掌の中に閃く花
富子の手の中に、その花は咲いていた。
お世辞にも華奢とはいえない手をじっと見下ろして、富子は浮かない顔をしている。
私は声をかけるのを躊躇ったが、果たしてそれは一瞬の事だった。
「どうした、着けないのか」
富子ははっとこちらを見て、誤魔化すように微笑んだ。
ゆるく握られた右手に、その花は閉じ込められた。
檜垣紋の袷を着た妻が、何やら忙しなく探し物をしていた。小声で呟いていたものを渡してやると、富子は安堵した様子で小さな瞳を細め、ふくよかな顔に微かな皺を刻んで私に笑い掛けた。
「お客かい」
「親子でいらしてくださって。写真の一枚もないのは淋しいじゃないですか」
富子は十数年前から、使いもしないよりましだと云って本邸でささやかな宿場をはじめた。どちらかと云うと保守な思考に回りがちである私は反対したが、怠けて年を重ねるより忙しい方がずっと良いと押し切った。
富子は写真機を大事そうに両手で持って、富子は宿場へと小走りに駆けていく。私は苦く笑いながら自室に戻ることにした。
そうして三刻くらい経た後、再び戸が開く音がしたので筆を置いて自室から顔を出すと、やはり富子と出くわした。
富子は丁度隣の部屋から財布を持ち出していたところだった。
「あら。すみません、仁吉さん。買い忘れた物があるので、一寸出掛けますね」
富子はえらくのんびりした質で、時にこうして忘れっぽくなる場合がある。私はこの妻が暗くなる道を歩くのが心配でならなかった。
「いいや、もうじき日も暮れる。私が行こう。何を忘れたんだい」
ひたすら遠慮する富子を宥め、私は買い物へ出掛けた。片手には富子にしぶしぶといった態で渡された書付けを持ち、もう片方の手には頼まれた品を抱えながら、夕日に照らされた店々が立ち並ぶ一本道を歩く。力強く達筆な書付けに視線で斜を引いていき、二つほど残りがあることを確かめつつ頭を上げると、装飾店の質素な看板が映った。私は使いを終えるべく、先を急いだ。
それから数日の間、私は離れからほとんど出なかったが、以前から約束のあった旧友に外へと誘われた。相変わらず何を考えているのかわからん顔だ、などと随分な挨拶を寄越されるのを無視しつつ、道の脇に植わっている公孫樹を眺めた。旧友は歩くことと文書の束に目を通すことと彼の女房に対する愚痴をこぼすことを器用にも一遍にこなしている。私は適度に相槌を打ったり聞き返したりしていたが、やはりそれだけでは済まされない様子だった。
「平松は如何なんだ。奥さんとは」
「私より仕事を生き甲斐にしているよ」
文書を黒い鞄に詰めた後、お互い大変だなと言いたげに目を細め、ふうと息を吐く。
「味方には違いないから、大事にしてやらんとな」
それだけ呟くと、旧友は並木の角を折れて行った。私は何とはなくそのまま帰る気が失せて、ふらふらと遠回りをした。雑談に耽る人の姿や、少し離れた処から聞こえる物売りの声など、数日ぶりの他人の気配は、私に旧友の言葉を沈思させるに相応しかった。ふと顔を上げると、私は富子の使いに通った道を歩いていた。視線を少し横に向けると、果たしてそこには質素な看板があった。すべての無駄を省いた様子の素朴な字が、私にそう思わせたのかもしれない。質素とはいっても、乏しさの気配は感じられなかったのだ。私は僅かに逡巡したが、結局はその扉の中に吸い込まれていた。
扉の中には、さまざまな櫛や簪などの装飾具と無愛想な顔つきの壮年の男が一人で居るだけだった。男は私にいらっしゃいと声をかけたきり、こちらに目を向けなかった。私は気楽になって、漸く品を定めに掛かったが、妻に似合うと思しきものは見当たらず、何より品物が放つ鋭い光に当てられてしまった。私がこめかみを押さえると、視界の外で男が微かに笑う気配がした。
「娘さんにかい」
「いえ、私には子供はいませんが」
「じゃあ奥さんにかい。そりゃあ見当たらない筈だ。あっちは若い子が買っていくものだからね」
