何かが狂い始めてる
階段を降り、リビングに向かうと未だに煌々と電気が点いているのが扉の磨りガラス越しにも確認出来た。今一度時計を確認する。深夜の2時、早寝早起きを日課とする母が、この時間にリビングで何かをしているというのも明らかにおかしい。
扉を開けると、オープンキッチンの傍らで、未だに背を向けている母の姿が飛び込んできた。それは、みのりが頭を乾かし、寝床につく前の母、まさしくそのときのままの。
「………お母さん…?」
ひた、と裸足のままフローリングの床に一歩足を踏み入れた直後、みのりは飛び上がった。切れ味が悪くなった。そう言っていた包丁を、砥石で延々と研ぎ続けていたからだ。何時間そうしていたのか、母の両手が砥石と同じ色で黒ずみ、細く華奢で、爪まできめ細やかに管理していた母の手とは似ても似つかぬ皺がれた手が、きいきいと音を鳴らして今こうしている間にも刃物を研ぎ続けている。
やがて何の前触れもなく、母の体がピタリと静止する。研ぎ澄まされた包丁、その柄を光に向けると、ゆっくりと振り向いた。
「……お、お母さん…?あ、あの、おとうさんが、」
「お父さんが寝込みでも襲ってきた?」
「えっ?」
「いつもそうなのよあの人。私のことも毎晩貴女に見立てていたのかしら」
母の言葉に、抑揚は一切存在しなかった。人の声というものは、感情によりある一定のリズムに乗って人の耳に届く。例えば怒気が込められていれば語尾が強くなるし、悲しみに打ちひしがれているならば音は呼吸に消えていく。
少し面倒臭がりだけれど真面目で根はあたたかく、優しい。庭で小鳥が囀る声に笑って挨拶を返すような、母は。今や無の境地に佇んでいる。
「………みのり。私、あなたが羨ましかった」
「お母さん」
「あの人があなたのことを話すたびかつて私にしてくれたみたいに笑う。知らなかったでしょう、私その笑顔を見るのが嫌で嫌で仕方なかったのよ」
「お母さ
「その呼び方で呼ぶな!!」
母親、彼女の振りかざした包丁が、みのりの佇む真横の壁に突き刺さる。木製の壁に叩き込まれた包丁はめりめりと音を立てて、中の断熱材らしき粉がみのりの体の横を零れ落ちた。
「………出て行って頂戴」
「……、」
「二度と家に帰ってこないで?次顔見せたら本当に包丁で刺すから」
これで、邪魔者がいなくなる。やっと幸せになれるのね。
母は、壁に突き刺さった包丁から手を離し、新居の壁に頬擦りをする。恍惚とした表情、その目には、ほんの数時間前までみのりを映していた彼女の面影は感じられない。生きる覇気すら、読み取ることが出来なくなってしまった。
パジャマ姿のまま立ち竦むこと、数秒。何を考えるでもなく、自分でも驚くほど簡単に体は動いた。一度は天井を見て口を開けて固まっていた。でもこうしていることが正解では無いと直ぐに理解した。自分自身がそうさせた。自己防衛だった。
二階に上がり、速やかに自室に戻る。父の姿はない。と思ったら、突き当たりの部屋から、父親の大きな寝いびきが聞こえてきた。あんなことがあってから、すぐ熟睡出来るのか。妙に冷静な考察が脳内をめぐる。寝巻きを脱ぎ捨てて、適当に引っつかんだ服は制服だった。何を持つでもなく、スカートを履いて、セーラー服をまとって、そしてさっさと玄関へ進む。
リビングを覗き見ると、そこには既に母の姿はなかった。先ほど壁に叩き込まれた包丁の姿もなく、無意味に怖気を感じ、みのりは足にローファーをねじ込むと、深夜の街へと飛び出した。
(これはきっと、夢だ)
悪い夢を、見ている。私にしてはタチの悪い、見たこともないようなストーリー性の深い、バカみたいな物語。
(これはきっと、悪い夢)
家を飛び出して、灯なき暗闇を闇雲に進む。一直線の田圃道の脇には電柱が数メートルおきに設置されていて、それが田圃に落ちない目印になっていく。歩みを進める足は次第に加速し、夢を覚ますためにつねった頬は、噛んだ腕は、引っ掻いた足は、暗闇の中白く浮かび上がった手のひらに赤黒い現実となってみのりに知らしめてくる。
目から、額から、汗だか、涙だか、血だか泥だか分からないものが噴き出した。闇雲に突っ走っていたせいで石にけっ躓いて頰を地面に摩り下ろす。
蹲ったまま地面に額を押し付けていると、暗闇の中で黄色い光がぼんやりと二つ浮かぶのが見えた。獣の類だろうか。不規則な呼吸をして、毛むくじゃらの身を震わせながら、一歩、また一歩と此方に歩み寄ってくる。
グル、とそれが飛びかかってきた瞬間、思いがけず身を投げた。田圃に突っ込むはずだった体は宙を舞い、それから大きな音を立てて川の泡に飲み込まれていく。
冷たさはいずれあたたかな感覚に包まれる。それが毛布に包まっている感覚と酷似していたせいで、みのりはうっすらと微笑んだ。
「………これは夢………」
ああ、変な夢だなあ。早く目を覚まして、お母さんと一緒に、家のインテリアの飾り付けをしなくっちゃ。