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戻ってきた平穏は即崩壊。

 見上げれば、深い緑に覆われ、宝石を散りばめたような木漏れ日に僕は目を細めた。

 それにしても暑い。木陰に入っているのに、額からはじわりと汗が滲み出てくる。都心部に比べれば、緑の多いキャンパス内は涼しいはずなのだが、体感的にはどんぐりの背比べだった。

 それと同時に暑苦しい視線が僕を苛む。ただでさえ暑いのに勘弁してほしい。茂る葉を見上げたまま、思わずため息をついてしまった。

「ん、どうしたの? ため息なんてついて」

 背もたれにだらしなく体を預けていた僕は、隣から発された可愛らしい声に視線を向ける。

 金髪碧眼の美少女が美味しそうにアイスクリームをほお張っていた。前髪はにじんだ汗で額に張り付いている。それでも可愛さが減ることはなかった。

 現状では、それが問題なんだけど。

「暑いなぁ、って」

「悟はさっきから暑いしか言ってないよ」

 確かに。

 しかし、それをアリサに言われるとは心外だった。

 僕よりも遥かに暑いを連呼し、それを黙らせるためにアイスクリームを買ってやったと言うのに。しかも二回目だった。

 一度、甘やかしてしまったことを後悔するほどの勢いで「暑い」と連呼し始めたので、先ほど仕方なく二本目の購入に踏み切ったのであった。これで今月の食費は更に厳しくなることだろう。

 それにしても、嬉しそうにほお張るアリサは非常に可愛らしい。しかし、それが僕の苦痛を助長しているんだけど。

 先ほども述べたとおり、アリサに向けられる男たちの暑苦しい視線に僕は辟易していた。

 先週の会議――と言っても僕と美幸とアリサの三名だけだが、そこで決まったのは、僕の部屋にアリサが住むことであった。

 何故、美幸を選ばなかったのかについては尋ねなかったので理由は分からない。アリサが決めたことだから、僕は何も言わなかった。

 その結果、食費が増して金銭的にかなり厳しい状況になっている。だから、不必要な出費は避けたいところだったのに、アイス二本に貴重な食費が消えていったのであった。

 仕送りの増額を願う手紙を実家に出そうかと、真剣に考えてしまうほどの貧困っぷりだ。

「……悟」

 辛い現実をどう打破するかと思考を巡らせていた僕をアリサが呼んだ――先ほどとは違って低いトーンの声だったので、嫌な予感がしながらもアリサに視線を向けた。

 木の棒を握りながら、青ざめた表情で震えるアリサはゆっくりと口を開いた。

「私の生命線が……無くなっちゃった」

 手紙ではなく、帰ったら実家に電話しよう――僕はそう決意した。


「私は……悟と一緒にいたい」

 アリサははっきりと言った。そう言ってくれることを願っていたとは言え、僕にとっては少々意外な展開であった。

 もちろん、下心的な意味は含んでいない。危険度は高くないと考えているけど、美幸にリスクを背負わすことは本望ではないからだ。

 とは言え、この結果を望んでいたが、確立としては低めに見積もっていたために、意外な嬉しさに見舞われたのであった。再確認、下心的な意味は含んでいない。

 ちなみにあの日、僕の家の前で止まっていたパトカーは不審者がいるとの通報を受けて、巡回していたそうだ。話を聞くと、このクソ暑い中で真っ黒な服に身を包んだ非常に怪しい男がうろついていたらしい。まったく、怖い話だ。

 閑話休題――そう言うことでアリサは僕に同行している。

 本当は家に置いてきたかったが、僕は大学まで彼女を連れてきた。この暑さの中、エアコンの無い部屋で、アリサを放置するのは気が引けたのだ。

 ここ数日でアリサを連れてきたことは失敗であると痛感しているのだけど、だからと言って家に置くわけにもいかない。不審者の話もあるし。だから渋々、アリサを大学まで連れてて来ているのであった。

 何故だか分からないが、巷では『子連れの壊し屋』と呼ばれるようになっているらしい。

 どうして、こうなった。

「ねぇ悟」

 アリサの呼ぶ声が思考を遮った。

「三本目と言うなら、月末の食事を覚悟しろよ」

「ち、違うわよ!」

 僕が釘を刺すと、アリサは顔を真っ赤に染めながら続ける。

「いつまで退屈な講義が続くのか、聞こうとしただけなのに……」

 不機嫌そうに頬を膨らませながら、アリサはそっぽを向いた。僕はそれを気にせずに答える。

「今日は次の時間にレポートの評価を貰って終わりだから、もうすぐ帰れるけど」

 帰ったら、閉め切っているせいで熱気のこもった部屋と対面することになる。そう考えると多少なりと空調が効いている学校の方が過ごしやすいのだけど、彼女はそこまで考えていないようだ。