唐突に尋ねられて戸惑う私に向けて一寸右の口角を上げてみせると、椅子に座るよう促して奥に引っ込んでいく。目の痛みが引いた頃、男は木箱を手にして戻ってきた。
「これなんかどうだい。丁度この間新しく拵えたやつでね」
私は直感して、ゆっくりと息を吐いていた。それは銀の簪だった。秋桜をかたどっており、優しく淡い光を宿している。
「今度は目を射られなかったみたいだねえ」
「そうですね」
私は男の言葉に頷くと、簪の値を訊ねた。男は短く数のみを述べると、簪を木箱に仕舞って私の掌の中にしっかりと置いた。
「大事にしてやっとくれよ」
首を傾げると、男は顎で私の掌の中を指し示した。
「こいつのことさ。奥さんに渡すんだからお客さんに云っても仕方なかったかねえ」
男に礼を云い、店を出ると、私は駆け出したいのを抑えてやっとの思いで宿場に着いた。裏から入って行くと、従業している女性がこちらに気付いて不思議そうな様子で私に会釈をしてから、富子を呼んでくれた。暫く待つと富子は眼鏡のずれを直しながら、ぱたぱたと忙しなく私に駆け寄った。
「どうなさったんです。此方にいらっしゃるなんて珍しい」
私は急に気恥ずかしくなって、殆ど何の説明もなく簪の入った箱を渡した。訝しげにその箱を開けた富子は、唖然として簪と私を交互に眺めた。
「どうして急に」
富子は簪を取り出した。富子の手の中に、秋桜は咲いていた。お世辞にも華奢とはいえないが、私に寄り添い、私を支えてくれた、私が守りたいと願うその手をじっと見下ろして、妻は浮かない顔をしている。私は声をかけるのを躊躇ったが、果たしてそれは一瞬の事だった。
「どうした、着けないのか」
妻ははっとこちらを見て、誤魔化すように微笑んだ。ゆるく握られた右手に、秋桜は閉じ込められた。
「仕事中ですから。急に着けたら変に思われますよ」
それから後も、妻がその簪を着けることはなかった。離れにいるときに何度か訊こうとしたが、その度に誤魔化すように微笑まれてしまうのだ。その表情を見ると、それ以上は何も訊けなかった。そうして、私は妻に訊ねることを諦めてしまった。
私はふと目を覚ます。長い夢の続きにいる気分の体を無理に起こすと、微かな喉の渇きを感じる。私は蒲団から這い出て、静かに廊下に立つ。月明かりを頼りに深く足元を注意するのだが、窓の有る辺りで一寸歩みを止めて宿場の方に目を凝らす。足元ですら危ういのに、宿場が見える筈もない。私が再び歩みを進めようとした瞬間、妻の部屋から微かに物音がするのを聞く。次いで障子に小さな光の射すのを見た気になって、私はゆっくりと障子を開ける。覗きこんだ部屋には、鏡台の前に座ったまま俯く妻の姿がある。
「仁吉さん」
「こんな夜中まで起きていると体に障るぞ」
妻がこちらに気がついたのを機に、私は妻の傍まで寄っていく。それで妻の掌の中に掴まれているものに気付き、意外に思わずにはいられなくなる。
「その簪は」
銀色にきらめく秋桜が、妻の掌に閃いている。
「実を云うと、わたしは嬉しかったんです。だから偶に眠れない時なんかはこれを眺めていたんです。貴方がこの簪を頂いた晩にこっそり着けてみたのですけれど、わたしには、やっぱり似合いませんでしたよ。それからは、こっそり着けるのも気恥ずかしくなってしまって」
「どれ、貸しなさい」
だんだんと声を詰まらせていく妻から秋桜を受け取ると、私は慣れない手つきで富子の髪を結い、それを着けてやった。
「うん、綺麗だ」
鏡の中には眉根を寄せながら微笑む富子と、鏡越しに富子を見詰める私の姿がある。私は、これより先に富子が簪を着けずとも良いなどと考えている。妻はこれからも時折暗い部屋の隅で、その掌の中に花を咲かせるだろう。私はそれを知っていれば良い。朝にはこの光景は鏡の中からも消えるだろう。しかしこの光景は、私の瞼が開かなくなるまで、この眼が憶えているだろう。私はそれを忘れない。