生き返りました。
僕を見た医者は、皆「あり得ねェ……」と小さく漏らした。
死んだはずの男が健康体になって病院にリターンしてくれば、そう思うのも理解できるけど、僕は少しだけ凹んだ。
「君を研究したい」とか、激しく息を漏らしながら詰め寄ってきた医者もいたけど、丁寧にお断りした。だって瞳がマッドサイエンティストを髣髴とさせる暗い輝きをきざしていて、怖かったのだ。
それに生きているのに、体中をいじくられるのは、流石に違和感を覚える。
閑話休題。
僕は一度死んでいたらしい。つまり、あれは僕のお葬式だったわけだ。
そして今――僕はようやく解放され、懐かしい天井を見つめながら畳の上で寝転がっていた。
右手に小さなテーブル、左手にベッド、その他は生活に必要とされる家電しか置いていない。ここが僕の部屋だった。足元には、レポートの時に使用した様々な資料が散らばったままであった。
窓から差し込む燃えるような日差しが、空を綺麗に染め上げている。時は夕暮れだろうか、長い時間眠っていた――否、死んでいたせいか時間の感覚が完全に消え失せていた。先ほどまで寝ていた僕は眠れない今夜をどう過ごそうか考えながら、のそりと上半身を起こした。
別にゾンビや吸血鬼のように日の下に出れないわけではない。普通に活動できることは、この一週間で確認済みだ。つまり僕は完全に生き返ったらしい。
どうせなら生き返って特殊能力の一つぐらい欲しかったなぁと漏らすと、泣いている美幸に本気で殴られたりもした。
痛い――つまり生きている。僕はその感覚に少しだけ嬉しさを覚えていた。
断っておくけどマゾ的な意味は含んでいない、マジで。
僕は生き返ったのだ。また美幸と一緒にいられる――そう思うと、やはり頬が緩むのであった。
意味もなく手を握ったり、足を動かしたり、時には頬を抓って痛みを感じてみたり、意味もなく畳の上を転がったりしながら、僕は自分が生きていることを確かめた。
「随分と嬉しそうですね?」
喜びに満たされていた僕の耳に届いた声――どこかで聞き覚えがあった。
思い出せないと言うか、思い出したくない。全力で聞こえなかったふりをしよう。
僕は仰向けからうつ伏せになり、そのまま目を固く瞑って、両手で耳を塞いだ。僕は何も見えない、聞こえない。
「あれ、おーい?」
僕の背中に走る鈍い痛覚、それは何度も僕の背を打つ。
痛い、つまり生きているんだ、うふふ――みたいな現実逃避も限界がある。このままでは僕がマゾ的な快感に目覚めてしまうかもしれない。妙な危機感を覚え始めた僕はやむを得ず、そろりと顔を上げた。
視界に映し出されたのはパンツ、しかも黒のスケスケ。
「おい、こら、いい加減、無視するな」
しかし、パンツは気づかない――パンツを見られていることに。
いや取り乱した、パンツは何も気づけない。パンツの人物だ。パンツの人物は、僕が僅かに顔を上げているのに気づかずに、背中を踏み続けている。
どうしようか――と迷む間もなく、僕はもうしばらく鑑賞会を楽しむことにした。
「おい!」
足に込められる力が徐々に強くなってくる。しかし、僕はまだ耐えられる。
「こら!」
まだ行ける、人は限界に挑むことで成長するのだ。
「いい加減にぃ……」
耐えろ――限界を超え、新しい境地を迎えろ。
「しろぉっ!」
パンツが飛んだ。ふわりと舞う黒いレースの中心に両膝が揃えられていた。それが僕の視界に入ると、警告音が脳内に鳴り響いた――これは無理、許容オーバーだ。限界を超えて、再び死地をさまよってしまう。
我ながら驚きの敏捷性で何とか身を捩って、落下してくる両膝を避けた。その瞬間、凄まじい音を立てて、両膝が畳に突き刺さった。
「ぐっ、ぬぅぁぁ……い、痛いー!」
金の髪をばさばさりと振り乱しながら、黒い塊が畳の上を転げまわっている。
「……大丈夫か?」
恐る恐る僕は声を掛けてみた。しかし、返事は無い――答える余裕が無いようだ。
「可哀想に……パンツ――いや間違えた、君は誰だ?」
「ぱ、ぱんつ!? 見てたの!?」
「うん、黒のスケスケ」
転げまわった体勢から、驚くべき身のこなしで立ち上がり、少女の拳が僕の顔面にめり込んだ。
うん、普通に痛い。生きてるって素晴らしい。
「ぐぅ……殺してやる……絶対に」
「いいえ、結構です。すみません、ごめんなさい。本当にごめんなさい、死神のアリサさん」
ちなみに今更だが、僕は彼女とのやり取りをすべて覚えている――生き返ると宣言して、世界が暗転するまでの話だが。
僕の寿命は半減させて生き返った、美幸を守るために。
僕があのまま死んでも、生き返っても美幸が死んでしまうのであれば、僕は最後まで足掻く――それを美幸の強さから教わったから。
この死神娘とも戦う。そこまで考えて、アリサを睨みつけたところで、僕は妙な感覚に陥って、首を傾げた。僕に襲い掛かったのは、凄まじい違和感だった。僕にもよく分からない感情が渦巻いていた。
「何?」
涙目で僕を見上げながら尋ねるアリサは可愛い。それはもうむしゃぶりつきたくなるほどであった。しかし、その欲望が以前より数倍に増していることで、僕は違和感の正体に気づいた。
「何か……体、縮んでないか?」
「ん、そうすればあなたに襲われる心配が減ると思ったんだけど」
えへん、と無い胸を反らしてアリサは言う。
「ごめん、僕ロリコン」
「危険度アップ!?」
本気で身の危険を感じたのか、アリサは数歩後ずさった。ここで僕が「ぐへへ」とか笑い声を漏らしたら楽しそうだなぁ、とか思ったが、あまり機嫌を損ねて殺されても嫌なので自重した。
遠目から僕をじっと睨みつけていたアリサだったが、しばらくして思い出したように口を開いた。
「あなたは本当に自分の立場が分かっているのですか?」
「大体、分かってるつもりだけど」
それでは困る――とアリサは人差し指を僕に向けた。
その瞬間、僕の体が固まった。冷たい汗が額に滲んでくる――また死ぬのか、と嫌な予感が僕の心を蝕んでいく。
