死んじゃいました。
某賞落選。寸評が届いて思い出した。
驚くべき白さだった。
前後左右に上下――つまり見渡す限り真っ白な一面で、何故こんなところにいるのだろうか、と疑念を抱く。
それと同時に不思議な心地に包まれていた。こんな場所にいても、不安や恐れと言った感情が湧いてこなかったのだ。
僕は一体……と考えたところで、ずきりと頭が痛んだ。しかし、刹那的な痛みだったようで、それは何事もなかったかのように霧散してゆく。
それと同時に鮮明に蘇る記憶――ああ、僕は死んだんだ。車にはねられて。
それは大学から帰る道中で起きた。
僕の横を楽しそうに笑いながら、話を続ける彼女――栗村 美幸は青信号を渡っていたはずだった。
遠くから聞こえてくる車のエンジン音、普段なら気にも留めなかっただろう。しかし、この時は漠然と嫌な予感がした。
それを無視できず、僕は視線を美幸から横にずらした。
すると信号を無視して、突っ込んでくる一台の車が視界に入った。何故か、運転手は頭のてっぺんを僕に見せている。
運が良いのか悪いのか、その車は交差点で他の車に衝突することなく、真っ直ぐに美幸の下へ向かってくる。
その瞬間、視界に映るすべてがスローモーションになり、僕の体は自然と動いていた。
美幸の立ち位置では、ぎりぎり車と接触してしまう。ほんの少しでいいから、彼女を押し出すことができれば良かった。そうしたら今度は僕が車からクリーンヒットを頂くことになるけど、そんなことまで気にしている余裕はなかった。
だから、僕は戸惑うことなくアスファルトを蹴った。必死に手を伸ばしながら、美幸の下へ駆ける。そして、美幸の体をほんの少し押してやることに成功した。
その瞬間、僕の横腹を痛みが走り抜け、骨が嫌な音を立てた。妙な浮遊感を味わいながら、世界が回る。その直後、全身をやすりで削られるような痛みを覚えた。恐らく、跳ね飛ばされた勢いで、アスファルトの上を転がったか、滑っていったのだろう。
しかし、不思議なことに痛みはゆっくりと引いていった。その代わりに訪れたのは、異常な寒気――死ぬのかな、と思わず考えてしまった。
そして、瞼も徐々に重くなっていく。もはや、意識を保つことも難しくなっていた。
薄れていく意識の最中、僕の傍らで美幸が泣きじゃくりながら何か言っていた気がするけれど、それ以降は何も思い出せなかった。
そして、僕は死んだのだろう。
それにしても美幸を救えたのに僕が死んじゃうなんて、世の中はテレビのように上手くはいかないものだ。
僕はそっとため息をついて、何も無い空間に座り込んだ。一応、そこには地面があった。しかし、真っ白すぎて壁も地面も何も分からない――影すらないのだ。足から伝わってくる感触から、座っても大丈夫だろうと判断しただけだ。
「ちょっと、あなた!」
ぼんやりと視線を虚空にさまよわせていたら、白い空間に初めて変化が起きた。
少女のような高い声がきんきんと頭蓋に響く。ちょっとした眩暈を感じながら、僕は辺りを見回した。
ぐるりと見回すと、僕の真後ろに声の主を発見した。目に映える腰元まで伸びた金髪を揺らし、透き通った青空を切り取って瞳に宿したかのような澄み渡った碧眼が、僕を睨みつけていた。服装はゴスロリと言うのだろうか――黒をベースに白い部分がちらほら目に付いた。
とりあえずフリフリしている。フリフリだ、超フリフリ。
一言で言い表すならば可愛い子だった。可愛すぎてむしゃぶりつきたくなる。しかし、そこは自重しておいた。生に執着のない僕だけど、罪悪感はちゃんと持ち合わせているつもりだ。
「あ、でも死んだのに犯罪者も何も無いか」
しかし、本音が思わず漏れていた。
「……あまりにも軽い思考ですね。しかし、ここで罪を犯せば地獄での滞在期間が延びますよ?」
答える少女の言葉に聞きなれない言葉があり、僕は思わず「地獄?」と聞き返す。
「そうです、地獄です。現在は閻魔様の別荘を作るための強制労働が、地獄で課せられています」
自重して良かった――と言うか、地獄が思ったよりも現実的な場所であることに驚きを隠せない。閻魔の別荘って何だよ。
地獄と言えば、もっと痛くて熱くて苦しいものを想像していたので、その程度なら少しぐらい犯罪に走っても大丈夫ではないかと思ってしまった。
しかし、そこは人として越えてはならない一線のような気がしたので、必死に堪えたけど。
