違う世界。
誰が死神という職業を作ったのだろうか――僕は白い静かな世界で、それだけを考えていた。
簡単に行き着く答えは『神』。むしろ、それ以外に答えが出てくることはなかった。
「お待たせしました」
そんな僕の思考を遮って、冷たい声が僕の耳に届く。
少し大人びた声――しかし、それは懐かしい響きも伴っており、僕は振り返らずとも誰なのか察することができた。
「もう少し待たせてくれても良かったけど?」
僕が笑いながら振り返ろうとした。振り返ろうとしたんだ。
しかし、それは途中で止められた。僕は頬を襲う灼熱を思わせる痛みに、涙を零しながら地に這いつくばる羽目になった。
どうやらアリサを視界に捉えると同時ぐらいに、張り手を受けたらしい。
「こんの……馬鹿!」
少し大人びた――とは言え、高校生ぐらいのサイズになったアリサが怒り心頭と言わんばかりの形相で僕を睨みつけていた。
「申し訳ないことでございます」
それに対して、僕は生命の危機を覚えて、土下座を敢行した。何故か、言葉遣いも凄まじく丁寧になっていた。
と言うか、もう僕は死んでいるんだけど。
恐る恐る僕が顔を上げると、後頭部に重みを感じて、地面に額を強くぶつける羽目になった。後頭部を抑える感触からして、どうやら踏まれているような体勢だと思う。パンツを覗かれない対策は講じているようであった。
「違う、私はまだ許してないんだから」
「心を読めるようになったのか?」
「……お陰様で、何とか力を取り戻すことができたわ」
相変わらず僕の後頭部を踏みしめたまま、アリサは静かに言った。
「それより、なんで最初に言ってくれなかったの?」
アリサは再び声を荒げながら僕の胸倉を掴み、引き上げた。
それにしても、怒っていても可愛い――と言うより、大人びて凄く綺麗になったアリサの顔が、僕の鼻先にあるというのは、とても心臓に悪いことであった。
黙ったまま固まる僕にアリサはもう一度口を開く。
「な、ん、で、最初にそのことを言ってくれなかったの?」
「言ってもよかったけど、アリサの寿命がどれほど持つのか分からない僕が、焦る気持ちも理解して欲しいものだけど」
「うっ……むぅ」
それを言ってやると、アリサは苦い表情のまま黙った。
「ともかく思考が読めるなら、もう僕から説明する必要は無いか」
「うん? これはもう使わないけど」
何故と尋ねると、アリサは真顔で答える。
「もう隠し事なんてしないと信じてるから」
アリサの眼差し真剣そのもので、僕は思わずため息を漏らしてしまった。
「な、なんでため息?」
「僕が隠し事をしなかったとしても、アリサはどう?」
既に一度隠し事をされていた僕は疑いの視線を向けてやる。
すると、アリサはバツが悪そうに目を逸らした。
「うん、そんな子と協力なんてできないな、残念だけど」
「あう……」
アリサはまるで捨てられた子犬のような瞳で、僕を見つめてくる。
しかし、僕は屈しない。先ほど感じた綺麗さとのギャップに萌えたのは認めても、僕はここで折れるわけにはいかなかった。
じっとアリサを見つめて、彼女から口を開くのを待つ。それに耐え切れなくなったように、彼女は俯いてしまった。可愛いな、この野郎。
その感情を表に出すことなく、脳内でひとしきり悶えてから、僕は再びため息をついた。悶え疲れたのであった。
「……分かった、約束する。もう隠し事はしないって」
渋々と言った様子でアリサは唇を尖らせた。
しかし、その仕草も可愛い。綺麗とのギャップで更にときめく僕。この子は僕を萌え殺す気だろうか。
とは言え、直視されると目を逸らしたくなるほどの美女へとアリサは進化していた。その美女を見て、僕は今の今まで何故気づけなかったのだろうと思う。十五年前、僕を生き返してくれた彼女だと気づけなかった自分に少々苛立ちを覚えた。
「変な顔して、どうしたの?」
「いや、何でもない」
可愛らしく首を傾げるアリサから目を逸らしながら、僕は答えた。感情を表に出さないことには、それなりの自信があったのだけど、このときは露見していたらしい。
そんなことよりも、今は成すべきことがある。
その為に、僕は死んだのだから。
「まずは閻魔さんから、ってところかな」
