三、言霊
帝は、穏やかを絵に描いたような雰囲気を持った人だった。
帝なんて、何人もの御妻を娶り、都のど真ん中で偉そうにしている貴族たちの親玉のような奴なのだろうと、何となくそう思っていた白夜は変に戸惑ってしまった。それでなくても、周りを諸兄たちや官人たちにぐるりと囲まれて生きた心地もしないのだ。
その戸惑いはすぐ、上座に座る帝にまで伝わってしまったようだった。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
上座で胡床に腰掛けている帝が、御簾の向こうから気遣わしげに白夜に声をかけた。けれど白夜はそちらの方を見ることも出来ないで、何も言わずにただ首を振ることしかしなかった。
貴人に向ける正しい言葉遣いなど習ったことがない。ただでさえ人と話すことは苦手なのだ。それを思えば、口は自然と噤みがちになってしまう。
「そなたは、下ばかり向いているな。私と話すのは気が張るか?」
優しげな声だった。
気遣われた為か、堅くなっていたことを言い当てられた為か、白夜は何とも言えない気持ちになって顔を赤らめた。それをどう受け止めたのか、帝はくすと笑うと、白夜にではなく、その周りに向かって言った。
「私の御子は皆に囲まれて緊張しているようだ。皆、しばらく席を外してもらえないか」
白夜は驚いて顔を上げた。今でさえ、まともに口を利くことも出来ないのに、二人きりなどになってしまっては益々何をどうすればいいのか分からない。
けれど、周りからの好奇とも畏怖とも呼べる目が白夜をひどく緊張させているのも確かであった。
「しかし主上、白夜の皇子は我ら橘の血を引くお方にございます。まだ都に来たばかりで何かと慣れぬ皇子さまをお導きするのは私どもの役目にございましょう」
早口にそう言ったのは、白夜から一番近い席に陣取った諸兄であった。
「それは承知している。だが私と御子とはまだ一度も語らっていないのだ。この者とは長い時を経ての邂逅となる。少しばかりの時を二人で過ごしても罰は当たるまい」
帝の物言いに、一言出ていけと命令すれば済むだろうに白夜は思ったが、あまりに穏やかに諭されて、諸兄は次に返す言葉が見つからないようであった。
帝が再度退出を促すと、今度は何の異論もなく、皆大人しく座を外した。
その中で白夜が知っていたのは諸兄と奈良麻呂だけだ。後は初めて見る男ばかりで、皆が皆同じように髭を生やしたり太っていたりして、白夜にはよく区別がつかなかった。それが皆して白夜のことをそれぞれ複雑な顔で見て行ったのは、不快というよりどこか滑稽であった。
「さて、皆もいなくなったことだ。そろそろ顔を見せてくれないか」
誰もいなくなった後にさっそくそう言われ、白夜は慌てて俯いて、小さく頭を振った。
「俺の目は、不吉な色をしているから……」
それは元いた村でよく言われていた陰口だった。言われ慣れて、もう大して何も感じなくなってしまったその陰口を今持ち出したのは、帝を正面から見ることが出来そうになかったから、ただその言い訳として使ったのだ。
真正面から向き合った時に、もし帝の目に自分の容姿に対する恐れが浮かんでいたらと思うと、白夜はどうしても顔を上げることが出来なかった。
「誰がそんなことを言うのだ。お前は私の御子なのだから、誰に何を言われようと気にすることはない」
「……でも……」
それでもまだ顔を上げようとしない白夜に対してなのか、帝は困ったようにため息をついた。そのことに白夜がもっと身体を堅くしていると、帝が座っていた胡床から立ち上がる気配がした。
あまりに自分が頑固だから、いい加減焦れてしまったのだろうか。愛想を尽かしてしまったのかもしれない。こんな奴など俺の子ではないと、また村に戻されてしまうのだ、きっと。
帝の足音が近づいてきて、白夜はぎゅっと目を瞑った。しかし通り過ぎていくと思った足音は白夜の前でぴたりと止まり、来ると思った罵声の代わりに穏やかな声が降って来た。
「顔を見せなさい、白夜」
初めて名を呼ばれ、白夜ははっとして目を開けた。ゆっくりと顔を上げると、ほんのすぐ傍に穏やかな顔をした帝が立っていた。
「ああ、やっと顔が見れたな」
白夜の前に座り込んでそう笑った帝の顔に、白夜の目は自然と吸いつけられていた。
細面の顔に、髭は生えていない。柔和な顔をしているのに、濃い眉には芯の強そうな印象があった。肉の薄い唇は、今は白夜に向けて柔らかに笑んでいる。
これが、父親なのだろうか。本当にこの人が、母の愛した人だったのだろうか。
何度自分に問い直したところで、実感はいつまでも湧いて来ない。一体どうすれば、今目の前にいるこの人を父だと信じることが出来るのだろう。
白夜は縋るように、一心に帝の顔を見つめた。しかしやがて、帝が眦の下がった目を緩く細めて、苦笑した。
「そう不安そうな顔をするな。私とて、緊張しているのだ」
その言葉を聞いて、白夜は余計眉根に皺を寄せた。不安や困惑故ではない。帝が自分と同じなのだと知って、胸がぎゅうと痛んだからだ。