「ま、ともかく、あなたは死にました。小阪 悟さん」
僕の思考を遮って、少女が言った。
「だろうね」
「……物分りいいですね」
僕がすんなり頷くと、少女はやや不満そうに言った。
その直後、彼女は我に返ったように頭をぶんぶんと左右に振り始めた。この少女の頭は大丈夫だろうか、と少し心配してしまう。
「って、違うんです! あなた何てことをしてくれたんですか!?」
突然、僕を責め立てはじめた少女に、僕は軽く首を傾げることしかできない。そんなこと言われても、責め立てられたりするほどの悪いことをした覚えは無かったのだ。
「僕、何かした?」
「しましたー! ちょーしましたー!」
テンション高いな、とぼんやりと考えながら、僕は少女を宥めるべく立ち上がった。そして、少し低い位置にある少女の頭を撫でてやる。
「よーしよしよし」
「こ、子ども扱い……」
がっくりと地に両手両膝をつく少女、僕の手が彼女の頭から離れたのが少し名残惜しい。彼女の金髪はとても柔らかく、絹のように手触りが良かったのだ。
しばらく、少女は落ち込んでいたけど、再び我に返ったかのように頭を振って立ち上がった。頭を振るたびに金髪がぶんぶんと勢いよく乱れるけど、彼女がそれを気にしている様子はなかった。
「じゃなくてー! 何であなたが死ぬんですか!?」
それを僕に問われても困るんだけど。
「あそこで死ぬ予定だったのは、あなたが庇った人……栗村 美幸さんだったんですよ!?」
顔を真っ赤にさせながら喚く少女――それに対して、僕の体は急速に熱を失っていくような感覚に陥った。
僕は冷めた脳髄で彼女の言葉を反芻し、静かに呟いた。
「彼女が死ぬ予定だった?」
「ええ」
こくりと頷く少女――僕はどうしたものか、と頭を掻いた。とりあえず、湧いた疑問を処理していこう。
「えっと、何で彼女が?」
「え、えっと、それは……秘密です」
少女は視線を逸らし、言いよどんだ。ここから、どう追及すべきか――と悩んだところで、彼女の続きの言葉で、僕は絶句する。
「仕事ですから」
僕の無反応に少女が首を傾げるまで、時が止まったのではないか、と思った。
それほど仕事と言うワードに引っかかりを覚えたのだ。
「仕事、って?」
「……むー、これぐらい言っても大丈夫かなぁ?」
少女は少し悩んで、口を開いた。
「私、死神やってます、アリサと申します」
「……可哀想に」
「え、何で!?」
思わず零れた言葉に対し、怒りと驚愕に打ち震えたアリサの絶叫が白い空間に響き渡った。
*
話はがらりと変わるけれど、栗村 美幸と出会ったのは三年前、僕と彼女が大学に入学した時のことであった。偶然、同じゼミになり、僕は目の敵にされた――何故だか分からないけど。
彼女とは何度も口論し、それが何度も喧嘩に発展した。そんなことを繰り返す内に、僕は彼女に惹かれていった。
可憐な容姿からは想像もできない、その芯の強さに僕は憧れたのだ。
いつかは彼女のようになりたい――そう願った。
そして僕は、今までより少しばかり努力することになる。その目的は一つ、ただ彼女に認められたがためだけに。
顔を合わせれば口論に発展していた僕らの関係も、気づけば笑顔で語り合えるものへと変化していた。その時間が何よりも愛おしく、これからたくさんの苦労のある人生だろうと、彼女と一緒にいられるならば乗り越えられる気がしていた。
しかし、僕は死んだ。
彼女を庇って。
本当はもっと彼女と一緒に生きたかったけど、今の僕は少しだけ満足感を抱いていた。彼女を守れた、と思うと僕の心はほんの少しだけ安らぐのであった。
「何を笑っているんですか、気持ち悪い」
そんな僕の心地よさを一言で斬って捨てる少女アリサちゃん――自称死神。
自称って付くだけで大抵の事柄は胡散臭く感じられるな、とか思いながら、僕は少女に視線を向けた。
僕を睨みつけているアリサはどこか不機嫌そうに見える。
しかし、せっかくの可愛い顔が台無しだ、とか軽口を叩けるような雰囲気ではなかった。明らかに年下に見える少女なのだが、瞳に宿す怜悧な輝きに気圧された――我ながら情けないけど。
「まったく……あなたのせいで仕事は失敗したのですよ、どう責任を取ってくれるのですか? もう地獄で永遠に働き続けますか?」
「それは勘弁してほしいな。てか地獄って永遠にさまようところじゃないのか?」
いいえ――とアリサは首を横に振った。
