4.神話の中の一族
ひ、人じゃなかったって、一体どういうこと?
言葉も出ない私達に、クロスは取り敢えず、自分の部屋に入るよう促した。
すっかり日も暮れて、天井から下がった魔導灯の明かりが室内を照らしている。その青白っぽい明かりの中で、ベッドに横たわって眠っている人物がいた。
掛け布団の上には、着ていたローブらしきものが乗せられている。
「……ハッ!」
私の後ろで、マーナが息を飲んだのが分かった。
その人は、人間と大差ない外見をしていた。顔には目が二つ、鼻と口が一つずつ、長い髪も生えていた。
けれど、その人の肌は驚くほど白くて、まるで陶器のようだった。顔立ちも神々しいほど整っていて、眠ったままだから瞳の色は分からないけれど、髪も雪のように白かった。
ロザーナはロンバルディア大陸の南の果てに近い、世界的に見れば辺境になる土地にあるけれど、港町が近く、交易で様々な国の人々がやってくる。
けれど、こんなに不思議な外見の人は初めて見た。
そして、それがクロスの言う『人ではない』根拠なんだろう。
その人の側頭部、人間の耳がある部分より少し上の部分から、対になった二つの長くて白い耳が、髪に沿うように生えていた。
所謂、兎の耳だ。
「これって、……魔物?」
冗談ではなく呟いたのに、背後からスパン! と頭を叩かれてしまった。
「無礼にもほどがあるわ」
クロスかと思いきや、手を上げたのはマーナだった。
「無礼って? 私、本気で分かんないんだけど」
痛くもないけど、叩かれた頭を撫でながら振り返ると、マーナは何故か目を潤ませながら兎耳の男を見つめていた。
「この方は、神獣族です。そうですよね? クロスさん」
マーナの言葉に、クロスは頷いた。
「そうだな。間違いないと思う。この方は、神話で語られている神獣族の特徴を備えている。……ただ、神族大戦で滅びたと言われている神獣族が、千年も経った今、どうしてロザーナにいたのだろうか」
神族大戦。
それは、この世界に伝わる神話で語られる出来事だった。
まず、この世は何もない真っ暗な空間でしかなかった。
そこに、小さな小さな意思たちが集まってきた。小さな意思たちは、やがて大きな、偉大な意思を生み出した。
偉大な意思は、小さな意思たちの願いを受けて、一つの世界を作った。
小さな意思たちは、その世界に舞い降りて、世界に様々な力をもたらした。
偉大な意思は、やがて『創造神』と呼ばれ、小さな意思たちは『精霊』と呼ばれるようになった。
精霊の力で世界が安定した土地になると、創造神は肉体を持つ『神族』を創った。精霊の力を自在に操る彼らは、地上の支配者となった。
創造神は、次いで『人間』を創った。人間は、神族に隷属し、その強大な力に護られながら暮らしていた。
創造神は、自らの住まいを地上よりはるか上空の『天界』に移していた。そして、地上は創造神の妹『地母神』が代わりに治めるようになっていた。
やがて、地上は神族の利権争いの場と化す。
人間は否応なくその戦いに巻き込まれて、多大な犠牲者を出した。
地母神の懇願により、創造神は共に天界に移り住んでいた神族を率いて鎮圧に乗り出す。
それでもなお創造神に逆らい続けた神族は、戦いの末、地底へと追いやられた。
地底に渦巻く邪悪な瘴気によって、白く神々しかった彼らの身体は黒く醜く変化してしまった。これが、今で言う魔族であり、魔物はその配下である。
そして、勝利した側の神族も、地母神だけを残して全て天界へと移り住んでいった。
焦土と化した地上は、人間の手に委ねられた。
最初は、荒れ果てた大地に、庇護してくれる者もなく放り出された人間たちはただ呆然とするばかりだったが、やがて自らの手で土地を耕し、命を育み、文明を築いていった……。
神獣族は、その伝説の神族大戦で、地底に追われた側の神族に属していたとされている。だから、今では魔族となって地底にいるはずで、こんな神々しい神獣族の姿のまま存在しているはずはない。
それなのに、目の前には明らかに伝説の神獣族そのものの姿をした方がいる。
「ローブのフードをあんなに深く被っていたのは、この耳を隠す為だったのね」
マーナが小さく呟いた。
「それに、彼は更に耳を髪の中に隠すようにして縛っていた。怪我の手当てをするのにローブを脱がした時、フードに引っかかって解けてしまったが」
クロスがそう言って指さした先、神獣族の男の枕元に、掌ほどの幅のある薄紫色の布がきちんと畳んで置いてあった。
「今まで滅びたと思われていたのは、我々人間に見つからないように姿を隠してきたからだろう。目を覚ました彼が、我々にどういう反応を見せるか、それが問題だ」
クロスが深刻そうな顔でそう呟いた時だった。
神獣族の男の瞼が微かに動き、ゆっくりとその目が開いていく。
「うわぁ……」
私は思わず声を上げていた。
やや大きめのアーモンド型の目、そこに輝く瞳の色は、宝石のように輝く鮮やかな赤だった。
神獣族の男は、何秒かぼうっと天井を見つめていたけれど、不意にハッと息を飲んで跳ね起き、こちらを睨みつけるように身構えた。
路地で倒れている時に感じた、厳かで近寄りがたい雰囲気が更に強まったような気がした。
ああ、きっとこれが神獣族の持つ独特のオーラなんだろうな。
彼は、ふと自分がローブを脱がされ、耳を押さえていた布も取られていることに気付いたらしい。更に表情を険しくすると、じりじりと壁際へと下がっていく。
「あっ、……あの、怪我をして熱もあるんですから、寝ていたほうがいいですよ」
恐る恐るだけれど、意を決したようにマーナがそう声を掛けた。
けれど、神獣族の男は警戒を解かない。刺すような視線をこちらに向けながら、隙あらばここから逃げようとしているように見える。
「ああ、どうしよう。言葉が通じないのかしら。こっちに敵意はないって、どうしたら分かってもらえるの」
オロオロするマーナの肩を、クロスがそっと押える。
「私達は、あなたに危害を加えるつもりはありません。先ほど、路地で倒れたあなたを助けたのは、この二人です。あなたが望むのなら、我々はあなたの存在を決して他言しません。ですから、安心してここで傷を癒していってください」
その言葉に、ほんの少し緊張感を緩めた神獣族の男の視線が、ふと私に注がれた。
「あ、えーっと」
マーナもクロスも、彼の警戒心を解こうと訴えた。私も、何か言うべきだよね?
でも、すぐに言葉が浮かばない。それでも何か言わなきゃ、と焦った挙句。
「とっても綺麗な目ですね」
思っていたことが、そのまま言葉になって出てしまった。
「ミラク……」
呆れたような声でマーナがため息交じりに私の名を呼んだ時。
……フッ。
小さく息を吐いて、神獣族の男は表情を緩めた。
「私の名は、フレイユ」
静寂に満ちた神殿に響き渡るような、低く美しい声だった。
「私のことは、他の人間には他言しないと約束してくれますか?」
私たちが揃って頷くと、それでようやく彼、フレイユは警戒を解いてくれたのだった。