再び。
居間まで通してもらい、僕たち三人は天使長の前に正座していた。
畳が敷いてあり、部屋の中央に昭和を思わせる小さなちゃぶ台があった。その奥には随分と古そうなブラウン管のテレビもあるのだが、地デジ対策は大丈夫なのだろうか。
「余計なお世話だ」
「すみません」
ラスボス、もとい天使長にじろりと睨まれて、思わず謝ってしまう僕だった。
「大体、何で美幸はお前みたいなヤツを……」
「ここで娘さんを僕にくださいとは言いません」
父親として相手をしていると、どこまでいっても話が進まないような気がする。僕は話の軌道修正をすべく、切り出した。
「あなたの娘――美幸の命が危険なんです。ご協力を願いたい」
「断る」
きっぱりと断られた。
この親父は一体何を考えているのだろうか。自分の娘の命が危険だと言うのに、助けないと言うのだろうか。
「ふん、何も知らんくせに」
「ええ、知りません。だから話して欲しいです」
「お前に話すことなど何もない!」
見た目どおりの頑固親父だったようだ。僕はやれやれと首を振りたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。
ちなみにシゼルとアリサは表面だけの硬い笑みを浮かべていた。
僕は死神じゃないけど、何とか思考が読める――恐らく、この親バカにドン引きしているのだろう。
「誰が親バカだ!」
「すみません」
勝手に思考を読まれて謝る僕。何だか理不尽な気がしてきた。
しかし、このまま引くわけにはいかない。僕は美幸の父、天使長を静かに見つめて口を開いた。
「しかし、あなたの娘が死んでも構わない、と仰るのですか?」
それを言ってやると、露骨に苦い表情に変わって黙り込んだ。分かりやすい人で助かる。
「……ワシが助けられるなら、とっくにそうしている」
搾り出すように低くかすれた声だった。先ほどまで向けられていた敵意も一瞬にして消え去り、目の前には疲れきった老人が一人座っているようにしか見えない。
「天使長である、あなたでも何もできないのですか?」
「再び力を使えば、恐らく現閻魔がワシを許さんだろう」
話が飲み込めない僕は首を傾げた。しかし、アリサとシゼルは険しい表情で天使長を見つめていた。
やがてシゼルが口を開く。
「そうですね……あなたの職権乱用っぷりから考えれば、捕まって死神として使役させられててもおかしくないほど罪でしたよ」
「待て、シゼル。僕にはさっぱり分からないんだが?」
「この人は娘の寿命を十年近くも延ばしているんだよ――それも数回に渡って」
シゼルは天使長を見つめたまま静かに言った。
しかし、僕はその言葉を理解することができなかった。反芻もろくにできず、ただ頭の中で文字がぐるぐると回っているだけだ。
文字の羅列をぼんやりと眺めているだけで、内容を一切理解しようとしない――僕の脳が明らかに拒否していた。
「現実逃避しても時間の無駄だぜ?」
そう言われても僕は答えられない。
その瞬間、乾いた音が響き、頬に熱が走った。
「せ、先輩?」
シゼルと天使長は驚愕で目を大きく見開いて、僕の横を見つめていた。
「悟、戻ってらっしゃい?」
「……すまない、いつも迷惑をかけるな」
アリサのビンタで身体的と思考的、両方の硬直から解き放たれた僕はようやく言葉を吐いた。
「えっと、そうですね……美幸が十年近く前に死ぬ予定だったんですね」
確認するように呟くと、シゼルとアリサは静かに頷き、天使長は俯いてしまった。
だけど、僕は納得がいかなかった。
「納得がいこうがいくまいが関係ない。幼い頃に両親を失った彼女は、そのショックを引きずって自殺する運命にあったんだ」
シゼルはそっとため息をつく。その表情はありありと呆れの色が見えた。
「それを先ほど言ったとおり、この親父が職権乱用で彼女の寿命をかなり延ばしたんだ。運命を何度も捻じ曲げて、な」
捻じ曲がって捻じ曲がって歪な針金が頭の中に思い浮かんだ。それが今、僕らが生きている世界――美幸に出会えたことですら否定されている気がして、僕は首を横に振った。
