夜は明けて朝になる
意識の途切れる最後の方で、誰か名前も知らない男のひとの声が聞こえた気がする。
私はここです。ここにいます。伸ばした手を、幼かった頃は、父、そして母が笑って握り返してくれた。母、そして父のあたたかな掌は、私が微笑むと、光を受けて、蝶々になって羽撃いていく。
「お父さん、お母さん。」
名前を呼ぶ。蝶々は私の体の周りを渦巻いて、大樹の木漏れ日の下、緑の葉を巻き上げて青空へと逃げてしまう。待って。私まだ一人じゃ歩けないよ。こんなところに、一人で。これからどうやって歩いていけばいいの?答えて。お父さん、お母さん。
「………待って…」
うっすら瞼を開いて、そして瞬く。つう、と頰を私の中の透明化した血が伝って、大きく息を吐いた。
「起きたかよ」
ぼんやりとした頭は、未だ回転するには本調子ではないらしい。見上げた先にある古民家の高い梁がそう言ってきたのかと思い、みのりは馬鹿正直に天井に言葉を返そうとした。
「こっちだよ」
今度は、真横から聞こえた。
障子で造られた衝立、その向こう側で背を向けていたらしい男は、次には衝立端の木の淵に手を引っ掛け、ひょっこりと顔を出した。
端正な顔立ちだ。目鼻立ちの整ったパーツに、白い肌。朝日を浴びて光る髪は、どこか星を思わせる。くっきりした二重の、意志の強そうな瞳。真っ直ぐな目がみのりをじっと見据え、べたりと手のひらを額にあてがった。
冷たい、掌だった。
「熱は、ないみたいだな。意識は?お前どこから来たんだ。名前は」
「………ここどこ…」
「俺が質問してんのに」
呆れた声をあげて衝立を退けると、男の全身像が明らかになる。すらりと伸びた無駄な肉のない手足、軽い身のこなしは20代前半くらいだろうか。少年、と呼ぶには違う、青年はラグランTシャツにスウェットという格好で、改めてみのりのそばに胡座をかいた。
この男の家なのだろうか。みのりの新居とは正反対の古民家は田舎にあるそれそのもので、広い間取り、開いた景色の向こうにはすぐ畑と田圃が見える。ようやく布団から起き上がると、外気の寒さに身震いした。
「お前、夜道歩いてるときに野犬に襲われて川に落ちたんだよ。あんな夜更けに外灯もないこの辺りを彷徨くなんて、前代未聞だ」
「…野犬…」
「この辺りの野犬は鴉と一緒で光り物が好きでね。俺の家の鍵を盗んだ奴をずっと探してたんだけど、大当たりだった。しかし、ツイてるねあんた、俺が通り掛からなければ今ごろ土左衛門だよ」
「どうして助けたの」
悲痛な叫びだった。腹の奥底の蟠りを吐き出す勢いで放った言葉は、刃物となって相手に切っ先を向けてしまう。
「………助けてなんて言ってない…あのまま放っておいてくれればよかったのに!」
「だったら死ぬか?今ここで」
じゃきり、と黒光りした鉄の塊。鼻先に向けられたそれが本物だと認識するのにそう時間がかからなかったのは、その拳銃からほのかに火薬の香りが漂ったからだ。
「殺してやってもいいよ。お望みならば。生憎、逡巡なんて人並みの感性、もう落っことして来ちまった」
「………」
「どうする?」
微動だにしない瞳がみのりのそれを捉え、指先はしかし今にも安全装置を外し、引き金を弾けば楽になれる状況だ。
頭が追いつかなかった。父に襲われ、母に包丁を向けられて、飛び出した矢先で野犬に襲われ、命の恩人に、今度は銃を向けられている。最後のそれは自分が招いた結果だとしても、昨日、全く同じ時間を過ごしていた自分が余りに遠い世界に行ってしまったことが実感できない。
放っておいてほしかった。いっそ消えてしまえばよかったのだ。
「……泣くくらいなら言うなよ」
両目から、また頰を伝って落下していく結晶。青年は面倒臭そうに手近にあったティッシュを数枚取って、それからみのりの顔に押し付けた。
「ここは、あなたの家?」
「俺のじゃない。俺はただの孫」
「孫…」
「っていうことになっている。建前上。痴呆なんだ。“イトさん”っていう」
布団を片して古屋の縁側に立つと、すぐ前の畑で麦わら帽子を被って、丸い背中を動かしている老婆の姿が見えた。柱に身を預けたまま腕組みをしていた青年は、老婆に向かって声をあげる。
「ばーちゃん!起きた。心身共に異常無し」
みのりの腕を掴んで、ぶんぶんと老婆へ向けて手を振り回す。青年に翻弄されながらしどろもどろしていると、優しい顔をした老人は、振り向いて満面の笑みを浮かべた。