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娘の薬帳を捨てた夫へ。あなたが愛した“病弱な幼馴染”には、もう私の薬は届きません

作者: Sophia Rose
掲載日:2026/05/27

 夫がその帳面を暖炉へ投げ込んだ時、私は泣かなかった。

 ぱち、と乾いた音がした。

 火の舌が、古びた革表紙の端を舐める。焦げた匂いが広がり、黒く縮れた紙片が灰の中で丸まっていく。

 それは、私が五年間書き続けた薬帳だった。

 娘のミーナが初めて高熱を出した夜から、一日も欠かさず書いてきた記録。

 熱が上がった時刻。汗の量。飲めた水の量。薬草を煎じる時間。蜂蜜を足す分量。朝になって少し笑ったこと。苦しくて私の指を握りしめたこと。

 薬の記録であり、娘が生きてきた記録でもあった。

「セレーネ、いい加減にしてくれ」

 夫のギルベルトは、苛立ったように眉を寄せていた。

 その隣には、薄い肩掛けをまとったリリアが立っている。夫の幼馴染で、子どもの頃から病弱だと聞かされてきた女性だ。

 リリアは白い指で胸元を押さえ、か細い声で言った。

「ごめんなさい、セレーネ様。わたしのせいで、ご迷惑を……」

「リリアのせいじゃない」

 夫はすぐにそう言った。

 その声の優しさを、私は何度聞いてきただろう。

 私には向けられなかった声。娘が熱にうなされる夜にも、彼はその声でリリアを慰めていた。

「リリアは弱いんだ。南向きの療養室が必要だ。医師もそう言っている」

「南向きの療養室は、ミーナの部屋です」

 私は静かに答えた。

 隣に立つ娘が、私のスカートをぎゅっと握る。五歳になったばかりの小さな手は、まだ少し熱かった。

「ミーナは冷えるとすぐに熱を出します。あの部屋は、この子のために整えた部屋です」

「だから一時的に明け渡せと言っているだけだ」

「一時的、ですか」

 私は夫を見た。

 夫は目を逸らした。

 何度も見た顔だった。

 観劇の日に、リリアの具合が悪くなったから行けないと言った時。

 ミーナの誕生日に、リリアが寂しがっているから顔を出してくると言った時。

 娘が夜通し熱を出した翌朝、リリアの薬を先に煎じてくれと言った時。

 夫はいつも言った。

 君なら分かってくれるだろう、と。

「リリアには暖かい部屋が必要なんだ。ミーナはまだ子どもだ。どこで寝てもすぐ慣れる」

 その瞬間、胸の奥で何かが静かに冷えた。

「この子が、何度あの部屋で夜を越したか、ご存じですか」

「大げさだな。熱くらい、子どもなら誰でも出す」

 ミーナの指が震えた。

 私はその手を包んだ。

「旦那様。ミーナはただの風邪ではありません。冷えが肺に入れば、呼吸が浅くなる。湿度が低ければ咳が続く。夜明け前に熱が跳ね上がることもある。ですから私は、窓の隙間を塞ぎ、寝台の位置を変え、薬草を調整し、ずっと記録をつけてきました」

