましてやこの町じゃ特にな。第一俺だって“生吉”なんてダサい名前じゃねーし」
幸いイト婆はお前を俺の妹だと勘違いしてるらしいから、孫で通ってるしそれでいいんだよ。伏し目がちに告げられた言葉は、目の前で自分に発信されたはずなのに、どこか違う方向を向いているような気がした。