娘の薬帳を捨てた夫へ。あなたが愛した“病弱な幼馴染”には、もう私の薬は届きません
夫がその帳面を暖炉へ投げ込んだ時、私は泣かなかった。
ぱち、と乾いた音がした。
火の舌が、古びた革表紙の端を舐める。焦げた匂いが広がり、黒く縮れた紙片が灰の中で丸まっていく。
それは、私が五年間書き続けた薬帳だった。
娘のミーナが初めて高熱を出した夜から、一日も欠かさず書いてきた記録。
熱が上がった時刻。汗の量。飲めた水の量。薬草を煎じる時間。蜂蜜を足す分量。朝になって少し笑ったこと。苦しくて私の指を握りしめたこと。
薬の記録であり、娘が生きてきた記録でもあった。
「セレーネ、いい加減にしてくれ」
夫のギルベルトは、苛立ったように眉を寄せていた。
その隣には、薄い肩掛けをまとったリリアが立っている。夫の幼馴染で、子どもの頃から病弱だと聞かされてきた女性だ。
リリアは白い指で胸元を押さえ、か細い声で言った。
「ごめんなさい、セレーネ様。わたしのせいで、ご迷惑を……」
「リリアのせいじゃない」
夫はすぐにそう言った。
その声の優しさを、私は何度聞いてきただろう。
私には向けられなかった声。娘が熱にうなされる夜にも、彼はその声でリリアを慰めていた。
「リリアは弱いんだ。南向きの療養室が必要だ。医師もそう言っている」
「南向きの療養室は、ミーナの部屋です」
私は静かに答えた。
隣に立つ娘が、私のスカートをぎゅっと握る。五歳になったばかりの小さな手は、まだ少し熱かった。
「ミーナは冷えるとすぐに熱を出します。あの部屋は、この子のために整えた部屋です」
「だから一時的に明け渡せと言っているだけだ」
「一時的、ですか」
私は夫を見た。
夫は目を逸らした。
何度も見た顔だった。
観劇の日に、リリアの具合が悪くなったから行けないと言った時。
ミーナの誕生日に、リリアが寂しがっているから顔を出してくると言った時。
娘が夜通し熱を出した翌朝、リリアの薬を先に煎じてくれと言った時。
夫はいつも言った。
君なら分かってくれるだろう、と。
「リリアには暖かい部屋が必要なんだ。ミーナはまだ子どもだ。どこで寝てもすぐ慣れる」
その瞬間、胸の奥で何かが静かに冷えた。
「この子が、何度あの部屋で夜を越したか、ご存じですか」
「大げさだな。熱くらい、子どもなら誰でも出す」
ミーナの指が震えた。
私はその手を包んだ。
「旦那様。ミーナはただの風邪ではありません。冷えが肺に入れば、呼吸が浅くなる。湿度が低ければ咳が続く。夜明け前に熱が跳ね上がることもある。ですから私は、窓の隙間を塞ぎ、寝台の位置を変え、薬草を調整し、ずっと記録をつけてきました」
「その帳面のことか?」
夫は暖炉の前に置かれていた薬帳を見た。
嫌な予感がした。
私が手を伸ばすより早く、夫はそれを掴んだ。
「こんなものにこだわるから話が進まないんだ。リリアの命がかかっているんだぞ」
「返してください」
「セレーネ」
「返してください。それは、ミーナの」
「ミーナ、ミーナ、ミーナ!」
夫が声を荒らげた。
ミーナが小さく肩を跳ねさせる。
私は娘を背に隠した。
「君は母親になってから変わった。少しはリリアの気持ちも考えてやれ。彼女はずっと病と戦ってきたんだ。君は健康だろう。君なら我慢できるだろう」
「我慢なら、してきました」
「なら、今回もしてくれ」
「娘の部屋は渡せません」
「セレーネ!」
夫は私を睨んだ。
そして、薬帳を暖炉へ投げた。
ぱち、と音がした。
火が紙を食べた。
ミーナが息を呑んだ。
「お母さまの、ご本……」
その声が、とても小さかった。
私は暖炉に膝をつき、火箸で燃え残った部分を引き寄せた。革表紙の半分は黒く焦げていた。頁の端も焼けている。それでも、中央の数枚はまだ読めた。
ミーナ、四歳七か月。夜半三十九度一分。月白草を半量。銀露草は不可。咳が弱まる。明け方、少し笑う。
そこまで読んで、私は帳面を閉じた。
泣かなかった。
泣けば、夫はきっと言うだろう。
感情的になるな。
母親なら落ち着け。
リリアはもっと苦しんでいる。
だから私は泣かなかった。
ただ、燃え残った薬帳を胸に抱き、立ち上がった。
「分かりました」
夫が息を吐いた。