「あなたの体を操ることなど容易いことなのです。あなたが自ら手を下さないならば、こうやって殺すことだけですから」
アリサが手を下ろすと体の硬直は解け、全身の毛穴から嫌な汗が噴出してくるのを感じていた。
「どちらが上か、しっかり理解した上での言動を心がけてくださいね」
小さくため息をついたアリサが、悪魔のような笑みを浮かべて言った。
しかし、僕は思わず頬が緩むのを感じていた。この妙なシュチュエーションに。
そんな僕の異変を感じ取ったのか、アリサは顔を引きつらせながら一歩後ずさった。
「……何ですか?」
「君が主、僕は下僕」
訝しげに眉を顰めながらアリサは頷く。
「強気の主は少女、対して下僕は成人男性」
「だ、だから、それがどうしたのですか?」
「強気の主を押し倒して、普段は見せない可愛い部分を曝け出させるのも悪くない」
思わず、ぐへへと笑い声が漏れてしまった。
整った顔を青くしてアリサはまた一歩後ずさる。それと同時に僕は前進の一歩を踏み出す。二人の距離は変わらない。アリサの頬を一筋の汗が流れた。
「……本気ですか?」
瞳に怯えの色を浮かばせながら、アリサは問う。それに対して僕は――
「……ぐへへ」
変態だった。
「い、いやあああああああああ!?」
「ぐへっへっへっへ!」
逃げる少女、それを追い回す成人男性の絵――凄い犯罪臭する。しかし、僕は逃げ惑うアリサの様子が面白くて、追うことを止められなかった。
「きゃあああ、いやあああ、助けてえええ!!」
「ぐへへへへー!」
何度も僕の腕を掻い潜るアリサであったが、追うことに慣れてきた僕の手が少しずつではあるが、服を掠め始めていた。捕まえるのも時間の問題――そう思った時。
「うるさい、何を暴れてるの、悟!」
大きな音を立てて、僕の部屋のドアが開かれた。
ちなみに僕は実家を出て、大学の近くで一人暮らしをさせてもらっている。つまり、少女を監禁するには最適の環境だ。
いや、まぁ実際に監禁するつもりなんて無いけど。軽い冗談のつもりだった。
それはともかく、扉の前で固まったまま動かない女性――ぱっちりと開いた二重の目には利発そうな輝きを宿し、黒い髪は肩ほどで切りそろえられていた。肩を露出した淡い水色のキャミソールにジーンズと活発そうな印象を受ける。栗村 美幸、僕の彼女だ。
少女との二人の世界に乱入してきた美幸の姿に、僕の脳髄は一気に冷え渡った。
涙目で逃げ惑う少女、その少女を追う犯罪者面した僕――そこに現れた第三者の美幸。彼女はこの場面を見て、何を思うだろうか。そう考えている間に彼女は行動に出ていた。
美幸が鞄から取り出したものは携帯電話。アリサはそれを見て安堵したのか、畳に崩れ落ちた。
これはヤバイ――運動もしていないのに、僕の心臓は普段の倍以上のペースで脈打っている。何か言わなければならない。しかし、僕は冷たい汗を流すばかりで、上手く声を出せなかった。
ボタンのプッシュ音が三回小さく響き、美幸は携帯を構えた。おそらくコールボタンを押すだけで、僕の人生は終わってしまうのだろう……せっかく生き返ったのに。
「ま、待て、美幸。こ、これには深い事情があるんだ」
僕は何とか声を絞り出した。
「……オーケー、お互い冷静になりましょうか」
さすが美幸! 僕の言葉をしっかりと受け止め、携帯を閉じようとした――その時。
「た、助けて、お姉ちゃん!」
美幸の方に駆け出すアリサ。これは、また別の意味で嫌な汗が噴出してきた。
アリサは言った――美幸を殺す、と。
絶対にアリサを行かせてはならない。僕は凄まじいスタートダッシュを切り、アリサの胴に腕を回して、そのまま押し倒した。
「あっはっは、どうだ捕まえたぞー! 僕の勝ちだぁ!」
「ぎゃあああ、きゃあああ!?」
アリサを確保しながら、僕は「あれ?」と首を傾げる。これはこれで致命的なミスを――と思って、恐る恐る美幸の方を見上げた。
美幸の冷たい視線が僕を射抜き、冷や汗が再び流れ始める。
「酌量の余地なし」
美幸は閉じかけた携帯を再び開いて、素早くボタンをプッシュする。
「あ、もしもし警察ですか? 変質者が――」
生き返ろうが、返るまいが僕は刑務所で時を過ごさなければならない運命のようだ。
仁王の如き圧力で僕を見下ろす美幸、その影で潤んだ瞳で見つめているアリサ、そして正座の僕。
完全に僕が悪者だった。
おかしい、僕は美幸を守ろうとして――
「警察が来るまで、もう少し時間があるわ……何か言い残すことは?」
険しい表情で僕を見下ろす美幸が口を開いた。
どうして、こうなった。僕はただ美幸を守りたくて――と言い出したところで美幸に遮られた。
「私を守るのに、こんな可憐な少女を襲う必要があるのか、理由を分かりやすく説明して欲しいわね」
「違う、そいつは死神なんだ!」なんて叫んだところで信じてもらえる気がしないので、僕は黙って俯いた。
そう言えば美幸の影に隠れているアリサ――彼女は何故、美幸を殺そうとしないのだろうか。
僕の視線が美幸からアリサへと向かう。すると彼女はびくりと肩を震わせて、完全に美幸の後ろに隠れてしまった。
僕の体を操るほどの力を持った死神なのだから、美幸を殺すことも恐らく容易いことなのだろう――そう思うと冷たい汗が頬を流れた。
それにしても不思議な絵だ。僕を操るほどの力を持ち、美幸を殺そうとする死神のアリサ。狙われていることも知らないまま、少女を守ろうとしている僕の彼女の美幸。そして死神の手から美幸を守ろうと復活を果たした僕。
現状を再確認して僕は首を傾げる――何故こうなった。
「おかしすぎる……」
「やっと自身の罪を悔い改める気になったのかしら?」
僕の独り言に冷たい視線を向けながら、美幸が言った。
「いや罪って……僕は悪くない」
僕は美幸を守ろうとしたのに。