「少し、触れても良いか」
白夜の心を量るようにそう問われ、白夜は静かに、一度だけ頷いた。
頬に帝の手が触れて一瞬びくりと身体が震えたが、そっと触れてくる帝の手はとても温かだった。壊れ物でも扱うように両手で頬を包みこまれて、白夜は自分の顔が赤くなるのを感じた。
やがて帝は白夜に優しく頬笑み、名残惜しそうにその手を離した。
「白夜は、清野媛によく似ているな。まるで生き写しだ」
「……俺が、母さんに? 本当?」
思わず聞き返せば、帝は笑って頷いた。
「ああ、とても良く似ている。清野媛も、白夜と同じに美しい媛だった」
「どんな……人だった……?」
恐る恐るそう聞けば、帝は昔を思い出すように目を細め、ゆっくりと語り出した。
「まだ私が首皇子と呼ばれていた頃のことだ。当時私はまだ即位前だったのだが、その頃の私は、毎日が孤独だった」
「孤独? 帝なのに?」
驚いて問えば帝は苦笑して、上に立つ者とは得てしてそういうものなのだと言った。
「皇太子などと言っても、その頃の私には何もなかったのだ。父は私がまだ幼い頃に亡くなり、母はそれ以来病を理由に私とは会わぬようになった。私が即位するのに反対している者もいた。その頃の私は、ただの人形と変わりなかったのだ」
「人形?」
首を傾げれば、帝は優しく白夜の髪を梳き、笑って言った。
「白夜が知らなくとも良いことだ」
淡々と語る帝が何を思っているのか、白夜には分からない。けれど、帝が計り知れない孤独を感じていたことは、きっと本当なのだろう。
「清野媛は、その時の私の心を埋めてくれた人なのだ」
当時、清野媛は宮仕えとして参内していたが、帝に望まれるがままに入内したのだという。心を病んでいたという帝は、清野媛を想うことで癒されることも多かったのだと、少し照れくさそうに教えてくれた。
「一年もしない内に清野媛は身籠り、私は大いに喜んだのだが、清野媛は逆に塞ぎがちになり部屋に篭ることが多くなった。媛の身を案じ、守り刀を作らせたのは産月も間近になった頃だったな。産屋に篭る前にと思い、急ぎ作らせたのだ」
それからすぐに、清野媛は一人篭った産屋から姿を消した。
「私も随分とその行方を捜させたのだが、行方は一向に知れなかった」
そう話す帝の顔に、初めて暗い影が差していた。
「母さんは、何で都からいなくなったんだ」
白夜の言葉は貴人への配慮など何もない無作法な物言いだったが、帝は逆に、白夜から問いかけられることを嬉しく思っているようだった。
「よく気のつく媛だったからね。色々と、気に病んでいたことがあったのだろう。今にして思えば、私の配慮が足りなかったのだと分かる。けれどその時の私は自分のことに手一杯で、それに気付いてやれなかった。……本当に、すまない」
帝の口から出た謝罪の言葉に、白夜は驚いて目を見開いた。
「……どうして、俺に謝るんだ?」
呟いた白夜の声に帝は苦笑して、けれど何かを答えようとはしなかった。代わりに懐に手を差し入れると、真新しい布に包まれた何かを取り出して白夜に手渡した。
「私の賜った野剣だ。白夜にとっては母の形見だろう。大切にしなさい」
布を解いて見ると、確かにそこには白夜の野剣が官人に持っていかれた時の姿そのままに納まっていた。
ようやく戻ってきた馴染みの守り刀を握り締めていると、帝が何かを思うようにすっと目を細め、真剣な口調で言った。
「一つ、聞きたいことがあるのだが……」
白夜が首を傾げて促すと、帝は一度躊躇ったように口を結んだ。けれどすぐにまた、思い切ったように口を開いた。
「清野媛は……そなたの母は、本当に死んだのか」
「え……?」
思いがけない真剣な目を向けられて、白夜は息を飲んだ。眼裏に思い浮かんだのは、土を盛り上げただけの小さな墓だ。死ぬところも死に顔も骸さえも見ていないけれど、母は確かに、あそこにいるはずだった。
何と答えるのが正しいか分からずに、白夜はただ顔を俯けることしか出来なかった。
「……いや、すまない。下らぬことを聞いた」
白夜の様子から何かを察したのか、帝は沈んだ声でそう言って、けれどすぐに無理やりのように笑みを作ってみせた。
この優しい人に、そんな顔をさせたくない。そんな顔をしないで欲しい。そう思うのを自覚する前に、白夜の口は一人でに言葉を紡いでいた。
「俺が……俺が婆に拾われた時、俺を抱いていた女はもう死んでたらしいけど、でもそれが清野媛かどうかなんて、誰にも分からない……」
何の慰めにもならないと分かっていながら、言葉を止めることが出来なかった。
「この野剣だって、本当は誰かが清野媛から盗んできた物かもしれない。俺を産んだ女が身を偽ろうとして、それで――」
言いかけた口を、帝の手が優しく押し噤ませた。
「そなたの面差しは、誰が見ようと清野媛のものだ。それを否定するな。お前の母は、間違いなく清野媛なのだ。……だからもう、良いのだ」
もう良いのだと、そう呟いた瞬間に、帝の中で生きていた清野媛が死んだのを、白夜は感じた。帝の中の清野媛は、今ようやく死ぬことが出来たのだ。