「本当に退屈……大学生ってこんな生活を毎日続けてるの?」

「毎日ではないが、基本的にこんな日々が多い」

「本当にご苦労様ね」

 呆れたようにため息をついて、アリサは背もたれに身を預けた。

「ご苦労様、って随分と上から目線だが、講義の内容分かるのか?」

「当然、私を誰だと思ってるのよ?」

 アリサは得意げに言いながら、起伏のあまり無い胸を張った。そう言えば、以前に教育課程は済んでいるとか、そんな話を聞いた覚えもある。見た目とは違って、かなり教養があるのかもしれない。しかし、人と同じようなことを死神も学んでいるとは思いもしなかったけど。

「……何か失礼なことを考えてなかった?」

「いいや、何も考えてなかった」

 さらりとウソで流す僕に、疑るような視線を向けながらアリサは言った。

 ふと、そこで僕の脳裏にとある疑問が思い浮かんだ。

「そう言えば、人の思考を読めたんじゃなかったのか?」

「あ、あんたがプライバシーとか何とか言ったから、やめたんじゃないの!」

 確かに人権侵害だ、とか言ったような覚えもある。しかし、小学校の時に書いた人権作文で、人権を否定するような内容を書いた僕が言うのも変な話だった。

 人が人の権利だけを主張するなんて勝手だ、とか幼いなりに真面目に書いたのに、先生は激怒し、母親には泣かれた。

 あの頃から、僕は少しずつ周りとの接触を断つようになったと思う。

 閑話休題。

「で、僕の言葉を真に受けて、思考を読むことをやめてくれたのか?」

「そう」

「ありがとな」

「……うん」

 お礼を述べると、アリサは頬を赤く染めて俯いてしまった。変なことを言ったつもりはない。たとえ思考を読まれたとしても、特に何も考えてもないんだけど。

 そして僕らの間に静寂が訪れた。話している間は気にならなかったセミの鳴き声が耳に障る。今は講義中なので、校舎から漏れてくる僅かな声が温い風と共に届いた。

 僕は携帯電話で時刻を確認して、小さく息を吐いた。

「さて行くかな」

 ゆっくりとした動作で僕はベンチから腰を上げた。その後を追うようにアリサもベンチから立ち上がった。

「もう少しの辛抱だから付き合ってくれ」

「アイスで許すわ」

 つまり、この程度のお願いならアイスで妥協してくれることが分かった。


*


 僕はアリサを従えて、講義の行われている教室に顔を出すと、気まずい静寂が流れた。

 他の学生からは、まるで化け物を見るような視線を向けられて、少し悲しかった。しかし、それを表に出さず、僕は空いている席に腰掛ける。その横にアリサも腰を下ろした。

 やはりアリサを連れまわっているせいか、時折向けられる視線を感じながら、僕は教授の到着を待った。

 恐らく、今回もレポートも激怒され、二度と来るなと告げられるのだろう。僕がレポートを提出すると大半がそのような結果に終わる。

 極少数だが、学校を辞めてしまったり、入院したりする教授もいた。しかし、それらが僕に起因すると考えるのは自意識過剰だと思う。

 何故そうなるのかは未だに分からない。僕は真剣にレポートを書いて提出しているだけなのに。

 それにしても始業から十分以上経っているのに、なかなか教授は姿を現さなかった。ちょっと嫌な予感がする。隣のアリサも「すぐ帰れる、って言ったのに」と不機嫌そうに零し始めた。それで僕が責められるのは、少しばかり理不尽な気もするけど。

 それから更に五分ほど経ってしまった。

 何人かの学生は呆れたのか、教室から出て行ってしまった。教室に残っている学生は五名になり、そろそろ僕も帰ろうかと思った頃、白衣に身を包んだ女性が不機嫌そうに眉をひそめながら、教室に現れた。

 その女性は以前、何度か見たことがあった。確か、助教授の橋本さんだったと思う。彼女は残っている学生を一瞥してから教卓へと足を進めた。

「えー、教授が三日前から行方不明になりました」

 僕とアリサを含めても十人に満たないのに、教室の空気が揺れた。それに構わずに橋本助教授は続ける。

「残された文章には『疲れました、探さないでください』とだけあった」

 何だか凄く嫌な予感がする。

「そして、その文章の横にこのレポートがあった」

 橋本助教授が僕らの前に掲示したレポート、タイトルには『人権否定説』と大きく書かれていた。

 そう、僕が小学校の時に書いた人権作文のグレードアップ版にして自信作であった。もはや小学校の時に書いたような他人に否定されるような甘いことは書いていない。ちょっとやり過ぎた感も否めないけど、完全なる攻撃的な文章で最初から最後まで貫いた。