確かに下心が無かったとは言えない。僕を見て、怯えるアリサの様子を楽しんでいなかったとは決して言えない。しかし、それでもあの時の僕は美幸を守ろうとしてアリサの拘束に踏み切ったのだ。なのに、この扱いは酷すぎる。
「お黙り」
僕の脳天に、美幸の手刀が高速で振り下ろされる。一撃必殺の威力は無くても、地味に痛い。涙目になりながら美幸を見上げても、侮蔑するような冷たい視線が返ってくるだけだったので、僕は目を伏せた。
耐え難い沈黙が僕の部屋を満たした。事情を説明すれば分かってくれる、なんて思っていたのは間違いだったと言わざるを得ない。それは彼女から向けられる視線を見れば一目瞭然のことであった。
僕はこのまま捕まる運命なのだろうか。そして美幸はアリサに殺されてしまうのだろうか。ならば僕が生き返った理由など無い。何があっても美幸を守らなければならないのに。
しかし、遠くから聞こえてくるパトカーのサイレンに僕の思考は空回るばかりだった。僕が捕まる瞬間は確実に近づいてくる。ならば事実をすべて話そう――そう思って顔を上げたとき、意外そうな美幸の顔が視界に入った。
「あれ? 通報してないんだけどなぁ……」
「は?」
美幸の呟くような小さな声を、僕は聞き逃してしまった。
「な、何でもないわ」
そんな僕の視線に気づいたのか、美幸は横に小さく首を振った。
すぐ前で止まるパトーカーのサイレン、すべてを説明するには時間が圧倒的に足りない。車から降りた人物の近づいてくる足音が妙にはっきりと耳に届いた。
もう間もなく僕は捕まってしまう――ならば。
気づけば僕の体は動いていた。美幸の腕を掴み、思いっきり自分の下へと引き寄せる。驚いた表情の美幸が僕の腕の中に納まる。
抱くと驚くほど華奢だけど、女性特有の柔らかさのような物を持ち合わせていた。そして甘い香が僕の鼻腔を刺激する。僕を救ってくれた美幸――今度は僕が君を守りたかった。けど、それも叶わぬ願いとなってしまうのだろうか。
「……嫌だ」
「え?」
美幸を抱きしめたまま僕は、呆然とするアリサを睨みつけた。
その瞬間、ノックの音が響いた。それを無視して、僕は美幸に視線を戻す。すると、彼女はそっと視線を逸らした。それでも僕は黙ったまま見つめる。
その向こうで顔を真っ赤にして、こちらを睨みつけている死神の少女のことなんて僕は知らない。
痛いほどの沈黙が部屋を満たしていた。しかし、ノックされたのだから出なければならない。僕は美幸を解放して、ドアに向かった。
「はい、どなたですか?」
情けない、声が震えてしまった。心臓の鼓動は酷く頭蓋に響いて、僕を苛む。逃げ出したい衝動に駆られながらも、僕はドアの前で返事を待った。
「こんばんはー、新聞の集金でーす」
「はーい、ちょっと待ってくださいね」
僕は部屋に戻って財布を探す。元々、部屋に余計なものはないので、即座にそれは見つかった。
「あった……って何でやねん!」
関西に行ったことなど一度も無い僕が、関西弁になるほどの感情。それを見て、アリサと美幸がびくりと肩を震わせた。
先ほどまでの緊張感が台無しになった。僕の無駄に鳴っていた心臓とか、無駄に振り絞った勇気とか、どうなるのだろうか――そこまで考えて、言い表せない怒りが僕を満たす。その衝動に突き動かされた僕は獣の如き速さで扉の前に立ち、開け放った。
目の前には小さなおばちゃんが一人、驚愕で目を大きく見開いたまま固まっている。
「何で新聞の集金やねん! 僕、新聞取ってないわ!」
「え、あ、間違えました……すみません」
僕の剣幕に、目じりに涙を浮かべながら急ぎ足で去ってゆく集金のおばちゃん。その後姿に罪悪感を覚えながらも、僕はゆっくりと扉を閉めようとした。
すると赤い灯りが僕の視界の端で明滅した。どうやら先ほどのパトカーは、そこで止まっているらしい。一体何があったのか、気になったところだが、まずはやらなければならないことが多い。
僕は部屋のドアを閉めると、二人――アリサと美幸を見やった。
二人の視線がどこか生ぬるさを含んでいるが、僕は無視した。さて、どこから説明すべきかな。
僕を生き返して、美幸の命を狙う死神アリサ。
僕の大切な人で、アリサに狙われる美幸。
一度死んだものの、美幸を守るために生き返った僕。
何とも不思議な三人が正座で向かい合っていた。
「なるほど……」
僕の話を聞き終えた美幸は、強張った表情で静かに頷いた。
「ごめんなさい……きっと私が悟の頭を叩きすぎたのね」
沈痛な面持ちで、意味の分からないことをおっしゃる美幸さん。いや意味なら分かる。きっと僕の思考回路を心配しているのだろう。優しい美幸らしい、彼氏として非常に鼻が高い。
それと同時に僕は思う――どうして、そうなってしまうんだ。
「この子が死神? 変態に追われて逃げ惑っていた子が? 死神なら、その場で変態を殺せばいいじゃないの」
美幸は怖いことを言う。それ、つまり僕が殺されるんだけど。
「それに、こんな可愛い子が死神のわけないじゃないの」
そう言った美幸は、アリサを抱きしめて頬すりを始めた。アリサは少し顔を顰めながらも、美幸になされるがままになっている。
その絵は非常に微笑ましい。美女と美少女が絡み合う絵を見る機会なんて、滅多に無いと思う。眼福、眼福。
……って違う。僕は本気で首を横に振った。
美幸とアリサを引き剥がしたい――しかし、それをすれば、現状を理解しようとしない美幸から反撃を受け、僕がやられてしまうだろう。
美幸を救えていないのに、僕がここで倒れるわけにはいかない。なら、どうすればいいのだろうか。必死に頭を回してみるが、いい案が思い浮かんでくることもなく、僕は目の前の美幸がいつ殺されてしまうのか、と冷や汗を流すばかりであった。
「で……この子は、どこからさらってきたの?」
今もアリサに頬をぴたりとくっつけながら、美幸は僕に尋ねる。
もはや人攫い扱いである。僕は目じりの涙が零れないように、上を向きながら嗚咽を堪えた。
「んー、とりあえず警察でいいのかしら?」