「うん、あの方なら、色々と知っているかもしれない。けど……」
「けど?」
その先をアリサが言うことはなかった。しかし、嫌悪感丸出しの表情から、彼女が会いたくないと思っている事だけは分かった。
「そんなに怖いの?」
「怖い、と言うか、あれは何と言えばいいのかなぁ……」
顔を引きつらせながら、アリサは首を傾げる。
ともかく、よくない上司であることだけは分かった。
「上司に恵まれないとか災難だよな」
部下とは、上司の出来で良い成長をするかしないかが決まってくると僕は思っている。
それを聞けば、「環境や人のせいにするのはよくない」とお決まりのセリフを返されそうだけど、人とは周りからの影響を受けるものだ。だからと言って、それを言い訳にするのも良くないけど。周囲の影響力を理解した上で、己を貫く強さを手に入れることが大切だ。
少し熱くなってしまったようだった、閑話休題。
「それでも僕が思いつく限り、閻魔様ぐらいしか突破口が見えないんだ。案内してくれるよな?」
僕がそう言うと、渋々と言った様子でアリサも頷いた。そして僕の前を静かに歩いてゆく。
静かな空間に僕とアリサの足音だけが響いた。
「そういえば愛してましたって言ってたけど、あれは本当?」
「ぶふっ!」
僕の突然の質問に、アリサは盛大に吹いた。そのまま顔を真っ赤にさせて、激しく咳き込んだ。
「大丈夫か?」
僕はアリサの背中をさすってやる。
「あ、あれは――」
息を整えて、アリサは口を開く。そのタイミングに合わせて、僕は更に質問を投げかける。
「そう言えば、ずっと見てた、なんてことも言ってたよな? それって僕が一度目死んだ時から?」
アリサが初めて僕の家に来た時の会話を覚えているだろうか。さらりと言った彼女の言葉を当時は流しておいたが、今になって僕はその意味を理解したのであった。
「なっ……覚えていたの!?」
うん、と軽く首肯してやると、アリサは真っ赤な顔を俯かせてしまった。何だか、アリサいじりが凄く楽しくなってきた。
「なぁ本当なのか?」
「う、うん……」
消え入りそうな声だったけど、アリサは確かに頷いた。それを聞いて、僕は色々な疑問が思い浮かんできた。
「そうか」
「そうか、ってそれだけ!?」
顔を真っ赤にしたアリサが僕の胸倉を掴んで、前後に揺すった。
「こっちは嫉妬するぐらい悟のことが好きで、現状の恥ずかしさを押し切ってまで告白したってのに、反応薄すぎない!?」
「んー、そんなこと言われてもなぁ……」
それは当然、嬉しいんだけど、どう反応すればいいのか分からなかった。それを表に出して、ひゃっほう! と喜べばいいのか、それともお礼でも言えばいいのか、と悩んでいるうちに出てきた言葉が「そうか」だったのだ。
反応に困りながら、僕は頭を掻いた。眼前には顔を真っ赤にさせ、目の端に涙を一杯溜めたアリサの顔がある。それから視線を背けることしかできない。
「ごめん、嬉しいんだけど、反応の仕方が分からなかったんだ」
僕は素直に言う事にした。
はっきり言おう、美幸と出会うまでの僕の恋愛経験はゼロだ。
つまり、美幸以外の人から好意を向けられることに、僕は慣れていないのだ。
「そ、そう……」
真っ赤な顔は健在だけど、柔らかな笑みを浮かべながらアリサはようやく僕を解放した。
それと同時に僕はどうしても聞きたいことがあった。
「さっき嫉妬って言ってたけど、もしかして美幸を殺そうとしたのって――」
「そ、そんなわけないわよ!」
僕の質問を先読みしたのか、アリサは即座に否定する。
「そりゃ仕事がこちらに来たときは、嬉しくてガッツポーズしたりもしたけど、私的な理由で美幸さんを殺そうとはしていません!」
「そうか」
僕は安堵し、思わずため息をついた。
もしアリサが人を殺さなくて済むようになったら、僕と美幸と三人で一緒に暮らせるかもしれない――そんなことを考えていた。
しかし、それはそれで色々と修羅場になりそうなので、僕は再び小さくため息をつくのであった。
*
「ここ地獄だよな?」
しばらく歩いて、僕たちは真っ白な空間を抜けていた。そして疑問を抱かざるを得ない眼前の光景に、僕は思わず尋ねていた。
「うん、地獄」
それにアリサは頷いた。
