戦乙女の槍
「状況はどうなってる!?」
「城下はもう分からん! とにかく避難を急いだ方がいい!」
「しかし、どこへ逃げたらいいんだ!?」
「こっちが聞きてえよ! とにかく、遠くだ!」
吹き抜けの通路から下を覗いたタニアは、兵士たちの切羽詰まった掛け声を聞く。周りでは館にいた者たちが一目散に脱出しようとしている。
急激に空が光り出してから、古代王国の機械や魔物が暴れ出したらしく、その魔の手はこの大公の館まで及ぼうとしているらしい。だが、それ以上の情報は館内の混乱でまったく分からない。主たる大公バルネスがいないことが混乱に拍車を掛けていた。
「君も早く逃げるんだ!」
兵士の一人が足を止めているタニアに声をかけた。
「でも、男爵や、それにログ副長がまだ──」
「待っていたら死ぬぞ! ここにも暴走した鉄機や魔物が来るかも知れないんだ!」
兵士が鬼気迫る表情で叫ぶ。戦闘員である彼らもこの未曽有の災厄の前に恐慌に陥っているのだ。
「な、何!?」
「ワワアッああ!?」
突如、外から一斉に悲鳴が響き渡る。
何が起こったか分からないが、恐怖は館にも瞬く間に伝播し、人々は我先を争うように逃げ出す。
タニアも恐怖で逃げ出す足さえ震える始末だったが、その震えを止めたのは懐にいれた髪飾りの感触だった。
そうだ、副長が戻って来るまでこれを預かったのだ。戻ってきた副長からあらためて髪飾りとお褒めの言葉をもらうまで、留守を守ると約束したのだ。
タニアは髪飾りを髪に差すと、急いで近くの窓に取りつき、外を見渡した。
(あれは──!?)
タニアは言葉も出ず、ただ息を飲む。
“機神”の本体が眠る城塞から巨大な鋼の翼が広がっていたのだ。鋼糸の翼はさらに触手を伸ばし、枝分かれし、巨大な鋼の樹木のように天にそびえている。しかもその鋼の節々には無気味に輝く紅い甲殻がこちらを見下ろしているかのように蠢いている。
その甲殻の一つがタニアの方を向いた気がした。
偶然なのだろうが、その姿を目の当たりにするだけで、タニアの意気は砕けそうになる。しかし、その闇の恐怖の盾となったのは光の乙女の槍への誓いだ。
(そうだ、あの槍を守らないと──)
タニアは逃げる人の波に逆らいながら、男爵の私室へと急いだ。
副長が男爵を連れて戻ってきたら、きっと“機神”を何とかしてくれるはずだ。男爵は普段はいい加減だが、こんな時には何故か頼りにできる人だ。その時には絶対に《戦乙女の槍》が必要になる。先代男爵が“機神”を倒すために手にしたあの神槍が──
男爵の私室の扉が開け放たれていた。
タニアが慌てて部屋に入るが、壁にはあの槍はなかった。すでに誰かが奪っていったのか。
(そんな、こんな時に──)
タニアは慌てて部屋を出ると、槍を探す。あの長い槍を隠し持つなんて出来ない。誰かが持っているはずなのだ。
そして、その槍の姿はすぐに見つかった。
階下の広間で人々が槍を中心に集まっていた。いや、槍を奪い合っているのだ。
その手で槍を掴み、相手を振り払おうしながら罵声や暴力が飛び交っているのだ。
「待って!! その槍は男爵に──」
だが、その声は虚しく悲鳴と怒声に掻き消される。
タニアは慌てて階段を駆け下りた。
「やめろ! その神の槍は俺が持つ! 俺が一番、腕が立つ!」
「てめえ、自分だけ助かろうってのかよ!」
「お願い、わたしたちを助けて──」
人々の悲痛な、そしてタニアにとっても痛切な叫びが絶え間なく耳に届く。
皆、神の娘の化身である槍が、自分たちを“機神”の脅威から助けてくれると思い込んでいるらしい。
仕方ないのかもしれない。しかし、いまはその槍を本当の持ち主に渡さなくてはならないのだ。
「みんな、その槍は男爵に渡さないといけないの!! 男爵たちが戻るまで持って行かないで!!」
タニアは叫ぶが誰も取り合わない。聞いているのかすら分からない。“機神”の脅威も恐そうだが、人々が大勢いるのに、誰も人がいないかのような闇が、恐怖をさらに鮮明なものとしていた。
「お願い! 待って!」
タニアは叫び続けるが、不意に目の前の男が後ろに飛び退き、それに押されて床を転んだ。
慌てて身体を起こしたタニアが見たのは、人の輪とその中心で槍を振り回す兵士だった。
「どけ!! 道を開けろ!!」