「分かってくれたか」
「はい」
私はミーナの手を取った。
「この屋敷を出ます」
夫の顔から、安堵が消えた。
「何を言っている」
「ミーナの療養室を明け渡す必要はありません。私たちがいなくなれば済む話です」
「馬鹿なことを言うな。脅しか?」
「いいえ」
私は夫を見た。
「離縁してください」
リリアが口元を押さえた。
夫は信じられないという顔で私を見る。
「離縁? そんなこと、簡単にできると思っているのか。君はアルヴィス侯爵家の夫人だぞ」
「ええ。ですから、正式な離縁届を作成します。持参金の返還、ミーナの養育権、私名義の薬草園と調合契約の確認も必要になります」
「薬草園?」
夫が眉をひそめた。
私は小さく頷いた。
「王都南区の薬草園です。私が婚姻前に母から相続した土地です。侯爵家のものではありません」
「何を……」
「それから、王宮薬務局へ納めている小児熱用の解熱薬も、私個人の調合記録に基づく契約です。侯爵家の家名は保証人として記載されていますが、調合権と原本の所有者は私です」
夫はしばらく黙った。
まるで聞いたことのない言葉を聞いたような顔だった。
「そんな話、聞いていない」
「話しました。三年前、契約更新の時に」
「覚えていない」
「でしょうね」
私は、焼けた薬帳を見下ろした。
「ミーナが高熱を出していた夜でしたから」
その日も、夫はリリアの屋敷にいた。
リリアが発作を起こしたと知らせが来たからだ。
私は一人でミーナを抱き、薬を煎じ、王宮薬務局から来た契約書に署名した。翌朝、夫に報告した。彼は疲れた顔で、ああ、任せる、とだけ言った。
忘れていても不思議ではない。
私と娘に関わることを、夫はいつも簡単に忘れた。
「セレーネ、少し落ち着け」
「落ち着いています」
「リリアの前でこんな話をするな」
「では、リリア様には部屋をお使いいただけばよろしいでしょう。私たちは今夜出ていきます」
「行くあてがあるのか」
「あります」
「どこだ」
「旦那様に申し上げる必要はありません」
夫の顔が赤くなった。
「夫に向かって、その言い方は何だ」
私は静かに答えた。
「もう、夫ではなくなる方ですから」
ミーナが私の手を握る。
小さな掌は熱く、けれど先ほどより強かった。
「お母さま、行くの?」
「ええ」
「ご本も?」
「持っていけるところだけ持っていくわ」
ミーナは焼けた薬帳を見た。
そして、小さな声で言った。
「ミーナのこと、まだ書ける?」
その時だけ、喉が詰まった。
私は娘を抱きしめた。
「書けるわ。お母さまは、まだ覚えているもの」
夫が何か言った気がした。
けれど、もう聞かなかった。
その夜、私はミーナと乳母のマーサ、そして数冊の薬草書と燃え残った薬帳だけを持って、侯爵邸を出た。
南向きの療養室には、翌朝リリアが入ったという。
夫はきっと思っていただろう。
数日もすれば、私が戻ると。
私が謝り、リリアのために薬を煎じ、ミーナには我慢を教え、また以前のように屋敷が回ると。
けれど、私は戻らなかった。
王都南区の薬草園には、小さな管理小屋があった。
母が生前、薬草を乾かすために使っていた場所だ。貴族の屋敷とは比べものにならないほど狭い。床は軋み、窓枠も古い。
けれど南向きだった。
朝になると、やわらかな光が寝台の足元まで届く。
私は窓の隙間に布を詰め、寝台の下に温石を置き、湿らせた布を暖炉の近くに掛けた。マーサが湯を沸かし、ミーナは毛布に包まって私を見ていた。
「ここ、寒くない」
「よかった」
「お母さま、怒ってる?」
「少しだけ」
「お父さまに?」
私は答えに迷った。
怒っている。
失望している。
悲しい。
けれど、ミーナにそのすべてを背負わせたくはなかった。
「ミーナを守れなかった時間に、怒っているの」
「ミーナ、守られてたよ」
娘はそう言って、私の袖を握った。
「お母さま、いつもいたもの」
その夜、私は新しい帳面を開いた。
表紙には何も書かれていない。
最初の頁に、こう記した。
ミーナ、五歳一か月。新しい部屋で眠る。夜半、熱三十七度八分。咳なし。朝、笑う。
文字が少し滲んだ。
けれど、それは涙ではない。
窓辺に置いた湯気のせいだと、私は自分に言い聞かせた。