しかし、僕はどうしても疑問を払拭できない。何故なら、それは左右に広がる広大な海にあった。
「何故、青い」
僕は思わず呟いた。僕の視界に広がるのは青い空、青い海。そして空に浮かぶのは眩しい太陽に真っ白な雲。そして僕らが歩く、この砂浜も真っ白。真っ先に思い浮かぶ言葉はリゾート地だ。ここが地獄か、と問われれば、誰もが疑問を持つはずだ。
「先々代の閻魔様が地獄の暗いイメージを払拭しよう、と言う事で世界を作り変えたらしいよ」
アリサが当然と言った様子で説明をする。
「自由だな、地獄」
「うん、結構自由だよ、地獄」
死神さんからも同意を頂いてしまった。何というか、これでは死を恐れて生きている人々が不憫である。
雰囲気のせいか、耳に届くさざなみの音ですら心地よい。こんな地獄ありなのか。下手をすれば、生前より毎日リゾート気分を味わえるのではないだろうか。
それを尋ねると、アリサはさらりと答える。
「でも、やっぱりそれなりに働かないと、ここから抜け出せないしね」
「ここから抜け出そうと考えるやつらがいるのか?」
とても居心地がいいと思うんだけど。
「うーん、やっぱり地獄にいる限りは、働かないとダメだからね。ある程度満喫したら、転生しにいくよ」
恐らく、慣れてしまうと、こんな素敵な場所でも飽きを覚えてくるのだろう。それは納得できた。
「そういえば閻魔さんの別荘を作ってるんだっけ?」
うん、とアリサは頷いた。
それにしても閻魔さんが別荘で休む暇などあるのだろうか。そんな疑問が湧いてきたけど、どうでもよかったので飲み込んだ。
「たぶん、もう少しで見えてくると思うんだけど……あ、あった」
アリサが指差す先に白い壁の一端を見ることができた。
明らかな人工物が生い茂る木々の上に姿を覗かせている。まだ結構な距離があると思うんだけど、あのサイズで見えると言う事は――
「かなり大きくないか?」
「うん、別荘だしね」
「でも使うのは閻魔さん一人じゃないのか?」
「そうだけど、別荘って無駄に大きく作るものでしょ?」
確かに。僕は納得しながら、砂浜を歩き続けた。
アリサがさりげなく「無駄」と言ったことには触れなかった。恐らく、主のことを快く思っていないのだろう。それは閻魔さんに会うと言った時に見せた顔からも分かったけど。
そこからしばらく歩いて、二人の踏み鳴らす砂の音も聞き飽きてきた頃、僕らは別荘の全貌を捉えることができた。
そこまで来ると、金属を打つような高い音も聞こえて、まだ建造中であることが分かった。
「まだ工事してるっぽいけど、閻魔さんいるのか?」
「うん、全指揮は閻魔様が執ってらっしゃるから」
「ふうん……やっぱり自分の住む場所だから、こだわるのかな」
「こだわりは認めるけど……最初は指揮を執らずに、遠くから指示するだけだったのよ。その指示がいちいち細かくて、そんなだったら自分で現場に行け、って言ったら嬉々として行っちゃったのよ。仕事を放ったらかして……」
「それ言ったのアリサ?」
「……うん」
大変な上司を持ったアリサに同情の念を抑えきれない。
「お前も大変だな」
「……うん」
生気の抜けた顔で小さく頷くアリサ。これから、その上司に出会わなければならないことが非常に辛いのだろう。
気を抜けば止まってしまいそうなほどのアリサの足取りに不安を覚えながらも、僕は別荘を目指す。
「……今更だけど、私も行かなきゃダメ?」
「うーん、その閻魔さんが僕みたいなヤツの話を聞いてくれるような人なら問題ないんだけど」
とても軽いイメージになりつつある閻魔さんとは言え、ただの人の魂である僕が単身で乗り込むことに不安があった。
アリサというワンクッションが欲しいのが本音だけど、彼女が嫌がり方は半端ではない。もし閻魔さんが、僕なんかの話を聞いてくれるような軽い方だったら、無理に連れて行こうとは思わなかった。
「無理だと思う……叩き潰されて、働かされるのがオチだと思う」
「そうか」
薄れつつあった閻魔さんへの恐怖が、ここにきて騒ぎ出す。まったく余計なことを聞くんじゃなかったと後悔した。
それでも僕は進む。皆の幸せを勝ち取るために、最後まで足掻いてみせる。