「いつまで古い印象を頭にこびり付かせているんですか? 一回、全部取り出して洗浄した方がいいのではないですか?」
「いや、洗浄って頭の中を?」
ええ、と軽やかに首肯されても困る。
「死んでしまうではないか――とか、ベタな突っ込みは止してくださいね? あなた、もう死んでますから」
はい、そうでした。
そんな僕の肯定をさらりと流して、アリサは説明を始める。
「それと地獄とは、ですね。先ほども言ったとおりですが、犯してきた罪に応じて滞在時間や与えられる仕事の強度が変わってきます」
それ、生前の刑務所と大差ない気がするんだけど。
「その定められた期間を過ぎれば、転生や天国行きなどが選べるようになります。ちなみに地獄に残る方も極僅かですが、いらっしゃいます」
「そんな物好きいるんだ?」
「ええ、そこで働いて、貯蓄を作ってから地獄を出るのです。そうすることで転生や天国でオプションを選択できますから」
それ本当に地獄なのだろうか。
「言いたいことは分かりますけど、無駄な突っ込みはよしてください」
面倒くさそうにアリサは手をひらひらと振った。
「何で分かる」
先ほどから心を見透かすように話を進めるアリサに、僕は尋ねた。
「死神ですから」
なるほど、分からん。
「……物分り悪くなりましたね」
「悪くなって悪かったな」
「何を当然のことを言っているのですか。悪いのは文字通り、悪いに決まっています」
あまりボリュームのない胸を張りながらアリサは言った。僕はそれを否定できない――けど彼女も同等ぐらいには頭が悪いと思ったのは気のせいでないはずだ。
「失礼ですね、これでも教育課程は最後まで済ませているのですよ。あなたみたいに途中で死んだりしてません」
さらりと酷いことを言われた。僕だって死にたくて死んだわけではないのに。
それにしても、死神さんにも教育とかあるのか――とか、至極どうでもいいことに思考が飛んでゆく。僕の悪い癖だ。
「で、どうしてくれるんですか?」
僕をじろりと上目遣いで睨みつけるアリサ。
しかし、どうしてくれる、と問われても僕に何ができるのだろうか。まず最初に選択肢を掲示していただきたいところだ。
「なら態度で示しなさい。教えてください、ってね」
「いい加減、人の心を読むのを止めろ。死神の特権だか何だか知らないが、人権侵害で訴えるぞ」
「どこに訴えるんだか……それにあなたの思考を覗いておかないと、私の身が危険になりそうです」
アリサは半ば呆れたような、半ば蔑んだような視線を僕に向ける。
「大丈夫だ、むしゃぶりつくってのは冗談だ」
「冗談でもやめてください」
アリサは数歩後ずさって言った。その本気の引かれ具合に僕も少し凹んだ。
そんな僕を見て、呆れたようにため息をつきながらアリサは説明を再開する。
「まずは生き返ることができます」
「じゃ、それで」
「早っ、もう少し説明させてくださいよ!?」
えー、と僕は思わず漏らした。だって生き返れるなら、それが一番ではないか、と思う。
「えっと……最後まで聞かないと、たぶん後悔しますよ?」
先ほどより真剣みを帯びたアリサの言葉に、僕は黙って頷いて話の続きを促した。すると、アリサは少し嬉しそうに微笑みながら説明を再開する。
「えっとですね。生き返るにあたって、元々あった寿命の半分を私が頂きます。意味は分かりますよね?」
僕は首肯で返す。つまり、僕の寿命が短くなる――ただ、それだけのことだ。
「それだけ、って……相変わらず軽いですねぇ。それと条件がもう一つあります」
アリサは人差し指を立てながら、神妙な顔つきで言う。
その雰囲気に再び気圧されて、僕は思わず唾を飲んだ。ごくりと大きな音を立てて、喉を抜けてゆく感覚が非常に長いものに感じた。
「あなたには絶対にやってもらわなければならないことがあります――それは栗村 美幸さんの殺害です」
「断る、なら僕はこのまま死ぬ」
「これまた早っ、あなたはもう少し考えることができないのですか!?」
目を大きく見開いてアリサは愕然とする。
しかし、好きな人を殺さなければならないとなると、その選択肢はあり得ない。それなら僕は死を選ぶ――セリフが凄く格好良くて、思わず自己陶酔に浸りそうだった。
「あなた……馬鹿ですか?」
「ああ、たぶん」
「自覚はおありなのですね……」
額に手を当て、緩々と頭を振るアリサ。その表情に疲れが滲んでいた。