兵士は槍を振り回しながら叫ぶ。それは威嚇ではなく、本気で近くにいれば斬りつけるほどの勢いだ。対して人の輪も道を開けようとしない。兵士への怒りか、それとも槍を奪われた憤りか、いずれにしてもこのままでは流血沙汰になりかねなかった。
「やめて! お願いだから!! いま、そんなことしてる場合じゃないの!!」
タニアは人の輪を強引に突っ切り、槍を持つ兵士の前に立ち塞がった。
「どけ!!」
兵士が躊躇無くタニアを蹴飛ばした。
タニアは人の輪のなかに倒れるが、くじけることなく再び立ち塞がる。
自分が刺されるかも知れない。
でも、あの槍を持ち逃げされるわけにはいかなかった。それに、戦乙女が姿を変えたと言われる槍に、こんな形で人の血を流させることが堪えられなかった。
その時だった。
目の前の壁が轟音と共に崩れ、巨大な鉄槌が姿を現した。
その壁の向こうに古代の鉄の巨人が立っていた。鉄槌と一体化した腕を持つ作業用の“鉄機”だ。鉄機は壁を鉄槌で破壊し、強引に館のなかへと侵入する。
人々は悲鳴をあげて逃げ出した。
鉄機は無言で槍を持つ兵士を見下ろす。
兵士は槍を構えたが、無言で腕を振り上げる鉄機の前に慌てて背中を向ける。
しかし、作業用の鉄機は殺意をもって鉄槌を兵士へと叩き付けた。
タニアは思わず目の前の惨劇に顔を背ける。
鉄機が地響きをあげて再び歩き出した。その先には兵士の手から弾き飛ばされた《戦乙女の槍》があった。
槍はあの鉄槌の一撃にも全く損なわれていなかったが、もはや周囲の人々にはそんな奇跡など見る余裕すらなかった。
鉄機がもう片方の人型の手を槍に伸ばす。
タニアは自分でも驚くほどに咄嗟に駆け出し、鉄機の手が届く前に槍を蹴り飛ばした。そして自分も逃げ出すが、床に転がった壁の破片に足を引っ掛けて転んでしまう。
鉄機の影がタニアを覆った。
タニアは鉄槌を振り上げる鉄機の姿を見上げながら、最期まで自分がドジで何もできなかったことを呪った。
だが、鉄槌より先に何かがタニアに覆い被さり、それに抱えられたまま床を転がる。
すぐ側で鉄槌が床を砕く轟音が響いたが、それで自分が助かったことにようやく気づく。
顔を上げたタニアの前にいたのはログだった。
「やれ!」
ログが号令を飛ばすと、館の入り口の方から何かが風を切って飛来した。
それが鉄機の胸を貫くと、その巨体は地響きをあげて倒れた。
放ったのは二輪を取り付けられた移動用の攻城用弩弓だ。鉄機も大型の鋼矢をまともに受けてはひとたまりもなかった。
「よく頑張ったな」
ログがタニアの頭に手を置いた。普段、寡黙なログの励ましにタニアは安堵と同時に目を潤ませた。
「……ログさん、あたし──」
「よく槍を守ってくれたな。礼を言う」
タニアは目をこすって涙をぬぐうといつもの勝ち気な表情に戻った。
「は、はい。でも、まだ髪飾りの件が残ってますからね」
「そうだな。これが終わったらな」
ログは立ち上がると、両手で剣を抜き、左手の短剣を逆手に構えた。
巨人の開けた穴から、幽鬼のように魔物達が姿を現していた。
「やつらは“機神”に操られている。狙いは《戦乙女の槍》だ。自分を倒した武器を閣下に渡さないつもりだろう」
「男爵も無事なんですね! ディエモス伯爵もですか!」
「男爵はいま“機神”と同化したヒュールフォンと戦っている。伯爵も街の防衛に向かっているが、あの騎士なら大丈夫だろう」
館の者たちを追い出すように迫る魔物達。だが、それと対峙するように《オニキス=ブラッド》の面々も到来していた。
「よお、食事当番。いい女の面構えになってるじゃねえか」
「ははぁ、いまので副長に惚れたな」
「冗談言ってる場合じゃないでしょうが! さっさと何とかしないと、大飯食らいじゃなくて、無駄飯食らいと呼ぶぞ!!」
修羅場を前にしても傭兵たちはいつものようにからかうのを前に、タニアも思わずいつものように叫ぶ。だが、いつもはだらしない人たちがいまはとても頼もしく見えた。
「タニア、槍を持っていてくれ」
「は、はい!」
ログが前に踏み出し、それを合図に傭兵たちも武器を構える。タニアは言われるまま、床に投げ出されたままの槍を拾い、何があっても離さない覚悟でしっかりと胸に抱きしめる。
