終わり。
あの男を現世に戻して、五分が経過した。
「……やってくれたね、まんまと騙されたよ」
ちゃぶ台を挟んで向こうにいる次期閻魔――シゼルが呆れたようにため息をついた。しかし、ワシに後悔は無かった。癪に障るが、あの子の幸せを考えた時に、あの男がいなければならない――そう、感じたのだ。
「そう言わなければ、お前さんが止めに入ってただろうと思ってな」
「まぁ当然ですけど……それに元の寿命まで戻ってますね。まだ、そこまでの力を残してたんですか?」
シゼル――次期閻魔を出し抜けた喜びを表に出すことすらも叶わない。もはや、残された力のすべてを延命に注いでも助かるかどうか分からないほど、ワシの体は消耗していた。
人を生き返す――それは多大な力を必要とする。しかし、目の前のアリサという死神は、それを二度も行った。
彼女は一体どれほどの力の持ち主だったのだろうか。それとも、そこまで想う気持ちが強かったのだろうか。もし後者だとしたら、この娘に対して酷なことをしてしまった。別れの言葉も交わすことなく、最愛の人と別れてしまったのだから。
見てみれば、アリサは驚愕で目を大きく見開いたまま固まっている。しばらくして、ようやく現実を受け止めたのか、悲しげに目を伏せてしまった。
「……すまないね」
ワシの言葉に、緩々と首を横に振るアリサ。しかし、その表情は今にも壊れて泣き出してしまいそうな、儚げな笑みを浮かべていた。
「悟が幸せなら……それでいいんです」
それだけ言って、アリサは静かに俯いた。重苦しい沈黙に、やはり胸が痛む。
そこで隣の次期閻魔が、じっとアリサを見つめていることに気づいた。しかし、思考は読めなかった。それほどまでワシは力を失っていた。
「先輩、長居しても迷惑ですから帰りましょう」
シゼルはにこりと微笑みながら、そんなことを言う。
こいつ空気読めないのか、と突っ込みそうになったが、彼の言葉――それは空気を震わせる声としてではなく、頭に直接流れ込んできた。
(黙っててください)
(……しかし、何故?)
ワシの問いかけに、シゼルは楽しげに息を漏らしたが、答えることはなかった。一方通行の会話に少し苛立ったが、黙って二人を見守ることにした。
「城まで転移で戻りますから、僕の手を握ってください」
「……うん」
俯いたまま、静かにシゼルの手を取るアリサ――その瞬間、彼女の姿が消えた。
「……どういうつもりだ?」
しかし、シゼルは依然、ワシの目の前にいる。本来、転移するなら二人同時に飛ぶほうが便利だ。なのに何故か彼はアリサだけを飛ばして、自分をこの場に残したのであった。
「あのままアリサ先輩を放置ってのは、流石に可哀想過ぎですよ」
シゼルは苦い笑みを漏らした。それが示すのは悲しみ――その瞬間、ワシはすべてを理解した。恐らく、彼も色々な葛藤を乗り越えて、このような結論に至ったのだろう。
その姿を見て、思わずあの男と重ねてしまった――美幸を救うために、その身を殺してまでシゼルやワシの下までやってきた彼と。
「それにしても、これまた酷い罪の量になったな。これはしばらく閻魔の仕事から離れられんぞ?」
「それをあなたに言われたくないですね……それに覚悟は済んでます」
もしかするとシゼルはアリサのことを想っていたのかもしれない。でなければ、こんな行動に出ることは不可能だ。
シゼルはアリサの背負っていた罪をすべて請け負い、彼女を転生のサイクルへと強制的に放り込んだのであった。
「それにアイツに対しては、ああ言いましたけど、そんなにすぐ次期閻魔候補が見つかるとは思ってないですから。どうせ俺がしばらくの間、働かないといけないんですよ」
シゼルは皮肉げに笑う。そこまでの覚悟を決めていたとは、敵(なのかどうか甚だ疑問ではあるが)ながら天晴れであった。
「先輩には幸せになってほしいですから……転生先はもう決まっています」
シゼルは笑いながら、ワシを見つめた。
「だから、二人の幸せを祈りましょう。そうでないと先輩の居場所がなくなっちゃいますから」
「……そうだな」
あの娘が孫になる――そう思うと、少しばかり頬が緩むのを感じていた。
「とりあえず、あなたはしばらく転生も隠居も控えてもらいますよ? 流石に罪の量が増えすぎです」
シゼルは楽しげに言った。
「ふん、お前の部下として働けと言うのか?」
「ご名答です」
どこまでも計算高いこの男に、少し呆れを覚えた。基本サイクルを作り上げるまでの管理職として、ワシの力を利用するつもりなのだろう。
しかし――
「大した力はもう残ってないぞ?」
「力なんて必要ありませんよ、死者への教育係をしていただくだけですから」
ともかく――とシゼルは一度言葉を切って、口を開いた。
「俺たちは莫大な時間があります。ゆっくりと仕事をこなしながら、二人を見守っていきましょう」
愛していた者の幸せのために、己は傍観を決め込む――その度量に胸が熱くなった。この男の下で働くのも悪くない、と思い始めていた。
力を使い果たした影響か、いまだ全身の倦怠感が抜けないが、思わずシゼルの言葉に強く頷いていた。
覚悟は決まった。娘の幸せのために、全力を注ごう――この身が朽ち果てるまで。
*
あれから五年が経った。五分じゃない、五年だ。
