嘘は見え、真実は見えない
(……いままでの話は全て、嘘だった)
聖所に戻ったリーナは、二階のバルコニーで白み始めた朝の空気を吸っていた。
聖所の上階は滝の流れる崖に囲まれ、人が踏み込むことの難しい自然の砦となっている。リーナはそこでしばらく一人になりたかったのだ。
リーナもエンシアの王家の人間だった。だから虚々実々の駆け引きというものがあることも知っている。しかし、マークルフたちが生きる世界はまたそれとも違ったものだ。
あまりにいいかげんだ。
貴族としての義務を果たすための立場と力を、ただ自分たちの安寧のためだけに利用しているとしか思えない。もちろん、政争や戦いに明け暮れるのが正しいわけではないが、詐欺やごまかしや犯罪行為をするなど、爵位を持つ者としては論外の行為だ。
リーナは悲しくなり、顔を上に向けた。
「何をお嘆きですかな、姫君?」
不意の男の声にリーナは振り向く。
声がした聖所の屋上を見ると、そこには仮面で顔を隠した剣士風の男が立っていた。
驚くリーナを前に、仮面の剣士は屋上から飛び降りる。壁を蹴り、突き出た軒を手で掴みながら、仮面の剣士は軽々とバルコーの床に着地する。
驚くほどの軽業だった。これだけの動きができればここに侵入するのも容易いだろう。
剣士がゆっくりとリーナへと近づく。リーナは後ずさるが、すぐに手すりにぶつかる。その先は滝に続く川が白い飛沫をあげて流れていた。声を出しても近くに流れる滝の音に掻き消されるかもしれず、逃げ場はなさそうだった。
「……貴方は何者ですか? まずは名乗るのが礼儀ではありませんか?」
それでもリーナは毅然とした態度を崩さず、仮面の奥の目を睨み付ける。
「故あって素性を明かすことはできませぬが、ユールヴィングの所業に心を痛めるさるお方の使いとだけ申し上げます」
剣士は恭しく礼をする。
「警戒されるのも無理なきことでしょう。本来なら、地上に出られた時にきちんとお迎えに上がりたかったのですが、ユールヴィング卿に妨害されてしまいましてね。しかし、これで少しあの男爵という人間をご理解されたのではありませんか」
「……何のことでしょうか」
リーナははぐらかす。少なくとも保護を受けた恩義は忘れてはいけないのだ。
「なるほど、お優しい方だ。ですが、いつまでもユールヴィング卿の下にいることもありますまい。貴女が望むなら、いまからでも──」
剣士の言葉を止めたのは、その背後で聞こえた剣を抜く音だった。
剣士の背後、彼と向かい合うリーナの視線の先に、小剣を抜いたログの姿があった。
剣士もそれに気づいたのか、ゆっくりと振り向きながら剣を抜いた。
両者は無言のまま、剣を片手に距離を狭めていく。息を殺して成り行きを見守るリーナの前で、二人は剣の間合いに入るが、両者はそのまますれ違い、背中合わせになって立ち止まる。
「……何をしに来た」
ログが静かに問うと、仮面の剣士は対照的におどけるように肩をすくめて見せた。
「なに、姫君をお迎えにあがったのだ。ついでに貴殿と勝負をしたくてな」
「いままで静観していた割には性急だな」
「こっちにもいろいろ都合というものがあってな」
仮面の剣士は自信に満ちた口調で挑発する。
両者は同時に身を翻した。
ログが右に振り向きながら仮面の剣士の足を狙って剣で薙ぎ払う。だが、仮面の剣士は跳躍してそれを避ける。さらに空中で身を捻ったかと思うと、不意に剣を突き出した。剣を振り切って隙の出来たログの眉間を正確に狙うが、ログは外套の下から左手を振り上げると、その動きの読みづらい一撃を受け流した。今度は仮面の剣士が着地する時を狙い、ログが右手の剣を下から振り上げるが、仮面の剣士は左手だけを床に着き、それを支えに姿勢を傾けて剣を躱した。
リーナは目の前で起きる戦いをただ見守るしかできなかった。
命のやり取りもそうだが、ほんの隙も許されない緊迫した剣の応酬に、自分が動いて邪魔をすることが怖かったのだ。
仮面の剣士はバネのように後ろに飛び退き、ログは逆手に持つ左の短剣を眼前に構える。
「なるほど、やはり二刀流か」
仮面の剣士は身体を小刻みに動かしながら、剣を突き出す構えに移る。全身のバネを活かした体術と剣技はどのような攻撃をするのか全く予想できなかったが、ログは両手に剣を構えたまま、ただまっすくに相手の出方を窺っている。