「その帳面のことか?」

 夫は暖炉の前に置かれていた薬帳を見た。

 嫌な予感がした。

 私が手を伸ばすより早く、夫はそれを掴んだ。

「こんなものにこだわるから話が進まないんだ。リリアの命がかかっているんだぞ」

「返してください」

「セレーネ」

「返してください。それは、ミーナの」

「ミーナ、ミーナ、ミーナ!」

 夫が声を荒らげた。

 ミーナが小さく肩を跳ねさせる。

 私は娘を背に隠した。

「君は母親になってから変わった。少しはリリアの気持ちも考えてやれ。彼女はずっと病と戦ってきたんだ。君は健康だろう。君なら我慢できるだろう」

「我慢なら、してきました」

「なら、今回もしてくれ」

「娘の部屋は渡せません」

「セレーネ!」

 夫は私を睨んだ。

 そして、薬帳を暖炉へ投げた。

 ぱち、と音がした。

 火が紙を食べた。

 ミーナが息を呑んだ。

「お母さまの、ご本……」

 その声が、とても小さかった。

 私は暖炉に膝をつき、火箸で燃え残った部分を引き寄せた。革表紙の半分は黒く焦げていた。頁の端も焼けている。それでも、中央の数枚はまだ読めた。

 ミーナ、四歳七か月。夜半三十九度一分。月白草を半量。銀露草は不可。咳が弱まる。明け方、少し笑う。

 そこまで読んで、私は帳面を閉じた。

 泣かなかった。

 泣けば、夫はきっと言うだろう。

 感情的になるな。

 母親なら落ち着け。

 リリアはもっと苦しんでいる。

 だから私は泣かなかった。

 ただ、燃え残った薬帳を胸に抱き、立ち上がった。

「分かりました」

 夫が息を吐いた。

「分かってくれたか」

「はい」

 私はミーナの手を取った。

「この屋敷を出ます」

 夫の顔から、安堵が消えた。

「何を言っている」

「ミーナの療養室を明け渡す必要はありません。私たちがいなくなれば済む話です」

「馬鹿なことを言うな。脅しか?」

「いいえ」

 私は夫を見た。

「離縁してください」

 リリアが口元を押さえた。

 夫は信じられないという顔で私を見る。

「離縁? そんなこと、簡単にできると思っているのか。君はアルヴィス侯爵家の夫人だぞ」

「ええ。ですから、正式な離縁届を作成します。持参金の返還、ミーナの養育権、私名義の薬草園と調合契約の確認も必要になります」

「薬草園?」

 夫が眉をひそめた。

 私は小さく頷いた。

「王都南区の薬草園です。私が婚姻前に母から相続した土地です。侯爵家のものではありません」

「何を……」

「それから、王宮薬務局へ納めている小児熱用の解熱薬も、私個人の調合記録に基づく契約です。侯爵家の家名は保証人として記載されていますが、調合権と原本の所有者は私です」