何もしないで、現状を諦めて、すべてを諦めていった自分にはもう戻りたくないから。
「悪いが頼む、一緒に来てくれ」
「うん」
考える間もなく、アリサは答えた。しかし、その声に迷いはないと思う。はきはきとした彼女の声が僕の鼓膜に届いた。
そのお陰で僕の足取りからも迷いが消え去った。アリサと一緒なら何とかなるかもしれない――そう思ったのだ。相手のことを知らない僕が言っても、楽観的だと思わざるを得ない。
しかし、一人で立ち向かわなければならない可能性も考慮していた僕は安堵した。
共に歩む人がいることの強さを、ひしひしと感じていた。
眼前に迫った真っ白な城を見上げながら、僕は言う。
「さて、行きますか」
突っ込みたいところは色々とあった。別荘なのに城だとか、地獄なのに白だとか、そりゃまぁ盛大に色々とあった。
しかし、それらはすべて飲み込む。そして残った決意だけを口にした。
まだ工事の音が響いてくる城へと僕とアリサは踏み込んだ。
内部も無駄な装飾がなく、真っ白であった。もちろん、天井も真っ白だ。そのせいで遠近感が少し狂うが、随分と高いように思う。
その完全なる白さは、死後に訪れるあの空間を連想させる。それほどの圧倒的な白だった。
ゲームで言うと、これからラスボスの下へと向かっていくのだけど、そんな雰囲気をまったく思わせない。それどころか清さすら思わせる空間に僕は少し呑まれていた。圧倒されていた。
圧倒されると考えれば、ラストダンジョンにやってきたと言う感覚も芽生えた。そのせいか、心臓の鼓動が少し速まったように思う。
「凄いな、まっさらの真っ白だ」
僕が思わず零した言葉にアリサは説明を始めた。
「うん。恐らく、これから内装の工事に取り掛かるのでしょうね」
僕と違って、アリサは周囲を見回すことなく、足取りも迷うことなく進んでゆく。恐らく目指すべき場所が分かっているのだろう。
「この先に閻魔様がいらっしゃいます……準備はいいですか?」
アリサが振り返りながら、僕に問う。その表情からは一切の感情が消えており、僕も思わず息を呑んだ。
「ああ」
それでも止まるわけには行かない。僕は静かに頷いて答えた。
それを見て、アリサが真っ白な空間に手を伸ばした。何かが軋むような音が響いた。それは工事の音を遮るほどの大音量で圧倒される。
しかし、アリサはそれに臆すことなく、足を進める。僕はそれが扉を開く音だと気づくまで、少し時間を必要とした。
アリサの歩が止まると同時に、軋む音もやんだ。
「少し建てつけが悪いようです。後で修正させてくださいね、次期閻魔様――いえ、シゼル」
「うん、そのようだな。俺もその音には少し驚いた」
黙る僕の視線の先には、見覚えのある人物がいた。
白い空間に黒いシミが一点――最初に出会った頃とは違い、不敵な笑みを浮かべるシゼル。僕は思わず小さなため息が漏れた。
「お前かよ……しかも次期って、用があるのは今期の閻魔様だったんだけど」
「なら何故、俺のところに来たんだ?」
シゼルは苦笑を漏らしながら尋ねた。
「アリサの案内」
僕が端的に答えると、シゼルの視線がアリサの方に向いた。話を振られたアリサはびくりと肩を震わせながら、バツが悪そうに視線を逸らす。
「僕も何故ここにやってきたのか、教えてほしいんだけど」
僕が尋ねると、アリサは渋々と言った様子で口を開く。
「あー……うん、シゼルだったら色々と事情を知ってるし、何とかしてくれるんじゃないかなーって甘い考えがあったり、無かったり」
「頼ってくれるのは嬉しいですけど、本音は現閻魔に会いたくなかったんでしょう?」
アリサは俯いたまま答えない。恐らく図星なのだろう。
その様子にシゼルと僕は小さくため息をついた。
「で、でも次期閻魔だって現閻魔とほとんど同じ権限を有しているから問題はないと思うよ!」
取り繕うように言うアリサに冷ややかな視線を向けながら、僕はとりあえず頷いておいた。
決して怒ってたりはしない。さっそく隠し事をされていたことを怒ったりはしていないんだ。本当に怒ったりなんてしてないんだからね。
それにしても現閻魔も次期閻魔もこのような状態では、アリサを怒るのも不憫だと思ったのも事実だ。こんな状態で、地獄は大丈夫なのだろうか。