翌月、王宮薬務局から使いが来た。
灰色の外套をまとった長身の男性だった。名をエリオット・クレイグという。王宮薬務官長だと名乗った。
「セレーネ・アルヴィス夫人……いえ、失礼。セレーネ様でよろしいでしょうか」
「はい」
「小児熱用解熱薬の定期納入が止まっています。侯爵家に問い合わせたところ、あなたが調合を放棄したと説明されました」
私は息を吐いた。
やはり、そう言ったのか。
「放棄ではありません。原本を焼かれました」
「原本を?」
「はい。全てではありませんが、五年分の記録の一部を失いました」
エリオット様の表情が変わった。
「拝見しても?」
私は燃え残った薬帳と、新しい帳面を差し出した。
彼は立ったまま読み始めた。
最初は事務的な顔だった。
けれど頁をめくるごとに、その目つきが変わっていく。
「これは……」
「娘のための記録です。王都の薬に使える形へ整えた控えは、別にあります。ただ、最新の調整分はこの帳面にしかありませんでした」
「これは、ただの家庭内の看病記録ではありません」
エリオット様は静かに言った。
「発熱の推移、年齢ごとの分量、薬草の相性、禁忌、湿度と睡眠の関係まで書かれている。臨床記録です。王宮の薬師でも、ここまで細かく残している者は少ない」
私は返事ができなかった。
誰かに、そんなふうに言われたのは初めてだった。
夫には、古い帳面と言われた。
屋敷の者には、奥様の趣味と言われた。
リリアには、母親になると心配性になるのですねと微笑まれた。
けれど、これは趣味ではなかった。
私はただ、娘を死なせたくなかった。
「セレーネ様」
エリオット様は、焼け焦げた頁に指を触れないよう、慎重に帳面を閉じた。
「王宮薬務局は、あなたと直接契約を結び直したい。侯爵家を通す必要はありません」
「私と、ですか」
「はい。調合記録の復元、薬草園の保護、助手の派遣、薬務局による設備支援を含めます。あなたの薬は、王都の子どもたちに必要です」
胸の奥が、ゆっくり温かくなった。
必要。
その言葉を、私は長く聞いていなかった。
「一つ、条件があります」
「何でしょう」
「ミーナの療養環境を最優先にしてください。私の仕事は、この子が眠れる場所でしかできません」
エリオット様は、少しも笑わなかった。
ただ、深く頷いた。
「当然です。あなたの記録は、そのお子様を守るために生まれたものですから」
その日から、薬草園は変わり始めた。
壊れた柵が直され、乾燥小屋に新しい棚が入り、王宮薬務局の若い薬師たちが通ってくるようになった。
彼らは私を奥様とは呼ばなかった。
セレーネ先生、と呼んだ。
最初は慣れなかった。
けれどミーナは嬉しそうだった。
「お母さま、先生なの?」
「そうみたい」
「すごいね」
「すごいかしら」
「うん。ミーナのお母さま、すごい」
その言葉だけで、私はしばらく生きていける気がした。
一方で、侯爵邸は静かに崩れていった。
最初に困ったのは、リリアだったらしい。
南向きの療養室に移ったものの、彼女の体調は安定しなかった。部屋だけを移しても、薬の分量も、湿度も、食事も、寝具の温度も、何も整っていなかったからだ。
次に困ったのは、夫だった。
リリアに飲ませていた薬は、私がミーナの薬を調整する過程で作った副処方だった。リリア用に作ったものではない。体質が似ていたため、分量を変えて使えていただけだ。
夫は屋敷の薬師に作らせようとした。
けれど薬師は言った。
「奥様の記録がなければ、同じものは作れません」
夫は王宮薬務局へ問い合わせた。
薬務局は答えた。
「調合権はセレーネ様にあります」
夫は私の薬草園へ使者を寄越した。
私は会わなかった。
代わりに、王宮薬務局を通して返答した。
必要な薬は、正式な医療依頼として申請してください。
夫人としての無償奉仕は、すでに終了しております。
三日後、夫本人が薬草園へ来た。
門の外に立つ彼は、以前より少しやつれて見えた。
「セレーネ」
その声を聞いても、胸は揺れなかった。
私は門の内側で足を止めた。
「ご用件は、王宮薬務局を通してください」
「夫婦だったんだぞ」
「過去の話です」
「まだ離縁は正式に成立していない」