少し困ったように美幸が言った。その表情は、本当にアリサの身を案じているようにしか思えない。美幸は、アリサが自分の命を狙う死神だと言う話を、ほんの少しも信じていないのだろう。
僕だって信じたくない――けど、ここまでの記憶を夢だったと処理するには、色々と無理がある。
美幸を守らなければならない。しかし、この場で実力行使に出れば、間違いなく牢獄行きだろう。ならば、と僕は最後の賭けに出た。
「アリサに問う」
先ほどまでと違う、僕の真剣な声色に二人の表情も強張った。アリサと美幸の視線が僕を捉えて離さない。しかし、逃げるつもりはないし、僕は怖気づいたりもしない。淡々と言葉を紡いでいくだけだ。これが今の僕に出来る最高でなく、そして最低でもない――最終の手段だから。
「お前のことを本気で心配している美幸を……本当に殺すのか?」
僕の言葉で、アリサは驚いた表情を一瞬だけ見せた。
これは僕の懇願に近い。アリサの良心に問いかけることで、美幸を殺すことを思いとどまってほしい――そう願っているのだ。だから僕は、この最後の手段を用いた時点で願い続けることしかできない。
もし、それが失敗に終わったら――考えたくもないが、僕は美幸を守るために死神のアリサと戦わなければならない。それが、どれほど勝ち目の無い戦いだったとしても。
僕とアリサの視線がぶつかる。可愛らしい顔を辛そうに歪めて、アリサは僕から視線を逸らした。
この時、僕は確信した――アリサに良心はある。死神と言っても、彼女は独立した思考を持つ人なんだ、と。
そう思うと、肩から力が抜けていった。アリサと話せば、きっと分かり合える――その確信が生まれた時、僕は心の底から安堵したのであった。
すると首を傾げて、僕に悲しげな視線を投げかけてくる美幸が口を開いた。
「……えっと、アリサちゃんが死神前提で話が進んでない?」
「だから、そうなんだって」
苦笑混じりで、美幸に答えた。すると苦笑で返された。何だか馬鹿にされている気がした。
「警察には、もう言わないから……病院に行こっか、悟。ちゃんと頭を見てもらおうよ?」
「そんな微妙な笑みをたたえて、生ぬるい視線で見るな。僕の頭は正常だ」
何故、僕は自分の彼女に信じてもらえないのだろうか。そこまで日頃の行いが悪かった覚えは無いのだけど。ちょっと本気で凹みそうになった。
その時だった。ずっと苦い表情で俯いていたアリサがぽつりと言葉を吐いた。
「え?」
「ん?」
突然のことだったので、僕も美幸も聞き逃してしまい、思わず聞き返してしまった。すると今度は、はっきりとアリサの声が僕たちの下に届いた。
「少し……悟と二人にさせてもらえませんか?」
静かに言うアリサ。
「ダメ」
即答の美幸。
「えぇ!?」
「何で!?」
そして、驚きを隠せなかった僕とアリサ。
「こんな変態と二人っきりって、アリサちゃんは身の危険を感じないの?」
もう完全なる変態扱いである。しかし、もはや涙は出てこなかった。早くも僕は、この扱いに慣れつつあるのだろう。
それはともかく、美幸の優しさに触れてしまえば、アリサも彼女を殺すのを思いとどまるに違いない――淡い希望だけど、僕はそうなることを願っていた。
そして、その気遣いは実際に良い方向に働いていた。目の端に涙を溜めて、震えながら美幸を見上げるアリサはぽつりと言葉を吐いた。
「わ、私だって……殺したくないわよ」
「え?」
驚愕に目を見開きながらも、抱いているアリサを解放しない美幸。その絵を見ながら、僕は内心でガッツポーズを決めていた。
「こんな良い人、殺したくないわよ!」
震える声で、搾り出すようにアリサは言った。その直後、彼女の頬に涙が一筋、流れた。
「知ってるよ……ずっと見てきたもん」
俯いたまま嗚咽を漏らすアリサ。
何だか僕が凄く悪いことをしてしまった気がする。美幸は涙を流すアリサの頭を撫でながら、僕に非難の視線を向けている。
何故だ、何故こうなる。確かに、こんな可愛い少女を泣かしておいて弁解するのも非常に格好悪いと思うのだが、それでも納得いかない。僕は美幸を守るためなら何でもする覚悟でやってきたと言うのに……これでは僕が一方的にアリサを苛めているようにしか見えない。
僕の家なのに完全に敵地、アウェーだ。僕のホームはどこに行った。実家だろうか。否、実家ですら、事情を知ったらアウェーに転向しそうな気がする。
それから、しばらくは静かな部屋の中にアリサの嗚咽だけが響いた。美幸は静かにアリサの頭を撫で続け、僕はその光景を黙って見つめていた。
そこで僕は一つの疑問が浮かぶ。アリサは美幸を殺したくない、と言った。なら何故、美幸を殺さなければならないのだろうか。死神だからだろうか。
僕はアリサの背中をじっと見つめていた。嗚咽が落ち着いてきたのが分かる。しかし、今、尋ねても良い雰囲気だろうか――僕は空気が読めないことで定評があるので、不安で仕方が無かった。
それが故に僕は、気づけば尋ねていた。つまり、この場でも空気を読みきれなかったのであった。
「なぁアリサ、何で美幸を殺さなければならないんだ?」
僕の言葉にびくりと肩を震わせるアリサ。美幸から放たれる非難の視線が殺気になりつつある。やっぱり尋ねるようなタイミングでなかったか、と僕は冷や汗を流した。
「仕事、だから」
震える声で、アリサは答えた。返事を期待していなかった僕の思考は、停止を余儀なくされた。少しして回復した思考回路が導き出したのは、「やっぱり」と言う答えと小さなため息だった。
「死神界も大変だな……仕事、選べないんだな」
「そういう問題!?」
美幸の叫び声に、僕は少したじろいだ。ここまでの不満が爆発したのか、その叫び声は僕を非難するような色で染まっていた。
「……うん」
しかし、アリサはこくりと頷いた、涙目で。やばい、素直なアリサ、超可愛い、むしゃぶりつきたくなる。その想いを表に出さないように、冷静を装いながらも僕は話を進めた。
