6.真夜中の脱走者
何でだろう、こんな時間に起きてしまうことなんてないのに。
ベッドの上にむくっと起き上がると、その気配で起こしてしまったのか、床の上でパトリックが小さく鼻を鳴らすのが聞こえてきた。
私は小さく伸びをすると、ベッドの傍のカーテンを捲って窓の外を見た。
丸い月が空に輝いていて、夜だというのに外は随分と明るい。
時間的に、もうクロスもマーナも眠っている時間なんだろう。ベッドに入る時にドアの隙間から入ってきていたリビングの明かりが、今はもう消えているから。
何か昨日はいろいろあったから、変に緊張しているのかな。
でも、まだ起きる時間には早すぎる、ともう一度ベッドに横になろうとした時、何か音が聞こえたような気がした。
何だろう……。
パトリックが、困ったように何度も鼻を鳴らす。
何気なくもう一度カーテンを捲った私は、何度も目を瞬かせた。
ローブを着た人物が、庭にいる。こっちに背を向けて、ああ、外に出ようとしているんだ。
この家は、元々ロザーナのお役人が住んでいた古い家をクロスが自分で修繕したもので、家の周囲はそこそこ高い塀に囲まれている。
フレイユが私達に黙ってこの家から出ていくかも知れないとは思っていた。でも、門を通らずに出て行くのは至難の業だ。
私はベッドから飛び降りると、音を立てないようにつま先で着地した。
素早く寝間着を脱いで、剣術の練習着に着替え、道場で使っている小振りの剣を帯びる。
音を立てないようにそっと窓を開けると、私はひらりと庭に下り立った。
と、そこで予想外なことが起きた。
外から窓を閉める前に、パトリックまで窓枠を乗り越えて庭に出てきてしまったのだ。
「ええっ。パトリック、いい子だから部屋に戻りなさい」
窓を指さして何度かパトリックを部屋に戻らせようとしたけれど、フイッと首を横に向けて、言うことを聞く気配がない。
「しょうがないなぁ。絶対に吠えたり騒いだりしないでよね」
これ以上パトリックを相手にしていると、クロスやマーナを起こしてしまいかねない。仕方なく、パトリックを連れてフレイユの後を追う。
フレイユは、私が予想していた通り、塀のどこからか外に出られないかと模索していたみたいだった。塀に沿って移動している彼に、私はそっと声をかけた。
「フレイユ。そこで何しているの?」
飛び退るように身構えたフレイユは、声を掛けたのが私だと分かると、ほんの少しだけ警戒を緩めた。
「……ミラクでしたか」
でも、月明かりを反射して光っている赤い目からは、殺意さえ感じられる。今のフレイユは、まるで追い詰められた動物みたいだ。
「この家から外に出るには、門から出るしかないよ」
私はなるべくフレイユを刺激しないように、何でもないふうに声を掛けた。
「そうですか」
「うん。で、その門は夜になると鍵が掛かっちゃうの。その鍵を持っているのは、クロスと、マーナと、私」
私は練習着のポケットから、小さな鍵を取り出して見せた。
フレイユの濡れたように赤い瞳が、私の右手に吸い寄せられるように動いた。
「……で、あなたは何を言いたいのです?」
「ククロの森に行くつもりなんでしょ? フレイユ。私も、連れて行ってくれないかな」
そう言うと、フレイユの表情が消えた。まるで、自分が考えていることを私に悟られまいとしているように。
「仮に、私がそのククロの森に向かうとして、何故あなたまでついて来るのですか」
「ククロの森に謎の生物が現れて人間を襲ったから、森を通る街道が封鎖されちゃったの。だから、その街道を通って入ってくるはずの西南部の食糧がロザーナに入ってこなくなっちゃうんだ」
ここで熱弁を振るっていたら、クロスやマーナに気付かれるかも知れないと心配になったけれど、走り出した私の思いは止まらなかった。