それよりも、僕は美幸が自殺を考えていたことにショックを受けていた――とは言え、取り乱すほどではないけど。
僕は強い人と弱い人の二種があると思っている。そう考えると前者は美幸、後者はまさしく僕だった。そこには越えられない壁のような物がある。つまり、僕は一生強者になれない――そう考えていたのだ。
しかし、それはただの言い訳だ。そう思い込むことで、諦める理由を作り出し、逃避していたのだろう。強くなることに多大な労力を費やすことが嫌だったから、停滞することに理由を添えたのだ。
だからこそ、それが逃避だと分かっていたから、納得もしている。美幸も最初は弱かったのだ。それも自殺を考えてしまうほどに。
どれほどの苦難を乗り越えてきたら、あれほどにまで強くなれるのだろうか――僕には想像もつかないし、想像するだけで辛くなりそうだった。
そう、人は強くなれるのだ。なのに、僕は諦める理由を作り出し、強くなることを拒み続けた。
何と愚かしいことか。
何と恥ずべきことか。
こんな僕が美幸のパートナーとして天使長、もとい彼女の父親に認められないのも納得できてしまう。
こんな弱い僕に、娘を安心して預けることなんてできない――恐らく天使長はそう考えているだろう。
僕は静かに俯いた。きっと顔からは一切の表情が消え去っていることだろう。顔の筋肉がまるで固まってしまったかのように、ぴくりとも動かなかった。
肩にのしかかってくるような空気の重さに、口を開くことを躊躇う。もはや、僕が何を言っても無駄なのではないか、とさえ思えてきた。
「俺はお前がそこまで弱いとは思わないけどな」
静寂を打ち破ったのはシゼルだった。僕はのろのろと顔を上げて、彼を見つめた。
「貴様は愛する者のために命を賭してでも救おうと思ったからこそ、今ここにいるんだろう? はっきり言って、そんなの普通は出来ないぞ? よっぽど心の底から愛してない限りな」
「そうだよ、悟は自分のこと卑下しすぎなんだよ」
シゼルの言葉を受け継いで、アリサが言った。しかし、そんなことを言われても実感が湧かないのが当然のことだ。
今までずっと弱いと思い続けていた自分が実は強かったです、なんて信じられるはずがない。
「だから、それが卑下しすぎだっての。それは謙虚を通り越してるから、非常にうざい」
やや苛立ったようにシゼルは言った。何故、僕は死神に応援されているのだろうか――なんて思ったりもしたけど、この際どうでもよくなっていた。
「だからと言って、美幸さんの件を覆すことはできないけどな」
現閻魔の決定だし、とシゼルは最後に付け加えた。
「だから、何とかならないかと天使長の下に訪れたんだけど――」
「もはやワシにそんな権限はないのだよ」
疲れた表情の天使長が僕の言葉を遮った。先ほどまで僕に噛み付いてきた人と同一人物だとは思えなかった。
「ワシの職権乱用を知って、大半の天使が辞めていき、転生してしまった……」
「そのせいで天使の仕事を俺たちが引き受ける羽目になったんだ。こいつは何の権限も持っていない 、もはや名前と力だけの天使長なのさ」
追い討ちをかけるようなシゼルの言葉――しかし、僕はそこに何かが引っかかった。
「力はあるんですか?」
「あっても行使する権限がないんだから無意味さ」
僕の問いかけにはシゼルが答えた。天使長は相変わらず俯いたまま、ぴくりとも動かない。
「もう無駄だ。天使は消え、死神がすべての管理職となって代わる」
そこでも何かが引っかかる。しかし、それは掴もうとする僕の指の間からするりと抜けていった。
しかし、思考を止めるわけにはいかない。諦めるわけにはいかない。
「その管理職って言うのに、どれほどの死神を費やすつもりなんだ?」
僕は些細な疑問ですら口にし、何かを掴もうと必死に足掻く――パズルのピースを組み立てて、全体像を掴もうと試みたのだ。
今、確かに僕の中に引っかかった言葉は『管理職』だった。これが、恐らく何か重要なピースに違いない――僕は、そう確信していた。
