流星群の夜
「まだ行かないの?」
休み時間。教室で談話するクラスメートにはわき目も振らず、彼女が僕の所にやって来た。僕は頭を抱えてしまった。
「あのさ、行かないとは言って無いだろ。だから休み時間毎に、僕の所まで来るのは止めろよ」
僕はなるべく邪険な雰囲気にならないよう、努めて柔和な口調で言ってみる。
すると案の定、彼女は口を尖らせた。
「一週間、そればっかりじゃない。もう行く気が無いんでしょ」
「……実はそうなんです、って言ったら?」
「私は、あなたが一度言った事はやり通す人間だって事、知っているわ」
彼女はそれだけ言うと、身を翻して最後に言った。
「じゃあ、また後で」
僕は机に突っ伏して、颯爽と去り行く彼女の背中に、そっと呟いた。
「恐縮です……」
あれは一週間前の事だ。地学の授業中、教師は言った。
「今夜の明け方、多分ニワトリ座流星群が見られると思いますよ。皆さんは運が良い。これ程見事な流星群は、もう二度と見る事は無いでしょう」
この言葉に教室は色めき立った。女子などは、キャーキャー騒いでいたと思う。
天文学が好きな僕としては、ニワトリ座流星群の事など随分前から知っていた。むしろ僕だけの秘密をバラされたような気がして、面白くなかった。
そして休み時間。彼女は僕に言った。
「ニワトリ座流星群を見てみない?」
僕は言った。
「いいよ」
そしてその夜。僕は彼女と一緒に、寮の屋根に登ってニワトリ座流星群を見た。みんなは寝てしまったのだろう。あれだけ騒いでいたクラスメートは、誰一人と来ていなかった。
「綺麗ね……」
僕達の方へと降って来るような流れ星を前に、彼女は言った。
「ああ……」
僕は上の空で頷き返す。
「願い事がいくつも叶いそうね」
「ああ……」
僕はやっぱり上の空だった。
「"世界の果て"って知っているか?」
しばらくして、僕は口を開いた。
「"世界の果て"?」
「ああ。そこは星の墓場なんだって。過去の流れ星が全部あるんだ。この流れ星達も、そこへ向かっているらしい」
これは嘘じゃない。過去にも、何人かの探検家が辿り着いたとか。
そして僕は言った。
「一緒に"世界の果て"まで行ってみないか?」
そう。あれは流星群を見て興奮していた僕の口が勝手に言った、あそこで言うべき事ではない内容のものだ。
しかし彼女は、瞳を輝かせて言った。
「……行ってみたい。連れて行ってくれる?」
あの時点で断っておけば良かった。しかし彼女の表情を見ている内に、僕はつい言ってしまった。
「いいよ。連れて行ってやる」
しまった、と思った時はもう後の祭り。僕は多いに後悔してしまった。
そして今に至る。
彼女は、この一週間いつもそうだったように、休み時間毎に僕の所まで来た。
「今日行くの?」
「すぐには行けない」
「準備は? 何かいる物はある?」
「後で言うよ」
「それとも明日行く?」
「今週中は無理かも」
互いに引かない押し問答が続く。こうやって一日は過ぎて言った。
それにしても、ここは息が詰まる。人里離れた山奥に、ポツンと建てられた寄宿学校。特待生として奨学金で通っている僕は、文句は言えない。しかし、まるで監獄のような息苦しさだ。
僕はあの提案を断る理由を考えてはいるが、別に"世界の果て"へ行きたくないわけではない。準備も彼女の分も含め、既にしてある。
要は僕の度胸の問題なのだ。僕に度胸という物があれば、こんな所はとっくに飛び出ているだろう。しかし、それは出来ない。
ただ、あの話をするのが早過ぎた。それだけの事だ。
――トントン――
夜。寮の自室にて。扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
僕の声が届いたのだろう。すぐに扉を開く音がして、足音がそれに続く。
振り返った僕の目に移ったのは、私服に着替えた彼女。僕は慌てて、机の上に散らばっていた本や雑誌を片付けた。
「な、何してるんだよ。ここは男子寮だぞ」
しかし彼女は、ちっとも悪びれずに言った。
