8.川の流れの先には
「一体、どういうつもりなの? 夜中に家を抜け出して、こんなところで川下りなんて」
「どういうって、川を下ってククロの森に入るつもりだけど……」
マーナはいつもと違ってなんだか怖いけれど、今更取り繕うこともできないので、仕方なく本当のことを話す。
「あなたは……! ククロの森は危険なの。魔物がいるかも知れないのよ?」
「まあまあ、マーナ」
「あなたもあなたですっ! 何うちの子を巻き込んでくれちゃってるんですかっ」
折角、興奮しているマーナを宥めようとしてくれていたフレイユまで、とばっちりを受けて詰られてしまった。
「違うよ、マーナ。フレイユは悪くない。私が頼んで一緒についてきてもらったの」
そのフレイユを庇おうとしたら、マーナが凄い形相で振り向いた。
「またあなたはそんな無茶を。いいから、早く帰りましょう。クロスさんは昨夜からスラム街に出かけて、そのまま直接仕事に行ったから、まだ家に帰ってきてないはずよ。今ならまだ間に合うから……」
「それは無理だと思いますよ」
横からスッパリとそう言い切られて、マーナはキッとフレイユを睨みつけた。昨夜の神獣族に畏れ慄いていたマーナとはまるで別人だ。
「何を言ってるの……」
勢いよく反論しかけたマーナだったけれど、フレイユの手に握られた蔦を見た瞬間、目を大きく見開いた。
その蔦は、筏を岸に係留していたロープ代わりの蔦だった。輪にして岸辺の大きな石に引っ掛けていたのだけれど、その輪の部分がフレイユの手の中にある。
「ああっ!」
マーナは、ようやく筏が岸から離れて川の流れに沿って進んでいることに気付いたようだった。
「何てこと! 早く岸に寄せなさいっ!」
「無理だよ、マーナ」
「無理? また無理って? 何で?」
「だって、マーナたちが飛び乗って来た時、オール代わりにしようと乗せていた木の枝が川に落ちちゃったんだもん」
筏よりもずっと先を流されていく木の枝を指さしてそう言うと、形容しがたいマーナの悲鳴が川辺一帯に響き渡った。
「ああっ、何てこと。クロスさんに、ミラクを頼むって言われたのに。私、クロスさんにミラクのお守りを任されたのに……」
「お守りって……」
それはあんまりな言い方じゃないかな、私ももう十五だよ、と言おうとしたけれど、マーナがあまりに落ち込んでいるので、突っ込みを入れるのは止めることにした。
「やっぱり、あなたを連れて来るべきじゃなかったですね、ミラク。こうやって、マーナまで巻き込んでしまうなんて」
フレイユも心から困ったように眉をひそめている。
「だって、もうこういう状況になっちゃったんだから仕方ないじゃない。ククロの森の魔物を倒したら、全て丸く収まるんだから」
何か二人とも今の状況を悲観するばかりで、何だか腹が立った私はそう大声を出していた。
と、フレイユが表情を和らげた。
「そうですね。過去を悔いるばかりでは前に進めません。今は、この状況をどう打開していくかを考えなければ」
「そうだよ! って、早速何か怪しい雰囲気になってきたんだけど」
私の声の変化に、フレイユもマーナも筏の進行方向に目をやった。
切り立った川の両岸から細い竹が幾重にも川の上に垂れ下り、まるでアーチのように川を覆っていた。
川面からアーチまでの高さは、私が立ちあがったくらいの長さしかない。アーチの中は真っ暗で、出口が見えないほど長く続いている。筏は川に流されるがまま、その暗闇に吸い込まれていった。
「ひゃあっ!」
私達は思わず筏に伏せた。
アーチは、どこまで続くとも分からない。
それに加えて、更なる危険が私たちに迫っていた。
アーチの内部には、無数の赤い光が瞬いていたのだ。
キキキキッ!
一匹が飛び立つと、つられたように何千、何万という蝙蝠の大軍が舞い上がり、私達にぶつかってくる。
「きゃあっ! まさか、吸血蝙蝠じゃないわよねっ?」
マーナの悲鳴に、私はハッと息を飲んだ。
両手で頭を庇うように筏に伏せていると、バシバシと蝙蝠が体に当たってくる。今のところ噛みつかれたりはしていないけれど、マーナの言う通り吸血蝙蝠だったら、アーチを抜ける前に傷だらけの上、貧血になってしまう。
と、フレイユの声が聞こえた。
「ミラク、マーナ。私がいいと言うまで、目を閉じていてください」
「えっ?」
「いいですか? 絶対に目を開けてはいけませんよ」
緊迫したその声に、私は慌てて目を閉じた。
キンッ! と空気が鳴ったような音がして、閉じた瞼の裏が明るく光ったような気がした。
と、ボトボトと音を立てて何かが私達めがけて数えきれないほど落ちて来る。
「もういいですよ」
そうフレイユの声がして目を開けると、アーチの中はほんのりと明るくなっていた。
「ひゃあああっ」
マーナが息を飲むような悲鳴を上げた。筏の上に、無数の蝙蝠が落ちて力なく羽をばたつかせていたからだ。
「今、何をしたの?」
「光の精霊に祈り、一瞬、蝙蝠の目を晦ませる光をこのアーチの中に灯したのです。今はその名残りで、辺りが見えるほどの明るさが残っていますね」
つまり、今のアーチ内のほんのりとした明るさは、フレイユが使った力のほんの残りカスに過ぎないということだ。
「精霊に、祈る? 初めて聞いた。魔法じゃないの?」
「ええ。魔法と似ていますが、違うものです」
「所謂、神力ですよね?」
マーナが、落ちている蝙蝠を避けながら身を乗り出してきた。
「そうですね。これは、神族特有の力です」
「その神力に似た力を人間が使えるように編み出されたのが、魔法なの。……はあ、感動だわ。この目で直に神力が見られるなんて」
マーナは目を潤ませ、声を震わせた。
私はこれまでにクロスが魔法を使うところを見たことがあるけれど、その時には魔石と呼ばれる魔力を増幅させる石をはめ込んだ杖なんかの道具を使っていた。
けれど、フレイユは何も持たずに、ただ小さく何かを呟くだけで、このアーチの中にいる蝙蝠を無力化するだけの光を発することができた。
やっぱり凄いんだ、神族って。
そう思った時、川の流れる音の中に、水が大量に流れ落ちるような轟音が聞こえ始めた。
「何? あの音」
私が首を傾げると、フレイユが眉をひそめた。
「まさか、この先が滝になっているのでは……」
「ええっ、嘘でしょ。こんな筏で滝から落ちたら、一たまりもないじゃない!」
マーナが悲鳴を上げる。
アーチの出口が近づいてくる。滝の音は、その向こうから聞こえてくるみたいだ。
「嘘、ヤダ、誰か止めてっ!」
「マーナ、そんなこと言ったって、川の流れは止まらないよ……」
「とにかく、筏に捕まって、振り落とされないようにしてください。いいですか、いきますよ……!」
フレイユの切羽詰まった叫び声に、私たちは筏に伏せ、木材とそれを縛っている蔦との僅かな隙間に指を差し込んで身構えた。
垂れ下った竹のアーチが切れ、眩しい陽光に視力が奪われた瞬間だった。
「うわああああっ!」
川の流れはそこで突然垂直になり、筏が空を飛んで、私たちは体がフワッと宙に浮いた感覚に襲われた。