 これならば誰もが納得するはずだ――そんな確信を抱いていたのだけど、助教授の反応を見る限り、嫌な予感しかしない。

「これを書いた小阪 悟はいるか?」

 橋本教授の声は怒気を含み、震えていた。

 いつものパターンだな、とため息をつきながら、僕はのんびりと挙手した。残っている学生の視線が、一斉に僕のところに集まる。隣のアリサも目を大きく見開いて、僕を見上げていた。

「はい、それ僕が書きました。超自信作です」

「二度と来るな、この人でなし!」

 こうして、僕の取った講義がまた一つ潰れたのであった。


*


「……あんた、またやったのね」

「僕に悪気は無いんだけどね」

「それが一番、タチが悪いわ」

 頭を抱えながら美幸はため息をついた。

 僕は橋本助教授に「帰れ」と言われて、仕方なく教室を後にした。そこで偶然、美幸と出会ったのであった。

 今、僕らは学内にある喫茶店でのんびりと涼んでいる。美幸はアイスコーヒーを頼んだが、僕は無駄な出費を抑えるためにお冷で粘っていた。

「あといくつ講義を潰せば気が済むの?」

 僕が先ほどの出来事を説明し終えると、美幸は顔を引きつらせながら言った。

「だから僕にその気はない。僕が受ける講義が勝手に潰れていくんだ」

「それ本気で言ってるなら、相当危ないわよ?」

 眉間にシワを寄せた美幸が、僕を睨みつけながら言った。

 その横で、アリサは巨大なチョコレートパフェをスプーンで崩しに掛かっている。クリームをすくって口に運ぶたびに幸せそうな笑みを零していた。何と可愛らしい光景か――見ているこちらも癒される。

 しかし、今はアリサに見とれている場合ではない。美幸から向けられる冷たい視線を何とかしなければならない。

「それはともかく、そっちは単位取れそうなのか?」

「ほぼ問題なく。それに今更落としたところで痛くないわよ、卒業まであと二単位なんだから」

 四年目の前期にして、残す単位は二――卒業取得単位を三年間で取ってしまうのではないかとウワサされていた美幸であったが、そのウワサを気にしてしまい、単位の取得ペースを少し落としたのであった。それでも充分に早いと思うけど。

 ちなみに僕はまだ十単位ほど残している。少し多いとは思うが、平均から外れてはいないと思う。

 それに原因は先ほども言ったとおり、僕の取った講義は潰れていくことが多いのだ――否、潰しているつもりはないのだが、どうやら周りは僕が潰していると見ているらしい。

 そして在学二年目にして、つけられたのが『教授ハンター』や『講義クラッシャー』という名だった。

 ちょっと格好いいとか思っていたのは若気の至りだろう。

「ところで悟は今年で本当に卒業できるの?」

 美幸の表情は心配の色が伺えた。きっと冗談抜きで言っているのだろう。しかし、先ほども言ったとおり、これでも平均的をやや下回ってはいるが、そこそこ単位の取得はできている。美幸と比べれば心配になるのも分かるが、それでも問題はないと思われる。