そんなことを考えていると、シゼルに「余計なお世話だ」と言われた。確かに余計なお世話だった。
と言うことで閑話休題。
「そう言えば、シゼルの先輩がアリサじゃなかったっけ。下克上でも起きたのか?」
それを言うと、二人は複雑そうな表情を浮かべて僕を見つめた。
「それを貴様が言うか……」
「うん、私も同感」
何だ、このアウェー感。
いや、確かにアウェーなんだけど。
それどころか敵地のど真ん中って感じなんだけど。
いきさつを知らない僕に呆れたようなため息をつきながら、シゼルは言う。
「確かに、俺が死神なりたての頃に指導をしてくださったのはアリサ先輩だ。しかし、だ。恐らく二度に渡る貴様の死亡によって、俺の方が先に閻魔に推されてしまったんだよ」
やれやれといった様子でシゼルは首を振った。
それを聞いて、僕はアリサに視線を移す。彼女もまた僕をジト目で見つめ返していた。
「……本当?」
「うん」
僕がシゼルを指差しながら言うと、アリサは頷いた。
「何か、ごめん」
「うーん、別に閻魔になりたかったわけじゃないからいいんだけど……」
やや困ったようにアリサは答え、そのまま続ける。
「でも、閻魔になれば色々と隠蔽はしやすいよね。例えば、勝手に死んでくる人の魂を無断で処理するとか」
アリサはさらりと怖いことを言う。それって僕のことではないですか、と尋ねたかったが、怖くてやめた。
僕はそれを振り払って、話の流れを戻すために口を開いた。
「それはともかく、僕は君に聞きたいことがあって、やってきた」
「僕ら」
アリサが律儀に修正したけど、僕はさらりと無視した。
それに対し、シゼルはイスにかけたまま答える。
「俺に答えられる範囲なら」
「まずは死神の仕事内容とルールをすべて教えてほしい」
「まず、ね……まだまだ質問がありそうだな」
「ああ、もちろん。その為にアウェーまで命を捨ててまで、やってきたんだ。しっかりと答えてもらいたいね」
僕が微笑むと、シゼルは苦笑を返した。
「まぁいいだろう。長い話になるから、そこらに掛けろよ」
そう言われてもイスらしきはシゼルの下にしかないので、僕らは床に腰を下ろした。ちなみにアリサは立ったままだった。
「そうだな……まずは死神の仕事内容から説明しようか」
頼む、と僕の言葉を受けて、シゼルは静かに頷いて口を開く。
「死神とは本来、人の寿命の管理だ。しかし、天国もどうやらコスト削減に励んでいるらしく、本来は天使の仕事である転生まで人の魂を導く役目も頼まれてしまった。それを先代の情けない閻魔が断りきれず、俺たち働かされる死神の不満が溜まったんだ」
「……天国も地獄も色々と大変ですね」
僕の言葉にアリサとシゼルは静かに頷いた。なるほど、だから別荘の指揮を執れと言われたときに、嬉々として逃げていったわけか。
シゼルは僕の心を読んだのか、静かに頷いた。
「本当に大変だったぜ……給料そのままで仕事が一気に増えたわけだからな。先輩がミスを多発するのも理解できるぐらいに忙しかった。まぁそれは先輩が優秀であったが故に、だけどな」
「褒めたって何も出ないわよ」
「……ちょっと期待してたのに」
ぴしゃりと言ったアリサに対し、やや残念そうなシゼルであった。
「とりあえず、現在の死神が受け持つ仕事は先ほど言った二点に対し、俺たち死神の人数は圧倒的に足りなくなってきている。その為に、最近は一人ひとりの死神の寿命を延ばす方針になったんだ。少し早めに人の命をいただいて、俺たちの寿命に回してるのが現状だ」
なるほど、と僕が頷いたのを見て、シゼルは続ける。
「その中で優秀だったアリサ先輩はかなりの仕事を回された。その多忙さは俺から見てもあり得ないほどだった。むしろ、あの程度のミスで済んでるのが奇跡に近いほどの仕事を処理していた。なのに、先代の閻魔様は無能で、アリサ先輩の評価を下げていったんだ。なのに先輩は一言も文句を言いませんでしたね?」
「だから、別に出世なんてしたくなかったし……」
口を尖らせながら、アリサは答える。
しかし、シゼルはその答えに納得した様子はなかった。
「いいえ、あなたはずっと彼の傍にいたかったんですよね?」
シゼルの指差す先には僕――って僕?