母がどうして都を出て行ったのか、そんなことは分からない。けれど、帝が清野媛を愛していたことだけは分かる。その想い出を過去のものとして忘れることも出来ずにいたほど、帝は母を愛してくれていたのだ。それだけでもう、十分ではないか。
無意識に目に涙を溜めていた白夜を、帝は微笑みながら見つめていた。
「清野媛の墓を作らせよう。白夜を育ててくれた嫗君の墓も。良いか?」 どこまでも優しい帝の言葉に、白夜はただ頷いた。
「俺……俺は、これからどうなる?」
しばらくして、白夜は帝にそう訊ねた。我ながら突拍子もない質問だと思ったけれど、帝は静かな顔で、逆に白夜に問い返してきた。
「白夜は、どうしたいと思う」
静かに問われて、白夜は戸惑った。
「……ここに、いたい」
小さな声で、そう言った。
「他所に連れてかれるのは嫌だ。俺は、ここにいたい」
「他所、とは?」
白夜の言葉に、帝は首を傾げた。
「祖父さんが、俺を連れて行くかもしれないって聞いた。でも俺は、ここにいたい。ここで……一緒に」
言っていて、昨日の阿部媛とのやり取りの通りに、本当に自分が駄々を捏ねているような気がしてきた。それが何だか気恥ずかしくなって、白夜はその続きを口にするのを止めた。
「それは……もしや阿部媛から聞いたのか?」
白夜が顔を上げると、帝は呆れたように苦笑していたが怒っているふうではなかった。それに少しだけ安堵して、小さく頷いた。
「なるほど。流石に手回しが早いな。さすが、我が娘は頼もしい限りだ」
そう言って、帝は声を上げて笑った。笑い方は違うが、その笑い顔はどことなく阿部媛のものとよく似ている。
「そうだな。諸兄ならばきっと、白夜を自分の手元に置きたがるだろうな。だが案ずることはない。白夜は何も気にせず、ここに居れば良い。私がそれを望むのだ。誰が何を言おうと、そなたをここから連れ出すことは出来ぬ」
そう言ってわざとらしく偉そうに腕を組み鼻を鳴らした帝に、白夜は一瞬呆気に取られた。けれどすぐに、くすぐったい笑いが口元に滲みだしてきた。
「何だか、帝が駄々を捏ねてるみたいだ」
そう言って笑えば、帝も釣られるように一緒に笑ってくれた。
「そうかもしれぬな」
そうやって二人で一緒に、くすくすと笑った。けれど白夜は、本当はさっきよりずっと泣いてしまいたい気分だった。理由は分からないけれど、胸の奥がぎゅうっと、痛かったから。
白夜は野剣を大切に仕舞い込んで部屋を後にした。帝は部屋まで供をつけようと言ったが、白夜はそれに必要ないと首を振った。帝のそういった心遣いは嬉しかったが、それは同時に、白夜をひどく居た堪れない気持ちにさせるのだ。
築地の回廊を足早に歩きながら、白夜は服の裾で目の端をごしごしと擦った。意地でも泣いたりはしなかったが、それでも目の端はまだ少し潤んでいる。それを誰かに見られたくなかった。
築地の壁に囲われた回廊は、どこを歩いても同じようにしか見えない。自分のいた御館があったと思う方に見当をつけて、白夜は適当に歩いていた。それでもその見当が当たっていたらしく、しばらく歩くと見慣れた場所に出ることができた。
目的の御館の前まで来ると、思いもかけず柱の下に阿部媛が立っていた。
「白夜」
白夜を見つけると、阿部媛は嬉しそうに駆け寄って来た。
「俺を待ってたのか?」
「そうよ。だって約束したでしょう? 父さまとのお話はどうだった? 父さまはお優しいもの。白夜にも、優しいお言葉をかけてくださったでしょう?」
笑顔で話す阿部媛に、白夜は曖昧に笑って答えた。その優しさに慣れなくて戸惑ったのだとは、何となく言えなかった。
「ねぇ白夜。今日は宮の中を案内してあげる。これからずっとここに住むのだもの。知っておかなければ迷ってしまうわよ」
そう言って白夜の返事も聞かず、阿部媛はぐいぐい白夜を引っ張って行く。別に宮のことなどに興味はなかったが、先ほど迷ってしまいそうだったのを思い出して、白夜は大人しく阿部媛に従って歩いた。
築地の角をいくつか曲がり、そろそろ自分の居場所が分からなくなりだした頃、先を歩いていた阿部媛は突然足を止めた。怪訝に思って阿部媛の視線の先に顔を向けると、そこに奈良麻呂が何やら深刻そうな顔で一人立っていた。さっき一緒だった諸兄の姿は見当たらない。
「奈良麻呂さま、ここで何をしていらっしゃるの?」
何を訝しく思ったのか、阿部媛は怪訝そうな顔で奈良麻呂に言った。
「これは、阿部媛さま……!」
奈良麻呂は阿部媛に気づくと慌てて視線を合わすように膝をつき、深く一礼した。
「……!」
顔を上げた奈良麻呂と視線が絡み、白夜は一瞬どきりとした。白夜の姿を捉えた奈良麻呂の目が、怖いくらいに自分を射抜いたからだ。真っ向から自分を見据えるその視線から何の感情も見出せないことに、白夜は驚いていた。
「白夜の皇子さまも、御一緒であられましたか……」