 これ以上、講義が潰れなければ、の話だけど。

「大丈夫だ、問題――」

「悟、おかわりしていいか!」

 絶妙のタイミングでアリサが僕の言葉を遮った。それに対し、僕は即答する。

「条件がある」

「何?」

 可愛らしく首を傾げるアリサ。可愛いな、本当に。

「いやらしいことじゃないでしょうね?」

 訝しげに僕を睨みつける美幸。信用無いな、僕。

 ともかく、僕は美幸の言葉を無視して、条件を告げた。

「月末の食事が貧相と言うか……無しで文句を言わないなら、頼んでもいいけど」

「そ、それは……」

 顔面蒼白にしてうろたえるアリサ。

 何だか食いしん坊キャラになっている気がするけど気にしない。

「さ、悟が切実な問題を提示した……」

 その隣で驚愕に打ち震える美幸。

 信用の無さに全僕が泣いた。

「いや真面目な話なんだけど。実家からの仕送りを増額してもらうことも、検討――」

 そこまで言って、僕は後悔した。

 美幸は幼い頃に両親を失ったと聞いている。僕の余計な気遣いかもしれないけど、彼女の前でこういった話をしたくなかったのだ。

「……ごめん」

「ん、何で謝るかな?」

 美幸は不思議そうに首を傾げた。僕が何故謝ったのか、本当に分かっていないようであった。

「確かに、これから食費とか倍になっちゃうもんね……そう言えばアリサちゃんの格好もずっと変わってないような気がするんだけど?」

「うん、帰って即洗濯して夜干しと言うヘビィローテーションを繰り返している」

「服が傷んじゃうよ! せっかく可愛いのにー」

 美幸がアリサを抱きしめて、頬すりを開始した。しかし、それに動じることなくアリサは身を預けていた。最初こそ嫌がっていたが、もう慣れたようであった。

 もしかすると諦めた、と言ったほうが正しいかもしれないけど……アリサ、目が死んでるよ。

「そうだ!」

 周囲に響くほどの音を立てて、美幸が立ち上がった。アリサを連れているから、ただでさえ目立っているのに、これ以上目立つ行為はやめてほしいのが本音だ。

 しかし、美幸は止まらない。

「明日、アリサちゃんの服を買いに行きましょう!」

「いや、お前さ、僕の話を聞いてたのか?」

 先立つものが無いんだって。

「大丈夫、私が出すから」

 美幸は胸を張って言うけど、僕的には大丈夫ではない。

「私の目の保養にもなるし」

「……はい」

 僕はそれ以上、何も言えなかった。

 美幸の横を見てみると、悟りきったような表情のアリサが虚空に視線をさまよわせて、完全なる現実逃避を成し遂げていた。


*


 パフェを二つも平らげ満足したのか「帰ろう」とアリサが駄々をこね始めたので、僕らは帰ることにした。

 ちなみに、お代は美幸が出してくれた。

 申し訳ないやら情けないやら、そんな気持ちで一杯だった。しかし、本気で食費がヤバイので、今回は甘えることにした。

 とりあえず、早急に仕送りの増額を頼まなければならないことは確かだ。

「疲れたぁ……」

 そんな僕の思考を知る由もなく、アリサは呟いた。

 僕が部屋の鍵を開けると、むっとした熱気が頬を撫でる。しかし、それに怯むことなく、アリサは部屋に踏み込み、ベッドに飛び込んだ。ようやく美幸に解放されたことを考えれば、その気持ちは分からなくもない。

 しかし、先にやるべきことを済ませなければならなかった。

「おい、寝る前に服を脱げ」

「ん、分かった」

 他人が聞いていれば、まず自分の耳を疑い、そして最終的に僕の人格を疑うであろう発言だけど、アリサはそれに従った。

 するりと服を脱ぎ捨てて、彼女はそこらに置いてあるシャツを手に取った。僕の物なので、かなり大きめのサイズだ。しかし、そのお陰でシャツ一枚がワンピースのような役目を果たす。

 そのままズボンを穿くことなく、アリサはベッドへダイブした。

 本当はシャワーも浴びてほしかったけど、今日の講義は普段より多かったので、彼女も疲れているだろう――そう思って、何も言わずに洗濯機を回し始めた。

 気温が高いので、夜干しでも朝には何とか乾いている。しかし、美幸の言ったとおり、このヘビィーローテーションを続けていれば、水道代も馬鹿にならないし、洗濯機や服の寿命を縮むだろう。

 夏場はともかく、冬場は一週間に二、三回しか洗濯機を回さなかった。洗濯機もここまで過密スケジュールで回されたのは初めてで、きっと驚いているに違いない。

「服ねぇ」

 誰に言うでもなく、小さく呟いた。

 そういえば自分の身なりに気を遣うようになったのも、美幸と出会ってからだった。それまでは親の買ってきた服でも何でもよかったし、ある物を適当に着ていた覚えがある。だから、昔どんな服装をしていたか、僕自身も覚えていない。

 そう考えると、随分と勿体無く過ごしてきてしまったような気がする――それは寿命が短くなった今だからこそ、そう思えるのかもしれないけど。

 過去を振り返って後悔することで、未来に活かせる教訓を得ることはできる。しかし、それも行き過ぎると、落ち込んだまま立ち直れなくなるので、僕はこの程度で思考を切り上げた。また不確かな未来に備えて努力することも同じ。度を越えれば、予期せぬ未来に手痛いしっぺ返しを喰らうことになる。

 何事も適度に――それさえ間違わなければ、大事にはならない。僕はそれを短い人生の中で学んだ。

 洗濯機が回っているのを確認して、僕はアリサに目をやった。彼女はベッドに上に横たわったまま、ぴくりとも動かない。よく見れば、肩の辺りが僅かに上下しているので、死んだわけではなさそうだ。

 まだ僕らは夕飯を食べていない。それなのに眠ってしまうほど、彼女は疲れていたのだろう。僕はなるべく音を立てないようにしながら、畳に腰を下ろして、ベッドを背もたれにした。

