“聖域”に秘めしもの(2)
「食がお進みでないようですが、何かございましたか?」
皿におかずを残しているリーナを見て、傍らに控えていたエルマが声をかける。
彼女は最初に大公と対面した時にいた侍女だ。若いながら怜悧な印象を持つ彼女は、大公から最も信頼されているらしく、現在は大公よりリーナの身の回りの世話係を任されていた。
確かによく気がつく女性であり、短い間にリーナも彼女を信頼するようになっていた。
「何か喉に通りやすいものをご用意いたしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと、その、考え事をしていたもので……」
言葉尻をにごすリーナの様子を見て、エルマは彼女の顔を窺うように首を傾ける。
「僭越ながら、何かお悩みがございましたら吐き出された方がよろしいですよ。これから王都に行けば何かと忙しくなりますから」
リーナはしばらく悩むが、意を決してどうしても訊ねてみたかったことを口にする。
「エルマさんはユールヴィング男爵が陰でささやかれていることをご存じですか?」
侍女ではあるが大公の側に常に控えているエルマなら、何か知っているのではないかと前々から思っていたのだ。
エルマはしばらく黙ったまま、空いている皿を下げていくが、やがて口を開いた。
「……“祖父殺し”のことでございますか」
「そうです! もし知っていることがあるなら、教えて欲しいのです」
エルマは手を休めて周囲に人がいないのを確認すると、声を潜めながらリーナにささやく。
「私も全てを知るわけではありません。それにこのことはこの国の大きな不祥事に関わることでもあるのです。ですので、姫様とはいえ、おいそれとお話しできないのです。申し訳ございません」
エルマは申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ、無理を言ってすみませんでした」
リーナはそう言うが肩を落とす。
国の不祥事が何かは知らないが、そうなると周囲の口は確かに固くなるというものだろう。
「旦那様ならこの事はご存じでしょう。ですがお訊きになるのは難しいと思います。旦那様は昔から全ての記録を日記に残しておいでですが、そのことについて触れている日記には鍵をかけて保管しているほどですから——」
「王都へ着いたらどうするつもりだ、坊主?」
マークルフは大公と遊戯盤を挟んでいた。
祖父と大公が顔を合わせると必ず遊んでいたもので、現在はマークルフが代わって相手を引き継いでいる。しかし、現状は祖父の成績に負け星を重ねることが続いていた。
そして、今回も盤上の合戦は決着した。
「……どうもこうも国王陛下と謁見させるだけさ。それが俺の仕事だ」
マークルフは負けを認め、自分の最後の手駒を指で弾いた。
「姫とは会えなくなるかもしれんぞ。フィルディングも動きだしているしな」
「俺はユールヴィング家の当主として、奴らと戦うだけだ。リーナには関係ねえ」
「……あの娘を巻き込みたくない気持ちは分からんでもない。だが、それでは姫の気が済まないままになる。坊主だって本当は分かっているのだろう」
大公は椅子に深く身を委ね、立ち上がったマークルフの姿を見上げる。
マークルフは窓の外の夜空の星を見る。自分の城でリーナと並んで見上げた夜空を思い出していた。
「俺はリーナの思うような英雄の後継者じゃねえ。芝居は終わったんだ。いずれあいつもくだらない男に騙されたって気づくさ」
「芝居の後には役者が出てきて挨拶するものだ」
「劇団の内情までべらべら喋る奴はいないさ」
背中を向けたまま、マークルフは答える。
「あの時と同じだな」
大公は椅子から離れると、マークルフの隣にやって来る。
「わたしはよく覚えているよ。親友の臨終に立ち会うなと子供のおまえに言われた時をな。あの時もおまえはわたしを巻き込ませず、一人で立ち向かおうとした」
「何が言いたいんだ、爺さん」
大公がマークルフの肩をポンと叩いた。
「なに、気になる娘には多少、甘えるぐらいの方がもてるというもんだよ」