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「ええ、宮を案内してあげているの。奈良麻呂さまは、ここで何を?」
「……いえ、特に何をしていたという訳ではないのですが」
奈良麻呂はひどく生真面目な顔でそう言った。見た目からして真面目そうな奈良麻呂だが、まだ一人前にもならない阿部媛にまでそんな丁寧な物言いをするのも、もしかすると相手が皇女ひめみこであるが故ではなく、彼本来の気質故なのだろうか。
「諸兄さまや藤原の武智麻呂さまたちは御一緒ではないの? もうお帰りになられたのかしら?」
「いえ、父上たちは先ほど帝からのお呼びがございましたので、そちらに。私は少し気分が優れませんでしたので、失礼ながら殿上を控えさせて頂いたのです」
そう言う奈良麻呂の顔は、確かに少し血の気が悪かった。
「大丈夫か?」
白夜が思わずそう声をかけると、奈良麻呂の顔からは何故か余計に血の気が引いた。
「……おい、あんた」
「大丈夫です」
奈良麻呂は白夜の言葉を押し止めるように、青い顔のまま苦笑して首を振った。
「……お見苦しいところを、お見せ致しました」
そう言って、奈良麻呂は白夜から視線を逸らした。その目には白夜に対する恐れなどは映っていないようだったが、代わりに別の、何か思い悩むような色が映っているように白夜には思えた。それはどこか、思いつめた時の帝の目と、似ているような気がした。
「……俺は、母さんに似てる?」
そう問えば、奈良麻呂からは驚いたような視線が返って来た。その目がほんの一瞬だけ、戸惑いに揺れた。
「はい。とても……似ておいでです」
奈良麻呂の真剣な目に見据えられて、白夜は押し黙った。自分の顔に突然いなくなった姉の面影を見ているのかと思うと、どんな言葉をかければいいのか分からなかった。
「……失礼致します」
白夜が何も言わないでいると、奈良麻呂はそう言って逃げるようにその場から去って行った。
「……奈良麻呂さまと清野媛は仲の良いご姉弟だったそうだから、白夜を見て姉媛のことを思い出されたのね、きっと」
奈良麻呂が去った後で、阿部媛が呟くように言った。
「阿部媛も母さんを見たことがあるのか?」
「清野媛がいなくなったのは私が生まれる前なのよ。神夢でも顔は分からなかったし、知らないわ。それより、早く宮の中を案内してあげる。清野媛のことなら後で広刀自媛さまのところにお邪魔して聞いてみたらいいわ」
「広刀自媛?」
歩き出した阿部媛に手を引かれながら訊ねた。
「お父さまの御妻のお一人よ。清野媛が宮で出仕していた時、側仕えとしてお仕えしていたのが広刀自媛さまらしいわ。広刀自媛さまは清野媛のことを姉のように慕っていらしたらしいから、きっと色々教えて下さると思うわ」
そう言えば、帝は宮に出仕していた清野媛を見初め、入内させたのだと言っていた。帝の御妻の側仕えをしていたのなら、きっと帝の目に留まる機会も多かったのだろう。
その後、阿部媛は宮の内を歩き回りながら、あれが内膳司、あれが命婦処と逐一白夜に説明して回った。しかし白夜は阿部媛に説明されてもそこが何の為の場所なのかいまいちよく分からなかったから、途中からはただ手を引かれるがまま歩いて適当な生返事をしていた。
「あ……」
いくつかの回廊を進んだ所で、阿部媛は突然足を止めた。視線の先を見ると、前の方から煌びやかに着飾った中年の女がこちらに歩いてくるところだった。後ろに侍女を従わせているから、もしかすると帝の御妻の内の誰かだろうか。
近づいてきた女は阿部媛と白夜に気がつくと嫌に冷たい目で二人を一瞥し、目尻に差した紅を歪めて言った。
「阿部媛、お前……もうその子と慣れ合っているの?」
近しげな口調とは裏腹に、ひどく冷たい声だった。
「これは、その……」
阿部媛は狼狽えたように呟いたが、女はそれを気にするでもなく、阿部媛が白夜の手を引いているのを見咎めて更に言う。
「何です、殿方の手など握って。皇女ともあろう者が、はしたない」
言われて、阿部媛は慌てて白夜の手を離した。女はそれを見てもただ眉間の皺を深くしただけで、もう阿部媛の方を見ようともしない。代わりに白夜の方にきつい視線を投げかけた。その目はあからさまな蔑みの色に満ちている。
「そなた、白夜……といったかしら」
高圧的は態度には慣れているが、この女の言動は殊更気に入らない。白夜は積もる苛立ちを無愛想な声色で表して答えた。
「……そうだけど。あんた、誰?」
その白夜の問いに、女は肩巾で口元を押さえながら、白夜にではなく傍にいた侍女の方に向かって言った。
「ごらん、なんて悍ましいのかしら。本当に、清野媛によく似ていること。でもこれの美しさは不吉ね。氷凍神よりまだ冷たい色をしているわ。恐ろしいこと」
その言葉に白夜は怒るよりもまず呆気に取られたが、阿部媛は途端に顔を青くして言った。
「母さま、そんな……そんな言い方、ひどいわ」
「母さま?」
白夜は驚いて声を上げた。ではこれが、この女が阿部媛の母なのか。こんな、親子の情など一片も感じさせないこの女が。
