二、人でないモノ
これは夢だと、すぐに分かった。
夜の薄闇に紛れて、白夜は一人墓の前に立っている。墓と言っても、土が少し盛り上がった上に小さな石が一つ置いてあるだけだったが、それでもそこは、確かに母の墓だった。
その前で立ち尽くしたままの白夜は、柄に彫り物のある野剣を握り締めている。それをふと手放したかと思うと、突然しゃがみ込んで墓の土を掘り返し始めた。おかしなのは、墓を掘り返そうとする自分を、白夜自身が後ろから眺めているということだ。
これは夢なのだと、白夜は強く自分に言い聞かせた。
何故ならこれは、いつかの時の自分の姿なのだから。母の墓を掘り返そうとした時のことを、自分は今夢に見ているのだ。
目を逸らそうと思うのに、視線は吸い付くように墓を掘り返す自分から逃れられない。それはまるで、餌を求めて喘ぐ獣のようだった。
だがやがて、土を掘り返そうとしていた手がぴたりと止まる。見つめるその目に、小さな白い何かが見えたのだ。
それはもしかしたら、ただ白いだけの石の欠片だったのかもしれない。けれど白夜は、そこに確かに失望を感じていた。
いくら掘り返そうと、この土の中には誰もいない。もし何か出てくるものがあったとしても、それはせいぜいが朽ち果てた骨の欠片くらいなのだ。
白夜は突然顔に込み上げてきた笑いを、止めることが出来なかった。土のついた手を払うこともせず、一人でくすくすと笑った。手を突いて、地面に打ち伏して、笑い転げた。
見ていて、胃の腑から何かが込み上げてきそうだった。
(やめろ! こんなものを、俺に見せるな!)
白夜は喉を押さえて思わず叫んだ。これ以上は見ていたくなかった。
その時、笑い転げていた白夜がその声が聞こえたかのようにはっとして笑い止め、起き上がった。
そうだ。あの時自分は、確かに誰かに呼ばれたような気がしたのだ。けれど驚いて振り返っても、そこには誰もいなかった。
これは、一体どんな夢なのだろう。こんな現に近い、それでいてすぐに現ではないと分かる夢なんて。少なくともこんな類の夢を、白夜はこれまで見たことがなかった。
気がつくと、自分と同じ赤い目が、ただ真っ直ぐに自分を見ていた。薄汚れた麻衣の裾から伸びた白い手足には、いくつもの傷や痣がある。それがどのくらい身体にあるのかを自覚したことはなかったが、その姿は正に傷ついた獣そのものだった。
向かい合う白夜には、自分の姿は見えていない。それが分かるから、白夜はただ呆然と、目の前の傷ついた獣と見つめ合っていた。
そこに誰もいないことが分かると、白夜は怪訝な顔をしながらもふいと向きを変え、そこにしゃがみ込んだ。そして黙ったまま、掘り起こした土をまた元のように返し始める。掘り返した穴を元の通りに埋め終えると、その辺りに生えていた野花を適当に取って来て墓に供えた。
全てをやり終えた白夜が顔を上げると、もう夜は終わりかけていた。代わりに東の方から少しずつ、空には藍の色が増えていく。夜が明ければ、また婆と共に村里に降りて働かねばならない。けれど白夜は、婆が心配してその名を呼ばうまで、疲れた体をそのままに明けゆく空を眺めているのだ。
いつかの自分がそうしたように。
やがて、遠くから白夜を呼ぶ婆の声が聞こえてきた。それに振り向いた白夜の顔は、石の礫を投げられても涙一つ流すことのない、いつもの顔だった。
白夜は土の上に放り出したままだった野剣を拾い上げ、それを元のように布で包んでから懐に仕舞い込むと、少し足早に歩き出した。
