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灼熱の方舟

作者: あぜる
掲載日:2026/08/03

「今日の東京は四十二度。過ごしやすい一日となりそうです」


画面の向こうで、お天気キャスターが微笑む。


三十年前なら冗談にしか聞こえなかったその一言は、もう誰も笑わない。


四十二度は「涼しい日」だった。


五十度を超える日は外出禁止令が出る。


公園は昼間だけ閉鎖され、宅配は夜明け前しか走らない。


横断歩道には日よけの屋根が造られ、信号機には「次の青まで二十七秒」ではなく「日陰まで十二メートル」と表示される。


墓参りは夜中に行くものになった。


学校の運動会は十一月。


桜は二月。


蝉は絶滅した。


代わりに、熱帯から北上した昆虫が窓を叩く。


人間だけが昔の日本を覚えていた。


バチン。


テレビが消えた。


部屋が急に静かになる。


晴馬はエアコンを見上げた。


送風口から風は出ていない。


冷蔵庫を開ける。


暗い。


ブレーカーを確認する。


異常はない。


「停電か……」


窓の外では、近所の家々から同じように人が顔を出していた。


スマートフォンを見る。


【広域停電】

復旧見込み未定


その文字を見た瞬間、首筋を汗が伝った。


もう一時間経ったか、もっと短いかもしれない。


部屋の温度計は四十七度を示していた。


市立第三中学校。


そこは「クールスポット」と呼ばれる緊急避難施設だった。


校舎全体が断熱材で覆われ、大型蓄電池と非常用冷却装置を備えた現代の避難所。


人々はそれを、別の名前で呼んでいた。


方舟。


校門の外には、すでに数百人が並んでいた。


「お願いします!」


幼い子どもを抱いた母親が叫ぶ。


「この子、熱が四十度あるんです!」


係員は唇を噛む。


「定員です。」


「そんな……」


「申し訳ありません。」


その声は小さかった。


次の瞬間、黒いスーツ姿の男が前へ出た。


無言で封筒を差し出す。


係員は周囲を見回し、それを受け取った。


ゲートが開く。


男は何事もなかったように中へ消えた。


また別の男は大型ポータブル電源を荷台から降ろす。


「二キロワット時あります。」


「確認します。」


十分後。


ゲートが開いた。


「次の方。」


母親の叫びは、その一言で途切れた。


晴馬は列の中で拳を握った。


怒りではない。


理解だった。


冷気にも、席にも、限りがある。


方舟による絶望のトリアージ。


午後二時。


列の最後尾は見えなくなった。


午後三時。


救急車は来なくなった。


救急隊員自身が搬送され始めたからだ。


午後四時。


道路脇に座り込む人が増えた。


誰も声をかけない。


体力を失うことは、自分の命を削ることだから。


午後五時。


係員の放送だけが繰り返される。


「現在満員です。」


「現在満員です。」


その頃には、列は列ではなくなっていた。


ただ、人が倒れる順番を待つ場所だった。


ドアの外で、一人倒れた。


誰も近寄らない。


二人目。


三人目。


防護服は足りない。


ドライアイスは数日前に底をついた。


真夏の遺体は、半日も待ってはくれない。


自治体は通達を出した。


生死確認より搬送を優先。


その一文だけで、多くの人は名前を失った。


白い袋だけが増えていく。


施設の中は二十八度。


外より二十度も低い。


人々は壁にもたれ、目を閉じる。


誰も笑わない。


助かった実感より、外から聞こえる叫び声のほうが大きかった。


「お願い!」


「開けて!」


「まだ生きてる!」


子どもの泣き声。


老人の咳。


金属製の扉を叩く音。


誰も耳を塞がなかった。


塞いでも聞こえるからだ。


ブン……


空調の音が止まる。


照明が消える。


施設は闇に沈んだ。


一秒。


二秒。


誰も動かない。


職員が無線を握る。


「蓄電池?」


返事はない。


やがて非常灯が赤く点いた。


残り電力。


九分。


館内に、静かなざわめきが広がる。


晴馬は震える手でスマートフォンを開いた。


避難所検索。


満員。


満員。


通信障害。


接続できません。


その瞬間だった。


外から歓声が上がる。


「止まったぞ!」


「冷房が止まった!」


「今なら入れる!」


ドン。


ドン。


鋼鉄の扉が震える。


職員が鍵を押さえる。


中の者は外へ出られない。


外の者は中へ入れない。


誰かが泣いた。


誰かが祈った。


そして誰かが、扉からそっと手を離した。


天国と地獄を隔てる半透膜の崩壊。


方舟は、もう誰も救えなかった。


外にいた者も。


中にいた者も。


灼熱だけが、平等だった。

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