「書類は提出済みです。あとは王宮法務院の確認を待つだけです」
夫は唇を噛んだ。
「リリアが苦しんでいる」
「医師を呼んでください」
「君の薬でなければ効かないんだ」
「では、正式な依頼書を」
「セレーネ!」
夫の声が荒くなる。
けれど、もうミーナは怯えない。今日は小屋の中でマーサと薬草の絵を描いている。
私は静かに夫を見た。
「あなたは、私の薬帳を燃やしました」
「それは……悪かった。だが、あの時はリリアが」
「あなたはいつも、そうでした」
夫が黙る。
「リリア様が苦しい。リリア様が寂しい。リリア様が不安がっている。だから私が譲る。私が待つ。私が黙る。ミーナが我慢する」
「そんなつもりでは」
「つもりがなければ、なかったことになりますか」
夫の顔が歪んだ。
初めて見る顔だった。
後悔しているのかもしれない。
けれど、私はもうその後悔を受け取る場所にいなかった。
「ミーナの部屋を明け渡せと言われた時、私はあなたに最後の機会を差し上げました」
「最後の機会?」
「この子の命を、あなたがどう扱うのかを見る機会です」
夫は息を呑んだ。
「あなたは、あの子の部屋を奪おうとした。そして、あの子の記録を燃やした」
「……すまなかった」
あまりにも遅い言葉だった。
私は小さく首を振った。
「謝罪は受け取ります。けれど、戻りません」
「セレーネ、頼む。やり直したい」
「私は、やり直しています」
夫が顔を上げる。
「あなたとではありません」
風が吹いた。
薬草園の月白草が、銀色の葉を揺らす。
「リリア様の薬は届けます。必要な患者を見捨てるつもりはありません。ただし、侯爵家への特別扱いはありません。王宮薬務局を通した正式な処方になります」
「私には」
「あなたには、何も届きません」
夫の顔が白くなった。
私は続けた。
「私の薬も、私の時間も、私の我慢も、もうあなたには届きません」
夫は何も言わなかった。
その肩が小さく落ちる。
昔の私なら、その姿に胸を痛めたかもしれない。
けれど今の私が思い出すのは、暖炉の前で震えていたミーナの手だけだった。
「お帰りください」
私は門を閉じた。
夫はしばらくそこに立っていた。
けれど、やがて背を向けた。
その背中を見ても、涙は出なかった。
小屋に戻ると、ミーナが寝台の上で薬草の絵を広げていた。
「お母さま」
「なあに」
「これ、月白草?」
「そうよ。よく描けているわ」
「こっちは?」
「銀露草。でもミーナには少し強いから、まだ使えないわね」
ミーナは真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、書いておく」
小さな手が、紙の端にたどたどしい文字を書いた。
ミーナには、まだ、つかわない。
私は思わず笑った。
「立派な薬帳ね」
「お母さまのまね」
「そう」
ミーナは私を見上げた。
頬の色は穏やかで、呼吸も深い。額に手を当てると、熱はなかった。
「お母さま」
「うん?」
「今日は、熱くないよ」
その一言で、胸の奥に溜まっていたものがほどけた。
私は娘を抱きしめた。
「ええ」
声が少し震えた。
「今日は、熱くないわね」
窓の外では、薬草園に春の風が吹いていた。
焼け残った古い薬帳は、今も机の上にある。
失われた頁は戻らない。
燃えた記録も、燃やされた時間も、なかったことにはならない。
けれど、新しい帳面には、今日も文字が増えていく。
ミーナ、五歳二か月。晴れ。朝から平熱。薬草園で月白草を描く。昼、粥を半椀。夕方、笑う。
私は最後に、もう一行だけ書き足した。
今日、娘は熱を出さなかった。
それは、誰かに許されたからではない。
私たちが、私たち自身の場所で生き始めたからだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
失われた記録は戻らなくても、そこに込められていた想いまで消えるわけではありません。
セレーネとミーナが、これからは暖かな場所で穏やかに眠れますように。
いいと思っていただけましたら、
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