63.白蛇の杖の正体
ギュレイ将軍としてエルドーラ軍を率いて行軍中の魔族は、例え自分の屋敷に侵入者があったと感知しても、すぐには戻って来られない。
そう高を括っていた私達の認識は、甘かったとしか言いようがない。
時間的に、王都を出たエルドーラ軍は、二つ向こうの街くらいまでは進んでいるはず。
そこから、この短時間でどうやって戻ってきたんだろう。
ううん、そこは魔族なんだから、人間としての常識では推し量ることのできない力を使ったんだろう。
……ああ、こんなところで、こんなことの為に命を落とすなんて。
思えばあの時、骸骨兵士に追われるモルガナ様の乗った馬車を救ったのがそもそもの間違いだったんじゃないだろうか。
一目散に街道を外れて逃げていれば、モルガナ様の命を狙っていた骸骨兵士は、私になど目もくれなかっただろうに。
それとも、熱が下がった時点で、どんな理由があろうともさっさと王城から出ていればよかったんじゃないだろうか。
近づいてくる魔族の姿に慄きながら、これまでのことがグルグルと脳裏を過る。
「おい、しっかりしろ!」
恐怖で立ったまま腰が抜けてしまったように動けない私に、オークルがそう叫んでいる。でも、聞こえていても何をどうしていいのか分からない。
こうなった以上、私ごときが何をしても無駄なことは分かっている。
だって、ククロの森で、魔族の恐ろしさは嫌というほど見せつけられているのだから。
白蛇の杖があるといっても、私なんかが元神族の魔族に勝てる可能性はない。
ごめんね、ミラク。ロザーナであなたとクロスさんの帰りを待っているって言ったのに。こんな異国で魔族の手にかかったりしたら、きっとあなたには私がどこでどうなったかなんて知る術もないでしょうね。
「……フッ。誰かと思えば、異国から来た魔法使いか。なるほど、これは宰相の差し金か。あの女、やはり生かしてはおけんな」
これまでのギュレイの声とは違う、地を這うようなゾッとする声が響く。
ああ、モルガナ様は関係ないのに……。
でも、そう言いたくても声が口から出て来ない。
それどころか、恐怖の余り、声の出し方すら忘れてしまったかのようだった。
魔族の右手がゆっくりと持ち上がると、その人差し指が私に向けられる。
あ、魔法が来る……。
最後だ、と私はぎゅっと目を瞑り、両手で白蛇の杖を握り締めた。
爆音が轟き、身体を衝撃が襲う。
けれど、不思議なことに私は立ったままでいられている。おまけに、身体のどこにも痛みはない。
あれ……?
ぎゅっと閉じていた目を、恐る恐る少しだけ開けて見てみると、自分の一歩手前で黒い炎が見えない壁に阻まれて停滞したまま渦を巻いている。
そして、私の手元から、白い光が放たれているのが視界に入って視線を落とすと、握り締めている白蛇の杖が光っていた。
魔法を使っているわけじゃないのに、と首を捻った時、不意にその白蛇の杖から声が聞こえてきた。
「ふわぁぁ……。ん? 誰かと思うたら、ガザークス坊じゃないか」
「ひぇっ!」
驚きの余り、私は今の状況などお構いなく、思わず杖を放り投げてしまった。
ところが、杖は床に落ちずにそのまま宙に浮かんだままで、一瞬白い光が強く瞬いたかと思うと、その光の中から白衣の老人が現れた。
老人の白い髪と髭は両方とも床に着きそうなほど長く、青みがかった白目の中心で光る金色の目の瞳孔は縦に長い。
それを見た私は、クロスさんを襲った魔族のことを思い出して、思わず息を飲んだ。
白衣の老人は、萎びた手を左右に一閃させた。すると、何かに阻まれて渦巻いていた黒い炎が、まるで吹き消されたように消滅した。
黒い炎が消えて見通しがよくなったその先で、ギュレイ将軍が物凄い形相でこちらを睨んでいる。
「……俺の名を知っている? 貴様、何者だ」
「ふふん。地底に下った時、まだ幼かったからのぅ。わしのことは覚えておらんか」
睨まれても平然としている老人にゆったりとした声でそう問われ、ガザークスと呼ばれた魔族は少しの間記憶を辿っているようだった。