「うるせえ! さっさと寝やがれ! 明日は早いんだ!」
「ああ、一つだけ確かめ事があってな。それが終わったら寝るとしよう。負けた罰だ。駒は片付けて置いてくれ」
マークルフの苛立ちにも涼しい顔で、大公は部屋を去って行った。
王都への出発を明日に控え、大公の城は静けさに包まれていた。
その通路をリーナは一人で歩く。灯りになるものも持たず、窓から射す月の光を頼りに目的の場所へと向かった。
やがて誰にも見とがめられることなく、リーナはある扉の前に辿り着く。
そこは大公の書庫の扉だった。
リーナは手にしていた鍵を握る。
この鍵は大公が予備として保管していた合鍵だ。前に大公に頼まれてこの部屋の書物を取りに行く時に、予備の鍵を使うところを見て覚えていたのだ。
本来ならこれは許されることではないだろう。他人の日記を、それも重大な秘密が記された記録を盗み見ようとしているのだ。
だが、リーナは意を決して鍵を鍵穴に差し込む。ここまで来てもう引き返すつもりはなかった。
鍵が開き、リーナは扉を開けて中に入る。そして窓を遮るカーテンを少し開いて、部屋に光を入れる。
部屋には壁一面に書架が並び、無数の数の書物がきれいに整頓されて安置されている。
目的の日誌はその部屋の隅にあった。日付を記した背表紙の並ぶ本の中から、鍵の掛けられているものを探す。
やがて、それらしいものが見つかった。やはり鍵付きの厚いカバーが取り付けられており、そのままでは見ることはできない。
リーナは扉の鍵と一緒に安置されていた小さな鍵束を取り出す。おそらく、これのどれかが鍵のはずだ。一つずつ鍵を替えては日誌を開こうとするが、なかなか正しい鍵が見つからず、後ろめたいことをしているせいもあり、段々と気が急いていく。
「——何をしているのかね?」
その声にリーナの心臓は凍り付き、思わず日誌を床に落としてしまった。
リーナが恐る恐る振り返ると、そこには一人杖を突き、扉の前に立つ大公の姿があった。
「リーナ姫、無断で書庫に入り日記を暴こうというのは感心しないな。どういうことかね?」
大公はゆっくりと近づいてくる。その表情に怒りは見えないが、それが余計にリーナには恐ろしく感じられ、その場に膝をついた。
「申し訳ありません、大公様! 私、分かっていたとはいえ恐ろしいことをしてしまいました」
いまにも涙があふれ出そうなリーナの声に、大公は近くにあった椅子に腰かける。
「姫がそこまでするのには何か、理由があるのだろう。それを聞かせてもらえるかね」
大公に言われ、リーナは正直に話すことにした。
「……どうしても、マークルフ様が“祖父殺し”と呼ばれる理由を知りたかったのです」
「それは何故だね?」
大公はリーナの弁明には何も言わず、さらに訊ねる。
「……それは……それが分かれば、マークルフ様のことが分かると思ったからです」
「その根拠は何かね?」
大公の度重なる質問に、リーナは口を詰まらせる。
「……根拠……ですか」
「そう。姫は坊主の本当の事が知りたいと言うが、それは今の坊主が何かを隠していると思っているからのはず。そう思う理由を知りたい」
大公は責めるでもなく、困らせるわけでもなく質問を続けた。それが逆に重い難題を突きつけられたような気がした。
「それは、あの方が尊敬する祖父に対してそう呼ばれるようなことをするとは思えなくて……」
大公はそれを聞き、少しだけ首を捻る。
「もっともな理由だが、それでは足りないな」
「足りない……ですか?」
「そう。例えば後見人のわたしが、坊主は本当は祖父をよく思っていなかったし、いまの坊主は何も隠していないと言ったら、それで終わりじゃないかね」
リーナは何も言い返せなかった。
大公はきっと本当のことを知っている。しかし、大公の言う通りはぐらかされればそれで終わりとなる。
「知れば何かが分かり、何かが解決できると思ったのだろう。だが、真実とは意地悪でね。それを知れば新たな答えを要求するのだよ。いまのわたしのようにね」