「かなり多くの人員を必要とするだろう。大罪を犯した魂で補充していかなければ、かなり厳しいと思う。それまでは人々から少しでも多くの寿命を貰って、一人ひとりの死神を長期間、働いてもらう方針になっている」
つまり、人の寿命をより多く集めるようになったのは、天使界の破綻により、一人ひとりの死神がより力を必要とするようになったから――しかし、僕はこのルールを何とか打破しなければならない。何としてでも美幸だけは助けたいから。
それと同時に引っかかった何かが形をなしていく。答えは目前だ。
力と管理職――それが本当に必要なのか、と考えた瞬間、シゼルから驚愕の視線が向けられた。
「そうか……死者のサイクルの見直しだ」
小さく呟くシゼルに僕も頷く。
「新しい死者に、古い死者が罪を贖うシステムを説明し、説明した者から労働に従事すると言うサイクルを作り上げることで、管理者の存在をできる限り少なくできる。そうすれば死神が無駄に寿命を必要とすることなく、管理職――閻魔、もしくは天使長が数人で済むんじゃないか?」
シゼルの言葉に、僕は頷く。
簡単に言えば、流れ作業、簡単な仕事をアルバイトで補う――そんなシステムだ。そうなれば死神の負担も減り、順番に転生していくことが可能になるだろう。
「これなら、確かに管理職の数を圧倒的に減らせる。しかし――」
そう、「しかし」だ。この案には決定的な弱点がある。
「いや、その点には心配しなくていい」
僕がそこに言及しようとしたところで、シゼルに遮られた。
「管理職が永遠に交代できないわけではあるまいよ。地獄から優秀なやつを選別し、次期管理職として引き継げば、現管理職は転生のサイクルに戻ることができるだろう」
確信を持っているのか、シゼルの表情には笑みまで浮かんでいた。確かに彼の言っていることを前向きに捉えれば問題はないだろう。
しかし、僕の中で不安が霧散していくことはなかった。まだ何かを見落としている――そんな気がしてならなかった。
「心配性だなぁ……次期閻魔が大丈夫だと言ってるんだから、納得しろよ?」
やや苛立った声色のシゼルに僕は閉口する。
漠然と嫌な予感がする。シゼルの持つ確信が妙に僕を苛んだ。
「凄い……そんなことができれば、本当に――」
アリサは口に手を当てて、歓喜に震えていた。それを見て、僕は言葉を飲み込んだ。これ以上、引っかかる何かを追究して雰囲気を壊すのも気が引けたのだ。
これで上手くいけば美幸の魂を回収する必要もなくなるだろう――そう考えて、シゼルの目を見た。彼にはそれで伝わったらしく、静かに頷いた。
しかし、そこでシゼルは訝しむように首を傾げた。
「しかし……貴様が死んだのに、彼女は幸せになれるのか?」
「あ」
「え」
僕とアリサの声が同時に発された。両方とも間の抜けた声だった。
そうだった……ノリで死んじゃったけど帰ることを一切考えていなかった。
「死神の力に頼るなよ? アリサ先輩はまだまだ力が足りないし、俺は自らの仕事に力を費やさなければならないんだから」
元より頼るつもりはなかったけど、シゼルに釘を刺された。
と、なると僕はこのまま死んで、地獄で働きながら転生を待つしかない。もう二度と会えないかもしれないけど、美幸を助けられたことに幾分か満足していた僕は、それでも良いと思えた。
「相変わらず、恐ろしいほどの切り替えの早さだね。本当に人の強さを逸しているよ」
シゼルは呆れたようにため息をついた。
しかし、そこまで言われると恥ずかしいと言うより、少し悲しかった。確かに自分のことを人外だ、とずっと思っていたけど、他人に言われると案外傷つくものだ。
それに、僕はこれが強さだとは思えなかった。
「別に、そこまで言ってないんだけどね」
「もう! 二人で何の話をしてるのよ!?」
「ん、ワシも分かるけど」
「私だけ仲間はずれだったー!」
さらりと会話に加わる天使長に、アリサが絶望した。それはoとrとzを横一列に並べたような、見事な絶望っぷりで思わずため息が漏れた。