 今日一度も鳴ることのなかった携帯を充電器に差し込んでから、テレビをつけようとしたが止めた。

 眠っているアリサを起こしてしまったら、可哀想だからだ。僕はそっとため息をついて、天井を仰ぎ見た。

 他人と一緒に暮らす――それは僕にとって初めての経験だった。

 家族も他人と言えば他人だけど、付き合いの長さがその感覚を極限まで薄れさせる。その為に、家族に対して重度に気を遣う人は少ないだろう。

 しかし、僕の後ろで寝息を立てているアリサはまったくの他人――それどころか、出会ったのも一週間前だ。しかも、普通の人間ではなく、死神だ。そんな彼女と共同生活を送ることになってしまったことが不思議でならない。

 別に後悔があるわけではない。自分の選択は間違っていないと、今でも思っている。幸いなことに、接してみればアリサも良い子で助かっている。

「僕ばかり何故……?」

 それは自然と口から零れていた。湧き上がる疑問は口にした途端、曖昧だった物がはっきりとした形になって僕の中に現れた。

「ん……どうしたの?」

 後ろから聞こえた声に、僕はゆっくりと振り返る。眠そうに目をこすりながら、アリサが身を起こして、こちらを見ていた。

「悪い、起こしたか?」

「ううん、お腹空いたし」

「そうか、ちょっと待ってろ」

 僕は畳から腰を上げて、台所へと向かった。冷蔵庫を開いて、中に残っている物を確認する。

「大した物はできないから期待するなよ」

「作ってくれるなら何でもいいよ」

 天使のような微笑を浮かべて、アリサは答えた。死神なのに。

 初めて向けられたはずの純粋な笑顔――しかし、それを見て、僕の心臓は大きく拍動した。胸が痛み、息が詰まる。

 しかし、それも一瞬だったようで、僕の体はすぐに元に戻った。

「……どうしたの?」

 僕を覗きこむアリサの瞳に心配の色が見て取れた。苦痛を隠し切れず、表情が歪んでしまったのだろう。

「いや、何でもない」

 僕は珍しく笑顔を浮かべながら答えた――心配させないように、と。

「そう?」

 未だ訝るように僕を見つめるアリサだったけど、僕は必要な食材を取り出して、調理にかかった。

 胸を襲った痛みは完全に消え去り、僕の体はいつも通りに動いた。先ほどの違和感は何だったのだろう――僕は少し考えたけど、答えが出そうになかったので、そのまま調理に集中した。

 それは本能が答えを出すこと恐れていたのかもしれない――見たくない現実から、自然と目を逸らしていた僕は後に激しく悔いることになる。


*


 次の日も良すぎる天気に辟易しながら、僕らは徒歩で目的地へと向かっていた。

 僕の前を行く二人は手を繋いでいる。傍から見れば、仲良い姉妹にでも見え……ないか、髪の色が違いすぎる。

 それによくよく見れば、手を繋がれて逃げられないアリサの目は完全に死んでいた。あれで生きていると言うならば、本当に悟りを開ききった聖人に違いない。

 それにしても、狩る側と狩られる側の立場が完全に逆転している、美幸とアリサの関係に苦笑を禁じえない――けど、僕は少し安心していた。最初はどうなることか、と冷や冷やしていたのが、もはや嘘のようだった。

 僕たちが目指すのは大学から少し離れたところにある、安いとお洒落を兼ね備えた店舗が多く立ち並ぶ商店街だった。学生の客層を獲得できるデザインと価格の実現を目指した結果だろう。お陰で、衣類に困ることはなかった。

 しかし――

「……暑い」

 美幸と並んで前を行くアリサが一言呟いた。僕も激しく同感だった。

 バスを使えば、あっと言う間なのだが、経費削減の名目で僕らは歩いて向かっていた。学校から、少し、離れた、ところへ、と。

 距離的には本当に少しなのだけど、気温が凄まじく高い。家を出る前に気温を調べたら、日中は三十度後半まで上がるそうだ。

 そして今、日中――化学兵器を連想させるほどの強烈な日差しが、僕たちの肌を焼いていく。なのに美幸は楽しそうに先頭を行く。額に汗を滲ませながらも、彼女はどこか楽しげであった。

 美幸は元々、薄化粧なので汗をかいても化粧が崩れることもない。生まれつきの美形は色々と得だな、と全く関係の無いことを考えて、僕は現実逃避を目論んでいた。

「だらしないなぁ……ほら、もうちょっとだから頑張りなよ?」

「いや……むしろ、この暑さの中で平然とできる美幸の方が異質だと思うけど」

 周囲を見渡せば、昼間のわりに――いや昼間で、この暑さだからこそ人の気がないのかもしれない。時折、人とすれ違っても暑さにやられて虚ろな瞳になっているか、眉間にしわを寄せているかのどちらかだった。