「……まさか、……神蛇族の?」
そう呟いたガザークスは、老人が否定しないのを見てみるみるうちに表情をこわばらせた。
「神蛇族の長は、地底王に与することに決めた一族の中であくまで異を唱え、それが叶わず、世をはかなんで自ら命を絶ったと聞いていたが」
「ふほほほ。それは地底王と通じてわしを陥れた奴らの、都合のいい嘘じゃよ。で、そなたは蛇族の化け玉を使って一体何をしておるんじゃ?」
そう問い詰められて、ガザークスは拗ねた子供のように俯き、吐き捨てるように言い放った。
「サレドニアには、ビリジアンがいる」
「……ほう」
「地底に下ってから、俺たちは上級魔族、神蛇族は下級魔族という位置づけになった。なのに、あいつは事あるごとに俺と張り合っては、俺を負かして馬鹿にしてくる。だから、今度は人間の国を使って決着をつけることにしたのさ」
思わず私は悲鳴を上げるところだった。
エルドーラとサレドニア、両国に入り込んだ魔族が人間を動かして、国と国とを戦わせようとしていたなんて。自分達の勝手な競争意識の為に。
「なるほど。その化け玉も、ビリジアンからの贈り物か」
「贈り物? ハッ、確かにそうだな。それを持って、この計画を持ち掛けてきたのはあいつの方だ」
「で、どうする? このまま変化を解いて人間の国への干渉を止め、地底へ戻るのならば、そなたを見逃してやってもよいが」
そう言われた瞬間、ガザークスの表情が歪み、顔が怒気で赤黒く変化した。
「貴様ら神蛇族は、今や我らより格下なのだぞ! それなのに、何だ。貴様もビリジアンも、俺を馬鹿にしやがって!」
癇癪を起した子供のように喚いたガザークスの姿が、パリン、と何かが砕ける音と共に突如変化した。
緑がかった黒髪から突き出した二本の長い角、尖った耳、細長い目と薄い唇、骨ばった顔立ちに、血色の悪い肌。
ひょろりとした体つきのガザークスは、狼狽えたように尖った爪が長く伸びた自分の手を見つめていたが、ハッとしたようにベッドへ目をやった。
白骨化した遺体の手を縛っていた縄についていた赤い玉が、砕けて辺りに散らばっている。
振り向いたガザークスが睨み殺さんばかりの視線を向けているというのに、神蛇族の長だという老人は涼しげな表情で手をワキワキと動かしている。
あ、この人がやったんだ。
そう思った時、ガザークスが両掌に黒い渦の塊を出現させた。
「おのれ、もう許さん……!」
そう唸ったガザークスの姿が、少し霞んで見えるのは、この部屋を渦巻く瘴気のせいなのかしら。
……ううん、違う。これと似たような光景を、前に一度見たことがある。
「やれやれ、世話の焼けることじゃ」
神蛇族の長は、ヒョイヒョイと宙に何かを描くように両手を動かす。すると、ポカンとした表情を浮かべたまま、ガザークスの姿はあっという間に掻き消えてしまった。
……早い。消えるのが早いけど、これってクロスさんがガードンを異空間に封じた魔法と同じよね?
目を瞬かせながら神蛇族の長を見つめていると、不意に振り向いた老人は大きな欠伸をした。
「ふわあああ……。ふむ、そなたらもご苦労だったな」
「あ、いえ。その、ありがとうございます」
まさか、白蛇の杖が神蛇族の長だったなんて。クロスさんはそのことを知っていた……訳ないか。知っていたら、長い間箱詰めにして物置部屋に放置なんかしてないでしょうし。
「礼を言われるようなことではない。そもそも、魔族が人間に干渉すること自体が間違っておるのだから」
「はあ……」
そう言えば、フレイユもそんなことを言っていたような気がする。
「それにしても、……やはり、元の姿を保つのは容易ではないわ。眠くてたまらん。ふわあああ。後のことは頼むぞ、人間の娘と、神獣族の若いの」
「えっ……?」
あっと思った時には、神蛇族の長は元の白蛇の杖に戻り、カランと乾いた音を立てて床に落ちて転がったのだった。