 夫はしばらく黙った。

 まるで聞いたことのない言葉を聞いたような顔だった。

「そんな話、聞いていない」

「話しました。三年前、契約更新の時に」

「覚えていない」

「でしょうね」

 私は、焼けた薬帳を見下ろした。

「ミーナが高熱を出していた夜でしたから」

 その日も、夫はリリアの屋敷にいた。

 リリアが発作を起こしたと知らせが来たからだ。

 私は一人でミーナを抱き、薬を煎じ、王宮薬務局から来た契約書に署名した。翌朝、夫に報告した。彼は疲れた顔で、ああ、任せる、とだけ言った。

 忘れていても不思議ではない。

 私と娘に関わることを、夫はいつも簡単に忘れた。

「セレーネ、少し落ち着け」

「落ち着いています」

「リリアの前でこんな話をするな」

「では、リリア様には部屋をお使いいただけばよろしいでしょう。私たちは今夜出ていきます」

「行くあてがあるのか」

「あります」

「どこだ」

「旦那様に申し上げる必要はありません」

 夫の顔が赤くなった。

「夫に向かって、その言い方は何だ」

 私は静かに答えた。

「もう、夫ではなくなる方ですから」

 ミーナが私の手を握る。

 小さな掌は熱く、けれど先ほどより強かった。

「お母さま、行くの?」

「ええ」

「ご本も?」

「持っていけるところだけ持っていくわ」

 ミーナは焼けた薬帳を見た。

 そして、小さな声で言った。

「ミーナのこと、まだ書ける?」

 その時だけ、喉が詰まった。

 私は娘を抱きしめた。

「書けるわ。お母さまは、まだ覚えているもの」

 夫が何か言った気がした。

 けれど、もう聞かなかった。

 その夜、私はミーナと乳母のマーサ、そして数冊の薬草書と燃え残った薬帳だけを持って、侯爵邸を出た。

 南向きの療養室には、翌朝リリアが入ったという。

 夫はきっと思っていただろう。

 数日もすれば、私が戻ると。

 私が謝り、リリアのために薬を煎じ、ミーナには我慢を教え、また以前のように屋敷が回ると。

 けれど、私は戻らなかった。

 王都南区の薬草園には、小さな管理小屋があった。

 母が生前、薬草を乾かすために使っていた場所だ。貴族の屋敷とは比べものにならないほど狭い。床は軋み、窓枠も古い。

 けれど南向きだった。

 朝になると、やわらかな光が寝台の足元まで届く。

 私は窓の隙間に布を詰め、寝台の下に温石を置き、湿らせた布を暖炉の近くに掛けた。マーサが湯を沸かし、ミーナは毛布に包まって私を見ていた。

「ここ、寒くない」

「よかった」

「お母さま、怒ってる?」

「少しだけ」

「お父さまに?」

 私は答えに迷った。

 怒っている。

 失望している。

 悲しい。

 けれど、ミーナにそのすべてを背負わせたくはなかった。

「ミーナを守れなかった時間に、怒っているの」

「ミーナ、守られてたよ」

 娘はそう言って、私の袖を握った。

「お母さま、いつもいたもの」

 その夜、私は新しい帳面を開いた。

 表紙には何も書かれていない。

 最初の頁に、こう記した。

 ミーナ、五歳一か月。新しい部屋で眠る。夜半、熱三十七度八分。咳なし。朝、笑う。

 文字が少し滲んだ。

 けれど、それは涙ではない。

 窓辺に置いた湯気のせいだと、私は自分に言い聞かせた。

 翌月、王宮薬務局から使いが来た。

 灰色の外套をまとった長身の男性だった。名をエリオット・クレイグという。王宮薬務官長だと名乗った。

「セレーネ・アルヴィス夫人……いえ、失礼。セレーネ様でよろしいでしょうか」

「はい」

「小児熱用解熱薬の定期納入が止まっています。侯爵家に問い合わせたところ、あなたが調合を放棄したと説明されました」

 私は息を吐いた。

 やはり、そう言ったのか。

「放棄ではありません。原本を焼かれました」

「原本を?」

「はい。全てではありませんが、五年分の記録の一部を失いました」

 エリオット様の表情が変わった。

「拝見しても?」

 私は燃え残った薬帳と、新しい帳面を差し出した。

 彼は立ったまま読み始めた。

 最初は事務的な顔だった。

 けれど頁をめくるごとに、その目つきが変わっていく。

「これは……」

「娘のための記録です。王都の薬に使える形へ整えた控えは、別にあります。ただ、最新の調整分はこの帳面にしかありませんでした」

「これは、ただの家庭内の看病記録ではありません」

 エリオット様は静かに言った。

「発熱の推移、年齢ごとの分量、薬草の相性、禁忌、湿度と睡眠の関係まで書かれている。臨床記録です。王宮の薬師でも、ここまで細かく残している者は少ない」

 私は返事ができなかった。

 誰かに、そんなふうに言われたのは初めてだった。

 夫には、古い帳面と言われた。

 屋敷の者には、奥様の趣味と言われた。

 リリアには、母親になると心配性になるのですねと微笑まれた。

 けれど、これは趣味ではなかった。

 私はただ、娘を死なせたくなかった。

「セレーネ様」

 エリオット様は、焼け焦げた頁に指を触れないよう、慎重に帳面を閉じた。

「王宮薬務局は、あなたと直接契約を結び直したい。侯爵家を通す必要はありません」

「私と、ですか」

「はい。調合記録の復元、薬草園の保護、助手の派遣、薬務局による設備支援を含めます。あなたの薬は、王都の子どもたちに必要です」

 胸の奥が、ゆっくり温かくなった。

 必要。

 その言葉を、私は長く聞いていなかった。

「一つ、条件があります」

「何でしょう」

「ミーナの療養環境を最優先にしてください。私の仕事は、この子が眠れる場所でしかできません」

 エリオット様は、少しも笑わなかった。

 ただ、深く頷いた。

「当然です。あなたの記録は、そのお子様を守るために生まれたものですから」

 その日から、薬草園は変わり始めた。

 壊れた柵が直され、乾燥小屋に新しい棚が入り、王宮薬務局の若い薬師たちが通ってくるようになった。