「気の持ちようだよ」

「それで何とかなるような暑さだと思えないけど」

 さらりと言う美幸に対し、僕は苦笑で答える。

 そんなやり取りをしていた時だった。遠くに見えるのは待ち焦がれた日陰――もとい目的地の商店街。それを視界に捉えた途端、僕は全身に力が漲ってくるのを感じていた。

「日陰ェ……」

 僕の口から思わず漏れた言葉に、今度は美幸は苦い笑みを零す。

 しかし――

「日陰……?」

 僕の言葉にアリサが肩を震わせて反応した。その瞳に光が宿る。僕らの視線が交わり、完全なる意思疎通に成功した。

 ここまで来れば力の温存なんて考えない。僕は静かに重心を落として、大地に足を食い込ませるように力を込めた。

 アリサはその身軽な体躯を活かし、僕よりも先に華麗なスタートダッシュを決めていた。美幸と繋いでいた手を振りほどいて風のように駆けてゆくアリサ――美幸はその後姿を呆然と見送った。

 そして、僕もアリサの後を追うように、大地を力強く蹴った。

 僕らの目的は一つ――そう日陰であった。


*


 急激な運動は体に良くないね――そんな教訓を身に刻みながら、僕はベンチに腰掛けて痙攣した足をさすっていた。

 そんな僕は放置され、アリサと美幸は二人で服を探しにいってしまった。まぁ服を選ぶだけなのだから、美幸がいれば充分だと思うけど、少し悔いが残る。女の子の可愛い姿を見たいと思うのは男として当然のことだろう。

 だから置いてけぼりにされた僕は現在、暇している。

 暇していると思いたい。

 超絶に暇したい――のに。

 僕はもう一度だけ視線を上げてみる。

 少し離れたところから、凄い形相で僕を睨みつける男性の方が一名様。まるで僕が一人になるのを待ち構えてたかのようなタイミングで彼は現れた。

 黒髪に黒いカッターシャツ、黒いジーンズ、とにかく黒い不審者――もとい男だった。腰の辺りに下げているシルバーアクセサリーが良く映える。せっかくの整った顔立ちを盛大に歪めて、その男は僕を睨みつけていた。あまりに強い眼力に負けた僕は視線を逸らして、そっとため息をついた。

 このフラグは何なのだろう。むしろ何かフラグ立てたっけ? それともフラグ立ってたのを見逃したのだろうか?

 そうやって思考を巡らせていると、僕は周囲の異変に気づく。いつの間にか商店街は、炎天下の道中よりも静寂に包まれていた。その男と僕以外に誰もいなかったのだ。

 そして、仁王の如き威圧感を放ちながら僕を睨みつける男――これは流石に異常だ。アリサの件で少しの異常には慣れつつある僕だけど、これは流石に警戒しなければならないだろう。

 静かな空間に響く足音。男が僕に向かって一歩目を踏み出したのであった。それと同時に僕もベンチから立ち上がる。足の痙攣は治まっていたので問題は無いだろう。

 先手必勝、相手のペースに呑まれるな、と自身に言い聞かせて、僕は口を開いた。

「僕に何か用ですか?」

 僕の言葉で、男の足が止まった。しかし、顔は今にも噴火しそうな火山のような赤色に染まっている。僕は噴火に備えて、身構えた。

「……貴様のせいで」

 震える声で搾り出すように男が言った。決して大きくはない声――しかし、静かな商店街に男の声は鮮明に響き渡った。そのまま男は続けて言う。

「貴様を殺し、アリサ先輩を助ける」

 黒い煙が湧き出て、男の右腕にまとわりついた。それは大きな何かを形作ってゆく。あっという間の造形――それは大きく、黒い鎌だった。禍々しい光沢を放つそれを男は振りかぶった。完全に戦闘モードである。

 しかし、僕はその光景に唖然とし、突っ立っていることしかできなかった。

 何この超絶展開、流石に無いわ。

 僕ただの一般市民。彼は何者か知らないけど――いや実のところ予想はついている。物理法則を無視して現れた鎌と、アリサのことを知っていることから簡単に答えは導き出せた。

 彼は恐らく――

「死神、ですか」

 僕は静かに言ったけど、心臓の鼓動は確実に速まっている。極度の緊張と集中がもたらすのか、僕の脈打つ血流ですら、その身で感じることができるようであった。

 どうして、こうなった――僕はこう言わざるを得ない。

 日常から一変どころか、どこを探しても現れそうにないバトル展開が今、僕の目の前で展開されつつある。しかも、僕が巻き込まれる形――否、巻き込まれると言うか僕がメインで。