足早に歩く白夜が、自分の横を通り過ぎようとした時だった。
「――あなたが、 になるのよ」
耳元ではっきりと、阿部媛の声が聞こえた。
驚いて振り向こうとしたが、突然ひどい吐き気に襲われ、耳鳴りがした。周りの景色が段々に崩れ落ち、足元までが闇に落ちていく。眩暈がして、身体が宙に浮いたように不安定になってそのまま――そのまま、白夜は暗闇に意識を投げ飛ばした。
目を覚ますと、そこは臥所の中だった。突然に覚醒した頭とは裏腹に、身体の方はひどく重い。指一本、動かすのが億劫だった。それでも何とか身体を起こすと、臥所に近い場所にある柱まで這って行って身体を凭せ掛けた。
大した吐き気はないが、ひどい頭痛がしていた。
白夜はため息をついて膝を抱え込むと、それに頭を預けるように顔を伏せた。
部屋に篭る空気は少し冷たい。まだ夜も明けていないと見えて、部屋に明かりと呼べるようなものは何も見えなかった。
暗いのは白夜を落ち着かせる。目の色の所為か、明るいのが少し苦手なのだ。その分暗いところでは目が利くし、耳も他の人よりよほど敏い。けれど今はその目にも耳にも、人の気配は微塵も感じられない。昼間の少し騒がしかったのを思い出して、白夜はほうと息をついた。
一息ついてまず思うのは、やはり今見たばかりの夢のことだった。覚醒は突然で目覚めもあまり良いとは言えないのに、不思議とその細部まで鮮明に覚えている。
夢の中の自分は、今よりずっと幼い姿をしていた。
「……いつ頃、だったかな……」
夢で見たあの時の自分は、心を病んでいた。婆以外に頼る者もいない中で、自分は己の影を求めていた。自分がそこに確かにいるのだという証が欲しかった。
母の形見だという守り刀を婆から手渡されたのは、多分その頃のことだった。婆と一緒に、いつも日課のように花を供えていた小さな墓が、自分の母の墓なのだと知った。それはまだ白夜も幼い、淡い期待を胸の内に残していた頃。いつの日か母が自分のことを迎えに来てくれるのではないかと、儚い夢を抱いていた頃のことだ。
墓を暴こうとしたのは、例え髪の一筋でもいい、そこに出てきた物が自分と同じ白い髪であったなら、そこに眠る骸は確かに自分と血の繋がりを持った者なのだと、自分の存在を、信じられるような気がしたからだ。
けれど出てきた小さな白い欠片を見つけた時――あれはきっとただの石くれだったのだろうけど、それでようやく、自分の愚かさを知ることが出来た。
もし出てきた物が自分と違う黒髪だったら。もしも骨以外に何も出て来なかったら。自分の存在を否定するのか。まだ希望を繋ぐのか。何がどうなっていようと、変わらず自分はそこに在るのに。
そう思うと、可笑しくて堪らなかった。愚かしくて情けなかった。
婆は死んだ女の髪は黒かったと言っていた。だから例え、何か出てきたとしてもそれは自分を証する物にはならなかったはずだ。それでも、あの時の自分はそれを確かめずにはいられなかった。
その時のことは二度と思い出したくないと思っていたのに、どうして今頃あんな夢を見てしまったのだろう。阿部媛の神気とやらにあてられてしまったのだろうか。
そう言えば、夢の最後にはっきりと阿部媛の声が聞こえた。会ってまだ間は無いが、あれは確かに阿部媛の声だったように思う。その声は、自分に何と言った? 何になると言った? 肝心の部分がすっぽりと抜け落ちていて、一向に思い出せない。
いくら考えても何か答えが出てくるはずもなくて、白夜は柱に手をついたままゆっくりと立ち上がった。