「お黙りなさい。お前もそのような者と慣れ合うものではないわ。お前まで人ならぬ者に見えてよ。巫女の真似事なぞせず、皇女は皇女らしく部屋に篭っておればそれで良いのです」
女は阿部媛の方を見ようともせず、阿部媛もそれで黙って俯いてしまった。
この二人は、本当に母子なのだろうか。しかしそれにしては、この二人のやり取りは知っている母子のものとは違いすぎる。村で母にじゃれつく子供らを見て羨んできたものとは、何かが根本的に違っているのだ。
「気分が悪いわ。部屋に戻ります。しばらく誰も寄らせないようにしてちょうだい」
阿部媛にではなく、侍女に向かって女は言った。そのまま阿部媛の方を一瞥もしないまま、女は二人にくるりと背を向けて行ってしまった。
「……あれが、実の娘に言うことなのか」
女と侍女が行ってしまった後で、白夜は急に怒りが込み上げてくるのを感じた。それは女が自分に言った言葉に対してではない。母というものに対しての失望が、白夜をひどく傷つけていたのだ。
「母さまは、私のことがあまりお好きではないから……。いつものことよ、気にしないで白夜」
そう言って顔を上げた阿部媛は、笑っていた。それを見た途端、白夜は思わず声を荒げて責めるように言っていた。
「何笑ってんだ。お前はあの女の娘なんだろ。あんなこと言われて、何で黙ってんだ!」
母というのは、もっと慈愛に満ちたものではないのか。身体を抱き寄せ、頬ずりし、にこやかに微笑みかけてくれるものではなかったのか。
少なくともそれが白夜の知る母親というもので、欲しいと望んで手に入らなかったものだ。あんなものが欲しかったのではない。
思わず怒鳴ってしまってから、白夜ははっとして唇を噛んだ。俯いた阿部媛の顔が、ひどく傷ついた顔をしていたのだ。白夜はそれ以上何も言えず、顔を顰めながら視線を逸らした。
「……母さまは、私のことが怖いのよ。私が巫女のように、神夢を見たりするから……」
しばらくして呟いた阿部媛の声は、やけに静かだった。
「でもお前の……母親、なんだろ」
視線を逸らしたままの白夜の声は、少しだけ掠れていた。
「自分が産んだ子だからこそ、怖いのよ。母さまにはそんな力ないのだもの。自分の産んだ子が突然そんな力を持っていたら、誰だって恐ろしく思うわ。違う?」
縋るように問われて、白夜は返答に詰まった。その問いかけに対する答えを、白夜は何も持っていなかったのだ。
「でもね、母さまは、本当はとってもお優しいの。貧しい民の為に施しをしたり、病に苦しむ人々の為に薬園を作ったりして、民からもとても慕われているのよ。私は、母さまのことを、誇りに思ってるわ」
寂しそうな笑みでそう言う阿部媛に、白夜は眉を寄せ目を細めた。
「お前は……」
母から温かい言葉をかけてもらったことはあるのか。そう問おうとして、止めた。それを聞くだけ、阿部媛を傷つけてしまうような気がしたから。
「……行こう。まだ案内の途中だろ。次はどこに行くんだ」
白夜は、今度は自分から阿部媛の手を取って歩き出した。温かかった阿部媛の手は、今は少し冷たくなっていた。
この広い都の真ん中で、阿部媛は一体どんな暮らしをしてきたのだろう。父がいて母がいて、壁に囲まれた中だけど何不自由なく暮らしてきたはずのその生活は、本当に幸せだったのだろうか。母とはいつも、どんな会話をしてきたのだろう。少なくともそれは、白夜が思い描いていたどんな想像とも違っているだろうことだけは分かった。
「適当に歩いてるけど、こっちでいいのか? お前が案内役なんだから、ちゃんと案内しろよ。迷っても知らないぞ」
胸の靄を晴らすように努めて明るい声でそう言えば、阿部媛もようやく頬の緊張を緩ませて笑ってくれた。
そのまま阿部媛の案内で、清野媛が側仕えをしていたという広刀自媛のところに行くことになった。突然の訪問だったが、広刀自媛は快く白夜と阿部媛を迎え入れてくれた。
広刀自媛は、阿部媛の母とはまた違った雰囲気の女だった。服装は煌びやかだが、阿部媛の母に比べると控えめなものだ。身につけている珠飾りも、薄紅の勾玉を連ねた珠環一つ首から下げているだけで、華美な化粧もなく、口調も物腰も柔らかな印象だった。
「それで、私に何のご用?」
首に下げた珠環を弄びながら、広刀自媛は人好きのする笑みで言った。そう緩やかに問われると、優しさに慣れぬ白夜は相変らず萎縮してしまう。
「清野媛のことについて、お聞きしたいと思って。白夜は自分の母君のことを何も知らないの」
代わりに阿部媛がそう言った。それを聞いて広刀自媛は驚いたように垂れ気味の目元を細めたが、口元は変わらずにこやかに微笑んでいた。
「そう……、そうだったの。いいわ、私が知っていることで良ければお話するわ。清野媛には私もずいぶん助けられたもの」
「清野媛は、広刀自媛さまの側仕えをしていらしたのよね?」