静と動、まさに対照的な姿だ。
しかし、その睨み合いは仮面の剣士が剣を下げることであっさりと終わった。
「……どういうつもりだ」
「気が変わった。どうやら思った以上に勝負は長くなりそうなんでね。もっとじっくりと戦える機会を待つとしよう」
「そちらから来ておいてずいぶんと勝手だな」
「そうだな。それは詫び──」
仮面の剣士が剣を振り上げた。金属音がして床に投げつけられたログの剣が転がる。その隙にログは左手の短剣を構えて仮面の剣士に迫るが、仮面の剣士も自分の剣をログに投げつけた。ログも短剣で弾き飛ばすと、仮面の剣士はそれを予想していたように床を横っ飛びに転がり、床を滑る剣を掴んだ。そのままバルコニーの端まで走り着くと振り向く。
「貴殿とは長話はできそうにないな。しかし、剣の放りっぱなしはいかんな。剣が可哀想だ」
そう言って、仮面の剣士は後ろに身体を傾け、手すりの向こうへと自ら落ちて姿を消した。
ログは床に転がっていた剣を手にとり、剣士の消えた先まで駆け寄る。そして下を見回すが、行方を見失ったのか、しばらく警戒した後、両手の剣を収めて、リーナの許にやって来る。
「ご無事でしたか、姫。奴は何か、言っていましたか」
「……いいえ、特には──」
あれだけの戦いの後でもいつものように冷静でいるログを前に、リーナはやや気押されながら答えた。
男爵の裏の姿を知った後では疑いがちになるが、この副長の剣の腕は間違いなく本物なのだろう。
「……戻りましょう。お一人であまり出歩かれないほうがよろしいでしょう」
ログはそう言って先を歩き出す。
「あの──」
リーナはその背に声をかけようとした。
あれほどの実力を持ちながら、なぜ男爵に従っているのか、どうしても聞きたかったからだ。
しかし、ログは何かに気づいたのか、村の入り口の方を向いた。リーナもその視線を追うと、そこで目についたのは旅の騎士部隊が村の門に集まっている姿だった。
それはあの夜に見た、ディエモス伯爵たちの姿だった。
村人たちが聖所の前を流れる滝の前へと集まっていた。
やがて観衆の前で滝の勢いがゆっくりと落ちていく。
滝の上で水門が閉められ、いつもは滝の裏に隠されていた魔剣の眠る空洞が観衆の前に披露される。
空洞の側には賓客向けの席が用意され、その一つにリーナは座っていた。
隣にはマークルフ、そして、そのさらに隣にはディエモス伯爵が陣取っていた。
兜を脱いだディエモス伯爵は三十歳ぐらいだろうか。彫りの深い顔にがっしりした体格。そして渋い声に大げさにも見える仕草は正直、暑苦し──いや、騎士の模範となるものだった。
「なるほどな。こういう仕掛けになっておるのか」
「そうさ、伯爵。この方が多くの証人ができるからな。だが、一番の証人は何と言っても伯爵だ。頼むぜ」
顔見知りなのだろう。マークルフは伯爵と意気投合して話をしている。昨日の夜の事などなかったみたいだ。
そして魔剣もまた、何事もなかったかのように池の中央の岩に突き刺さっている。
朝方にやって来たディエモス伯爵の部隊は、例の魔剣を抜いた青年たちを同行させていた。
青年は魔剣の奪還を伯爵に願ったらしく、伯爵はそのことを魔剣を預かっていたエールスにも伝えるためにやって来たのだという。
だが、ケウンも他の村民たちも魔剣は抜かれておらず、よって青年は勇士の子孫ではないと説明した。
たまたま(?)聖所の客人となっていたマークルフもそれを証言した。
青年は当然、抗議した。このままでは自分が勇士の子孫を詐称したことになるのだ。魔剣を持ち逃げしたことを棚に上げて揉めに揉めたらしいが、この場を収めるため伯爵は自分が立ち会い人となり、もう一度、青年が魔剣を抜くことを提案した。
青年もマークルフもそれに同意し、すぐにこの場を用意されたのだ。
その渦中の青年が姿を現した。どれだけの村人が裏事情を知るのかは分からないが、彼らの反応は冷ややかなものだった。だが、青年はそんな空気を読むこともなく、池の真ん中に続く飛び石の上を進み、魔剣の前に立った。
青年は勝ち誇った顔をしていた。当然、一度は魔剣を抜いたからだろう。
伯爵も間近で見るためか、席を立ち、池の側へと進む。
「……気の毒に思ってるんだろう?」