「あら、それ位知っているわ。あなたが重い腰を上げないから催促しに来たのよ」
僕は思わず溜め息を吐いた。そして言うなら今だ、と決心する。
「あのさ、言い始めたのは僕だけど、考えてみなよ。僕達はまだ学生だ。まだ時間はあるじゃないか。何故今なのさ」
僕は、心の中で彼女に謝った。悪いのは僕なのだ。
彼女はしばらく黙っていたが、やがてポツリと言った。「今じゃなきゃダメなの」
「何で?」
「今じゃなきゃダメなの」
彼女は先程と同じ言葉を、先程より少し強めて言った。僕はすかさず聞き返す。
「何だよ。一体どうしたんだよ」
そして彼女は語り出した。
「あなたには言っていなかったけど。私、孤児院を出る事になったの」
「え?」
突然の告白に、僕は一瞬フリーズしてしまった。
彼女の言った孤児院とは、孤児である僕達が一緒に育った孤児院の事だ。
機能が回復しつつある頭で、彼女の言葉を反芻してみた。
孤児院を出るという事。それはつまり――
「春に孤児院に帰省した時に、私と会ってみたいっていう人がいたの。実際に会ってみたけど、イヤな感じの夫婦だったわ。私が死んだ娘に似ているんですって」
僕が何も言わないからだろう。彼女は聞いてもいない事を話し出した。
「それで二週間前、孤児院から手紙が来たわ。私が正式にあの夫婦の子供になるって事」
「じゃあ学校は? 変わるのか?」
僕は、ようやくそれだけ言った。彼女は肩をすくめると、呆れたように話し出す。
「当たり前でしょ。その夫婦の家は、孤児院からもここからも、ずっと遠い所にあるのよ。明日には迎えが来るわ。あなたに会うのも、これが最後かも知れない」
僕は言葉が出なかった。僕の知らない所で話が決まっていたのが悔しかった。
しかし何よりも、もう彼女に会えないかも知れないという事実の方が、衝撃的だった。
「何でそんな大事な事を言わなかったんだよ」
僕はなるべく邪険な雰囲気にならないよう、努めて柔和な口調で言おうとした。しかし、出来なかった。
僕の言葉に、彼女は睫を伏せる。僕は少しだけ後悔した。
「言おうと思ったわよ。何回も。でも……」
ここで彼女は言葉を切った。そして顔を上げ、僕の方を見据える。
「あなたが"世界の果て"へ行こう、と言ってくれたから」
僕は、ようやく分かった。あの時、あの流星群の下で、彼女があんなにも瞳を輝かせていた理由を。一週間、休み時間毎に僕の机まで来ていた理由を。
しばらく部屋の中には、沈黙が漂っていた。そして彼女は言った。
「分かったわ。私ももう諦める。本当は行きたかったけど……。さようなら。あなたの事、忘れない」
彼女はそれだけ言うと、踵を返してドアへと歩き出す。遠ざかる彼女は、ゆっくりと見えた。
突然僕の心に、ある情景が浮かんで来た。それは幼かった頃、彼女と過ごした日々の思い出だ。
僕はいつも苛められていた。僕には度胸が無かったのだ。そんな僕を、彼女はいつも励ましてくれた。
そう僕に足りないのは、そして僕が欲しいのは度胸――
僕は決心した。
「待てよ!」
気が付けば、僕は叫んでいた。振り返った彼女の目に浮かんでいた涙に戸惑いながらも、僕は言う。
「分かった。今すぐにここを出よう」
すると彼女は、驚いた顔をした。
「えっ……。でも……」
僕は椅子から立ち上がって部屋の隅へと行き、本に埋もれていた二つのリュックを引っ張り出した。
「ほら、準備はしてある。今は夜だから、抜け出してもバレないさ」
僕はリュックに付着していた埃を払って、その一つを彼女に渡した。その埃が、リュックが長い間あそこにあったという事を物語っている。
「ごめん……。僕が悪かった。僕には度胸が足りなかったんだ」
そっと彼女の顔を伺うと、そこには笑顔があった。
「ええ、知っているわ。伊達に何年も一緒にいたわけではないもの」
僕は、彼女に手を差し伸べた。その手を、彼女がしっかりと取る。今なら何でも出来る気がした。
「"世界の果て"へ行こう」
僕達は、夜の世界へと旅立った。