「えぇ。清野媛には、私が入内する随分前から側仕えとして仕えてもらったわ。私が入内するのと同時に、清野媛も私と共に出仕することになったの。一人で誰も知らない宮中で心細かった時、清野媛はいつも私の心を励ましてくれたわ。私にとっては、本当に姉のような存在だった」
「広刀自媛さまは清野媛のことを慕っていらしたのね」
「えぇ。私が心寂しくないようにいつも細やかな心遣いをしてくれたわ。でも……清野媛が入内することになった時は、少し複雑だったかしら」
広刀自媛は少しだけ眉を顰め、ため息をついた。
「あの……やっぱり、広刀自媛さまもお辛かったの?」
阿部媛は訳知ったふうに、広刀自媛を気遣うように言った。その意味がよく分からない白夜は、ただ黙って二人のやり取りを聞いていた。自分が何か余計なことを喋るより、阿部媛に聞いてもらった方が早いような気がしたからだ。
「いいえ、そうではないの。私は、清野媛の入内は喜ばしいことだと思ったのよ。帝に望まれての入内なんてそうそうある訳じゃないし、これを幸福と思わない女なんていないでしょう? 私もそう思ったの。私は清野媛に幸せになって欲しかったのだもの。でも……清野媛の方は私に気後れしていたのでしょうね。入内が決まってから、よくふさぎ込むようになってしまったわ」
白夜は清野媛の胸中を思った。仕えていた主人の、その嫁ぎ相手に望まれてしまった故の葛藤はどのくらいのものだったのだろうか。そしてまた、姉のように慕っていた人が望まれて入内することになった時の広刀自媛は、本当に祝福の思いだけだったのだろうか。それを考えた時、先ほどの阿部媛の問いかけの意味が、少しだけ分かった気がした。
「母さまは……どうだったのかしら」
訊ねるというより、口から思わず零れ出たように阿部媛が呟いた。それを聞いて白夜は少しどきりとしたが、広刀自媛は困ったように苦笑していた。
「……そうね、あまり良い感情があったとは思わないけれど、でも安宿媛さまはどんな時でも帝の為を第一に考えてらっしゃる方だから、反対はしなかったのではないかしら」
「でも……」
言い淀む阿部媛に、広刀自媛は優しく微笑んだ。
「何か、言われたのかしら? 安宿媛さまに」
広刀自媛の言い方は阿部媛を気遣うような口調で、それから察するに広刀自媛は阿部媛と安宿媛――これは多分阿部媛の母の名であろうが、その二人の関係について、何かしら知っているところがあるようだった。
「……いいえ、私は別に、何もなかったのだけど、白夜に……」
目線でこちらを窺ってくる阿部媛に、まだそんなことを気にしていたのかと白夜は苦笑した。ひどいことを言われたのは阿部媛だって同じだろうに。
「気にすることはないわ」
広刀自媛は相変わらず微笑みながら、阿部媛と白夜両方に向けて優しく言った。
「安宿媛さまは、今少し心が荒んでいらっしゃるのよ。あなたたちに辛く当られるのも、きっとその所為ではないかしら」
宥めるような広刀自媛の声は、安宿媛より余程母親然としていた。阿部媛もそんな広刀自媛に懐いていると見えて、眉を寄せながらもどこか安堵したような顔をしていた。
「心が荒んでいらっしゃるって、やっぱり、白夜のことで?」
阿部媛が窺うようにそう訊くと、広刀自媛はちらりと白夜に視線をやってから言った。
「もちろんそれもあるのでしょうけれど……」
「他に、何かあるのか?」
自分に向けられた視線の意味が気になって、白夜は阿部媛が何か言うよりも先にそう問いかけた。広刀自媛は一瞬真面目な顔で白夜の顔を見据えたが、すぐに口元を笑ませて言った。
「帝は、あなたを皇太子に据えるおつもりではないかという噂があるの。安宿媛は、それを気にしていらっしゃるのではないかしら」
「皇太子……!?」
広刀自媛の言葉に、白夜は息を飲んだ。
いつの時代も、権力を統べる王にはたくさんの御妻がいて、それに見合うだけの皇子や皇女がいる。だが皇太子は別だ。皇太子はいずれ、父王の跡を継いで即位することが決められた、皇族の中でも特別な存在なのだ。それを今、広刀自媛は何と言った?
「俺を、皇太子に……?」
口から零れ出た言葉は、到底白夜の日常からは現実離れした言葉だった。しかし広刀自媛の言葉に驚いたのは白夜だけではなかった。阿部媛も同様に、驚きに目を見開いていた。
「本当? 広刀自媛さま。父さまが白夜を皇太子にするつもりだとおっしゃったの?」
顔を綻ばせて問う阿部媛に、広刀自媛は困ったように笑った。
「あなたには喜ばしいことなのかしら。でも阿部媛の立太子をあんなに推し進めていた藤原の家にとっては大変なことよ。藤原の御出自である安宿媛さまもお辛い立場になられるわ。一昨年御子を無くされたばかりでお心を痛めておいででしょうし、阿部媛の立太子を誰よりも望んでおられたのは安宿媛さまのはずよ」
「でも……私は皇太子などになりたくないのだもの。それに、私より白夜の方が年上なのだし、橘の家は元は皇族の出なのでしょう? なら白夜こそ皇太子になるのに相応しいはずだわ。今白夜以外に皇太子になれる皇子なんて都にはいな……」