「死神、辞めたらどうだ?」
「……辞めれたら、とっくに辞めてる」
なるほど。
地獄の閻魔さんは、いたいけな少女にこんな辛い仕事を強いているのか。これと言って特殊能力の無い僕だけど、生き返ってくる前に閻魔さんに殴りかかっていればよかったな、と思う。恐らく、返り討ちだろうけど。
閑話休題、過ぎてしまったことは仕方が無い。僕は思考を切り替えて、次の質問を投げかけた。
「死神として人を殺さなかった時に、アリサが被る不利益って何かあるのか?」
簡単に思いつくものは、クビ。仕事をしない社員なんて要らない――それは、どこの世界でも一緒だろう。一番、最初にその言葉が出てくると予想していた僕だったが、アリサは表情を強張らせたまま口を開こうとしなかった。
「悟……もう止めて」
静かな声で美幸が言った。僕は視線を美幸に移すと、真剣な眼差しが返ってきた。
「この子、震えてる」
「……すまない」
やはり空気を読んだり、人の想いを察したり、そう言ったスキルは僕には無いようだ。知らぬ間に僕は、ずかずかと無遠慮にアリサの中に土足で押し入り、彼女をかき乱してしまったのだろう。
こんな自分が時折、嫌になる――自分を殺したくなるぐらいに。
しかし、身勝手な自己嫌悪で自分を責めるよりも、今は成すべき事がある。それは美幸も分かっているようで、真剣な眼差しは未だ途切れることなく僕を見つめていた。
「……この子に何をしたの? 何をすれば、ここまで現実逃避させることができるの? 自分が死神だなんて空想を抱かせてしまうような……もしかして悟、あんなことや、こんなことを――」
「違う、何故そうなる」
美幸は青ざめた表情で、的を外したことを言った。もしかすると僕と同等に空気を読めない――それどころか僕より酷くて、空気をぶち壊すことに長けているのかもしれない。
ここまで話が来れば、いい加減分かっていてほしかったけど、僕の願いは軽やかにスルーされていたようだ。
「それはともなく。アリサちゃん、おうちはどこかな? お姉さんが連れて帰ってあげるから」
美幸は僕を無視し続けて、柔らかな微笑みをアリサ向けて尋ねた。
僕の扱いが酷すぎる件については諦めた。しかし、ここでアリサと美幸を一緒にしていいものか迷う。だから僕は言う。
「僕も行くよ」
「来るな変態」
美幸の極寒を思わせるほどの冷たい視線を受けても、僕は引かない。いや引けないんだ。
「嫌だ、絶対に行く……お願いだから携帯で僕を脅すのは止めてくれ」
僕から距離を取ってから、携帯電話を取り出す美幸にもはや土下座するしかなかった。
おかしい、僕は美幸を守るために地獄の底から舞い戻ってきたと言うのに。僕格好いい、みたいな展開を少しでも期待していたのが馬鹿だったのだろうか。まぁ実際は地獄行く前だったけど。
と言うか突っ込みどころはそこではない。何だか色々と残念な思考を振り払って、僕は真剣に語りかけた。
「頼むから僕の言うことを聞いてくれ、美幸。君がアリサを連れるということは危険極まりないことなんだ。それこそ核並に」
核並ってのは大げさだけれど。
「美女と美少女が揃うと核の如き衝撃を他人に与える、とか?」
「それは否定しない……」
僕は神妙に頷いてから続ける。
「って何でやねん」
思わず関西弁になってしまった。今こいつ自分のことを美女って言った。実際に美女だから否定できないけど、自分で言うと残念極まりない。
「と、ともかく、アリサちゃんを何とかしないと」
少し顔を紅潮させた美幸が強引に話を戻す。自分で言って恥ずかしかったのだろう、きっと。僕は常識的で、少し冗談も飛ばせる美幸のことが大好きだ。この下らない世の中に舞い戻ってこようと思えるほどに。だから僕は彼女を絶対に守ってみせる。
「あ、あの……」
僕と美幸のやり取りに気圧されていたのか、恐る恐ると言った様子でアリサが手を挙げた。
何だか、最初の方とキャラが違いすぎだ。凄く可愛い、むしゃぶりつきたくなる。
「悟……目が逝ってたよ」
「……ごめん」
美幸の指摘に、僕は正座して両手と額を畳につけた。
「私、ここにいます」
「は?」
「へ?」
アリサの言葉に僕と美幸が同時に声を漏らし、そして二人同時に口を開いた。
「いやいや、お前何言ってるの?」
「そうだよ、アリサちゃん。ここは危険だよ?」
危険と言われるのは少々納得がいかないが、ここは我慢する。突っ込みだけが能ではないのだ。
「とりあえず、地獄に帰れよ」
「えっと……まだ死神って設定は生きてたの?」
僕の言葉を聞いて、美幸は凄く悲しげな視線を向けてくる。それに対して、僕は真剣そのものだ。
しばらく、そのまま見つめてやった。すると、美幸は訝しげに首を傾げながら、アリサと僕を何度も見やった。
「だって僕がお葬式の途中でいきなり復活するとか、変だと思わなかったのか?」
僕の言葉で美幸が息を呑んだのが分かった。彼女は驚愕で目を大きく見開き、アリサを見下ろす。
そこにトドメと言わんばかりに、アリサが首肯した。
「はい、私が生き返しました」
「あー……えーっと」
真顔のアリサに美幸は言葉を詰まらせて、そのまま冷や汗を流し始める。真っ青な顔は血の気が失せているのがよく分かる。
その瞬間、美幸の黒目が消えた。傾いてゆく体を支える間もなく、彼女は畳にひれ伏した。
「わー、美幸お姉ちゃん!? しっかり!」
アリサが美幸の傍であたふたとしている様子を、僕はぼんやりと眺めながら思う。
アリサよ、お前は美幸を殺しにきた死神ではなかったのか――と。
突っ込みどころは色々とあった。僕はそれをあえて突っ込まなかったのには理由がある。それはもちろん、美幸を巻き込みたくなかったからだ。
しかし、美幸は今、僕の部屋のベッドで眠っている。やや、うなされているけど。
そんなこんなで僕は真顔で――と言っても、普段から表情なんて変えることなど無いけれど――アリサの前に座った。