大公の言葉にリーナは泣き出す。自分の浅はかさと覚悟の足りなさが恥ずかしかった。
「うむ、姫を泣かせるつもりはなかったのだが……そうだな、ならはこれは宿題としよう」
リーナは涙を手の甲で拭い、ゆっくりと顔を上げた。
「姫が坊主を信じる理由を、わたしに納得できるように説明できれば、わたしが知っている全てのことを話そう。ただし、期限は国王陛下との謁見の前までとする。これでどうだね?」
リーナは黙っていたが、しばらくして小さく頷く。
自信はなかったが、大公の厚意を無駄にすることはできなかった。
大公は立ち上がり、机にあった合鍵を手にした。
「ここはわたしが閉めておくよ。姫は早く休みなさい。明日に差し支えては困るからね」
リーナの姿が通路の奥に消えるのを確かめると、大公は書庫に鍵をかける。女性の手が横から差し出されると、その手に鍵を託した。
「ありがとう、エルマ。協力感謝するよ」
エルマは鍵を預かると、リーナの去った方に目を向けた。
「少し、気の毒だったかな」
「そうですね。旦那様のお申し付けとはいえ、姫様にこのようなことをそそのかしたみたいで、申し訳なく思います」
「すまなかった。ただ教えるだけなら簡単だが、やはりこの目で確かめなくては気が済まなくてね」
大公の杖の頭を両手に持ち、通路の向こうに目を向ける。
「それは男爵様の後見人としてのお立場からですか」
エルマが少しからかうように言うと、大公もそれに合わせて笑った。
「なに、そんな立派な理由じゃない。たまにはわたしも芝居をしてみたくなっただけさ」
「カーテンコールの時が怖いですわよ」
「内緒にしておけばいい。誰かがそう言っていたよ」
滞在を終え、マークルフたちはクレドガル王国の首都ラフルへと出発した。
今度は大公も同行することになり、護衛は大公配下の騎士たちが務め、《オニキス=ブラッド》はその後を同道すことになった。
王都ラフルは“聖域”と呼ばれる六王国地域でも有数の都だ。
かつて古代文明の都がこの地に存在していたらしく、近辺からは多くの古代遺跡が発掘されている。
“聖域”の中心では魔力が乏しく、利用する古代文明の遺産の利用は困難だったが、文明の研究で得られる知識は様々な形で反映されており、市民の生活水準は高い。
舗装された市道に、高く趣のある建築物もそれを印象づけている。辺境の田舎である男爵領とは比べるべくもない。
やがて、マークルフは王都を一望できる丘の上に差し掛かった。
王都には王城や貴族の屋敷など、壮麗な建造物が並んでいたが、そのなかに、一際目を引く建造物があった。
周囲を見上げるほどに高い石壁で囲まれた、円形闘技場のようであったが、そのなかで目にできるのは、決して見世物にはできない脅威だ。
現在は眠っているが、目覚めて暴れようものなら、その堅牢な城壁すら阻むことはできないだろう。
先行していた大公とリーナを乗せた馬車が止まった。
御者が扉を開け、先にリーナが、次いで彼女の手を借りながら大公が降りた。
その時に、リーナと視線があったが、彼女はすぐに目を逸らしてしまった。
何かあったようだが、いまの自分が首を突っ込んでもまたややこしくなるだろう。
リーナのことは気にしないようにし、大公へと話を振る。
「どうしたんだ、爺さん?」
「ああ、彼女によく見せてやりたくてな」
大公はそう言うと円形の城壁を指した。
マークルフがリーナの方を見ると、彼女と目があうが、すぐに向こうが視線を逸らす。
「どうした、リーナ? 俺の横顔がそんなに気になるか」
「ち、ちがいます! 貴方様の槍を見ていただけです」
明らかに嘘の言い訳をすると顔を背ける。さすがのマークルフも理由が分からず首を捻る。
「リーナ姫。あの中に眠っているのだよ」
二人のやりとりを知ってか知らずか、大公がリーナに告げる。
リーナがその建造物を見つめると、マークルフはこれだけは自分で伝えたく、大公の言葉を引き継いで言った。
「古代の世界を壊滅まで追い込み、数十年前にも復活しようとしたが、先代”戦乙女の狼犬”の手で打ち倒された災厄の“機神”ーー《アルターロフ》がな」