そこまで言って、阿部媛ははっとしてように口を噤んだ。恐る恐るというふうに広刀自媛を窺い見るが、広刀自媛は相変わらず困ったように微笑んでいた。
「……ごめんなさい。あの、広刀自媛さまに安積皇子がいらっしゃるの、私、忘れてて……」
狼狽えたように視線を彷徨わせる阿部媛に、広刀自媛は一瞬驚いたような顔をしていたが、すぐにまた微笑んで宥めるように言った。
「いいえ、阿部媛の言う通りだわ。どちらにせよ、私の産んだ安積皇子はまだ幼すぎて立太子は無理よ。もし白夜の皇子がここにいなかったとしても、安積皇子が皇太子になることはなかったのではないかしら」
「でも……もしかしたら……」
眉を寄せて言い淀む安部媛に、広刀自媛は苦笑していた。
「気にしなくとも良いのよ、阿部媛。誰もそれを期待していないのだから、あなたが気に病むことは何もないわ。それよりも、もし本当に白夜の皇子が皇太子になるのだとしたら、こんな嬉しいことはないわ。ね、そう思わない?」
優しく微笑まれて、阿部媛はようやくはにかんだように笑った。そのやり取りを傍で聞いていた白夜だが、未だどうにも思考が追いつかない。ただ眉を寄せて首を傾げていた。
「皇太子……?」
白夜の呟きに、阿部媛は振り向いて笑った。
「そうよ。もし父さまが本当にそうおっしゃったのなら、きっとすぐにでも白夜の立太子が御言宣されるわ。良かったわね、白夜」
我が事のように嬉しそうにそう言う阿部媛を、白夜は不思議な思いで見つめた。
「何が良いんだ?」
無意識にそう言ったのは、本当にその意味が分からなかったからでもあるし、自分が皇太子になるということに実感が湧いてこないからでもあった。
「だから、皇太子になれるかもしれないのよ白夜。皇太子になるということは、つまり次の世の帝になるということよ。嬉しくないの?」
「皇太子になることの意味くらい、俺だって知ってるよ。だからそれの何がそんなに良いことなんだ? 俺は帝になりたいなんて思ったことこれっぽっちもないし、想像してみたこともないんだ。帝になったら何か良いことがあるのか?」
白夜の言葉に何か言おうと口を開いた阿部媛だったが、白夜と目が合った途端、阿部媛の顔から笑みが消え、言いかけた言葉も飲みこんでしまった。代わりのように言葉を発したのは、複雑な顔で白夜を見つめる広刀自媛だった。
「白夜の皇子は混乱しているのね。無理もないわ。清野媛のことならまたいつか話してあげるから、今日のところはもう部屋で休んだ方がいいわ」
広刀自媛にそう促され、白夜はまだ釈然としないままで阿部媛と共に広刀自媛の御館を後にした。
元来た築地の回廊を歩きながら、さっきの広刀自媛と阿部媛の会話が頭を廻り、白夜は隣を歩く阿部媛に話しかけた。
「阿部媛は、皇太子になる予定だったのか?」
何気なく聞いただけだったのだが、阿部媛は突然足を止めた。立ち止まった阿部媛の顔は少しだけ青ざめている。
「私は、皇太子になんかならないわ」
阿部媛はそう言って、堅く唇を結んだ。その顔はやけに思いつめたような表情で、白夜は何かおかしな質問をしただろうかと不安になった。
「でも、広刀自媛がさっきそんなこと言ってただろ?」
「皇太子になるのは私じゃないわ。白夜よ」
頑なにそう言って、阿部媛は強い視線で白夜に向き直った。
「でも……」
言い淀んだのは、向けられた阿部媛の目があまりに悲痛な色をしていたからだ。そこでふと、思い当たることがあった。
「お前……もしかして、神夢にそれを望んだのか?」
確信は何もなかった。ただ昨日の阿部媛の態度で一つだけ、ずっと釈然としないことがあったのが、もしかしたらその所為だったのではないかと思ったのだ。
昨日、阿部媛はどうして白夜に会いに来たのか。何故諸兄たちより先に白夜に会わねばならなかったのか。本当は、伝えに来たのではなかったのか。自分が皇太子になるつもりがないことを。そして白夜に皇太子になれと、それを伝える為に来たのではなかったろうか。
そして本当は、誰より阿部媛自身が白夜の行方を探していたのではないだろうか。だから神夢はその望みに応えたのではないかと、それこそ何の根拠もなかったが、不思議に確信めいてそう思った。
「阿部媛は、自分の代わりになる奴を、神夢に望んだんじゃないのか?」
再度聞いても、阿部媛は何も答えなかった。けれど青ざめたその顔が、何より雄弁に白夜の言葉を肯定していた。
「……俺は、お前の身代わりだったのか?」
「違う!」
白夜の言葉に、阿部媛は強く頭を振った。
「違うわ、そんなの、そんなの思ってない。皇太子になるのが嫌だったのは、本当よ。でも私は神夢を操れるわけじゃないもの。それでも神夢が私にそれを見せたから、だから白夜が皇太子になるのが運命なんだって、そう、思っただけ……」
「さだめ……?」
阿部媛は、白夜が皇太子になることが運命だと、そう言うのだろうか。ならば白夜が歩んできた全ての道が、予め誰かに決められたものだったのだと、そう言うのだろうか? あの痛いのも悔しいのも哀しいのも、全部誰かに勝手に押しつけられたものだったと?
