回想 忍び寄る魔手
マークルフは一人、大公の屋敷から抜け出し、城下街へとやって来ていた。
謁見式を控えて街中は賑わっているのを見ると、リーナの護衛の役目も終わるのを感じずにはいられない。
リーナは今日も大公と何やら打ち合わせに出かけたらしい。
ログが警護するため心配はないだろう。それに今日だけは一人で行きたい所があった。
リーナは今後、大公が預かることになるだろう。大公ならリーナが途方に暮れることもない。しかし、この王国にも巣食う魔の手がいつ彼女を狙うかも分からない。
特にあのヒュールフォン=フィルディングがリーナを狙っていると思うと、苛立ちは募るばかりだ。
(将来を決めるのはリーナ自身だ。俺がどうにかできることじゃない。しかし、ヒュールフォンだけはーー)
マークルフは思い出す。
自分とフィルディング一族との戦いの始まりをーー
それはヒュールフォンとの因縁の始まりでもあった。
ーー五年前ーー
マークルフが暮らす祖父の館には、訪問する者が絶えなかった。
当主であるルーヴェンが病床について久しく、それを心配する者たちが遠路はるばる、見舞いに訪れるのだ。
もっとも全てを館に受け入れることはできない。
ルーヴェンは窓際にベッドを置き、館の外から訪問客に顔を見せるようにしていた。
「だんな! また来てくださいよ! とびっきり上等の酒、用意しておきますぜ!」
「男爵様が名付けてくれたうちの山羊、子供を生みましたよ! また、名付けておくんなさいな!」
人々は口々にルーヴェンに呼びかけ、男爵はそれに手を振って答える。
皆、笑顔で呼びかけるが、去った後には誰もが暗い顔をしていた。
すでに分かっているのだ。祖父の命がもう長くはないということを──
「……坊主、あの者たちのことを覚えておけ……儂がいなくなっても、彼らは“戦乙女の狼犬”を必要としている」
ベッドの横に座り、看病についていたマークルフは、目に涙を浮かべる。
「祖父様……」
「……どうした? 怖いか?」
マークルフは黙って頷く。
物心ついた時から常に一緒だった、いろんなことを教えてくれた祖父がいなくなる。
そして、その英雄の背負ってきた全てを、自分が受け継ぐなど想像もできなかった。
十二歳の少年にとって、それは途方も無く重い責務だった。
「……僕は祖父様みたいになれないよ」
ルーヴェンはベッドに身を沈めながら、そのしわがれた手を孫の手に重ねた。
撫でられるのが楽しみだった、この大きな手にいまは弱々しく感じられ、悲しかった。
「そうか……だがな、“狼犬”とて、最初から“狼犬”だったわけでは……ない。儂の……可愛い子犬が、どのように育つか……儂は楽しみで仕方がないよ」
そう言うと、ルーヴェンは激しく咳き込む。
「大丈夫!? ログ、先生を呼んでくれ!」
マークルフは部屋の入り口に待機している青年に、医者を呼ぶよう命じた。
祖父の最後の従者となるであろう寡黙な青年は、すみやかにその場を離れた。
ルーヴェンの手が狼狽するマークルフの手を掴んだ。
「坊主──いや、マークルフ……次期ユールヴィング家当主にお願いする……儂が死んだら、荼毘に付してくれ……そして、儂のなかにある《アルゴ=アバス》の……“心臓”を取り出してくれ……それが、儂の“遺産”だ──」
「分かったから、無理しないで。先生がもうすぐ来るから──」
扉がノックされた。
主治医だと思って振り向いたマークルフは入るように命ずるが、扉が開いて現れたのは主治医ではなかった。
それは煌びやかな儀礼服姿の一人の男と、やはり儀礼服に身を包んだマークルフと同年代らしい少年だった。
「失礼する」
二人は部屋に入った。その背後にログと主治医がいたが、その二人の邪魔をできないのか、扉の向こうに立ったままでいる。
「お身体の具合はいかがかな、ユールヴィング卿──」
誇示するように口髭を伸ばした男が、病床のルーヴェンを見下ろすように言った。
いまの状態を見れば、医者が必要なことは明らかだ。それでも敢えて訊ねる姿に、マークルフは悪意すら覚えた。
男の隣に控える少年が、マークルフの姿をちらりと見た。
大人びた雰囲気の少年は、マークルフの焦燥をまるで楽しむように、口許に笑みを浮かべているようだった。
「お話なら後にしてください! 今はゆっくりできる──」
「よせ」
マークルフは敵意と焦燥を露わにして叫ぶが、ルーヴェンはそれを止めた。
「……このような姿で申し訳ない……貴殿らは国王陛下よりの使者殿か?」
「左様。我が名は親衛騎士団副団長ロイフ=バル。王都よりの勅令を預かり、参上した」
「バル──フィルディングの懐刀といわれる……武家の出か……」
(フィルディング──)
自分に聞かせるように呟いた祖父の言葉にマークルフは身を強ばらせる。
それはルーヴェンより聞かされてきた、“聖域”に巣くう血族だ。そして祖父はその生涯を、この一族と戦うことに費やしてきたのだ。
少年と目が合うと、マークルフのその姿をあざ笑うように目を細めた。
マークルフは祖父の目の前で馬鹿にされたことに敵意と悔しさで手を震わせる。
「……それでは陛下よりの御言葉、拝聴させてもらえるか」