思わず首を傾げてアリサを見つめると、彼女は顔を真っ赤にして目を逸らした。
「な、何言ってるのよ! 今はそんなこと関係ないでしょう!?」
「……否定はしないですね」
「なっ……!?」
悲しそうに言うシゼルに対し、アリサは顔をより一層赤に染めて俯いてしまった。
「今はそんな話、関係ないだろう?」
「そ、そうね」
僕の言葉に、アリサは頷いた。少し悲しそうに見えたのは気のせいだろうか。
「えっと、つまり俺がアリサ先輩より先に出世してしまったのは、そういった理由があるんだ。理不尽な話だろう?」
「確かに」
僕は頷きながら思う。アリサのミスの中の一つ――それが僕の一回目の死んだ時になるのか。
そう考えると、とばっちりを受けたとは言え、やはりアリサの境遇に同情してしまう。
「そして、次にルールか? とは言え、先ほど言ってたのに関連するんだけど、死神は人の寿命から現在の年齢を引いた差分を手に入れて、力にすることができる。それは実際に死神としての力――貴様が知っている例で挙げれば、武器の造形だったり、俺たちの寿命だったりする。それぐらいかな」
「それだけ?」
「あとは寿命の七割以上の年齢に達してなければ、理由がない限り殺してはいけない、ぐらいだ」
なるほど――僕は小さく呟いて、考える。
「ちなみに死神は永遠にその仕事に縛られるのか?」
「いや、それについては俺もよく分からない。しかし、自分の罪を償うことができれば、転生できるようになるらしい」
「罪を償う?」
僕の言葉を聞いて、アリサが説明を引き継ぐ。
「うん……死神は生前に大きな罪を犯した者が、それを贖うために記憶を消されて強制的に働かされるの」
その時のアリサの表情を僕は一生忘れられないと思う。悲しみと苦しみを混ぜたような、淡い笑み――それは見ているほうが苦しく思うほどの、儚さを思わせた。
罪があるはずなのに、自分の罪を知ることができない。自分の罪が分からないまま、ずっと償っていく――それはどれほど辛いことだろうか。
それなら記憶があった方が断然良い。
「だけど、記憶があったままだと、反乱を起こす可能性があるからね……記憶を消し去り、まっさらな状態で死神の仕事だけを与えるのさ。そうすることで、自分の知らない罪の存在に縛られながら、俺たちは仕事を全うしていくんだ」
僕は何も言えなかった。一体、今まで二人は――否、死神たちはどれほど精神をすり減らして、仕事をしてきたのだろうか。その苦痛は僕の想像に及ばなかった。ただ漠然と、それがとてつもなく大きなものではなかろうかと想像する程度だった。
安い言葉をかけるべきではないだろう――僕はそう思い、ただ黙って二人を見つめた。
それと同時に思う――何よりも、まず死神を助けなければならないのではないか、と。自分のために、そしてアリサ個人のために僕は閻魔に立ち向かうつもりであった。
しかし、誰よりも死神たちが一番苦しんでいると言う事実に直面し、僕は知った。死神や閻魔ですら、被害者であることを。
「このルールを作ったのは一体誰なんだ?」
黙っていようと思っていたけど、気づけば僕は口を開いていた。二人は驚きをあらわにして、僕を見つめている。
「分からない……しかし、天使――天使長に聞いてみれば分かるかもしれない。天国は地獄よりも先にあった、とされているからな」
「なら、そこへ行こう」
僕の言葉に二人は、訝しげに眉をひそめた。
「……そこでどうするつもり?」
恐る恐ると言った様子でアリサが尋ねた。
「それはそこで考える」
僕の言葉に二人は盛大にため息をついた。
*
どうしてこうなった――その思いは、いつまで経っても拭われることはない。
最初は美幸を守れればそれで良かったのに、気づけば次期閻魔さんの下までやってきて、今度は天使長と来た。
気のせいなのは間違いないのだけど、人の代表として各首脳と出会っているような気分だ。僕みたいなヤツが人の代表なんて聞いたら、六十億を超す方々がきっと許さないだろうけど。
それに、これは六十億の代表をしているわけではないから、僕は気にすることなくシゼルの後についていく。
そう、これは僕の戦いだ。
美幸の運命を捻じ曲げるための。
また、アリサを運命から解き放つための。
たった二人のために僕は戦う――そんな風に言ったら、とても格好の良い。物語の主人公みたいだ。
けど、僕の思考はそんな善人のものではない。