そんなのは?だ。阿部媛がそう思ったのは、阿部媛自身が己の運命に逆らいたがっていたからではないか。運命などと言う不確かなものを、白夜は今まで一度だって信じたことはない。けれど阿部媛はそれを心の底から信じたのだろう。己の歩もうとしている道は誤りで、実は白夜が皇太子になることこそが真実の運命なのだと、そう信じたのだ。
「……何で、そんなに皇太子になるのが嫌だったんだよ」
青くなった阿部媛を責める気にもなれず、白夜はため息まじりに訊いた。白夜の問いに顔を背けた阿部媛の目元には、うっすらと涙が溜まっていた。
「……一人は、嫌だわ」
ぼそりと呟いた阿部媛の声は、消え入りそうなほど小さな声だった。
「……内裏には舎人や侍女や、親だっているじゃないか」
阿部媛の涙に動揺して視線を揺らす白夜に、阿部媛は首を振った。
「違うわ。そうじゃないの。そうじゃなくて……」
言いながら、阿部媛は白夜の手をぎゅっと両手で握り締めた。
「みんな、本当は私のことが怖いのよ。でも私が藤原の氏族から出た皇女だから、表立って滅多なことは言わないわ。いつも私の前では媚びへつらって笑っているけど、私のいない所ではみんなそう言ってる。氏族だって、私を皇太子にするんだって持てはやすけど、でもそれは私をただの出世の道具にしか思っていないからよ。母さまも氏族の為に皇太子になれって言うわ。でも、それだけだもの。私はずっと……ここで一人きりよ。皇太子になって帝になって、それで何が変わるの? 一人きりの時間が増えるだけじゃない。そんなの嫌よ、そんなの……父さまと一緒よ……」
阿部媛の目から、涙が零れた。それは堰を切ったように溢れて、阿部媛のなだらかな頬を伝って零れ落ちていく。
白夜には、阿部媛の言うことが何となく分かるような気がした。
心の内では恐れられながら、ただ出世の道具として持てはやされてきた阿部媛と、疎まれながらもその容姿の恐ろしさ故に生かされてきた自分とが、どこか似通っているような気がした。
もし自分に神夢を見るなどという霊力がなかったら、そうしたら母は自分にどんな言葉をかけてくれるのだろうと、そう思ったこともあっただろう。自分の霊力を呪わしく思ったこともあったはずだ。白夜が自分の容姿を憎ましく思ったことがあったように。
父さまと一緒。そう言った阿部媛は今、孤独で心を病んだという帝がかつて背負っていたものと、同じものを背負っているのだろうか。でも、今の阿部媛にそれを癒してくれる者はいない。
清野媛に代わる誰かに、俺はなれるだろうか。
白夜はぎゅっと、阿部媛の手を握り返した。ずっと握っていた所為で、二人の熱が融け合った手の平は同じ温ぬくさだった。
「……俺が皇太子になったら、阿部媛は一人じゃなくなるのか?」
少し落ち着いてきたらしい阿部媛は、白夜と握り合った手はそのままに、肩口に顔を押し付けて涙を拭った。それから大きく頷いて言う。
「白夜がいるわ」
真正面から見つめられて、白夜は少々くすぐったい思いをした。
「でも俺が皇太子になったら、阿部媛は何になるんだ?」
阿部媛は少しだけ首を傾げた後、思いついたように笑って言った。
「白夜の妻になるわ」
「つま?」
「そうよ、妹背になるの。そうして白夜が帝になったら、私はその皇后になるの。同母の兄妹では妹背になれないけど、異腹なら許されるわ。私はいつかきっと、白夜の子を産むのよ」
阿部媛があんまり真剣な顔をして言うから、最初は呆気に取られていた白夜も、何だか可笑しくなって笑ってしまった。
「そうしたらまた血が濃くなるんじゃないのか。神々から呪いを受けるぞ」
昨日の阿部媛の言葉を思い出しながら言うと、阿部媛はまだ目に涙を潤ませながらくすくすと笑った。
「白夜の子なら、それはきっと尊い霊力を持っているの。神々が愛しんでくださるわ」
阿部媛は笑いながらそう言って、顔は白夜似で性格は自分似でと、まだ見ぬ子供のことをつらつらと語った。阿部媛の言うことならきっとそれが正しいのだろうと、素直にそう思った。
白夜は今、ただ阿部媛が笑ってくれたことに安堵していた。誰に感じたこともなかったその気持ちは、胸の内を駆けずり回ってひどくこそばゆい。
昨日会ったばかりだというのに、二人の間を隔てるものは何もないように思えた。今までに失った、共に在るべきだった時間はこれから取り戻していけばいい。阿部媛も自分も、これから余りある時間を同じ場所で過ごすことになるのだから。
白夜は真っ直ぐに阿部媛を見つめた。阿部媛もただ真っ直ぐに、白夜の赤の瞳を見つめた。
「俺が皇太子になると言ったら、俺は自分の言霊に縛られるのかな」
阿部媛の笑みを失いたくないと思いながらそれを言えないのは、それを言ってしまうと自分の中で何かが変わってしまうような気がしたからだ。
阿部媛は白夜の眼差しを真っ直ぐに受け止めて、曇りのない澄んだ瞳できっぱりと言った。
「白夜が皇太子になると言霊に誓うなら、私は白夜の妻になると言霊に誓うわ」
白夜の眼差しを受け止める阿部媛の目に、白夜の目の赤が映っている。白夜も阿部媛の眼差しをただ真っ直ぐに受け止めて、応えるように言った。
「だったら俺は……、皇太子になって、阿部媛の傍にいるよ。……俺も、一人は嫌だ」
そう呟いた時、白夜は確かに言霊にその魂を縛られたのを感じた。もしそれを破ったなら、言霊の還り矢は必ずこの胸に突き刺さるのだろう。けれどそれでもいいと、そう思えた。
阿部媛は白夜の言葉に頷いて、嬉しそうに微笑んだ。その微笑みに胸騒ぎにも似た胸の高鳴りを感じながら、白夜も阿部媛に向かって笑い返した。