「まぁそれに関しては……最後に話ぐらいさせてやれなくもない」
天使長の言葉に僕は顔を上げた。それは今までに無い速さだったろう。それほどに僕は天使長の言葉にがっついた。
美幸と話ができる――それを想うだけで胸がこれほどまで満たされて、温かくなっていく。
「いい、のですか?」
それほど嬉しかったのに、僕は思わず尋ねていた。
あれほど僕を嫌っていた(と思う)天使長が、まさか力を貸してくれるなんて――その事実が嬉しすぎて僕は一回でその言葉を信じることができなかったのだ。極度の幸運を前に、体が萎縮したのだろう。それを失っても耐えられるように、と。
「……美幸の命を救ってくれたことは素直に認めざるを得ないからな」
天使長は苦い笑みを浮かべていた。
「ありがとうございます!」
僕にしては珍しく声に力がこもっていた。
「時間は五分だ……いくぞ?」
「え、ちょっと待っ――」
まだ話すことも一切考えてない――そう言おうとしたのに、世界の揺れに襲われて、視界が消失した。足場も消えて、落下していくような感覚に冷や汗を流しながら僕は手足を動かすが、空気を掻くばかりであった。
もはや、諦めて落下に身を委ねる僕の視界に小さな光点が現れた。それは見る間に大きくなっていき、やがて僕のすべてを飲み込んだ。
世界が白に覆われた。生と死の境界線、あの世界にまで戻ってきたのだろうか。しかし、真っ白な世界でも落下する感覚が途切れることはなかった。
その頃には僕も静かに落ちていく先を見つめていた。その先に空のような青色を見つけて、僕の脳裏にふとアリサの顔が思い浮かんだ。
「……アリサ」
もしかすると、彼女と二度と会えないかもしれない――そんな漠然とした嫌な予感が頭を過ぎって、僕は落下してきた方を見つめた。
五分経てば恐らく地獄に戻るはずなのに、何故かそんな気がしたのだ。
せめて感謝の言葉だけでも伝えたい。ここで思いっきり叫べば、彼女に何か伝えられるだろうか――そう思って、空気を思いっきり吸い込んだ瞬間だった。
僕の視界に色が戻った。
アリサ――と叫んだつもりだったけど、それが言葉になることはなかった。正確に言うなら、くぐもった声が喉から少し漏れただけで、それは言葉として形を成すことはなかった。人工呼吸器ノマスクが口に当てられていたのだ。
僕は静かに周囲を見回す。夕暮れか朝方なのか、部屋は薄暗かった。医療機器の電子音が耳に障るけど、それを無視して僕は身を起こそうとした。そこでわき腹が鋭い痛みを発したが、それを気にしている時間は無い。与えられた時間は五分だ。僕は痛みを堪えて、身を起こした。
すると僕のベッドにもたれかかるようにして眠っている美幸の姿が視界に入った。僕が多少動いても気づかないほどに寝入っている。そこまで疲れているのだろうか――そう考えると起こすのも気が引けた。
僕は周囲を見渡して、小さなテーブルの上にメモ用紙とボールペンがあるのを見つけた。最後に言葉を交わせないのは少し残念だけど、それで想いを伝えることにした。
五分ですべてを伝えられる自信はないけど、僕はボールペンを手に取った。
君がいたから僕は強くなれた。
君がいたから僕は戦えた。
君がいたから僕の世界は色を取り戻した。
君がいたから……僕はこの下らない世界でも、もっと生きたい――そう思えた。
目じりから熱い何かが零れていく。それが涙だと理解するまで、少し時間がかかった。泣くなんて何年ぶりだろうか。今まで殺してきた――否、抑えてきた感情が溢れ出していた。
離れたくない。もっと君と一緒にいたかった。ただ、それだけであった。
本当は話したい――その衝動を必死に堪ええて、起こさないように美幸の頭をそっと撫でた。頬を伝う涙を拭うこともせず、その手に伝わる温もりを感じていた。
時計を見ていなかったために、残り時間がどれほどなのか分からなくなっていた。突然の別れに身構えて、僕は美幸の頭から手を離す。
そして静かに目を瞑って、その時が来るのを待った。