マークルフの肩にルーヴェンが手を置く。
その手の重さにマークルフは落ちつきを取り戻した。
祖父は老衰した身をさらして、因縁の相手を前にしている。自分が怖じ気づいている場合ではないのだ。
ロイフは書状をルーヴェンの前で広げ、厳かに告げた。
「クレドガル国王ナルダーク三世陛下の御名において、ルーヴェン=ユールヴィング男爵を“聖堂”騎士に命ずる」
マークルフはしばらく、その意味を理解することができなかった。
だが、理解した時、マークルフは再び、手を震わせた。
“聖堂”とは本国にある歴代の国王や偉人が永眠する聖地だ。
本来は王家の者が眠る地だが、偉業を遺した者たちもまた国葬された後に、この聖地へと埋葬される。その際、“聖堂”に入る資格を得るため、“聖堂”を護る騎士の役目を与えられる。
つまり、これは祖父を国葬にするという通告なのだ。
だが、葬儀の決定など、まだ生きている本人を前に伝えることじゃない。
子供のマークルフでも分かることを、この者たちは平然として伝えている。
「しかと拝聴した……謹んで承ると、陛下にお伝えいただきたい──」
「承知した。では、これにて失礼する」
「……一つだけ、お訊きしたい」
退室しようとした使者たちを、ルーヴェンが呼び止める。
「そこの小姓は……何者かね?」
バルと少年は立ち止まり、振り返るとルーヴェンを見据える。
「わざわざ、ここに連れてきたのには……理由があるのだろう?」
少年が振り返ると、冷徹な視線をルーヴェンに向けるが、慇懃無礼に思えるほどに畏まって挨拶をする。
「このような者にまでお声をかけていただき畏れいります。私はヒュールフォン=フィルディングと申します」
マークルフは息を飲んだ。マークルフが因縁の相手であるフィルディングの名を持つ人間を見たのは初めてだった。それも、自分と同年代の者と──
「故フィルガス王の妹姫の血を引く者か──」
「そう、フィルガスの継承者です」
ロイフが強調するように言った。
少年は恭しく礼をするが、その目には敬意は感じられなかった。
「この者は現在、我が元で従者を務めているが、いずれはフィルガス再興の礎となるでしょう。そこの後継者殿ともども、どうか、お見知りおきを──」
バルの言葉にルーヴェンは返事をしようとして、再び激しく咳き込む。
「……では、これにて失礼する。養生されよ」
バルは冷ややかにそう言うと、ログと医者の間を割って退室する。
ヒュールも後を追う途中、マークルフの方を振り返ると、まるで勝ち誇るように笑みを浮かべ、そのまま去って行った。
入れ替わりに主治医が駆けつけると、すぐに咳止めの薬を用意する。
「……すまんな」
薬を飲んでしばらくすると咳が収まり、ルーヴェンは苦笑する。
「どうやら先手を打たれたな……国葬となると、火葬にはできなくなる。向こうもやはり儂の“心臓”を狙っているようだ」
「彼らはお供の騎士たちをこの近くに逗留させるようです。若に“心臓”が継承されないように監視するつもりでしょう」
脇に控えていたログが言った。
ここに来て日は経ってないが、この若き元騎士にはルーヴェンもマークルフも信頼を寄せていた。
「あわよくば自分たちの手中にしたいのだろう……国葬のために、遺体は防腐処理される。その際に“心臓”を取り出すことも可能だろう」
「やめてよ! 祖父様がもうすぐ死ぬような話は──」
マークルフは思わず叫んだ。
そして、怯懦な自分が涙となって表れていることに気づく。
「……あの少年と自分を比べてしまったか」
ルーヴェンはそう言うと、まるで大したことでもないように笑った。
「まあ、確かに秀でた少年だろうな……なるほど、フィルガスは滅びていないと、儂に見せつけたかったらしい」
ルーヴェンは何故か、笑っていた。
少年には分からなかった。余命も僅かで、生涯かけて戦ってきた一族の挑発を目の当たりにして、なぜ、こうも余裕の笑みを浮かべられるのだろう。
「……ログ、旅の準備をしておくれ。死ぬ前にバルネスに会っておきたい」
「旦那様!? 駄目です、許可できません。お身体に障ります!」
主治医が慌てて制止するが、ログは命令に従い、準備のために部屋を出て行った。
「仮にも大公閣下をこんな辺境に呼びつけるわけにはいくまい……老いぼれの方から会いにいくのも一興だろう。それに盤遊びでは儂が一つ負けておるしの──」
祖父は“心臓”を向こうに渡すまいとして、覚悟の上で返し手を打つ気なのだ。
だが、それを受け継がせたい自分が、重圧に震えていた。
それが悔しくて仕方がなかった。
「……ログ、僕も手伝うよ!」
マークルフは涙を拭うとログの後を追う。
病床の祖父の前で、生涯かけてやってきたこと否定しようとする奴らに負けたくはなかった。
「ーー坊主」
ルーヴェンがマークルフを呼び止めた。
振り返ると祖父は微笑んでいた。
「子犬と思ったら……もう鋭い牙が一本、生えてきたじゃないか」
マークルフはしばらく呆然とする。だが、やがて静かに頷いた。
今までのように褒められて喜ぶのではない。“狼犬”となるため、今度はこちらが祖父に認めさせる番なのだ。