ただ、このシーンではこう言うべきだろうと、できるかぎり客観的に下した判断に基づいて行動しているだけだ。まぁ、どこぞやの誰かさんみたいに自らを完全に客観的に見ることなど不可能だと思っているけど。
その上で、自分本位の思考が織り交ざっていることも理解しながら、僕は最善と思われる判断を下しているに過ぎない。
随分と昔に生きること――否、活きることを諦めた僕は、せめて人の迷惑にならないように生きようとした。ただ、それだけのことであった。
なのに気づけば、僕はその場で最善と思われる行動を取るようになった。自分の意思とは関係なく。
時には自分が行いたくないと思っていることを把握しながらも、その行動を取ったこともあった。しかし、嫌悪感が湧いてくることはなかった。何故だかは分からない。
それを繰り返すうちに、気づけば僕は自分の意思と言うものが分からなくなっていた。どれもあれも自分だと思えてしまうし、すべてが自分でないような気もしてしまう。
自問自答を繰り返し、自分自身を疑い続けた。いつしか、そんなことも当然となり、僕はそんな自分を静かに見つめているような錯覚に陥ることが多くなった。先ほども言ったとおり、そんなことは不可能だと分かっていたけど。
僕には自我と言うものがないとは言わない。恐らく、自我と言うものが極限まで薄くなってしまった、もしくはそれに気づけない自分へとなってしまったのだろう。
けど、それを悲しいとは思わない。思えない、のかもしれない。やはり、そんな自分を冷めた視線で見つめる自分がいるのだ。
自分のことなど、どうでもいい――そんな思いが僕から離れないのだ。
だから僕は戦う。戦える。最後の最後まで、自らを鑑みずに戦い抜くことができる。それが僕の唯一の強みだ。
「まったく……貴様みたいな奇異な人は初めて見る」
シゼルは呆れたようにため息をついた。恐らく、僕の思考を読んでいたのだろう。それでも僕は顔色一つ変えることはない。それですら、自我に関わりのある思考なのか判断がつかないからだ。
自分の思考を覗かれているのに、まるで他人事なのだ。
「ん、何の話?」
不思議そうに首を傾げるアリサに「何でもない」と断って、僕は歩き続けた。
彼女は現在、人の思考を読むスキルを止めている。それは自らの判断だろう。その姿は美幸と重ねられるところがあり、羨ましかった。
恐らく、この気持ちだけは薄れた自我が僕によこす感情だと確信している。
人は自分に無いものを欲する。僕はきっと自分に良いと思える判断を下せるような、強い自我を欲しているのだろう。
「貴様のそれは俺からすれば羨ましいことでもあるんだがな。そこまで自分を捨てきった視点で、世界を見てみたいものだ」
「世界から色が消えるよ?」
シゼルの言葉に端的に答える。それは実際に色彩が消えるわけではなく、見るものすべてに魅力を感じられなくなるとの意味だ。
「あー、もう! 二人とも何の話をしてるのよ!?」
思考を読むことをやめているアリサは苛立って、声を荒げた。
「大したことじゃないよ」
僕がそう言って宥めても、アリサは納得しない。僕に教える気がないと知ったのか、そっぽを向いて頬を膨らませてしまった。
本当に可愛いな。その頬っぺた、むしゃぶりつきたくなる。
「おい、やめろ!」
前を行くシゼルが、驚くべきスピードで僕の方を振り返った。
「冗談だ」
「冗談でもやめてくれ」
シゼルはまるで汚物を見るような視線を向けてくる。本気で引いているようだ。
アリサは、もはやこちらすら見ない。僕とシゼルだけの会話に、相当ご立腹のようであった。
「もうすぐ着くぜ」
「ん、地獄と天国を繋ぐ門みたいなのって無いの?」
僕らはシゼルのいた城から浜を出て、内陸へと向かっていた。左右には木々が生い茂り、まるでどこぞやの孤島を思わせる。そこに一本、踏み固められて出来た土の道が伸びていた。
それを雑談をしながら歩いていたわけなのだが、「もうすぐ着く」と聞いて、天国と地獄の境のようなものがないことに疑問を抱いていたのだ。
「ないよ、まったく人はどこまで古い知識を引きずっているんだい?」
シゼルはそれをあっさりと否定する。
「温故知新って言葉があるだろう」
「そうは言うけど、結局は現状に即して、変化していけないヤツは消えていくのさ」
意外と鋭いことを言う。そんなシゼルに素直に感心せざるをえなかった。
「ほら、あれが天使の住まう……宿舎だ。突っ込みは受け付けない」