もう一度眠れるかどうかの確証はなかったが、せめて夜が明けるまでは横になっていようと、臥所の方へ一歩足を踏み出した。
「――!?」
そこではっと、気付くものがあった。部屋の隅に、何かがいる。鼠などではなく、もっと別の、何か。
白夜は目を凝らして、その隅の暗がりをじっと見つめた。
そこにいたのは、鬼だった。
暗がりで、爛々とした黄色い目をぎょろぎょろと回して白夜の方を窺っている。闇に紛れて膝を抱え込んでいる様は人の子供のようだが、人の子供よりも余程小さく、子犬ほどの大きさしかない。その顔は獣のように醜く尖って、裂けた口からは牙が飛び出していた。
「お前、鬼だな」
白夜は鬼に向かって、人に話すのと同じように言った。鬼は濁った目玉を更に忙しなくしただけで、答えようとも動こうともしない。
鬼は人の業から生まれる荒御魂だと婆に教えられた。人の業から生まれた故に、人の業に縋ってしか生きていけないのだと。だからただ本能で人の血肉を欲し、そしてそれは白夜のような珍らかな者を好むのだと。
けれどこんな近くまで、鬼が近寄ってきたことは初めてだった。いつも人の暗がりの片隅から白夜を物欲しそうな目で見つめるだけで、それ以上近づこうとは決してしなかったのに。
「俺はおまえに血の一滴もやらないぞ。踏み潰されたくなければとっとと失せろ!」
叫ぶなり傍にあった茵を取って投げつけると、小さな鬼はそれをひらりとかわし、恨めしげにふーと鼻を鳴らして暗がりに消えた。後にはもう、白夜が投げた茵が転がっているだけだ。
白夜は投げた茵を拾いもせずに、部屋の外へ出た。窓も戸も閉め切っていた為に気づかなかったが、外は影が出来るほど月の光が明るかった。
白夜は御館の正面の階に腰を下ろすと、立てた膝の上に顎を乗せてため息をついた。
月影に浮かぶ内裏の内側に、人影はない。その御館のどこかで阿部媛も眠っているのだろうかと、ふと考えた。今は何故か、いつになく人恋しい気分だった。昼間、阿部媛や諸兄たちと話したりして賑やかだったから、それで今誰も話し相手のいないのを寂しく思っているのかもしれない。きっとそうなのだろうと思った。
昼間、白夜が眠りかけていたところに、阿部媛の言った通り諸兄はやって来た。ただそこにはもう一人、諸兄の息子で清野媛の――母の弟だという奈良麻呂という男も一緒だった。
諸兄は顎と鼻下に髭を生やした中背の、いかにも都人というような威厳を備えた男だったが、奈良麻呂の方はすっきりとした精悍な、それでいてどこか陰の薄い男だった。それでもそちらの方に目を奪われたのは、水鏡に映る自分と奈良麻呂とが、どことなく似ているような気がしたからだ。
自分とこの男たちとは確かに血の繋がりがあるのだと、白夜は目の覚めるような思いだった。しかし白夜は、自分の祖父であるという諸兄を、きっと好きにはなれないだろうと感じていた。
白夜と話すのに、諸兄は常に敬語を使った。恐らく帝の御子であるからという理由なのだろうが、言葉の端々にはわざとらしい親しみや上から見下したような威圧的な態度が見え隠れしていた。帝の御子に敬意を払っても、白夜のような下賤の者を結局は蔑んでいるのだ。それが嫌というほど分かって、白夜は内心辟易していた。
諸兄が語った諸々の事情は、そのほとんどが阿部媛の言っていたことと同じ内容で、ひとしきり話し尽くすと明日はいよいよ帝と謁見できるのだと、嬉々として言った。すぐにでも会いに行けないのは、これもまたよく分からない皇族の仕来りか何からしい。
