“聖域”に秘めしもの(1)
「案の定、リーナを狙って動き出したぜ。しかも出てきたのはヒュールフォン=フィルディングだ」
ティーゲル子爵の城から大公領への帰路の途中、マークルフはログと馬首を並べると、忌々しげに言った。
「予想はしていたが、堂々と出てくるとは相変わらず図太い神経をしているぜ」
「我々のような傭兵あがりに使う神経は持ち合わせていないのでしょう」
「それと、よほどリーナとお近づきになりたかったのかもな」
マークルフは吐き捨てる。リーナを踊りの舞台に誘って公衆の面前で二人の姿を披露したのも、後にリーナの存在が公表された際に噂にするために違いない。
「リーナ姫は滅びた古代王国の王女です。亡国の公子ヒュールフォンとはある意味、お似合いでしょう。あの二人が結ばれれば、フィルガス復興のきっかけには丁度良いかもしれません」
マークルフはログの言葉に黙ったままだ。
「……閣下」
「分かってるさ。頭は酔いと一緒に城の夜風で冷ましてきた」
マークルフは答えた。その言葉には余計な気負いも苛立ちもない。
「ただ奴の余裕っぷりは気になるな。恨み骨髄の俺らにそれほどの態度をとれるのはよほどの大物か、何か切り札を握っているのかもしれん」
「大物の可能性もありますが——」
マークルフがいつもの通りなのを確認して安心したのか、珍しく冗句のようにログは言う。
「ねえな」
マークルフは一笑にふす。
「奴には“矛盾”がねえ。生まれながらの貴族で、その生き方も亡国とはいえ貴公子そのものだ。祖国再興を願い続けるのもある意味、筋を通した生き方かも知れねえ。だが、祖父様ならこう言うだろうね——『高みに立っていては国の土台は作れんよ。とりあえず、傭兵の口を世話してやるから自分で土台作りに精を出したらどうかね』ぐらいはな」
祖父ルーヴェン=ユールヴィングは英雄と道化、貴族と傭兵、相反する生き方を全うした。
その生き方の根底にあるのが“矛盾”だ。
光の下で気高く生きる生き方も、闇に抱えた心のままに従う生き方も、それは例え貫ぬけたとしても人としての生き方ではない。両方を抱え、迷い、それでも自らの足で生きる人々こそ祖父は敬愛した。
『矛盾こそは均衡である』
ルーヴェンが好んだ言葉だ。そしてこの老雄は他の人々とは違う独自の解釈を込めて、この地を“聖域”と呼んだ。
神秘の“光”の導きもなく、“闇”の叡智も役に立たない。それでも人々は生き、その生き様が次の世代の道標となる。それこそが最も偉大であるからと——
「この地を影で支配しているつもりの一族の、しかもそのスネかじりなんぞより、店番しているフィーの方がよっぽど大物さ」
「ばあちゃーーん、だんしゃくたちはいつもどるのーー」
《戦乙女の狼犬》亭のカウンターにあごを乗せたフィーは、そのだらしない姿のまま祖母に訊ねる。
「これ、そんな格好するんじゃありません。お客さんが来たらどうするの? これじゃ、この店の“いくさおとめ”として恥ずかしくて表に出せないわね」
祖母である女将の声にフィーは顔を上げた。孫娘にとって“戦乙女”の言葉はどの呪文よりも効果があるが、今回はさすがにそれだけで解決しないようだ。
「だって、だんしゃくいないとヒマだし、リーナおねえちゃんともっとあそびたかったーー」
フィーは駄々をこねる。
実際、孫娘は男爵を兄のように慕っており、あの姫のことも本物の戦乙女みたいだと言って憧れていたのだ。
「男爵たちはいずれ帰ってくるわよ。きっとお似合いの二人になってね」
女将は二階の壁に掛けてある額を見上げる。そこにはこの店の一番の常連だったルーヴェン=ユールヴィング男爵の絵が飾られていた。
(もうじき、あなたの命日になるのね……これも巡り合わせというものかしら)
男爵たちが王都に辿り着くのも丁度、その時と重なるだろう。
(姫様が若様のことを理解してくれると良いのだけれど——若様は素直になれないところがあるから、きっと困っているかもしれないわね)
それでも女将は笑みを浮かべ、様子を見ていた孫娘を不思議がらせる。
(若様に酒を注ぐ相手でいるには、わたしも歳をとりすぎました。面倒を見るのはあなただけで十分よ。すまないと思うなら、若様たちのことをどうにかしてあげてくださいな)
女将はユールヴィング当主の特等席である二階席に顔をめぐらせ、あの時のことを思い出していた。
新当主としてやって来た最初の夜、女将しかいない店内であの席に座ったかと思うと号泣し、祖父に一晩中謝り続けていた少年の姿を——