「さすがに突っ込みを事前に殺すのは、やめてほしい」
目の前には元々は真っ白であっただろうと思われる建造物――簡単に言えばアパートみたいな建物がぽつんと建っている。先ほどの閻魔さんの城を見た後だからか、凄くグレードが落ちて見えた。人件費削減と聞いていて少しは察していたけど、ここまでとは思わなかった。それほど不況なのだろうか、天使業界は。
突っ込みは受け付けない、と先に釘を刺された僕は苦笑を漏らす他ない。その横でアリサは不機嫌なオーラを全身から噴出している。仲間外れにしすぎたか、と少しだけ反省した。
しかし、ここには食べ物がない。どうやって彼女の機嫌を直そうかと考えている僕に、シゼルは冷ややかな視線を向けた。
「……貴様は分かっているのか? これから行く先が、どれほどのところかを」
「と言われても、宿舎って言われると随分とグレードががた落ちなんだよな」
ついでにテンションも。
抱いていた緊張感も、どこへいったと突っ込まざるを得ないぐらいに霧散してしまっている。
弛緩しきってしまった四肢――今の僕はとてもだらしない格好で歩いていることだろう。
「まぁ宿舎と聞いて、緊張感が抜けるのも分からなくないが、相手は天使長なんだ」
「分かってる」
僕が短く答えると、シゼルは小さくため息をついた。僕らは舗装されていない土の道を踏みしめて進む。天使長の住むアパートへと。
僕たちを包む静寂に緊張感が混じり始める。それは主に僕とアリサが放っていたものだ。ちなみにシゼルは、どう見ても自然体で気楽そうに足を進めていた。
そして、僕たち三人はインターホンのついてない扉の前に立っていた。部屋の表札には『栗村』と書かれてある。もはや嫌な予感しかしなかった。
「大丈夫、悟? 何だか凄い汗だけど」
気遣うようにアリサが僕を覗き込むけど、返事する余裕が生まれなかった。嫌な予感が怒涛のごとく押し寄せてくる。
「この苗字を見て、嫌な予感しかしないんだけど」
「なんで?」
可愛らしく首を傾げるアリサ。しかし、この時だけはその可愛いさに癒されることはなく、僕の心臓は余裕を感じさせない速度で脈打っていた。
いや、落ち着け僕。とりあえず深呼吸を――と思ったところで、シゼルが扉をノックした。
「ちょ、待て。まだ心の準備が――」
「……先ほどまでの見事な覚悟はどうした? それに、ここまで来て心の準備も何も無かろうよ」
シゼルは呆れ顔で言うけど、これは予想外の事態だ。本気で嫌な予感がする。
天使長の苗字が、よりによって『栗村』。それに加えて、次期閻魔がシゼルだったことを鑑みるに、ここで彼女が出てくる可能性はそう低くないという結論に達していた。
違っていてほしい――と願う反面、そうだったらどれほど楽に話が進むことだろうか。
「はーい」
中から聞こえてくる声に、僕は思わず震えた。この声はやはり――
軋むような音を立てて、扉が開かれる。そこに姿を現したのは、美幸……ではなかった。
「あら、次期の閻魔ちゃまじゃないの。どうしたの?」
「お久しぶりです、天使長はおられますか?」
「はいはい、ちょっと待ってねー」
気軽過ぎる応対に驚く暇はなかった。それよりも気になることがあったのだ。
外見だけ見てみれば、どことなく美幸に似ているような気がする。しかし、やはり違う。彼女よりは遥かに年上に見えた。まさか、と思う。この人は――
その瞬間、表情を一変させた彼女は鋭い視線で僕を射抜く。
「何か失礼なこと考えなかったかしら?」
「いいえ、滅相もない」
命の危険を感じた僕は全力で首を横に振った。むしろ全力過ぎて、首の骨が外れる恐れを抱いたけど、それよりも彼女の放つ威圧感は恐ろしかった。
「あなたの予想は正しくないわ、私は美幸の姉で――」
「うそつけ」
シゼルの電光石火の突っ込みに、僕も思わず頷いてしまった。
「つれないなぁ、そんなだから……まぁいいけど。ちょっと待っててね、旦那を呼んでくるから」
彼女はパタパタと足音を立てて、奥へと行ってしまった。
それを見送って、僕はシゼルのわき腹を肘でついた。
「あれって、まさか――」
「うん、お前の予想が正解だよ」
シゼルは僕の思考を勝手に読み、聞く前に答えてしまった。
と言うことは天使長って――
「娘はやらん!」
銀髪をオールバックで固めている初老の男が、凄まじい威圧感と共に叫びながら現れた。どうやら彼がラスボス……もとい、美幸の父にして天使長らしい。