未だ会ったことがなく、実感も湧いてこないのに、一体会って何を話せばいいのだろうか。そもそも自分には父などいないと思って今まで生きてきたのだ。父に対するどんな希望も、白夜は何一つ持ち合わせていなかった。
押し黙ってしまった白夜を、諸兄は疲れているのだと勝手に騒ぎ立て、早々に部屋を出て行った。けれど実際は、自分がさっさと白夜の傍を離れたかっただけなのだろう。部屋を出ていく時に見えた諸兄の視線には、白夜に対する明らかな侮蔑と恐れの色が混じっていた。
白夜は別段それを責めようとも咎めようとも思わない。いくら血族であっても怖いものは怖いし、貴族が下賤者を蔑むことは世の常だ。ただ少しだけ、寂しかった。
白夜はまた会いに来ると約束した阿部媛に、今会いたいと思った。だがこんな夜中にそれが果されることがないのも分かっていたから、下らない思いを断ち切るようにため息をついて立ち上がった。
そこで、白夜はふと誰かの視線を感じて庭の方に目を向けた。だが砂利の敷かれた庭を囲むように立ち並ぶどの御館にも、人の気配らしいものは感じられない。
『……白夜』
不意に、声がした。人の声でもなく、人の耳に聞き取れる音でもない。けれどそれに聞き覚えのあった白夜は、驚いて階の下に駆け下り、素足のまま砂利を踏んで辺りを見回した。しかし目の届く限り、辺りには何も見つけられない。
『白夜、こちら』
声がまた、白夜を導くように呼んだ。その声のする方に目をやると、斜向うにある御館の階の影に、小さな何かが佇んでいるのを見つけた。
「……杉魂?」
名前を呼ぶと、それは小さな足で器用に砂利を駆けて、白夜の足元に走り寄ってきた。
『白夜、見つけた』
そう言うと、それは嬉しそうに杉の葉で出来た仰々しい面を傾げさせた。その背丈は白夜の膝丈ほどの高さもなく、赤茶けた肌には所々に苔を纏わせている。
それは当然人ではないが、鬼でもない。杉の木から生じた精霊だった。
「杉魂、お前……何でこんな所にいるんだ」
白夜はしゃがみ込んで、馴染みの木霊に訝しみの目を向けた。
杉魂は白夜が住まっていた山の中で、一際大きな杉の木を親に持っている。精霊は往々にして赤子のように言葉拙いが、生れて久しい杉魂は一応まともに白夜と言葉交わすことが出来た。だから白夜は幼い頃から特に慣れ親しんでいたのだが、それがどうしてこんな所にいるのか。
『見つけに、来たよ、白夜。いなくなった、どうして?』
「俺を探しに来たのか?」
眉を寄せて訊ねれば、杉魂は身体の割に大きな頭を揺らすようにして頷いた。
「……俺は、大丈夫だから。だからお前はもう、山に帰れ。母木が心配するだろう」
鬼は人の業を吸って生きているが、木霊は母木の元でその愛しみを受けて生きている。ある程度生きた木霊は母木から離れて動くことも出来るらしいが、そう長く離れては生きていけないはずだ。
しかし杉魂は小さく首を傾げさせ、今度は横に首を揺らす。
『母木は良い、言ったよ。兄弟が、母木守ってるから。白夜、帰ろう。兄弟が山で、白夜を待ってる』
杉魂は切々と訴えるが、白夜はそれに首を振ることが出来ない。苦い顔をしたままで言った。
「俺は、帰らない。帰れないんだ」
杉魂は白夜の言うことを聞いているのかいないのか、首を傾げたままだった。
『白夜、都には、鬼、多いね。危ない、怖い。帰ろう。みんな、待ってる』
「俺は人なんだ。お前たちとずっと一緒にいられるわけがないだろう」
言った口の中が、ひどく苦い気がした。
――あいつらは、俺の容姿を珍しがってからかってるだけだ!