 せめてフラグを分かりやすくしてほしかった。そうすれば、もう少し思考に余裕があったのに。

 ただ、少し余裕を取り戻したところで、何とかなるのかは甚だ疑問であるけど。

「ふん……この状態で平静を保つか。それほどの強者か、それとも鈍いのか――」

 男は重心を低くして、今にも突撃してきそうな構えを取った。その顔にかすかに笑みが浮かぶ――凄惨な笑みが。

「試してみれば分かるか」

 男が地を蹴り、僕の下へと疾風の如き速さで駆けてくるのだろう。推測なのは、既に僕の視界から男の姿が消えていたからだ。肉眼ではどうも追いきれない速度らしい。

 ああ、また死ぬのかな――もはや死ぬことに慣れつつある自分に少し苦笑が漏れた。

 そして打撃音が響き、僕の左のわき腹に鈍い痛みが走った。そのまま打撃の威力に押し切られて、僕の体は横に吹き飛んでゆく。それは思わず交通事故の衝撃を連想させるほどのものであった。

 吹っ飛んだ僕の体は地面を転がり続け、壁でようやく止まることができた。成人男性をここまで吹き飛ばすとか、人ではありえない威力だ、さすが死神。きっと肋骨はバラバラになっているだろう。

 少し遅れて、喉元から鉄の臭いがこみ上げてきた。その感覚に耐え切れず、僕は口から真っ赤な塊を吐き出した。

 そういえば僕は死んだりしているけど、これほどの大量の血を見たのは初めてだった。これが生きている証――死んでしまえば、この鮮血は黒く染まってゆく。この深く濃い赤は僕が生きている証なのだ。

 しかし、生きている証とは言え、血を見ない人生――それは僕の今までの人生がどれほど平凡だったかを物語っている。

 そこそこ幸せな一家に生まれ、そこそこの不幸を経験し、そこそこ成長しながら、そこそこの人生を送ってきた自分のつまらない人生を。

 そう、だから僕は死を恐れなかった。生きることはつまらないこと、それどころかつまらない上に辛いだけのことだから。死んで楽になれるのなら、何度だって死を受け入れてみせる。

 しかし、死んだって結局同じ、いつまで経っても辛いことからは逃げられないのだ。それを死で経験してきた。

 ならば、現状をどうする――僕は自身に問いかける。

 最後まで足掻いてみようか。

 いや、さっさと死んで、この痛みから解放されよう。

 二つの声が同時に答えた。今の僕にとって後者ほど魅力的な選択肢はない――しかし、僕は自然とその身を起こしていた。

 口の端から血が流れていく感覚に寒気を覚えながらも、僕は黒い男を探した。先ほどまで僕が立っていたベンチの前で、彼は鎌を横に薙ぎ払った体勢のまま固まっていた。

「……何故だ?」

 男は言った。その顔にはありありと驚愕が見て取れる。

「何故……って何が?」

 僕は血を吐きながら、彼の質問に質問を返していた。

「俺は確実に貴様の体を捉えたはずだ……それに、あの速度を人が見切るなんて不可能だ。なのに――」

「うん、確かに……見えなかったよ」

 僕は男の言葉を遮って答えた。すると男は更に疑問を吐いた。

「なら何故、貴様の体が真っ二つになっていない? それどころか感触から察するに、貴様のわき腹を捕らえたのは柄の部分だ」

「……そうだろうね、生きてるんだし。まぁ簡単なことだよ」

 僕は今、笑っているのかもしれない、ドヤ顔だろうか。

 痛むわき腹のせいで左手は動かせないので、僕は右手だけで体を起した。それでも充分に痛みが襲い掛かってくるけど。

「君の武器は鎌……殺傷できるポイントは刃の部分。なら、完全に避ける――いや避け続ける、になるかな。とりあえず……避け続けるのは素人の僕には無理だろうと判断した。君と対峙した時から」