目を瞑ったまま、別れを待っていたのだけど、その時が訪れることはなかった。
天使長が僕を生き返してくれたと理解するのに、そう時間を必要としなかった。しかし、何故そんなことになったのかは分からないままだった。色々と推測はできるけど、どれもが正解に見えるし、間違いにも見える――実際、一つの感情だけで動いている人なんていないから、どれもが正解なのだと思うけど。
僕はその感情に呑まれるのが嫌で、それらすべてを無視して、それらを殺して生きてきた。しかし、溜め込んだ感情は確かに存在していた。
ただ、それらのすべては三度目に生き返った時に流した涙で、すべて洗い流されてしまったかのように消失していたけど。
ただでさえ驚くことの多い状態だったのに、それに加えて驚くほどの爽快感が上乗せされ、長年曇り続けてきた僕の心は晴れ渡ったかのように思えた。
世界が色を取り戻した――それは大げさな表現ではない。実際に見るモノすべてが新鮮に映り、少し前まで絶望しつくしていた世界と一緒だとは思えなかった。
それもこれも今、僕の隣を歩く彼女たちのお陰だ。美幸は僕の方に見向きもしない――何故なら、その視線の先を辿れば分かる。
美幸が微笑む先には、一人の少女がいた。五年も経ったので察している方もいると思うけど、我が娘だ。名は亜里沙と言う。
もちろん、僕らを助けてくれた彼女――死神のアリサから名前を取った。男の子だったら、どうしてたの、とか野暮な質問は受け付けない。
亜里沙と名づけることを美幸に提案した時は少し冷や冷やしたけど、彼女も快く承諾してくれた。結局、アリサに感謝していたのは僕だけでなかったようだ。
僕は三度目の死んだ時の冒険記をすべて美幸に話した。彼女の両親のことも包み隠さずに。当然のことだけど、それを聞いて美幸は涙を流し続けた。ただただ感謝の言葉を述べていたのを覚えている。僕もお礼の言葉だけでも述べたかった。
しかし、それは叶わぬ願いかもしれない。向こうから訪れてくれないかぎり、僕らから彼らに会うことはできないからだ。
せっかく孫ができたのだから、少しぐらい顔を見せにきてもいいのではないかと思うのだけど、彼らが姿を現すことはなかった。
天使長という権威を失って、転生のサイクルに戻ったのかもしれない――そうも考えたけど、彼らが見守っているような気がして、僕は思わず空を見上げた。
真っ青に晴れた空の下に爽やかな風が吹き抜ける。こんな空を見るたびに、僕はアリサを思い出す。
今の死神や天使の世界――管理者たちは一体どうしているのだろうか。皆、元気でやってると良いのだけど、先ほども言ったとおり向こうからの音沙汰など一切無いので分からないままだった。シゼルには殺されかけたけど、根は悪いヤツでは無さそうなので、今はもう気にしていなかった。
天使長は音沙汰無いけど元気してそうな気がする。美幸が死ぬまでは、恐らくあの人も死にそうにないと心ひそかに思っている。
アリサは――あれだけお世話になったのに、最後に挨拶できなかった。僕はそれだけ未だに悔やんでいた。しかし、彼女も僕らの前に姿を現すことはなかった。
そういえば、何故かは分からないのだけど、我が娘の亜里沙も目が碧い。流石に髪の色は黒いが、それでも金に染めてやったら、アリサにそっくりになるのではないかと思う。覚醒遺伝か何かだろうと納得させていたが、妙な因果を感じるのは僕の気にしすぎだろうか。
「ちょっとパパ、ぼんやりとしてないで、ちゃんと亜里沙のこと撮ってよ?」
「ああ、悪い。ちょっと考え事してた」
美幸の言葉で我に返り、僕は首にかけていたデジタルカメラに手を伸ばす。
美幸はそんな僕に呆れたようにため息をつく。その様子を真似して亜里沙も小さくため息をついた。ああ、本当に可愛いな。これは決して親バカではないはずだ。碧眼の黒髪美少女――この可愛さは世界の通用すると言っても過言ではないと思う。
「パパはなにをかんがえてたの?」
少し首を傾げるようにして亜里沙は尋ねた。その仕草もベリーキュートだぜ!
「アリサ――亜里沙のことだよ」
そう答えると、亜里沙は嬉しそうに笑顔を咲かせた。
「本当に親バカなんだから」
美幸も苦笑を漏らした。しかし、悪い気はしなかった。
今の僕は、それを上回る幸せに満たされていたから。
しかし、その幸せは誰かを犠牲にした上で成り立っているものだろう。今も尚、美幸が生きていること自体が運命を犠牲にしているし、僕が美幸と一緒にいることはアリサの想いを犠牲にしている。
その他にも色々なモノを犠牲にしてきたのだろう――それが何なのかは分からないが、僕はどうしても、そう考えてしまうのだ。
だけど、その犠牲に足を取られて、停滞することはないだろう。それらを犠牲にしてきたのだから、それ以上に幸せにならなければならない。何故だか分からないが、そう思うのだ。そうすることで犠牲になっていった何かが、僕らを優しく見守っている――そんな気がしていた。
だから今なら胸を張って言える。
僕は今、幸せだ、と。
そして僕の幸せを作ってくれた、すべてにありがとう、と。
ここまで読んでくださった方々に感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。