「で、どうするつもりなんだ?」
僕は、随分と人の世界に馴染んでいる死神に尋ねた。
「どうする、って?」
「美幸を殺すのか、って聞いているんだ」
あくまで僕は表情を変えない。それには慣れている。むしろ笑えと言われるほうが、僕にとってはハードルが高いことであった。
それはともかく、僕は答えに詰まるアリサを静かに見つめていた。苦渋の選択を迫られているかのように顔をしかめたアリサは、畳に視線を落とした。
それを見て、僕は分かってしまった。
アリサは殺したくて、美幸を殺すわけではないのだ、と。先ほども言っていたとおり、仕事だからやむを得ずと言うのが本音だったのだろう。
だから僕は問う。揺れているところに付け込むようで少々気が引けるが、僕は止まらない。否、止まれない――美幸を守るために。
「殺さずに済ませる方法は無いのか?」
僕の問いにアリサは答えなかった。畳に視線を向けたまま、顔すら上げようとしない。
ここでも僕は分かってしまった。彼女は他の手を知らないのだ、と。
思わず深いため息が漏れてしまった。アリサは死神として美幸を殺さなければならない。否――
「僕が美幸を殺さなければならないんだったか?」
僕の言葉にアリサは肩を震わせた。そして僅かに首を縦に振った。よく見なければ震えとも見て取れる、それから肯定の意を汲んでしまった僕は続けて二度目のため息をついた。
「最初に言ってたもんな……生き返ったら僕が美幸を殺さなければならない、って」
今度は誰が見ても分かるようにアリサは首肯した。
しかし、僕は納得がいかない。ただ成すべき目標だけ挙げられても、そこにたどり着くことによって得るメリットを僕は知らされていないからだ。
まぁ僕が美幸を殺して、得るメリットなんて存在しないと思うけど。否、存在したとしても、そのメリットが、美幸を失うと言うデメリットに勝ることなどない、と言うことだ。
それと同時に殺さなかった時、僕に訪れるデメリットとは何なのか――アリサは僕と美幸を殺す、と言ったが、今の様子を見ていると、彼女が僕らを襲うことなんてできないと思う。
それだけではない、尋ねたいことはたくさんある。しかし、一度に質問しても仕方が無い。まずは大前提から順番に問い、答えを貰ってから、次の質問を練ろう。
「聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
アリサは俯いたまま、首肯する。
「まずは僕が美幸を殺さなかった場合、僕はどうなるんだ?」
「……死神の干渉が無い限りは寿命を全うできる。けど、もう既に半減した寿命であることは覚えてるよね」
僕は、もちろんと頷いた。
「ならば僕に美幸を殺す理由は無いね」
「……そう」
アリサがゆっくりと顔を上げた。それを見て、普段から感情を表に出さないことで有名な僕が思わず息を呑んでしまった。
彼女の柔らかい微笑みには、悲しみの色が詰まっていた。それは触れてしまえば――否、触れずとも、そのまま崩れ去っていくのではないか、と思わせるほどの脆さ、儚さを思わせた。
本当は僕が美幸を殺さないことでアリサにデメリット、もしくは殺すことでメリットが発生するのではないか、と尋ねるつもりだったが、僕はすべての言葉を失った。
それほど深く、濃い感情を叩きつけられたように感じた。
「……何故そんな顔をする?」
用意していた質問を捨て、僕は尋ねていた。僕にしては珍しく感情に流された行動だった。
しかし、アリサは緩々と首を横に振るだけで、答えてくれない。
この雰囲気なら問題なかろう、と僕はゆっくりとアリサの頭に手を伸ばした。それを見て、アリサは肩を震わせて、目を瞑った。
手に触れる金髪は絹のように手触りが良く、僕の手は滑らかにアリサの頭の上を滑ってゆく。それを恐る恐ると言った様子で見上げてくるアリサ、目の端には涙が溜まっていた。畜生、可愛いな。
しかし、ここで再び感情に流されてしまえば、台無しになる。だから僕は堪えて言葉を紡いだ。
「泣くな、僕も悲しくなる」
それは偽らざる本音だ。出会って間もないのに、僕はアリサに感情移入しているのだろう。それが悪いことだとは思わない。
しかし、不思議には思った。先ほども言ったとおり、出会って間もないアリサに共感できるほど、僕は豊かな感情を持っていないはずだから。それだけは間違いないと断言できる。なのに、この時だけは不思議なことに胸の奥が少し痛んだ。
「これから考えよう。皆が幸せになれる方法を」
はらりとアリサの目から涙が零れた。それは堰を切ったかのように止まることを知らず、白く透き通った頬を流れていった。
それと同時に僕は決意する――アリサも美幸も幸せにしてみせる、と。その為ならば僕は閻魔様だろうが神だろうが喧嘩を売ってやる。たとえ勝ち目のない戦いだったとしても――いや、ここでそれを認めるわけにはいかない。それはつまり皆が幸せになる方法も無い、と今から諦めていることになる。
僕はまだ何もしていない。今から諦めてどうする。汚れても、倒れても、何度負けたとしても、僕は諦めない。この身が朽ち、命が果てるまで足掻き続ける――そう心に誓い、涙を流し続けるアリサの頭を優しく撫で続けた。
しばらくの間、僕はアリサの頭を撫で続けていた。アリサの漏らす嗚咽を小さくなっていき、最後には僕の膝の上で寝息を立て始めた。
僕のベッドでは気絶した美幸、僕の膝では泣いて疲れ果てたアリサが眠っているのである。身動きが取れない上に血流が悪くなり、足の指先が痺れだした。
しかし、僕は耐える。人は限界を超えることで新たな境地へと踏み出すことができるのだ、と何度も言い聞かせて。
耳を澄ませば、僅かに聞こえてくる二人の息遣いに、僕の息遣いも荒くなる――みたいな変態スキルを発揮することもなく、僕は静かに二人が目を覚ますのを待った。