「なら、あとは地獄しか選択肢がありませんよ?」
「え、天国とか転生は?」
「私の仕事の邪魔をしたので、即、天国や転生ルートには行けません」
「ええー……マジですか?」
「マジです」
アリサは真顔で返してきた。大体、死神の仕事の邪魔したらダメなら、前もって言ってほしいものだ。
そこで僕は考える――生き返った僕が美幸を殺す意思を示さなかったら、どうなるのだろうか、と。
「あー、それについては私が彼女を殺し、それと同時にあなたも一緒に殺します」
僕は黙って、アリサを見つめた。彼女の瞳は冷たく、言っていることが本当だと告げている。
つまり、美幸を守るには、僕が彼女の代わりに死んで地獄で働くしかないようだ。
「いいえ、あなたが地獄に行こうと、彼女は死にます。これは決定事項です」
そんな僕の思考を見透かしているアリサは静かに続けた。冷たい声色が僕の背筋に悪寒を誘う。もはや僕が彼女を守る手は無いように思えた。
しかし――
「……なら僕は生き返る」
それは決意を述べる言葉ではなかった。ただ追い詰められ、それしか方法が無いと知ったから、それを選んだだけのことだ。気づけば、僕の頭も芯まで冷え切ったようで、冷たい目でアリサを見下ろしていた。
「お前の好きにはさせねえよ」
「……そうですか」
淡い微笑みを浮かべたアリサ――それはどこか悲しげに見えた。
しかし、思考を巡らそうとしたところで世界は暗転した。全身の感覚が曖昧になり、僕のすべてが闇に溶けていくかのようだった。
それも長く続かず、全身に確かな重みを取り戻した。
暗い――そして、小刻みに世界は揺れていた。耳に届く喧騒に、僕の心はざわめいた。
しばらく揺れと喧騒は続いたが、それが収まると僕の視界に光が現れた。突然の強い刺激に、思わず僕は目を細める。
ぼんやりと世界が輪郭を取り戻し始めた頃、僕の眼前に小さな窓が現れた。何だろう――誰かが向こうから、僕を覗き込んでいる気がする。
そして今更だが、息が苦しい。鼻に何か詰まっているような気がした。
「い――」
僕を覗き込んでいた誰かが言葉を発した。今までの喧騒と違い、はっきりと聞き取れた一文字。
「いやあああああああああああああ!?」
それに続いて、僕の鼓膜を突き破るのではないかと思えるほどの絶叫が響き渡った。
「……どうも」
小窓に向かって、僕は片手を小さく挙げて見せた。すると、その誰かが窓の外へと消えていった。それに続いて、何かが倒れるような音が響き渡り、一際大きな喧騒が周囲を満たし始めた。
僕は、その喧騒の原因を知りたくて、この場からの脱出を試みようと体を動かしてみた。しかし、どうすればいいのか分からない。
とりあえず、鼻に詰まった何かを取り出してから、上に覆いかぶさる何かを膝で蹴ってみた。すると少し、ずれて隙間が見える。僕はそこに手をかけて、ゆっくりと開いてゆく。
「ひぃっ!?」
外から悲鳴が聞こえてきた。何だか危険な香がする。僕は少し焦りながら、目の前の何かと退けた。
一際大きな音を立てて、目の前を遮っていた何かが落ちてゆく。それと同時に僕は身を起こし、周囲を確認する。一体何が起きているのか、確かめるために。
「……あれ?」
周囲に飾られる花と白黒の幕、僕の背後には大きな仏壇。そして黒い服に身を包んだ集団、それらは喪服のようで、これでは、まるで――
「お葬式?」
しかし、誰の?
ふと視線を手前に戻すと、こちらを青ざめた顔で見つめていたお坊さんと目が合う。
「どうも」
とりあえず、手を挙げて挨拶してみた。彼は倒れた、真後ろに。受身も取らず、頭から落ちると言う危険な倒れ方だった。
僕はさっと立ち上がって、坊主の下に駆け寄った。手早く息と心臓の動きを確認する――どうやら、まだ生きている。しかし油断はならない。頭を強く打っているために精密検査を行うべきだろう。
「誰か……救急車を!」
僕の叫び声が部屋中に響いた。しかし、怪物を見るような畏怖の視線を向けるだけで、誰も救急車を呼ぶ気配がなかった。
僕はやむを得ず、近くに倒れている人のポケットを調べ、携帯を取り出した。現状はお葬式っぽいのだけど、電源は切られていなかった。不謹慎だけど、この場合は助かった。手早く百十九を押し、救急車の手配に成功したのであった。
……しかし解せないのは、やってきた救急車に僕まで押し込められたことであった。