昼間、阿部媛に言った言葉が耳に蘇る。けれど本当は、精霊たちに限ってはそんなことがあるはずがないのだと、白夜は知っていた。
精霊たちは森羅万象に在る霊気から生じた無垢な魂たちだ。神々に愛しまれる為に生まれたそれらは汚れることが許されない。和御魂である内はいつまでも、純粋で在り続けるのだ。
そんな精霊たちが白夜の前に姿を晒すのは、白夜を真に仲間と思うからだ。それを白夜は嬉しく思うが、同時に自分が人ではないと言われている気がして、嫌だった。
ここに来るまでは、人よりもそんな木霊たちと共に時を過ごすことの方が多かった。でもそれは、自分が人に疎まれていたからだ。皇子として都に呼ばれた今は、もう違う。もう木霊たちと共にいなくても良いのだ。
「……俺はお前たちとは違うんだ。俺は人なんだから、ここにいるのが本当なんだ。だから……俺は、帰らない」
馴染みの木霊は、白夜の拒絶の言葉を聞いて困惑しているようだった。
『白夜は、帰らない? 杉魂、待つよ。白夜帰るまで、待つね』
顔を持たない木霊は、その代わりに被った面を揺らして笑った。それを見て、白夜はそれ以上何も言うことが出来なかった。
精霊はどれも人の思うことに敏い。言葉では拒絶していても、白夜が心の奥底では山に帰りたいと思っていることが、杉魂には分かってしまうのだ。
ここにいたいと思う。人のいる、本来自分がいるべきこの場所に。けれど、山が懐かしいとも思う。
無垢な精霊たちと話すのは、白夜にとって唯一心癒されるひと時だった。それを都に求めても、邪気の蔓延る都には鬼ばかりが多いのだろう。それは確かに気鬱なことだったが、そこが本来白夜のいるべき場所なのだ。白夜と精霊たちとでは、元より生きる世界が違うのだ。
しかし、白夜にはそれを言葉にして杉魂を拒むことが出来なかった。
「……待つって言っても、どこで待つんだ」
代わりに、そんなことを聞いた。
『少し向こうに、松の原があるよ。そこの木が、杉魂も愛しんでくれる。母木はどれも、優しいから』
「松の原?」
そんなものが築地壁ばかり続く内裏の中に、本当にあるのだろうか。一瞬そんなことを考えたが、杉魂は嬉しそうに言葉を続けた。
『壁の、向こうの方。あれが、連れて行ってくれるよ』
杉魂はそう言って、自分が立っていた斜向こうの階の下を指した。それを追ってそちらの方に目をやるが、影になったそこには何の気配もない。訝しんで杉魂に目線を戻した矢先、目の端で何か動くものがあった。
白夜がはっとして顔を向けるのと、その動く何かが進み出て月影に晒されるのとはほぼ同時だった。
「……犬?」
それは、黒い犬だった。身体はそこらの仔鹿よりもよほど大きく、遠目に見える目は薄く蒼い。長い毛と尾を持ち、尖った耳をぴんと立ててじっと白夜を見つめる様は、どこか豺のようでもあった。
どこからか紛れこんだ野良犬だろうかとも思ったが、ここは帝の御座す内裏の内だ。犬の一匹とはいえ、紛れこむのは容易ではない。それに何より、その犬の見た目はただの野良犬のものでは在り得なかった。
「お前、何だ……?」
そう思わず呟いたのは、その黒犬に何か常ならぬものを感じたからであった。獣というより、鬼に近いモノのように感じたのだ。
黒犬は白夜の呟きに何の反応も示さず、ただじっと白夜を見据えている。
『白夜、あれは、怖くないよ。白夜がいるの、ここ、教えてくれた』 杉魂は白夜の呟くのに答えるように言った。
「あれが、お前をここに連れて来たのか?」
白夜は驚いて杉魂を見つめた。
精霊は総じて臆病だ。杉魂とて例外ではない。だからなのか、邪なモノには過敏な生き物だ。それが平気な顔をしているのだから何も案じる必要などないのに、その黒犬に、白夜は何故か嫌なものを感じていた。
『白夜、行くね。杉魂、待つね』
杉魂はそう言うと、白夜の返事も聞かずに黒犬の方に駆け出した。
「あ……おい、杉魂!」
慌てて引き留めようとしたが、身軽な杉魂はさっさと黒犬の背に跳び乗っていた。杉魂をその背に乗せると、黒犬はくるりと踵を返し、そのまま背を向けて歩き出した。
「おい、待て!」
白夜が言って追いかける前に、黒犬は軽く地を蹴ったかと思うと、御館の屋根よりも高く跳び上がった。
「えっ……!?」
黒犬は白夜の驚く前で二度三度跳んで屋根を超え、御館の向こうに消えてしまった。残された白夜は、ただ茫然と黒犬の消えていった方を眺めるだけであった。
「……あいつ……何だ……?」
呟きながら、白夜はその場に座りこんだ。
今の動きからしても、あれが到底普通の犬とは思えない。けれど杉魂が怖がらないから鬼の類でもないのだろう。あの黒犬が何なのか、白夜には見当もつかない。
ただ今夜のところはもう眠れそうにないと、それだけははっきりと感じていた。