待つことには慣れている。と言うか、待つことに対する覚悟がある。否、あったと言うべきか。元々、僕はこの先もずっと待ちの人生だと思っていた。と言うか自分の人生なんて、どうでも良かった。
生きるとは疲れることであり、僕は突発的に痛みを感じることなく死ねるのであれば、それでいいと思っていた。
美幸と出会うまでは。
誤算と言えば美幸は怒るだろうけど、彼女と出会ってしまったことで、僕は生に対する執着を持ってしまって、世界は一変してしまった。
道を歩けばいつ殺されるかと怯え、広い幹線道路を見れば交通事故に巻き込まれることを恐れ、犬を見れば追い回されることに恐怖した。ちょっと大げさに言ったけど。
本当のことを言えば、根本的なところはあまり変わっておらず、そこに少しだけ生きててもいいかもなぁと思える理由が増えただけに過ぎない。
それでも大きな変化である。少なくとも、この僕が生きようとしているのだから。
とは言え、自ら命を絶とうと考えたことはない。だって痛いとか苦しいことに自ら向かうなんて、至極面倒くさい。
簡単に言えば、僕は極度の面倒くさがりなのだ。だから、この先も生きていくなんて面倒くさいし、だからと言って死ぬのも手間だ。だから、じっと待つ――そんな結論に至った。だから待つことに関しては僕を凌ぐ者はいないのではないか、と心ひそかに自負している。
そんな思考に耽っていると、ふと視界の端で何かが動いた。
随分と前に日は沈み、部屋の中は真っ暗になっている。しかし、膝元のアリサは動いた様子は無かった。つまり、動いたのは美幸だろう。
「おはよう」
と言っても夜だけど。
「んー、おはよう」
やや眠気を残したような、のんびりとした声が返ってきた。再び布が擦れるような音が響く。きっと美幸が布団から這い出てきたのだろう。
「んー……なんで私、ここで寝てたんだっけ?」
寝てた、と言うより気絶していたと言う方が正しいのだけど、僕は答えるべきか迷う。最初から説明したら、また話がこじれそうだからだ。
そんなことを考えていると、軽い音が耳に届くと同時に、僕の視界に真っ白が炸裂した。急な刺激に痛みを覚えて、僕は目を細めた。どうやら美幸が部屋の照明をつけたらしい。彼女は何度も僕の部屋に訪れているので、勝手が分かっているのだ。
お互い光の刺激に晒されて、しばらく身動きが取れなかった。それもつかの間、ぼんやりと美幸の輪郭を捉え始めたころ、彼女も僕が見えたのか、その顔から驚愕の色をありありと見て取れた。
嫌な沈黙が二人の間を流れる。美幸は何か言いたげに幾度となく口を僅かに動かしたが、それが声となることはなかった。
だから僕はここで攻めに出ることにしてみた。
「どうかしたのか?」
もちろん、シラを切る作戦である。
「その子――」
「ん、リアルに出来てるだろう? 通販で買ったんだ!」
ややテンションがおかしいけど気にしない、押しきる。
「……買った?」
美幸の表情がより一層険しくなる。何となくだけど、凄い墓穴を掘った気がしてならない。主に『買った』あたりで。
「へぇ、最近の通販って少女が買えるんだ……世の中、腐ってきてるわね!」
人形作戦は失敗のようだ。美幸は怒りで肩を震わせながら、携帯電話を装備した。戦慄の光景再び、額から冷や汗が滲み出てくる。僕は膝で眠っているアリサを起こさないようにしながら、器用に額を畳に押し付けた。
「すみません」
美幸の冷たい視線が僕の後頭部にちくちくと刺さる。何故か分からないが墓穴を更に深くした気がする。
「悪いことだと認めるなら、とりあえず一、二年、監獄生活してきたら?」
「美幸、落ち着け、話せば分かる」
美幸は盛大な誤解をしている。それは確かなのに、僕から口を開くと墓穴を深くするような気がしてならない。
だから僕は黙った。美幸の質問を待った。
「……どういうこと?」
険しい表情の美幸とは対照的に、僕は情を表に出さない。冷静に、的確に質問を分析し、答えていく準備は整った。
「どういうこと、と聞かれても漠然すぎる。もう少し質問を絞ってくれないか、いつもの美幸らしくないよ?」
僕の言葉に、美幸は一瞬だけ眉を吊り上げたものの、小さく息を吐いて自身を落ち着けようと試みているようだ。
「その子は誰?」
「そうだな、答える前に一つだけ。美幸は気絶する前のことを覚えてないのかい?」
「質問に質問で返すなんて、ね……まぁ悟らしいけど」
美幸は大きくため息をついて、ゆるゆると首を横に振った。
「僕は君が現実から目を逸らしている可能性について指摘しただけだよ」
「相変わらず、きつい言い方よね……それに現実から目を逸らしている度合いで言えば、悟の方が酷いじゃないの」
そこまで言って、美幸は呆れたようにため息をついた。しかし、僕は話の脱線を許さない。ここで一気に主導権を握るべく、強制的に話を戻しにいった。
「それは否定しないけど、とりあえず答えてほしい。覚えてるのか、覚えていないのか。それによって僕の説明のボリュームが大幅に変わってくるから」
「もう完全にペース握られちゃったなぁ……仕方ない。うん、覚えてる」
「ならば、この子について説明することなんてないだろう?」
僕はそう結論を出してやると、美幸は苦い表情のまま黙り込んだ。
「死神……そして悟を生き返してくれた少女、アリサちゃん」
「正解」
説明を大幅に省けた僕は満足して頷いた。それでも表情に出すことはなかったけど。
「でも私が入ってきたときの、あの追いかけっこは何だったの? あれは変態が少女を追う絵にしか見えなかったんだけど」
鋭い視線で僕を射抜きながら、美幸は問う。確かに、あれを見られたら言い訳できないだろう――普通なら。
その点において僕は普通ではない。あれは一種のサービスだ。ロリ可愛い少女を目の前にして、襲わない方が変だろうと客観的に判断を下して、変態になってみただけだ。
僕は自分の像を気にしない。世界に名を残すような偉大な人物にはなれない僕が変態と言う汚名を着せられたところで、死んで百年も経てば忘れられているに違いない。