 彼らは私を奥様とは呼ばなかった。

 セレーネ先生、と呼んだ。

 最初は慣れなかった。

 けれどミーナは嬉しそうだった。

「お母さま、先生なの?」

「そうみたい」

「すごいね」

「すごいかしら」

「うん。ミーナのお母さま、すごい」

 その言葉だけで、私はしばらく生きていける気がした。

 一方で、侯爵邸は静かに崩れていった。

 最初に困ったのは、リリアだったらしい。

 南向きの療養室に移ったものの、彼女の体調は安定しなかった。部屋だけを移しても、薬の分量も、湿度も、食事も、寝具の温度も、何も整っていなかったからだ。

 次に困ったのは、夫だった。

 リリアに飲ませていた薬は、私がミーナの薬を調整する過程で作った副処方だった。リリア用に作ったものではない。体質が似ていたため、分量を変えて使えていただけだ。

 夫は屋敷の薬師に作らせようとした。

 けれど薬師は言った。

「奥様の記録がなければ、同じものは作れません」

 夫は王宮薬務局へ問い合わせた。

 薬務局は答えた。

「調合権はセレーネ様にあります」

 夫は私の薬草園へ使者を寄越した。

 私は会わなかった。

 代わりに、王宮薬務局を通して返答した。

 必要な薬は、正式な医療依頼として申請してください。

 夫人としての無償奉仕は、すでに終了しております。

 三日後、夫本人が薬草園へ来た。

 門の外に立つ彼は、以前より少しやつれて見えた。

「セレーネ」

 その声を聞いても、胸は揺れなかった。

 私は門の内側で足を止めた。

「ご用件は、王宮薬務局を通してください」

「夫婦だったんだぞ」

「過去の話です」

「まだ離縁は正式に成立していない」

「書類は提出済みです。あとは王宮法務院の確認を待つだけです」

 夫は唇を噛んだ。

「リリアが苦しんでいる」

「医師を呼んでください」

「君の薬でなければ効かないんだ」

「では、正式な依頼書を」

「セレーネ!」

 夫の声が荒くなる。

 けれど、もうミーナは怯えない。今日は小屋の中でマーサと薬草の絵を描いている。

 私は静かに夫を見た。

「あなたは、私の薬帳を燃やしました」

「それは……悪かった。だが、あの時はリリアが」

「あなたはいつも、そうでした」

 夫が黙る。

「リリア様が苦しい。リリア様が寂しい。リリア様が不安がっている。だから私が譲る。私が待つ。私が黙る。ミーナが我慢する」

「そんなつもりでは」

「つもりがなければ、なかったことになりますか」

 夫の顔が歪んだ。

 初めて見る顔だった。

 後悔しているのかもしれない。

 けれど、私はもうその後悔を受け取る場所にいなかった。

「ミーナの部屋を明け渡せと言われた時、私はあなたに最後の機会を差し上げました」

「最後の機会?」

「この子の命を、あなたがどう扱うのかを見る機会です」

 夫は息を呑んだ。

「あなたは、あの子の部屋を奪おうとした。そして、あの子の記録を燃やした」

「……すまなかった」

 あまりにも遅い言葉だった。

 私は小さく首を振った。

「謝罪は受け取ります。けれど、戻りません」

「セレーネ、頼む。やり直したい」

「私は、やり直しています」

 夫が顔を上げる。

「あなたとではありません」

 風が吹いた。

 薬草園の月白草が、銀色の葉を揺らす。

「リリア様の薬は届けます。必要な患者を見捨てるつもりはありません。ただし、侯爵家への特別扱いはありません。王宮薬務局を通した正式な処方になります」

「私には」

「あなたには、何も届きません」

 夫の顔が白くなった。

 私は続けた。

「私の薬も、私の時間も、私の我慢も、もうあなたには届きません」

 夫は何も言わなかった。

 その肩が小さく落ちる。

 昔の私なら、その姿に胸を痛めたかもしれない。

 けれど今の私が思い出すのは、暖炉の前で震えていたミーナの手だけだった。

「お帰りください」

 私は門を閉じた。

 夫はしばらくそこに立っていた。

 けれど、やがて背を向けた。

 その背中を見ても、涙は出なかった。

 小屋に戻ると、ミーナが寝台の上で薬草の絵を広げていた。

「お母さま」

「なあに」

「これ、月白草?」

「そうよ。よく描けているわ」

「こっちは?」

「銀露草。でもミーナには少し強いから、まだ使えないわね」

 ミーナは真剣な顔で頷いた。

「じゃあ、書いておく」

 小さな手が、紙の端にたどたどしい文字を書いた。

 ミーナには、まだ、つかわない。

 私は思わず笑った。

「立派な薬帳ね」

「お母さまのまね」

「そう」

 ミーナは私を見上げた。

 頬の色は穏やかで、呼吸も深い。額に手を当てると、熱はなかった。

「お母さま」

「うん?」

「今日は、熱くないよ」

 その一言で、胸の奥に溜まっていたものがほどけた。

 私は娘を抱きしめた。

「ええ」

 声が少し震えた。

「今日は、熱くないわね」

 窓の外では、薬草園に春の風が吹いていた。

 焼け残った古い薬帳は、今も机の上にある。

 失われた頁は戻らない。

 燃えた記録も、燃やされた時間も、なかったことにはならない。

 けれど、新しい帳面には、今日も文字が増えていく。

 ミーナ、五歳二か月。晴れ。朝から平熱。薬草園で月白草を描く。昼、粥を半椀。夕方、笑う。

 私は最後に、もう一行だけ書き足した。

 今日、娘は熱を出さなかった。

 それは、誰かに許されたからではない。

 私たちが、私たち自身の場所で生き始めたからだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


失われた記録は戻らなくても、そこに込められていた想いまで消えるわけではありません。

セレーネとミーナが、これからは暖かな場所で穏やかに眠れますように。


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