二人きりになると、マークルフがリーナに小声でささやく。
「だが、早いうちに分からせたほうがいいさ。後になって偽物と分かるほうがもっと気の毒だ」
「ご自分たちも嘘と偽りを利用しているではありませんか?」
「それに一つの“真実”もな。それがあってこそ、“嘘”と“偽り”も力を持つ」
最初、リーナの遠回しな非難を揶揄したのかと思ったが、そう呟く男爵の目は厳しく青年を睨んでいた。
「ですが、もし、また魔剣が抜けたらどうされるのですか?」
「それはないさ。魔剣は一度抜けたらしばらくは抜けることはない」
観衆がざわめきだす。青年が魔剣の柄を両手で掴んだのだ。そして、魔剣を一気に引き抜こうとする。
だが、いつまでたっても魔剣は抜けなかった。青年は力を入れているのだが、魔剣はびくともしないのだ。
「やっぱり偽物だ!」
「時間を返せ!」
いつまでも魔剣にしがみつく青年の姿に、民衆の間から罵声が飛びだしはじめた。
「ち、力を貸してください!」
青年は慌てて仲間の騎士たちを呼んだ。そのうちの二人が駆けつけると青年の身体を掴み、一緒になって魔剣を引っ張る。
しかし、やはり魔剣は微動だにしない。
「こ、これは偽物だ!」
狼狽した青年は抜くのを諦め、池の中から大きな石を掴むと剣に叩き付けた。
民衆は騒然とするが、本物の魔剣は折れることはなかった。
「そこまでだ! それ以上の暴挙はこのわたしが許さぬ!」
伯爵が青年と観衆の間に立ち、宣言するように言った。周囲の喚声にも消されぬ一喝に、双方とも静かになる。
青年はがっくしと膝を付くと、伯爵の部下たちに両腕を掴まれながら、その場から退場していった。仲間だった騎士も青年を見捨てたのか、伯爵に何やら弁明するもすぐに伯爵に追い払われていった。
リーナがマークルフの方を見ると、男爵はまだ何か気になるのか、組んだ足の上で頬杖をついて事態を見守っていた。
「大丈夫だ、リーナ。伯爵には俺が言っておく。あの兄ちゃんたちはすぐに解放させるさ」
「村の方たちも迫真の演技ですわね。嘘と偽りの舞台で騙されるのはさすがにお気の毒ですわ」
「そうだな。どこまでが嘘で偽りか、分からないってのは疲れるよな」
「……何をおっしゃりたいのですか?」
まるで、自分が騙されかけたような男爵の口ぶりに、リーナは怪訝そうに眉根を寄せる。
「そんな難しい顔するな。ただ、あの兄ちゃん、本物だったかもしれんと思っただけさ」
「本物って……本当に勇士シグの子孫だってことですか?」
「確証はない。だが、ここまでのお膳立ても、あの兄ちゃんたちの自信たっぷりな態度も、どうも引っかかってな」
男爵の鋭い双眸は、その二つ名のように鋭い嗅覚を思わた。
「仮にここで本物の魔剣が抜けていたら、この村と口裏を合わせた俺の方が立場が危うかった。伯爵はある意味幻想に生きる騎士だが、証人としては絶大な信用があるからな。ま、これで例えあの兄ちゃんが本物であったとしても、もう魔剣を手にすることはできなくなるわけだ」
「しかし、本当に本物なら剣を抜いたはずですわ」
マークルフは黙って懐から《グノムス》の“お手伝い券”を出した。
「念のために、グーの字に地面の下から魔剣を掴ませていた。例え本物の勇士の子孫だったとしても、鉄機兵の力比べには勝てんだろうよ」
「そ、それって最初から、インチキじゃないですか! しかもグノムスまで利用して!」
「本物の子孫だろうと、魔剣を抜けなきゃ本物じゃないってことだ。グーの字にもいい勉強になったろ」
悪びれた様子のないマークルフに、リーナはついに堪忍袋の緒が切れた。
ドスッ
マークルフの左足を踏みつけながら全体重をのせて立ち上がると、後ろで悲鳴をあげている男爵を残して、その場を足早に立ち去った。
聖所の通路に入り観衆の声が小さくなるにつれて、リーナの目に涙がたまっていく。
少しでも弁解の余地があるなら、追って話をしてくれればいいのに──
そうしたら、少しでも話を聞くのに──
リーナは一度だけ立ち止まる。
しかし、誰の声も近づかない。
自分だけが取り残されたように、急に心細くなった。
未知の時代でも生きていく覚悟を決めたはずなのに──
自分の覚悟もまた嘘だったのかと悲しくなったリーナは、いまの自分を見られないように自分の部屋へと走り去った。