「だから、柄の部で攻撃を受けたと言うのか?」

 男が「狂っている」と小さく漏らしたのを僕は聞き逃さなかった。

「うん……もし上手くいけば、カウンターで一発ぐらい攻撃が放てるかな……ってね。甘い判断だったわけだけど」

 喉元をせり上がってくる血塊を再び吐きながら、僕は完全に立ち上がった。けど、足は生まれたての子馬のように震え続けて、情けないことこの上ない。

 死を覚悟した瞬間、僕の脳裏に映し出されたのは美幸の笑顔だった。その時、僕は決断した。少しでも生き残れる可能性を探し出す、と。

「だから、僕は前に進み続けた……君が目測を誤るのも仕方が無いことだよ……その小さな刃でピンポイントで僕の側面を切り裂くことは難しい」

 男は険しい表情であったが、黙って僕の言葉を聞き入れた。

 そして彼は尋ねた。

「貴様は……死を怖れないのか?」

 それを問われれば大半の人は怖いと答えるだろう。それは未だはっきりとしない死後の世界に対する不安からだろうか。

 しかし、僕は違う。

「むしろ人が死を恐怖する意味が未だに分からない……それに、もう慣れたよ」

「慣れた?」

 男の問いに、僕は首肯して続けた。

「ここで死んでも、もう三回目だからね」

 忘れもしない――僕は以前も一度、死んでいるのだ。

 目の前の男も、驚愕の色を顔に浮かべて固まっていた。

「二回も生き返った? 貴様、まさか……」

 何故だか分からないが、男は顔は一瞬にして青ざめてゆく。

「どうか……したのか?」

 痛みが遠のき、体を悪寒が抜けていく。もしかすると、僕の体はかなり危険な状態なのかもしれない――しかし、やはり僕は自分の死のことも他人事のように思っていた。

「まさか、とは思う……しかし、それならば、すべて納得がいく」

「おい……一人で納得してないで、教えてくれても……いいんじゃないか?」

 男は一人で納得しているが、僕にはさっぱり分からない。

「アリサ先輩は――」

 そして男が青ざめた表情で口を開いた時、それを遮るように絶叫が響き渡った。その直後、黒い塊が僕の視界の端から現れる。

「きっさまあああ!!」

 身丈に合わない大きな黒い鎌は、いまだ生成の途中なのか黒煙をまとっている。不安定な形状に見えたが、それを構える少女――アリサは微塵の迷いも見せなかった。男を鎌の間合いに捉えると、容赦なく振り下ろす。

 男はそれを後ろに退いて躱し、アリサから距離を取った。

「ま、待ってください、先輩! 俺は――」

「黙れッ! ここまでしておいて言い訳とは見苦しいぞ、シゼル!」

 地面に突き刺さった鎌を抜いて、構え直したアリサが再び地を蹴った。

 シゼルと呼ばれた男も今度は躱さずに、アリサの鎌を自らの鎌で受け止めた。

「先輩! お願いですから、これ以上、力を使わないでください!」

「黙れ、と言っている!」

 シゼルの顔は死相を思わせるほど血の気を失い、蒼白になっていた。一体、何がそこまで彼を焦らすのだろうか。

 そこで僕は違和感を覚える――先ほどの肉眼で捉えることができないほどの圧倒的な力を持つシゼルが、僕にも動きが見えるアリサに反撃を加えないことに。

 彼の言葉から察するに、アリサとの戦闘を避けたがっているのは分かる。ならば圧倒的な力で押さえつけることも可能なのではないか。無傷でこの戦いを終わらせるほどの戦力を持ちながら、それを行使しないシゼルに僕は疑問を抱いた。

 そして結論はすぐに導き出された――恐らく、シゼルはアリサに対して好感を抱いているのだ、と。深く考える必要は無い。彼は最初にも「アリサ先輩を助ける」と言っていたのだ。

 そこで僕の中で別の疑問が湧いた――アリサは助けられなければならないほどの窮地に陥っているのだろうか、と。そして、それはシゼルが焦るほどに切羽詰った状況なのだろうか、と。

「悟ッ、大丈夫!?」

 僕の下に駆け寄ってくる美幸の姿が視界の端に映った。

 しかし、僕はその前にアリサとシゼルの間に割って入った。

 シゼルには背を向けているので、顔は見えない。敵に背を向けるという最も愚かしい行動を取っておきながらも、僕は斬られないという確信を持っていた。

 そしてアリサの振り下ろした鎌は、僕の体を引き裂く一歩手前でびたりと止まった。

「なッ! 悟、何をしている!?」

「お前こそ何してんだよ……こいつからは……もっと話を聞きたいんだけど。僕が先約だぜ?」

 そして僕は振り返った。

「もう少し話したいことがあるんだけど……聞き入れてくれるか?」

 シゼルは僕の言葉に、無言で頷く。それを合図に、彼の握っていた鎌は黒い霧となって散っていった。

「そういうことで……アリサ、お前は手を出すな」

 そこまで言って僕の視界が揺れ、世界から光が失われていった。

 遠くから僕を呼ぶ声が聞こえたけど、もはや答える力もなかった。そして闇の底に飲まれていくように、僕は意識を失ってしまった。

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