「全隊員に告げる! 何があろうと《戦乙女の槍》とタニアを死守せよ! この戦いが世界の命運を決めると思え!」
ログは掛け声と共に剣を構える。その間にも魔物の数は増え始めていたが、ログの剣先は揺れることなく彼らに狙いを澄ませていた。
「続け! 屑石ども!!」
「おおう!!」
魔物たちの奇声を、かき消すように傭兵たちの鬨の声が館中に響き渡った。
リーナが戦乙女の自分に手を伸ばすと、もう一人の自分、王女リーナはいつの間にか姿を消していた。
『……それが貴女の選んだ“形”なのですか』
戦乙女は握られることのなかった手を下ろしてながら訊ねる。
「はい。わたしはこの“形”を選びます」
リーナは毅然とした眼差しを光の自分に向けて答える。
彼女が手を伸ばして掴み取った選択、それは戦乙女の持つ“槍”であった。
『あなたは槍に姿を変えるというのですか』
戦乙女は表情を変えることなく、さらに問いかける。それはもっともな問いかけであるが、いまは決意を試すためのものだろう。
「いいえ」
リーナは動じることなく答える。
「いまのわたしが、わたしの選んだ“形”です」
戦乙女は“槍を手にする”リーナを静かに見つめていた。
同じ“自分”なのだ。きっとその真意は伝わっているはずだ。
『それを、本当に為し得ると思っているのですか』
「分かりません」
リーナははっきりと、答えになっていない答えをする。
「無茶なことを言っているのは承知の上です」
『言えばどうにかなると思っているのですか? 選ぶことができないから、勝手な思いつきに逃げ、矛盾に目を背けているのではないのですか?』
戦乙女は問い続ける。もし、その通りであれば彼女の言葉は否定として聞こえただろう。
だが、いまのリーナは“自分”をごまかすことも隠すこともない決意があった。
「確かに矛盾に逃げることもあります。でも、矛盾するとしてもそれを自ら選んで背負う人だっている──それだって矛盾してるかもしれないけど! でも、わたしの勇士はそれをとても大切にしてて、そんな人たちが大好きなんです! わたしも武器に身を変えるなら、その勇士を護ることのできる武器になりたいのです!」
戦乙女はただ静かに耳を傾けていた。呆れているのかもしれないが、それでもリーナは後には引かなかった。
「人が矛盾しているなら、人の子の武器だって矛盾があってもいいと思うのです! 戦乙女にだって変わり者がいたっていいじゃないですか!」
最後は開き直りのようであったが、戦乙女は返事をする代わりに目を閉じた。
まるで何かを考えているようであり、リーナの心を読んでいるようでもあり、そして、そこにはいない何かに確かめているようにも感じた。
やがて戦乙女は目を開いた。
『……あなたは自ら、その“矛盾”になるというのですね』
リーナは答えなかった。すでに答えは決まっており、それはもう分かっているはずだからだ。
『あなたが見つけた、人の持つ“武器”──それがどのような結果になるかは私にも分かりません。それでも良いのですね?』
「……神様は本当はわたしがこの選択をするのを分かっていたのではありませんか? あなたともう一人のわたしは選択は強いても、どちらかとは言わなかった。それに、あなたは“槍”を手にして、わたしの選ぶ道を導いてくれていたのではありませんか?」
リーナがこの局面に立った時からの疑問をぶつけると、戦乙女はまるでリーナ自身のように微笑んだ。
『それはあなたが決めればいいことです。あなたの決断こそが“神”のご意思だと言ったら、あなたは納得しますか?』
リーナも微笑んだ。なるほど、確かにその通りかもしれなかった。
その時、急に全身に雷のように何かが逆流するような衝撃を覚えた。激しい感覚だが、不思議と苦痛ではなかった。
『貴女を捕らえていた“機神”に異変が起きたようです』
「マークルフ様が──!?」
『そのようです。ですが、いつまで“機神”に抗い続けられるかは分かりません』
戦乙女は再び手を上げると、今度は自分から“槍”を持つリーナの手に重ねた。
景色が再び微睡みのなかに消えていく。
だが、そのなかでリーナは確かに戦乙女の声を聞いていた。
『目覚めた時、貴女は真に生まれ変わるでしょう。あなたが私を選び、私があなたを選ぶことで──』