「そんな大変なことになる前に、何とかしたい。王国軍が調査するとか言ってるけど、私も自分に出来ることを何かしたいの」
「あなた一人が森に入ったところで、何が出来るというのですか……」
気が付けば、フレイユは警戒を解き、困ったように眉尻を下げていた。
「言っとくけど、私、剣の腕も確かだからね」
同じくらいの年の子の中で、私が一番強いんだから。
「そういう問題ではないのですが……」
フレイユはそう呟いた後、チラッと私の右手を見た。門の鍵を握っている手だ。
「では、あなたは私の旅に深入りするつもりはないのですね」
「決して興味がない訳じゃないけど、フレイユが知られたくないって思っているなら、立ち入るつもりはないよ」
そう答えると、フレイユは深く息を吐き出した。
「では、門を開けてくれる見返りとして、あなたと一緒にククロの森に行きましょう」
「ホント?」
フレイユが小さく頷くのを見て、私は思わず拳を握り締めた。
クロスやマーナに言えば、絶対に反対されるのは分かっていた。
謎の生物? 魔物? 私から食べ物を奪うつもりなら、そんなもの蹴散らしてやる。
夕食のとき、ククロの森に謎の生物が出たと知ったフレイユの反応を見て、私はピンときた。
フレイユの目的は、ククロの森にあるに違いない、と。
別に、私一人でもククロの森に忍び込むことだって不可能じゃない。でも、そんなことをしたら、後でクロスにどんな酷いお仕置きをされることか。
例えば、三日間夕食抜きとか、五日間おやつ抜きとか、或は十日間外出禁止とか。
私にとって、食べることを禁じられることと、剣の稽古ができないことは、死ぬほど辛いことだ。
でも、フレイユと一緒なら、彼を助ける為だったと言い訳ができる。
そんなことをフレイユには絶対に言えないけど。
鍵穴に鍵を差し込んで回すと、小さな音を立てて鉄格子の門の鍵が外れた。
門には同じ鍵穴が外にもついていて、外からも同様に鍵を掛けることができる。
この鍵は魔導具の一種で、クロスのお手製だ。
私はフレイユと一緒に門を出ると、パトリックが出ようとするその鼻先で門を閉めた。
ええっ、何で? 何で連れて行ってくれないの?
というパトリックの声が聞こえるようだ。悲しそうに鼻を鳴らして鉄格子の門越しに私を見上げるパトリックに、私は心を鬼にして首を横に振った。
「危ないから、パトリックはここでお留守番しててね」
そう言うと、低い位置で揺れていたパトリックのふさふさの尻尾が動きを止め、力なく下がっていった。
可哀想、と揺れ動く気持ちを抑えながら、外から門に鍵を掛けて通りに出る。
と、フレイユは被っていたローブのフードを更に深く被りなおした。
「そんなにキッチリ被らなくても、耳は見えないよ」
そう言うと、フレイユは小さく笑った。
「この顔立ちだけでも、良からぬことを考える人間の欲望を掻きたててしまうのですよ」
「どういう意味?」
「私の見た目は、耳を除いても人間にしては珍しい部類です。捕えてそういう嗜好の金持ちに持ち掛ければ高く売れる、と考える悪党もいるということです」
……うん。分かったような、分からないような。
「そういう嗜好って?」
「……もういいです」
困ったように溜息を吐いたフレイユの白い手を、私は両手でぎゅっと握った。
「でも、大丈夫。私が一緒にいる限り、悪い奴らに手出しなんかさせないからね」
すると、フードの奥に見えていたフレイユの目が真ん丸になり、何度もパチパチと瞬きを繰り返した。
「ね? だから安心して」
そう言うと、何故かフレイユは肩を震わせ始めた。
えっ? と思った時には、フレイユは喉を鳴らして笑い始めた。
「……あなたは、本当に面白い人ですね」
そう言われたことはとても心外だったけれど、フレイユが笑ってくれたことが何だかとても嬉しかった。