だから他人が僕に抱くイメージなんて気にしない。と言うか、どうでもいい。自分は自分、他人は他人――それを悪い方向で体現しているのが僕だった。
そこまで説明してやると、美幸も「相変わらずね」と呆れたようにため息をつくだけだった。
「本当に安定してるんだか、安定しないんだか分からないキャラよね」
「不安定さが安定してるのかもな」
「上手いこと言ったつもり?」
美幸が苦笑を漏らす。それに対し、僕はどうでもいいと言わんばかりに、首を横に振った。
「とりあえず、僕のことなんて気にしなくていい。この子をどうするか、だ」
その瞬間、僕の膝の上で眠っていたアリサの体がびくりと跳ねた。
僕と美幸は無言で見つめあった。素直にお喋りできないわけではない、既に意思疎通は抜群だ。
僕は右手の人差し指を立てて美幸に頷きかけると、彼女も静かに頷いた。
「えい」
掛け声と共に僕は、人差し指をアリサのわき腹に差し込んだ。
「ひゃぃ!?」
奇声を上げたアリサは僕の膝元から転がっていった。
少し転がって、体勢を立て直したアリサは涙目で僕を睨みつけていた。やはり可愛い、サービス変態心を発揮していたら、むしゃぶりつきたくなっていただろう。
「おはよう」
しかし、今の僕はアリサの件について真面目に討論していたところなので、そんな気配は微塵程度しか起きなかった。ほんの少し起きたことは認める。
だから、とりあえず挨拶してみたのだが、返事は無かった。相変わらずアリサは無言で、僕を睨みつけている。
その後ろで顔を背けながら、何かを堪えて震えている美幸の姿が映ったが無視した。
「こら、アリサ。挨拶は返そうぜ」
「……おはよう」
僕が正論を吐くと、アリサは渋々といった様子で返事をよこした。嫌がる相手に無理やりやらせる――正論って素晴らしい。
閑話休題。
「とりあえず、アリサの待遇について却下しなければならない案をいくつか提示しておく」
僕はそう切り出して、続けて言う。
「まずは同性だからという理由で、アリサを美幸の家に置くのは絶対に却下だ」
「な、なんで!?」
美幸が食いついた。予想以上に取り乱した様子の彼女に、少し気圧されながらも当然のように僕は答える。
「忘れたか? アリサは君を殺すためにやってきた死神だぜ?」
あ、と小さく漏らして美幸は黙り込んだ。何故か凄く残念がっているように見えるのは気のせいだと思うことにしよう。
「つまり、そういうことで二人を一緒にさせるわけにはいかない。かと言って僕と一緒にいるのも――」
精神衛生上、良くない。やはり美少女と一つ屋根の下で暮らしていれば、悪い感情も芽生えてくるかもしれない――と続けようとしたところで、声に遮られた。それは悲痛な叫びだった。
「なら私はどうすればいいの!」
アリサは顔を俯けたまま、肩を震わせていた。その様子に、僕は思わずため息をついた。
「はっきり言って、選択肢は二つぐらいだ。僕のところか、美幸のところか――まぁ美幸のところについては危険性を理解した上でのことだけどね」
ちらりと美幸に視線を投げかけながら、僕は続ける。
「まぁ君を路肩に放り捨てるという手も無いこともないが、そこまで鬼畜な所業は好みじゃない。なら、どうする? それを今から考えるんだ」
僕がそこで区切ると、美幸は怪訝そうに首を傾げた。
「だからって……私のところか、悟のところかの二択でしょ? それで私のところが消えちゃったら――」
「だから考えよう、アリサにとって一番の選択を」
美幸の言葉を遮って、僕は言った。
そしてアリサに視線を移すと、彼女はびくりと肩を震わせた。涙を溜めた目を大きく見開いて、僕をじっと見つめていた。
「アリサはどうしたいのか、僕たちに教えてほしい。美幸を殺さないと約束してくれれば、君の意見を尊重する」
僕は真顔で――と言っても普段と変わらない無表情なのだろうけど、じっとアリサを見つめた。
本当のことを言えば、アリサを美幸の下に預けるのも危険だとは思っていない。ただ、もしもの時のリスクは高いけど、それは起きないと想定していいぐらいに可能性が低いと僕は考えていた。何故ならアリサは「殺したくない」と言ったからだ。
しかし、それだけでアリサを信じる理由としたら弱いと言わざるをえない。だから、プランも既に組んである。まずは話の流れをもっと真面目にすることで、僕はアリサを試す場を整えていったのであった。そうすることで彼女の本音を聞きだすために。
「アリサはどうしたい?」
僕はもう一度、尋ねた。
「私が……選んでいいの?」
「美幸を殺さないと約束した上での話だけどね」
アリサは黙ったまま、僕と美幸を交互に見やった。
「ゆっくりと考えればいい」
僕が言うと、美幸も頷いてアリサの頭を撫でた。
「うん、焦らなくていいからね」
アリサは静かに頷いて、僕の部屋に再び沈黙が訪れた。しかし、不思議なことに心地は悪くなかった。美幸は優しげな眼差しでアリサを見守っている。
どれほど時間が経っただろうか。部屋の外から聞こえてくる音も小さくなっていき、本格的な静寂が訪れていた。
部屋の隅に置かれたアナログの時計を見れば、既に十一時を回っている。辺りが静かなのも納得できる時間帯だった。
僕は全く問題ない。前にも言ったとおり、待つことには慣れている。しかし、美幸はどうだろうか。視線をちらと向けてみたが、相変わらず聖母のような柔らかな笑みを浮かべたまま、アリサの頭を撫でている。
単にアリサの髪の心地が良いだけなのではないか、と邪推してみたりもした。しかし、そうだったとしても、そろそろ飽きる時間だと思う。つまり、彼女も辛抱強くアリサの答えを待っているのだろう。
アナログの時計が立てる秒針の僅かな音さえ拾えるほどの静寂――それを破ったのはアリサだった。
俯けていた顔を上げて、アリサは口を開く。その瞳から迷いは消え去っていた。
「私は――」